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絶望の笛(後編) - (2007/12/04 (火) 18:31:58) のソース

**第71話 絶望の笛(後編)

理由は分からないが、ついに不可視の敵が全貌を現した。 
化け物だと思われていた姿は普通の人間だった。しかし、後ろに背負っているものを除けば。 

後姿でしか、判断できないが聖職者が着るような黒い服装、黒い髪の持ち主。割とガッチリとした体格の人物であった。 
だが、背中には蒼き龍と紅き龍が混在しているおり、混沌とした雰囲気を漂わせていた。 
巨大な爪と思われたものは両手持ちの剣であった。 
人間の力を遥かに超えた腕力を以て、暴力的なまでに軽々と持ち上げている。 
そして、今、その二つの剣は夢瑠を貫き、天に掲げている。 

男の表情はひどく微笑んで歓喜に満ちていた。夢瑠の鮮血を一身に浴び、血塗られていく。 
ネルを含め、ジャックとアーチェは躊躇していた。 
この後に起こる惨劇に目を見開き、凝視していた。 

男は夢瑠を貫いている剣の二つのうち、一つを胸部から引き抜く。 
一つの剣で天を掲げ、もう一方で――――夢瑠の首を刎ね飛ばした。 
切断面から濁流のように血が溢れ出す。首は軽く回転しながら地面に落下、鈍く生っぽい音が弾む。 
そして、男は最後の仕上げに夢瑠だった頭を踏み潰した。 

グシャリとアメ細工のように脆く儚い。そんなに簡単に砕けるものなのか。 
それほどに男の身体能力の異常さを表していた。夢瑠の頭だったところに血肉が敷詰められる。 
そして、手柄を立てた軍人のように首輪をパックにしまい込んだ。 

―――儀式 

それは、自分たちに対する儀式であった。 
残虐な行為を圧倒的なまでに見せ付けることによって、恐怖と言う名の悪魔を植えつけるのだ。 
彼女はいわゆる見せしめであった。 
恐怖は判断力を鈍らせ、精神を愚鈍化させる。身体能力を乱し、筋肉を強張らせる。 
その行為が非道なまでに行われていた。 

ネルは畏怖の念を拭うように、飛び出す。 
ジャックは何も出来ない自分を悔い、立ち竦む。 
アーチェは絶望から地面に崩れ落ち、戦意を喪失。 

「貴様あぁあぁああああ!!」 
「クソォーー!!」 
「やめてぇええーー!!」 

ネルはライフルを構え、銃口を男に向ける。 
男は身体を返して、剣に突き刺さっている夢瑠の身体を盾に、エネルギー弾を防いだ。 
生気の感じられない彼女の身体に更なる大きな銃創が刻み込まれる。 
死体となった彼女を死んだ後でも利用する。 
その行為は死してなお、夢瑠が陵辱されているようで、吐き気がした。 
そして、男は腰と身体を回転させ、剣を手首のスナップを利かせ、遠心力で夢瑠の身体をネルに荒っぽく投げつけた。 

ネルは剛速球で投げられる夢瑠を重い衝撃と共に身体で受け止める。 
第二発目を構えていたネルのバランスは大きく崩れ、光弾は空高く軌道を変えた。 
それに乗じて、男は一気に間合いを詰めてくる。 
ネルはバランスを整え、バックステップを踏み、深く息を吸い込む。 
ネルは覚悟を決める。目の前の男を倒すには、自分を犠牲にするしかなかった。 
命を擲ってでも、奴と刺し違える。この選択しかなかった。ライフルの弾丸の残数は残り一発、全てはこれに架かっている。 

ネルは最後の構えをする。敵の来るタイミングを計り、地面の砂を大きく蹴った。 
ネルの右膝が切断される。が、たちまち砂埃が男の眼を狙い、一瞬だけ怯ませる。 
そして、ネルは足を失い、崩壊するバランスの中、右手を敵に突き出す。 
男はその気配に剣を振り上げ、右肘を切断。 
ネルはその囮であった右肘を無視するかのように左手を敵に向ける。 

―――その手には煌々と光るライフルを構えながら。 
命を賭して、右膝と右肘を代償にし、銃口を完全完璧に狙いつけていた。 
ネルは静かに目を閉じる。これでもう惨劇は終わるのだ。そして、小さく口開く。 

「さようならだ」 

光が男を襲う。 


――だが、 

「うおおおおおおお!!」 
怒号と共に、男は身体を大きく震わせ、狙いを反らそうとする。 
化け物じみた脚力、瞬発力、反射神経、柔軟性を最大限に駆使し、 
左手の剣の側面でライフルの軌道を反らした。 
エネルギー弾は剣を直撃。剣は大きく回転しながら、孤を描き、地面に落ちた。剣はチュンと電子音を立て、元の筒へと戻った。 
だが、当の男は右腕を掠っただけで、無傷であった。 
「今のは、危なかったあ…」 

ネルの顔は血の気が失せ、蒼白になった。彼女はもう満身創痍であった。 
しかし、そんな彼女に男はわざと痛めつけるために腹に剣を突き入れ横に薙いだ。 
周囲に血溜りができる。ネルの意識は死と生の狭間を行き来していた。 

ネルは最後の抵抗を試みる―――額に皺を寄せ、男を睨みつけた。 

ケタケタと笑う男は狂喜の目を滾らせ、剣を振り翳す。 
「止めだ」 

――――――ガキィ 
と、抑えられる。 

「テメェだけはゼッテェ許せねえ!!」 
そこには片手で剣を持ったジャックがいた。その目は憎悪と後悔が滲んでいた。 
その光景を見ると、刹那。 
体が休息を必要としているのか。 
ネルは瞼を閉じ、一時の休息に体を巡らせた。 

+++ 

ジャックは地面に落ちている筒に手を伸ばした。男が左手に持っていた剣の成れの果てである。 
『レーザーウェポン』という最新鋭の科学の結晶体ともいえる代物であった。 
ジャックは機械類が苦手であった。しかし、長年の戦士の勘がそれを拾い上げろと血液を巡って、知らせる。 
ジャックは筒を構えて、男に飛び掛った。 

「テメェだけはゼッテェ許せねえ!!」 

筒は片手剣と変容し、男を襲う。 
「へえ、今更真打の登場かい。でも、もう僕は止められないよ」 

男――アシュトンは詰まらなさそうに語りかける。そして、剣をジャックに振り入れる。 
ジャックもそれに何とか対応させ、捌き落とす。 
剣の衝撃が手を伝い、痺れとなって感応する。物凄い力であった。 
遠巻きから何度も剣術を眺めていたが、実際に手合わせしてみると恐怖を感じるほどの豪腕。 
ジャックは何度もこいつの攻撃を受けたネルに今更ながら感心を覚えた。 

「テメェだけは…許さねぇ」 
ジャックは吐き捨てる。 
ほぼ無抵抗の夢瑠を残酷なまでに殺したこと。自分たちを助けよう一人で戦ったネルを殺したこと。 
アーチェの仲間を想う気持ちを踏みにじったこと。許せるはずはなかった。 
それにもう一つあった。 
ジャックはアシュトンが持つ剣に見覚えがあった。この剣は心の師匠とも言える人物の愛用の剣である。 
テアトルの自分の上司であり、大隊長である――エルウェンの剣に間違いなかった。 
大隊長は弱き者のために戦い、正義の貫く生粋の戦士であった。 
だが、そんな彼女の愛用の剣が残酷極まりないことに使われ、惨劇の担う剣になっていたことが許せなかった。 
まるで、大隊長が侮辱されているようで腹がむかついた。 

「別に、君に許してもらいたいとはおもわないなあ」 
アシュトンはそう言うと、斬撃のスピードを速める。 
ジャックは全身全霊を込め集中させる。アシュトンの動きを予測し、容赦ない攻撃を全て受けきる。 
「どうして、こんなことするんだ!?」 
ジャックは猛攻を受けながら尋ねる。 
「どうしてって、それはプリシスの望みを叶えるためさ。 
 彼女は生き残ることを望んでいる。だから、僕はそれを手伝っているんだ。 
 参加者が死ねば、その分彼女が最後まで生き残る可能性があがる。 
 僕は彼女のためならどんな汚いことでもやり遂げる。 
 そうすれば、プリシスは僕を一番好きになってくれる。 
 そのためにも、愛の形を残しておくため、首輪を集めているんだ」 
アシュトンは自分に酔ったような口調で頬を緩ました。 
「本当にそんなことでお前は好かれると思っているのか!?」 
「もちろんさ。プリシスなら喜んでくれる」 
アシュトンは満面の笑みで言い切った。狂喜と狂気が混濁する狂った笑顔。 

ジャックは恐ろしかった。自分を悪と認知していない悪。周囲を巻き込んで、喰らい尽くす悪。 
放って置いてはいけない。こいつはこの場にはいてはいけない存在だ。 
ジャックは攻防の中で思った。 

ギョロはタイミングを見計らったように、火炎を吐き出す。ジャックはギョロの攻撃に体を反り曲げて、避けた。 
アシュトンもそれに続いて、剣撃を連立させる。ジャックはそれでも防御した。 
ウルルンが隙を狙い、吹雪を吐き出した。それも、膝を屈折させ、うまく回避した。 
ジャックはいわば、全身が集中力の塊であった。 
集中の糸が切れれば、なし崩れに自分は斬り殺されてしまう。一瞬も油断できなかった。 
もし、自分が死ねば、アーチェを守る奴がいなくなる。 
アーチェは体を痙攣させ、ごめんなさいと呪詛のように何度も呟いて、地面ひれ伏せていた。 
『アーチェを守る』その想いがジャックを強くさせた。 

でも、守りに徹するだけで精一杯だった。 
それほど、目の前のアシュトンは化け物じみた身体能力であった。 
だが、少しだけ隙が見え隠れしていた。アシュトンはすでに疲労が溜まっていた。 
それもそのはず、ノートン、ロジャー、メルティーナ、ネル、夢瑠、ジャックと連続して戦闘しているのだ。 
いくら、パワーアップしても、疲労の影も見えてくるのは道理であった。 
それでも、ジャックはその一瞬の隙が見出せないでいた。 
ジャックは必死に願った。 

幻想のようなモノにしがみ付きたくなるほど切羽が詰まっていた。 
このままだと、自分の首が刎ねられることは自明であった。 
敵に刃が届け、届くんだ、と願った。 
届け、届け、届け、届け、届け、とひたすらに。 

―――そのときである。 
ジャックの剣が槍へと変わった。 

「!?」 
突然の武器の変化にアシュトンは驚きを隠せなかった。槍はアシュトンの腕を掠める。
唐突の変化に対応できなかったのだ。ジャックはその一瞬の隙を、見逃さなかった。
攻守が逆転する。 
連続して、アシュトンに突きを連続して繰り出す。アシュトンは体勢崩しながらも、何とか回避。 
「ギョロ!!」 
一旦距離の間合いを整えるため、ギョロに火炎の息を指示する。 
火炎を目の前にジャックはなす術もなく、後ろに跳躍する。 
二人は互いに視線を絡ませ、対峙するかたちになった。 

「へえ、剣が当然槍になったのは少し驚いたよ。 
 でも、それは通用しないよ。こんどこそ、首輪を狩らせてもらうよ」 
「ふーん、少し驚いただって? すっげえ驚いた顔してたじゃないか、こーんなふうに」 
ジャックは大げさにアシュトンの驚いた顔を再現した。 

アシュトンは呆れた顔でジャックに一閃。 
ジャックは槍でそれを捌こうと、同じ方向から切り返す。 
その瞬間槍は両手持ちの剣へと変わった。アシュトンは前ほどではないけど少し驚く。 
剣と剣が激突。金属音が響き渡る。 

剣撃の威力は全てジャックに返されて、ジャックは大きく吹き飛ばされる。 
その中、ジャックはアクロバットに空中で一回転し、姿勢を立て直す。剣は槍へと姿を変える。 
アシュトンはジャックの着地地点へと駆け出している。 
ジャックは空中で己の全力を槍に籠める。 
全ての惨劇を止めるため、アーチェを守るため、そして―――リドリーを守るため。 
ジャックは着地すると同時に、地面に槍を突き出した。 

―――百 渦 嶺 嵐 

自分が持つ最大の槍技。 
アシュトンはジャックに間合いを詰めるため何も知らず、駆け出してくる。 
そして、目の前に、無数の槍がアシュトンを襲った。生き物のような無数の槍はアシュトンを突き刺そうとする。 

だが、アシュトンはそれを見切っていたのか。 
人間離れした脚力で高く飛翔し、何事もなかったようにジャックの目の前に姿を現した。 
「残念だったねえ。僕の知り合いにさ、君と同じように地面に武器を突き刺して攻撃する特技を持っている奴がいるんだ。 
 まあ、君とは違って、隆起した地面だけどね」 
アシュトンは敬意を評したような口調で、空を二,三回切って構える。 

ジャックも息を切らしながら、槍を片手剣へと変容させ、正面をガードするような形に構えた。 
ジャックは疲労困憊であった。最後の抗いであった。 
ここからは消耗戦であったのだ。自分の生を楽しむ時間帯であった。 
「僕は結構疲れているんだ。だから、あんまり抵抗して欲しくないんだけど…」 

ジャックは睨みつけ、「テメェの思い通りにさせねえよ」と、吐き捨てる。 
アシュトンはやれやれといった表情でジャックに駆け出した。 
ジャックは剣を強く握り締め、覚悟を決めた。
 
突然。 

「ギャフウ」 
「フギャア」 
二対の龍が鳴き出した。その鳴き声にアシュトンは動きを止める。 
彼の表情は耳を疑う内容なのか驚きに満ちていた。 
「でも、後もう少しで…三つ分の首輪が獲得できるんだよ」 
と、言うアシュトンに二対の龍は彼の頭をガブガブと噛み付いた。 
「あで、痛てて、痛いな、もう! 分かったよ、ここは一旦引くよ」 
アシュトンは不満そうに言い放つ。龍は納得したのか嬉しそうに頷いた。 

ジャックは口を半分開けたまま、その光景を見つめていた。 
何の冗談だろうか。ジャックは呆気に取られていた。 
「今度会ったらこうはいかないからな。次こそは君の命を貰うよ」 
アシュトンは残念そうに語りかける。 
「次に会ったら、テメェをぶっ殺す!!」 
ジャックは鋭い眼光を光らせ、睨んだ。 

アシュトンは笑いながら、放置してあったネルのパックを奪い取り、森の奥へと消えていった。 

+++ 

ジャックは緊張状態が解けると同時にその場に崩れ落ちた。 
死と隣り合わせの戦いが終わったのだ。そう思うと体中が安堵に包まれた。 
でも、精神的にはまだ終わっていなかった。 
自分が弱かったために、二人も犠牲者を生んでしまった。悔しさのあまり草を握り、引き千切った。 
ジャックは自責の念に落ち潰されそうになった。 
しかし、その中でアーチェを守りきったことは少なからずジャックの精神を安心させた。 

すると、地面にひれ伏しているジャックに足音が聞こえてきた。 
その足音は自分たちのほうへと向かっているようだ。 


瞬く間に道なりから大男と少女が姿を現した。 

大男は典型的な傭兵のような筋肉質の大柄の人物、 
左瞼の隣には切り傷の痣があって目に付いた。腰には鉄パイプを携えている。 
少女は紫を基調とした服装で、髪型はアーチェと同じポニーテイル。背中には、巨大な機械を背負っていた。 
とてもじゃないが、不釣合いな二人組みであった。 

少女と大男は目の前の惨状に目を泳がせていた。 
悲しみと驚愕を含ませた表情で辺りを見つめる少女。 
憤怒の表情で辺り見入っている大男。 
驚くのも無理もない。 
首を失った少女の死体、血溜りの中で膝と肘を失った女性、 
地面にひれ伏し体を痙攣させ震えている少女、そして、そんな二人を見つめる少年。 
確実にここで何かが起こっているのだ。むしろ、殺し合いが繰り広げられたとしか言いようがなかった。 

大男――アリューゼはズカズカと地面を踏みしめ、ジャックに胸元に掴みかかった。 
「おい!! テメエ、ここで何が起こった!! あそこにいる首のない死体は夢瑠じゃねえか!! 
 何が起こっているんだ!? ……黙ってないで、何か言えや!! 聞こえねえのか!!!」 
と、怒号を上げた。 
少女――プリシスはアリューゼの突然の剣幕に怯えながらも、腕にしがみついた。 
「お願い止めて! アリューゼ!」 
プリシスは怒りを宥めようとした。アリューゼは胸元を放し、ジャックを解放する。 

ジャックは手を放されると、アリューゼを睨みつけた後、意気消沈したまま今までの経緯をふつふつと語った。 
「俺も…よく分かんねえんだよ。突然、俺たちに見えない敵が襲ってきたんだ。 
 夢瑠を殺した後、なぜだか知らないが、姿を表したんだ。 
 そいつは背中に二匹の龍を背負った男だった。そして、俺たちの抵抗むなしくネルが…」 
二人はジャックの話を聞き入っていた。 
話を聞いて、アリューゼは怒りを抑え切れていない表情でいた。 
プリシスは何か引っ掛かるものがあるのか、ジャックに尋ねようとした。 

けれども、ジャックはネルの名を言うと思い出したように、二人を無視して倒れているネルの元へ駆け寄った。 
安否をまだ確認していなかったのだ。夢瑠は確実に亡くなっているが、ネルはまだ生きている可能性があった。 
でも、それは霞のようにかなり薄い確率であった。 

ジャックはネルに近づき、肩を揺さぶった。 
ネルは重い瞼をゆっくりと開いた。その瞳は焦点が合わず、散漫であった。 
ジャックはそれでもネルが生きていることに笑みを浮かべる。でも、 
「…ん…ん、誰だい?」 
「俺だよ、俺! ジャックだよ! 敵はもういなくなったんだ。今すぐ手当てするから」 
「……ジャックか…私はもう助からない。だから…手当ての必要はない…」 
ネルは肩で息をしていた。満身創痍であった。生きているのが不思議なぐらい出血量が多かった。 

ジャックは諦め切れなかった。助かる手段がないかとアリューゼとプリシスに回復薬がないかと尋ねた。 
二人は視線を落とし、無言であった。それだけでジャックは全てを理解した。 
ジャックは悔しさのあまり、地面を殴りつけた。地面を殴りつけた衝撃が痛かった。 
でも、ネルはもっと苦しんでいるんだ。そう思うと、何度も殴りつかずにはいられなかった。 

「まだ……助かる…」 

すると、茫然自失であったアーチェがネルの元へ駆け寄っていた。 
彼女の目はずっと泣いていたのか、赤く腫れ上がっていた。 
アーチェはネルの頭を自分の膝に乗せ、パックから高級感のある美しいグラスを取り出した。 
「これは『エリクシール』という服用者の傷を瞬く間に完璧に癒す魔法の霊薬なの…。これさえ飲めば…まだ助かる」 
まさにこの状況下での希望の聖杯。ジャックは嬉しさのあまり小躍りしそうになった。 

アーチェはジャックにネルの失った膝と肘を持ってくるように指示する。 
ジャックは言われた通りに、切断された部位を、支給品の水分で雑菌を洗い落としてから、 
ネルの体の切断面と斬り落とされた部位を手で押さえ結合させた。 
「ネルさん……ごめんなさい。私が拡声器なんか使わなければ、夢瑠さんやネルさんがこうなることはなったのに」 
「…いいさ」 
ネルはポツリとそう言うと、自力では飲めなかったので、アーチェに飲ませてくれないか、と頼んだ。 
アーチェはグラスをネルの口元まで引き寄せ、液体を流し込んだ。 

ネルは受け入れるように液体を喉に通した。ゴクゴクと喉が鳴り、体中に液体が浸透するのが分かった。 

―――効果はすぐに表れた。 

ネルは体が締め付けられるような激痛に襲われた。斬られたのと違った痛みに悶え苦しんだ。 
アーチェは予想外の展開に肩を震わせ後退さった。 
「えっ…そんな、そんな……どうして!?」 
アーチェは顔面蒼白で驚愕していた。本来なら、すぐに傷を癒すのに、苦しみ出すのだ。 
ネルの異常な苦しみように目が離せなかった。 

ネルは自分が恐ろしい何かに蝕まれるような感覚に襲われた。すると、ネルの足元から石化が始まった。 
三人は石化するネルを魅入っていた。 
アーチェは大きく目を見開き、声にもならない声で叫んだ。悲痛の声で何度も何度も。 
「お願い、石化なんかしないで!! 止まって!! お願い、お願い!!」 
アーチェは膝を屈折させ、バランスを崩した。 
それは、身体がバランスを崩したというよりは精神のバランスを崩したと言ったほうが適切であった。 

+++ 

石化が進行するネルは意識を覚醒させ、辺りを見渡した。 
ケガの痛みと石化の痛みが視界をぼやけさせる。その中で、ネルは体を返し、アーチェの方へ振り向く。 
彼女は今、罪悪感と絶望に支配されているようであった。 

ネルはそんなアーチェを見ると、理解した。彼女は何も知らなかったのだ。 
本当は自分を助けたかったのであろう。彼女の表情からそのような想いが感じ取れた。 
結果はどうあれ、ネルは自分のことを気遣ってくれたアーチェに最後のお礼を言おうとした。 

だが、無慈悲にも、それはできなかった。血を流しすぎたのか、もう口を動かすこともままならない。 
あぅあぅと喘ぐ声しか出なかった。 
最後の見納めにネルはアーチェに視線を向けた。相貌はやはり驚愕に満ちていた。 

――なんてこったい、これは…… 

ネルはその中である重要な出来事を目撃する。 
ネルが視線を落とした先には、地獄の使者とも言える呪術の産物。 
可愛い姿形をしているが、それはかりそめの姿であって、本当は魔の手先である。 

――ド根性バーニィ 

それがアーチェの懐から見え隠れしていた。陰惨な惨状を作り出した全ての元凶。 
こいつのせいで、自分が、夢瑠が、ジャックが、アーチェが。 
ネルは薄れていく意識の中、最後の仕上げの準備にかかった。 

歯を食いしばって、動けない体を振り絞って、手をアーチェに伸ばす。 
神経が失っているのか、手の動かす力の加減ができない。手はアーチェを殴りつけるような勢いで伸縮する。 
そして、『ド根性バーニィ』を掴みあげた。 
手の力をゆっくりと伝わせる。 
中にいる悪魔はきりきりと音を鳴らし、叫び声を上げている。 
ゴキリという音と共に悪魔を砕かれ、断末魔を上げた。 

これを皮切りにネルの身体が安堵したのか、石化の進行が早くなった。
それと同時に生命の灯火も失っていくのが感じられた。 

ネルの体内で石化と死が競走を始める。どちらとも、今か今かと、蠢いていく。 
――勝者がすぐに決まった。 
勝者は死。敗者は石化。 
心臓の鼓動が震えなくなり、死が全体を覆い尽くす。 
遅れて、石化がネルを覆う。 
石化がネルを殺したのでなかった。 
ネルを殺したのは、アシュトンとの戦いの傷であった。  
 
ネルは必死の形相のまま石化した。それは悪魔を退治したネルにとって、賞賛ある表情であった。 

――でも、それはある少女を大きく狂わせる表情であった。 

+++ 

「え!? ネルさん……」 
突然胸を殴りつけられたアーチェは呆然とした。ネルは自分に掴みかかろうとしていたのだ。 
その顔は酷く私を憎んでいるような形相であった。 
「ネルさん……ごめんなさい、ごめんなさい―――」 
アーチェは心の底から何度も謝った。でも、ネルは許してはくれそうにない。 
彼女の表情が恐い。 

私を今にも殺したくて仕方がないような。 
私を同じようにしたくて仕方がないような。 
憤怒、軽蔑、中傷、憎悪が入り乱れた表情。 

アーチェはネルから目をそむけた。罪悪感がネルから離れさせたのだ。 
そして、ネルは苦悶の表情のまま、石へと姿を変えた。 
それでも、アーチェはネルを見ることができなかった。 

アリューゼとプリシスとジャックの視線が自分へと重圧となって注がれる。 
三人の心苦しいぼやきが胸に刺さる。罪悪感を大きく揺さぶる。 
「いや…いや…違うの! そんなはずは……そんなつもりじゃ……」 
冷たい視線が心を冷たく殺した。罪悪感を大きく燃やした。 
アーチェは絶望の中で思う。 
たぶん私のことを疑っているのであろう。分かってはくれないと思うが、私はネルさんを心から助けたかった。 
でも、結果は結果である。皆を騙して、ネルさんを嵌めた罪人。そんな私は許されるだろうか? 
それに、私の軽率な行動で夢瑠さんも惨い仕打ちでなくなった。私が間接的に二人を殺したんだ。 
私が殺した。 
だから、私は本当に許される存在? 本当にここにいていいの? 
そんな想いが交差する中、嫌な気持ちを振り切ろうと、一縷の希望を抱き、アーチェはジャックに目をやった。 
ジャックとは、6時間ほどしか付き合いはないが、私のことを分かってくれる。 
彼なら私を… 

「ジャック……」 
ジャックの目は、他の二人同様、冷たかった。 
まるで、氷のように無関心な色、すれ違った他人に向ける眼差しであった。 
その眼差しは二人の視線より辛かった。 

―ジャックまで私を疑うの? 
―ジャックなら私の疑いを晴らしてくると思ったのに。 
―ジャックなら私の悲しみを分かってくれると思ったのに。 

「わたしは…わたしは…」 
アーチェは身体をわななかせた。 
私は不安という絶望から希望を求めただけである。 
それが、こんな結果に誰がなると予想したのであろうか。いや、あのとき、こんな事態になるとは思わなかった。 
もう何も信じられない。もう何を言っても信用してくれない。私は自分の知らない何かが恐い。 
希望を求めて手を出しても、手を振り払われて絶望に突き落とされる。 

―嫌だ、嫌だ、嫌だ。 

私はかつての仲間たちに会いたかった。クレス、クラース、すず、そして――、チェスター。 

―彼らなら自分のことを理解してくれる。 
―彼らなら私の手を振り払わない。 

アーチェはジャックから背を向け、全速力で駆け出した。 
罪悪感から目を叛けるように逃げ出した。アーチェはもう何も信用できなくなっていた。 
最後の砦であるジャックの視線が彼女の精神を冷たく凍えさせたのだ。 

ジャックがアーチェを制止させようと、呼び止める。だが、すでに時は遅かった。 
アーチェの耳はとっくに何も受け付けなかった。 
アーチェは龍を背負った男と同様に森の奥へと消えていった。 


――――時は戻る―――― 

森の奥へと、消え去るアーチェを見終えると、ジャックは疲労でその場に崩れ落ちた。 
「ちくしょう、俺が一瞬でもアーチェを疑ったりしなければ……ちくしょう」 
ジャックは後悔していた。一瞬でもアーチェがネルを騙したことを疑ってしまった。 

彼女は仲間想いでぶっきらぼうな言葉の中にも優しさがこもっていた。 
拡声器を使ったときも、仲間を思う気持ちからであった。心優しい女の子である。 
でも、俺はあのときで一番彼女を理解しなければならなかった。 
彼女は夢瑠が死んだこと、ネルが石化したこと。 
心優しい彼女はその二つのことで良心を痛めていたはずだ。 
それなのに、俺は…。 
「くそっ…、くそっ…」 
アリューゼとプリシスは沈黙していた。ジャックの後悔が計り知れない。かける言葉が見つからなかった。 
二人は気が治まるまでジャックを眺めていた。 

ジャックの地面を殴りつける音が木霊する。辛酸としたこの場所で不器用な音が鳴り続ける。 
その音は絶望の始まりを意味しているようであった。 


【H-5/午後】 
【ジャック・ラッセル】[MP残量:50%] 
[状態:後悔 手にかすり傷 疲労特大] 
[装備:レーザーウェポン(形状:初期状態)] 
[道具:首輪探知機・荷物一式(水分は無し)] 
[行動方針:仲間を集め。ルシファーをぶっ倒す] 
[思考1:アーチェを追いかけたい] 
[思考2:双龍の男(アシュトン)をぶっ殺す] 
[思考3:リドリーを探す] 
[現在位置:G-5とH-5の境界付近] 

【プリシス・F・ノイマン】[MP残量:100%] 
[状態:不安] 
[装備:マグナムパンチ] 
[道具:ドレメラ工具セット・???←本人&アリューゼ確認済・荷物一式] 
[行動方針:惨劇を生ませないために、情報を集め、首輪を解除。ルシファー打倒] 
[思考1:情報収集] 
[思考2:仲間を探す] 
[思考3:ヴァルキリーに接触] 
[現在位置:G-5とH-5の境界付近] 

【アリューゼ】[MP残量:100%] 
[状態:憤り] 
[装備:鉄パイプ] 
[道具:???←本人&プリシス確認済・荷物一式] 
[行動方針:必ずルシファーを殺す] 
[思考1:プリシスを守る] 
[思考2:ジェラードとロウファの仇を討つ] 
[思考3:必要とあらば殺人は厭わない] 
[思考4:情報収集] 
[思考5:ヴァルキリーに接触] 
[現在位置:G-5とH-5の境界付近] 
※G-5とH-5にネルの石化した死体があります。 
※右肘と左膝は生身のままで、近くに放置されています。 
※近くに『スターガード』放置されています・ 
※ネルの周囲には『セブンスレイ』〔単発・光+星属性〕〔25〕〔0/100〕が放置されています。 


【H-4/午後】 
【アーチェ・クライン】[MP残量:95%] 
[状態:絶望感 罪悪感 疑心暗鬼 西に向かって走行中] 
[装備: なし] 
[道具:ボーリング球・拡声器] 
[行動方針:???] 
[思考1:チェスターに会いたい] 
[思考2:みんなに会いたい] 
[現在位置:中央付近] 
※ド根性バーニィは砕かれました。 
※エリクシールの器が空になりました。 

+++ 

一方で、H-06の源五郎池付近。 
アシュトンはジャックとの交戦から離脱した後、源五郎池を発見していた。 
ちなみに、なぜアシュトンはジャックを殺さずに逃げ去ったのは、 
ギョロとウルルンが二人分の足音に察知したから、やむなく、引いたのであった。 
あのとき、アシュトンはなんだかんだでかなり疲労していた。 
だから、いくらパワーアップしていても、近くに寄ってくる二人とは連続して戦えなかったのである。 
それほどまで、疲労していたのだ。 

アシュトンは血で汚れた身体を池の水で洗い流していた。その姿は衣服を脱いで、パンツ一丁であった。 
身体に付いた穢れを洗い落とすと、アシュトンは元の服装に袖を通して着替えた。 
「はあ、さっぱりした」 
言葉を漏らす。 
アシュトンは木下に腰を落ち着け、これからの動向について思念を巡らせようとした。 
が、その前に…。 

「どうして、あの時、力が漲ったんだろう? トライア神の思し召しかな?」 
「ギャフ(さあな、俺たちにも分からねえな)」 
「そうかあ、本当にどうしてだろう?」 
アシュトンは首を傾げる。 

「フギャ(そういえば、アシュトン。どうしてあの技を使わなかったんだ?)」 
「あの技って?」 
「フギャアア(お前の最強技『トライエース』。あれを使えば一瞬にして四人を殲滅できたのに)」 
「ああ、それね。その考えはあったんだけど。あの疲労状態で使ったら、技の反動で動けなくなるよ。 
 動けない間に殺されてしまうかもしれないし、技が外れたことも考えると、できなかったなあ。 
 あくまで『トライエース』は最後の切り札として置いときたいんだ。 
 まだ、十賢者の二人も生き残っているし、他の参加者の首輪も集めるためにも、体力を温存させときたいからね」 
ギョロとウルルンはそれもそうだと、うんうんと頷いた。 
「ギャフフーン(で…これから、どうするつもりだ?)」 
「うーん、今それを考えるところだったんだ。そうだな、ここは一度体を休めようと思うんだけれど…」 
「フギャッ(それがいいぞ。さすがに戦いすぎだぞ、プリシスのために頑張るのはいいが、 
       疲れて倒れられちゃあ、こっちが困る。俺たちは一心同体だからな、それを忘れないでくれ)」 
「ギャッフ(そう、そう、俺たちのおかげでお前はどれほど助かっていると思っているんだ。少しは感謝しろよ)」 
「分かってるさ、それに僕はギョロとウルルンの行動も視野に入れて戦っているんだ。 
 それぐらい、僕たちの付き合いは長いでしょ」 
本当に分かっているのか? とギョロとウルルンは戯れるように頭に噛み付いた。 
アシュトンは痛い痛いと訴えた。 
「それにしても、あのネックレスの効果はいったい何だったんだろう?」 
戦いの最中、翠服の女の子に壊されてしまったネックレス、女の子は必死にそれを壊そうとしていた。 
もしかして、すごいアイテムだったのかなとアシュトンはそう思った。 
アシュトンは黒服の男と金髪ロングヘアーの紋章術師のパックを漁った時、説明書があることに気づいた。 
そのときに、ネックレスの効果を調べようと、自分のパックの説明書を探したけれども、見つからなかった。 
でも、アシュトンは薄々気づいていた。自分は最初に支給品を置き忘れてしまうという手痛い失態を起こしてしまったのだ。 
そのときに説明書を落としてしまったようだ。 
「まあ、いいか。運が悪いのはいつものことだし」 
アシュトンにしては珍しく楽観的な口調で言った。それもそのはず、ネックレスを失ったことを差し引いても、嬉しいことが多かったのである。 
「さーてと…」 
アシュトンはルンルン気分で立ち上がり、踵を奮い立たせ、安息の地へと駆け出した。 


【H-6/午後】 
【アシュトン・アンカース】[MP残量:50%(最大130%)] 
[状態:疲労特大 体のところどころに傷(応急処置済み)  左腕に軽いやけど(応急処置済み) 右腕にかすり傷(応急処置済み)] 
[装備:アヴクール・ルナタブレット・マジックミスト] 
[道具:無稼動銃・???←もともとネルの支給品の一つ・首輪×3・荷物一式×2] 
[行動方針:プリシスの望むまま首輪を狩り集める] 
[思考1:魔力と疲労を回復させるために、寝床となる安息の地を探す] 
[思考2:敵との交戦は今のところ控える] 
[思考3:回復しだい目的に移る] 
[現在位置:源五郎池付近の東部] 
※ディメンジョン・スリップは砕かれました。 

&color(red){【夢瑠 死亡】}
&color(red){【ネル・ゼルファー 死亡】} 

&color(red){【残り39人】}



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|[[第71話 絶望の笛(前編)>絶望の笛(前編)]]|COLOR(red):夢瑠||
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