「いらっしゃい……恵ちゃん、お友達が来たぞ」

太い声が私を迎えた。何故か、曽我部さんは先に居酒屋に来ていた。

「ふふ。金曜日はいつもここに来てるの。山中さんもね」

席に座って頬杖を突いて、じっと私を見つめた。じっと、ただ、見つめるだけ。
私も曽我部さんもずっと黙っていた。
結局、先に沈黙に耐え切れなくなったのは私だった。

「なんというか、ちょっと聞いてほしいことがあるんです」

「言ってみて」

「いえ、できれば山中さんが来てからのほうが……」

「それは、どうして?」

曽我部さんはじっと私を見つめていた。
いつものように曖昧にごまかそうと思ったけれど、そのとき私は、はっきりと言った。

「二回も説明するのが、面倒くさいからです」

曽我部さんは笑った。くつくと。

「そっか」

それからしばらくして、山中さんが店にやってきた。
私たちの姿を見ると、急にへらっと笑って、あっけらかんと言った。

「和ちゃん、唯ちゃんと喧嘩したでしょう」

私が呆気に取られていると、先生は急いで付け加えた。

「あら、言ってなかったっけ。私、唯ちゃんの部活の顧問なのよ」

そして、店長さんにビールを注文してから、にやにやと笑いながら言った。

「さあ、じゃ、和ちゃんの青春話でも聞きましょうか」

「別にそんなたいした話じゃないですけどね……」


分かってはいたんです、いつかはこうなるって。
一年と数ヶ月前、唯と私が、別の高校に進学することが、はっきりしたときから。
人はどんどん変わっていくものでしょう、だから、会う機会が減れば減るほど、
記憶の中の相手と現実の相手との剥離に悩まされることになるんです。

「だったら、もっと会えばいいだけじゃないの」

そうです。でも、違うんですよ。
変わっていってるのは私だけで、唯は今でも、一年前の、天真爛漫な唯のまま。
私は、唯に対して、償いようのない裏切りを犯しているような気がするんです。

「なんだか、よくわからないけれど、真鍋さんは随分と傲慢なのねえ」

曽我部さんが呆れたように言った。
こんなときでも、曽我部さんは遠慮せずに、私の目を真っ直ぐに見ていた。

「傲慢?」

「そう。だって、あなた、幼馴染さんは絶対に変わったりしないって、決めつけてるんですもの」

「でも、唯が、私は変わった、って」

「もしかしたら、幼馴染さんのほうが変わったのかもしれない。
 あなたのかけてる眼鏡、それを別なものに換えたら、見える世界も変わるでしょう?」

「でも……唯の友人も、聞いていた話と、実際の私が違うって……」

「同じことよ。レンズを通して見たあなたのことしか聞かされていないなら……」

でも、ともう一度私が言いかけると、柔らかい腕が、私と曽我部さんの肩に回された。私たちの間に入って、山中さんが笑った。

「言葉で伝えられることにも限界があるわよ。和ちゃん、この間渡したチケット持ってる?」

私が頷くと、山中さんは、えらいえらい、と私の頭を撫でた。
それがなんだか気持よくて、一瞬、唯とのことを忘れそうになった。

「日曜日だから、絶対来てね。きっと、今の唯ちゃんのこと、もっとよくわかると思うから」

約束よ、と山中さんは笑った。


がたん、ごとん。
短調な、繰り返される音が私を馬鹿にしているような気がして、私はイヤフォンをつけた。
意味のない、そのくせ、必死で像を残す街の光が鬱陶しくて、私は目を伏せた。

ざー、ざー……

『――はふがはほかん』

また、あの発音。
フィードバックノイズを通り越して過剰に自己主張をする、この声も、煩わしくて仕様がなかった。

ちゃんと発音、してほしいのだけれど。

電車から降りて、夕焼けの中、帰路を歩いた。
駅から少し離れたとき、また、がたんごとん、という音が聞こえてきた。
きっと、あの電車は、壊れるまで同じ音を立て続けるのだろう。

絵の具でいっぱいのバケツをひっくり返したように、夕日の傍はべったりした赤で塗られていた。
けれど、それも、光の反射に過ぎない以上、逆の方向から夜に侵略されていくのも、仕方の無いことで、
だから、私は、夜のほうへと歩いて行った。


家に着くと、すぐ、私は床に着いた。
唯からのメールは、来なかった。


誰からメールが来たわけでもないけれど、私は、朝の五時に目を覚ました。土曜日だというのに。
誰に言われたわけでもないけれど、私は、自分の意志で、自分の足で、外に出た。

恐ろしいほど澄んだ空気が、私の肺に無遠慮に入ってきて、私はそれを精一杯吐き出した。
絶え間ない空気との抗争を続けながら、私は目的地もなく歩いた。
空いっぱいに、針でつついたような穴が開いていた。
そこから私の目めがけて、真っ直ぐに来ようとする光は、悲しいことに、眼鏡のレンズによって屈折されてしまう。

だから、私は眼鏡を外した。
それで星が見えなくなるのなら、それはそれで、仕方のないことなのかもしれない。

ぼやけた視界、弱い視力を頼って、よたよたと歩いていると、やはり、誰かにぶつかった。
長身の、長い髪をしたその女性は、相変わらずの澄んだ声で言った。

「やあ、また和さんとぶつかったなあ」

耳をそぎ落としそうに澄んだ、研ぎ澄まされたその声は、けれど、一生懸命悲鳴をあげる静寂と、
私を侵略しようとする空気の怒号によって、いくらかその鋭さを和らげられている気がした。

「その声は、澪さんね」

「ああ。今日は、メガネかけてないんだな」

楽しそうに笑いながら、澪さんは言った。

「ええ、星が見えてしまうから」

「見たくないのか?」

「だって、それは、星を見ているんじゃないもの。見ているのは、屈折させられた光」

「それでいいじゃないか」

「嫌よ」

澪さんは、くつくつと笑って、髪を揺らした。
それに反射しているであろう月明かりさえ、今の私には見えなかった。

「それで、唯と喧嘩したのか?」

一瞬ためらって、けれど、私は曖昧に濁したりはせずに、はっきりと、言った。

「多分、違うと思う。そうしなかったから、喧嘩したのよ」

いつまでも、眼鏡をかけていたからか、と澪さんに訊かれて、私は頷いた。
あはは、と大きな声を上げて、澪さんは笑った。

「和さんは、詩人になれるかもね。まあ、いいさ、この間渡したチケット、まだ持ってるか?」

私が頷くと、澪さんは空を見上げた。
月が、その境界線を夜に侵食されていた。
澪さんは、言った。

「月が綺麗だなあ、随分とはっきり輝いてる。ライブ、きっと観に来てよ。唯も出るんだからさ」


そして、小さく手を振って、どこかへ歩いて行った。
多分、私と同じように、目的地なんて無いんだろう。
澪さんが、はっきり輝いている、と言った、月を眺めた。
それは、滲んだインクのように、ぼんやりと広がっていたけれど、メガネをかけると、くっきりとその輪郭線を示した。

「こっちのほうが、好きかもしれないな……」

なんとなく、そう呟いた。
目的地なんて無かったけれど、なんとなくこれで満足して、私は家に帰ることにした。

家に帰ると、母親が起きていて、呆れたように言った。

「あんた、どこ行ってたのよ。最近の若い子は随分と生活サイクルが早いのね」

規則的なリズムで野菜を切りながら、母親は、居間のテーブルを顎で差した。
紙切れが一枚置いてあった。

『桜が丘公園まで来てもらえますか』

「それ、なんか、髪の長い、小さい女の子が来て、あんたに渡してくれって……あ、ちょっと、またどっか行くの?」

母親の声を背中に受けて、私はまた外へ出た。


「どうも、朝早くすみませんね」

ギターを背負った小さい女の子が、シーソーの片側に座って、気だるそうにこちらを見ている。
それっきり何も喋らないから、私が話しかけた。

「ええと、何か用かしら、梓さん?」

はっ、と笑って、梓さんは顔を背けた。
それからしばらくして、うらめしそうに言った。

「和さん、唯先輩に何か言ったんですか」

「……うん、ちょっと喧嘩しちゃったかな」

梓さんは、これ見よがしにため息をついた。

「勘弁して下さいよ……私、部活でライブするの初めてなんですよね」

「そうなんだ」

「ええ、だから何としても成功させたいってのに、あなた……はっ!?」

梓さんが妙な悲鳴を上げて、シーソーから飛び降りた。
一生懸命おしりを摩っている。
シーソーの反対側には、カチューシャで髪を上げた女の子がいた。

「おらっ、てめえ中野、人様に迷惑かけるんじゃありません!」

男勝りの元気さで、その女の子は梓さんに言った。そうだ、確か、この娘は"りっちゃん"さんとか言ったっけ。
"りっちゃん"さんは、こちらを見て、たははと笑った。

「和さん、だっけ。悪いな、ウチの阿呆が迷惑かけちゃって」

「なっ……迷惑かけてるのは和さんのほうじゃないですか!大体、思い切りシーソー踏みつけるなんて何考えてんですか!?」

ぴーぴーと高い声をあげながら、"りっちゃん"さんに抗議する梓さんを抑えながら、
"りっちゃん"さんは言った。

「ああ、本当にごめん。呼び出しておいてなんだけど、帰ってくれていいよ……こいつも、きっと変わっていくと思うからさ……」

公園から出るときに、にゃーにゃー、と、謎の抗議の声が聞こえた。
なんとなくおかしくて、私は笑った。

ポケットに入れていた携帯電話が震えた。
電話越しに、優しい声が尋ねてきた。

「真鍋さん、明日、ライブに行く?」

私は、その気遣うような声に、はっきりと答えた。

「いきますよ、絶対に」

電話越しに、曽我部さんは笑った。

「随分と、はっきり言うのね」

「ええ、嫌ですか?」

「いいえ、そっちのほうが、ずっと素敵よ。ずっとね……」

そう言って、曽我部さんは電話を切った。
空を見上げ、東の方へ目を向けると、すっかり夜の天下になっていた空を、太陽が取り戻そうとしていた。
まっくらな空に亀裂が走り、そこに、星は飲み込まれていった。
曽我部さんの顔を思い浮かべて、私は口ずさんだ。

「crack of dawn......」

「Cindy's movin' on......talking cindy to every one」

そんなことを口ずさみながら、私と曽我部さんは、小さなライブハウスへと向かった。
もう夕方になっているときのことだ。

「あ、ここみたいね。思ったより大きいわね」

「何組かバンドが出るみたいですから、こんなものなんじゃないですか」

「あら、真鍋さん、ライブに詳しいのね」

「いえ、知りませんけど」

あ、知ったかぶりだ、と言いながら、曽我部さんは笑って、ライブハウスへ入っていった。
入り口でチケットを渡して、中へ入ると、それなりに人はいた。

「すごいわね、意外と人って集まるものね」

曽我部さんが感心したように言った。
ステージの近くには、なにやらスタッフらしき人と仲よさそうに喋る山中さんに、
友人と楽しそうにしている、唯の妹がいた。

「真鍋さん、楽しみね」

そして、曽我部さんも楽しそうにしている。
なら、きっと、私も楽しそうなんだろう……

それからのことは、よく覚えていない。
ただ、巨大なアンプから大きな音が流れて、ぎらぎらと光るスポットライトを唯達が浴びて、
それが彼女たちの姿を際立たせ、演奏と協調する歓声が、ライブハウスを揺らして……


「和ちゃん、来てたんだね」

ライブが終わって、私は入り口でずっと待っていた。
辺りはすっかり暗くなっていたが、それでもはっきりと分かるくらい、何ともいえない表情で、唯が言った。

「うん、観に来たよ」

曽我部さんは、何かを察したのか、澪さんの方へ近づいていって、唯の友人四人と、わいわい談笑しながら、どこかへ行ってしまった。
遅れてライブハウスから出てきた山中さんが、くすりと笑って、言った。

「話しあうといいわよ、たとえ、今までは会話のいらない関係だったとしてもね」

きらきらと髪を輝かせながら、山中さんは去っていった。
唯はいつまでも口を閉じていたから、私は、唯の頭を撫でて言った。

「ちょっと歩こうか」

唯は小さく頷いた。


「私が、謝れば済むって問題でもないんでしょうね」

それはそうだ、だって私は、特に悪いことなんてしてないもの。

「うん、私が謝ってもどうにもならないよね。だって、喧嘩じゃないんだ、私たちがしてるのは」

そうねえ、と呟いて、私は空を見上げた。
私たちは、公園のベンチに腰掛けて、二人して、空を眺めた。
淡々と、唯が言った。


「わかんないんだ、和ちゃんのこと。たった一年で、幼馴染のことが分からなくなっちゃう自分が、すごく、憎いよ」

「分からないわよ、私だって、唯のこと」

「そう?」

「ええ、そうよ、だって――」

あなたがあんなに眩しいだなんて、知らなかった。
あんなふうに笑うだなんて、知らなかった。
あんなに一生懸命になるだなんて、知らなかったもの。

私がそう言うと、唯は照れたように頬をかいた。

「喜んでいいのかな」

「ええ、あなたが変わっていってるってことよ、いい方向にね」

「それ自体は、いいことだね?」

「そりゃあ、そうよ」

「でも、そのせいで、和ちゃんとの距離がどんどん大きくなっていくのは、それは……」

「大丈夫だと思うわ」

唯はきょとんとしてこちらを見つめた。
私は、眼鏡なしではなにも見えない、星が踊る夜空を眺めて、言った。

「私、あなたのことを、もっとちゃんと見るから。記憶ばかりに頼らず、ちゃんと見るから」

「それは、眼鏡を外すってことかな」

「違うわ、度を合わせるのよ。裸眼だと、もう何も見えないから」

「そっか……でも、いつか、裸眼で見てくれるかな?」

「ええ、それでも問題ないくらいに近づいたら、きっと……」

そっか、と言って、唯は立ち上がった。
こちらを振り返って、笑った。

「じゃあ、待ってるね……それに、私も頑張るよ。きっと、和ちゃんも変わっていくからさ」

「そう、ね。多分、私も変わっていってる――」

電車の単調な音が嫌いになった。
曖昧なアナウンスが嫌いになった。
はっきりと光る月が好きになった。

「小さな変化ばかりだね。でも、そうだね、そういうこと、もっと私に教えて欲しいよ」

唯は嬉しそうに笑って、私の方へ手を差し出した。
私はそれを掴んで立ち上がりながら、言った。

「それと、好きな人が出来た、かな。ただの憧憬かもしれないけれど」

「いやーん、それって私ぃ?」

くねくねと体をよじりながら、唯が言った。
だから、私は、久しぶりに、自分でも驚くくらい大きく笑って、言った。


「違うわよ、でも、ギターを弾いているときのあなた、格好良かったわよ」

唯は小さく俯いて、くすりと笑って、言った。

「……照れるじゃんか」

ふふ、そう、じゃあ帰ろうか。
私がそう言うと、唯は、顔を赤くして、手を差し出した。

「ちょっと恥ずかしいけど、子供の頃みたいに、手をつないで帰ろうよ。子供の頃の記憶に頼る、最後のことをしよう」

私は彼女の手を握った。
しんしんと、心地良い静けさを、二人で味わいながら帰った。


月曜日も、私は朝早く学校に行った、黒板を消すために。
私の教室には、何故か既に曽我部さんがいて、私の顔を見るなり、笑った。

「なんだか、綺麗になったわよ、あなた」

「そうですか」

そう言って、私も笑った。

「ところで、あの、秋山さんって娘、すごく綺麗だったわねえ……」

何故か恍惚とした表情の曽我部さんの話を聞いていると、メールが届いた。
唯から、メールが届いた。
寝坊しなかった、憂に誉められた、アイロンがけも自分でやったよ、なんていうメールが。


返信しようとして、私は何となくホワイトボードを見た。
無表情な犬の絵を、携帯で撮って、送った。
そして、曽我部さんと唯に、尋ねた。

「この犬、どんなこと考えていそうですか?」

ちょっと躊躇って、自信たっぷりに、曽我部さんは言った。

「恋ね、ずばり恋よ。遠く届かない恋人のことを想う顔ね」

なんだか可笑しくて、私は笑った。
なによう、と曽我部さんは頬を膨らませた。

「真鍋さんは、どう思うのよ」

私は、返ってきたメールを読んで、そして笑った。

「楽しい、でしょうか……」

メールには、ただ一言。

『楽しい、だと思うよ』




畢。



最終更新:2010年12月18日 04:09