くじら。



冷たい夜のフローリングに、ぺたりと座ってラジオを聞く。ごくごく絞ったヴォリュームで、静かに。
流華は壁に寄りかかって目を閉じ、私は ほろほろと甘い赤ワインを、舌の上でゆっくり転がしていた。
古くて懐かしい洋曲が次々と流れて、私はたまらなく今夜がいとお愛しい、と思った。

細くあいたカーテンから、満月の影がそっと私たちを覗き込んでいる。その透明で深い藍色のなかで
私たちは深海に静かに息をひそめるクジラのように、ひっそりと、深く。息を吸っては、吐いた。

しちがつ七月の、終わりごろで、夏休みの、初めごろ。
多分、外は少し暑くて、星が、近くに見える。ガラスがクーラーの冷気でひやされて窓の外が曇って見えた。
星も月もゆらゆらと霞んで。

綺麗だ。

海の底から星を見た感じに似ている。
クジラになって。
ベランダに出した棕櫚の木が、嬉しそうに夜露を受けて揺れていた。
パフ、ファイブハンドレットマイルス、レモンツリー。
気に入っていて、放課後によく、MDで流華に聞かせた。
ジーク、メロー、イフ ユウ ウィズ ミイ。
今夜のラジオは、選曲趣味がいい。
不意に、声にならない吐息がもれて、ぎゅうっと胸を鷲掴みにされるような切なさが襲ってくるのを感じた。
私は、グラスをことんと置き、流華はゆっくり目を開けた。
解ったのだ。
振り返ってみなくても、流華の目を開ける瞬間が、確かに。
私は、できるだけ音を出さないように流華によっていって、こぶし一つ分だけ離れて座った。
過去によく、学校のベランダでそうしたように。

空間の濃度が、一瞬ざっと濃くなった気がして、瞬く間にあの日々に私たちを連れ去った。
風に乗って、途切れ途切れに聞こえてくる聖歌隊の歌声に耳を澄ませたり、
あの猫・・、テゾーロの柔らかい毛並みに指を滑らせたりして、長い時を過ごした放課後の追憶。
あの満ち足りた日々の延長線に、今夜は位置づけられていて、もっと未来に今夜のことを思い出すとすれば、
シャンパンの泡のような影を持つ、夜の初めを見た日と共にだ。きっと。

  白く浮き上がるような流華の横顔をちらりと盗み見て、私は淡く微笑んだ。
綺麗だと思った。鋭利に閃く刀の側面のような、ぎりぎりの光を流華は湛えていて、私はそれが、たまらなく好きだった。
今夜は、それが、際立つ夜。
あの日も、夜の始まりの闇に、流華の薄く引き結ばれた唇と、通った鼻筋の輪郭だけが、凛と浮き立って見えていた。

青、紫、濃紺、藍色。

変化していく空と時間に私達は見とれて、感嘆のため息を漏らした。
タイミング呼吸を、あわせたように。
私たちは・・、いや、少なくても私は、未来に脅えて、時間が嫌いだった。
今が幸せなら幸せなほど、時が過ぎ行くことに哀しみを覚えた。
今が、過去になってしまう事が、悲しかった。
未来は、別れ、決別の日へのカウントダウン。
その未来をやっと許せるようになったのは、あの日と出会ってから。
時は美しく、未来は、空のように青から紫、紫から紺へと変わっていく宵の空気のようだった。
そして、その時々全てに、少しずつ変わってゆく幸せと美しさを湛える。私はそれらをとても愛おしいものと感じた。
想い出を失う事はないのだと、やっと胸の中で安堵した。
距離が離れたとしても、今夜のような美しい夜には気持ちがとても近いところに歩み寄る。
振り返った流華が、同じ目をして私を見つめ、微かに頷いて笑った。




「空、きれい」





「うん、そうだね」




寄っていって、肩に触れ、目を閉じて、互いの存在を確かめあった。
過去と、現在と、未来に。
今日は、あの日に、とても近い時間を持つ夜。
偶然にして必然、今夜流華が隣にいる事をとても幸せに思う。
あの日からもう6年。私と流華はそろって同じ大学に進み、同じ家に住み、あのころのように一緒に食事をする。
幸せ。
これ以上ないくらい幸せな日々の再来。
幸せついでに、私はグラスを再び持ち上げて、流華のグラスにも、ワインを入れる。

「流華、乾杯」
「乾杯。今夜が永遠になるように。」

流華が薄く笑った。
私は、記憶の中に、今夜を永遠として刻んだ。                            ――終――
最終更新:2006年08月25日 22:26