Chapter_2

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***1989 日本カーネギーメロン大学協会としての総会 1986年12月18日の松田会長の提案以来、同窓の恣意的な集い、サロン的な集いはあったが、本格的な同窓会組織を目ざした活動は行われなかった。ようやく1989年になって、同窓会にむけてた準備委員会が立ち上げられた。  この立ち上げの中心的役割を担ったのは、三谷史生氏である。三谷氏は経営コンサルタント事務所を経営していたが、経営コンサルティング業務の一環として、CMU日本代表も委嘱されていた。その業務は、来日するCMU関係者と日本の官庁、企業や研究機関との橋渡し、主だった日本企業からの留学生派遣の促進など多岐にわたっていた。  このような立場に立って、三谷史生氏はCMU日本同窓会としての位置づけよりは、同窓会を核にしたCMU協会という組織作りを提案した。この組織の中で日本に在住するCMU出身者および関係者が、日本および海外にいるCMU関係者との親睦およびその他の人々のCMUの認識を深めることを目的にしよう、という趣旨である。次に示す会則の原案にその趣旨が示されている。この原案に続いて示される総会開催の招待状に、設立準備員会の委員の名前が列記されているが、2月10日開催の総会に向けて、さまざまな準備が行われた。  なぜ、CMU協会としての活動を目指したのか、また準備をどのようにしていたのかの詳細は、次に添付した会則の原案に続く、総会案内に詳しく述べているので、ここでは重複を避けて省略する。 なお、2月10日を総会開催日としたのは、CMUのCyert学長が、日本IBMの主催する講演の講師として2月初旬に来日することが予定されていたことから、これをよき機会ととらえて調整・準備したことによる。 -[[1989CMUAJ設立総会案内>http://www43.atwiki.jp/abetge?cmd=upload&act=open&pageid=15&file=1989CMUAJ%E8%A8%AD%E7%AB%8B%E7%B7%8F%E4%BC%9A%E6%A1%88%E5%86%85.pdf]] -[[会則>http://www43.atwiki.jp/abetge?cmd=upload&act=open&pageid=15&file=1989Constitution.pdf]] ***1990 Cyert学長の来日とCMUAJの総会 -日本IBM主催によるCyert学長の講演会と二人の教授の企業訪問  1990年2月5日に、日本IBMが主催する後援会のためにCyert学長が2名の教授を伴って来日された。講演会は、ホテルオークラ本館2階の青嵐の間で行われた。演題は『知識革命』で招待されたのは、天城ホームズテッド有識者会議の出席者57名である。筆者も招待者の1人となった。  講演は午前11時から12時までで、これからの時代が知識が主役になる社会になることについて展望が語られた。未来社会の展望は、出席者に大いなる感銘を与えた。なおこの講演内容は、2月10日の総会においても語られたが、より熱い調子で語られたのが印象深かった。  講演後、Luncheon Partyが開催された。出席者同士の交流が随所にみられたが、Cyert学長に随行して来日した二人の教授―Dr.Paul Christino(Copmputer Science)とDr.Elizabeth Dailey(大学院院長)-も打ち解けた会話をたのしんでいるようであった。  このLunceheon Partyが終わってから、2月9日まで、筆者は、二人の教授を企業に紹介する役割を担った。以下に示すように、この企業訪問は時間に追われる忙しさであったが、CMU出身者としての誇りを感じる同行であった。 |2月5日(月)|13:30~14:30|野村総研| |2月5日(月)|15:00~16:30|安田火災| |2月6日(火)|11:00~12:00|セコム| |2月7日(水)|9:30~10:30|NTTデータ| |2月7日(水)|11:00~14:40|オムロン| |2月8日(木)|9:00~10:00|日本債権信用銀行| |2月8日(木)|13:30~14:40|松下電器| |2月9日(金)|14:00~15:00|丸紅| 各社はいずれも常務取締役あるいは専務取締役の出席のもと、CMUとの連携をどのようにするかの意見交換で、筆者としても有意義な企業訪問であった。安田火災海上保険とセコムの場合は、社長が出席して他社よりも、具体的な内容で話し合っていたことが印象的であった。  これらの企業が翌日の2月10日のCMUAJに参加するのであれば、協会として発足することも意義のあることだと痛感した。 -CMUAJの総会  2月10日開催の総会を滞りなく実施するために、1月22日日本IBMにおいて、進行に関する打ち合わせを行った。当時、日本IBMおよびIBMワールド・トレード・アジアコーポレーションには少なからぬCMU出身者が勤務していた。その中にEdward E. LucenteはIBMの副社長・IBMワールド・トレード・アジア・コーポレーションのグループテグゼクティブであるが、総会の開催に強い関心を示してくれていた。  このうちあわせにおいて、CMUAJの会長、副会長、事務局長の候補として、会長松田武彦、副会長片方善治、事務局長三谷史生を総会に諮り、出席者の同意を得るようにしようということが決まった。そのためには上記三人の経歴を紹介する必要があるとして、英文による紹介の印刷物が用意された。当日、乾杯・挨拶をするIBM副社長のEd Lucenteの英文紹介物も同時に配布することとなった。  参考までに、当日に向けて準備されたこれらの印刷物を添付しておく。 -[[1990CMUAJアジェンダ>http://www43.atwiki.jp/abetge?cmd=upload&act=open&pageid=15&file=1990CMUAJ.pdf]] -1991~1998 松田会長を囲む小さな集い  1991年から松田会長が国際会議に出席することが多くなった。また、三谷事務局長には仕事の関係で、CMAJのために時間をつくって準備委員会を招集することが困難になっていた。筆者もまた、産業視察団のリーダーとして海外に出張することが多くなっていた。また、1993年に滋賀県堅田市に開学する成安造形大学の教授に迎えられていたために、東京にいることが少なくなり、CMUAJのための時間的余裕がなかった。  このような理由で、組織としてのCMUAJは、いわば休眠状態となっていたが、松田会長が時にふれ折にふれてCMU出身者に声をかけて、いわば非公式のCMUAJの集いは年に2回から3回はあり、その都度にCMUAJのけいぞくについて心配をし、意見交換もしていた。そのような意味ででCMUAJは絶え間なく続いていたといってよい。  もちろん、このようにして集った時は、CMUの状況がその都度、情報交換のようにして伝えられた。たとえば1997年に学長がDr.JaredCohen氏に変わったことで、Campus改修プロジェクトが順調に進んでいることなどが話題になった。   東京在住のCMU出身者だけによるこのような集いのほかに、松田会長は関西から東京に出張してきたCMU出身者と関係者をまじえて、前述のような集いをすることによって、CMUAJ総会の代替とはいえないまでも、それに近い趣を感じていたようである。 -1999 二つの同窓会 (1)松田会長追悼CMUAJ総会  1998年CMU元学長のDr.Richard Cyert氏が逝去されたときは、松田会長を囲む小さな集いは”Dr.Cyertをしのぶ会”となった。それからそれほど時間がたたない1999年、まるでDr.Cyert逝去の跡を追うように、松田会長の逝去が伝えられた。  この報にに接して、松田会長追悼のCMUAJ総会を急いで行うべきだということが、準備員会で決定された。たまたまGSIA DeanのDr.Dunnといじり博士が来日するとの情報を得て、1999年6月28日(月)に、青学会館シャロンにおいて開催することとなった。総会においてCMUAJの今後の運営として、組織・役員の選任・今後の進め方を重要議事としなければならない。  そこでこの時の総会の内容は会員各位に向けて次のような案内として伝えられた。 -[[CMU ALUMNI各位への文書>http://www43.atwiki.jp/abetge?cmd=upload&act=open&pageid=15&file=CMU+ALUMNI%E5%90%84%E4%BD%8D%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%96%87%E6%9B%B8.pdf]]  この総会で筆者が会長に、副会長に三上吉彦氏、石原滋氏、三谷史生が選任された。なお新役員各位の一覧は次のように示される。 -[[CMUAJ New Officers>http://www43.atwiki.jp/abetge?cmd=upload&act=open&pageid=15&file=CMUAJ+New+Officers.pdf]] (2)Material Scienceの同窓会  CMUAJとは関係なく、Material Scienceの同窓会が発足したのが1999年である。2010年横断的CMU総会に参加するまで、この同窓会の開催は、第11回まで継続していた。以下に、年次ごとの記録を紹介するが、ここでは第一回同窓会の記録を紹介する。 #left(){1999年 第一回} #left(){日時 1999(平成11)年3月3日(火)午後6~8時} #left(){場所 住友金属工業(株)白山寮} #left(){(東京都文京区本郷駒込1-21-11)} #left(){費用 8000円} #left(){担当 中瀬和夫(代表幹事 邦武立郎)} #left(){行事 同窓会規約決定、名簿作成} #left(){案内 手紙、はがき返事} #left(){参加者数 35名(一名韓国より)} #left(){残金 80539円}
***1989 日本カーネギーメロン大学協会としての総会 1986年12月18日の松田会長の提案以来、同窓の恣意的な集い、サロン的な集いはあったが、本格的な同窓会組織を目ざした活動は行われなかった。ようやく1989年になって、同窓会にむけてた準備委員会が立ち上げられた。  この立ち上げの中心的役割を担ったのは、三谷史生氏である。三谷氏は経営コンサルタント事務所を経営していたが、経営コンサルティング業務の一環として、CMU日本代表も委嘱されていた。その業務は、来日するCMU関係者と日本の官庁、企業や研究機関との橋渡し、主だった日本企業からの留学生派遣の促進など多岐にわたっていた。  このような立場に立って、三谷史生氏はCMU日本同窓会としての位置づけよりは、同窓会を核にしたCMU協会という組織作りを提案した。この組織の中で日本に在住するCMU出身者および関係者が、日本および海外にいるCMU関係者との親睦およびその他の人々のCMUの認識を深めることを目的にしよう、という趣旨である。次に示す会則の原案にその趣旨が示されている。この原案に続いて示される総会開催の招待状に、設立準備員会の委員の名前が列記されているが、2月10日開催の総会に向けて、さまざまな準備が行われた。  なぜ、CMU協会としての活動を目指したのか、また準備をどのようにしていたのかの詳細は、次に添付した会則の原案に続く、総会案内に詳しく述べているので、ここでは重複を避けて省略する。 なお、2月10日を総会開催日としたのは、CMUのCyert学長が、日本IBMの主催する講演の講師として2月初旬に来日することが予定されていたことから、これをよき機会ととらえて調整・準備したことによる。 -[[1989CMUAJ設立総会案内>http://www43.atwiki.jp/abetge?cmd=upload&act=open&pageid=15&file=1989CMUAJ%E8%A8%AD%E7%AB%8B%E7%B7%8F%E4%BC%9A%E6%A1%88%E5%86%85.pdf]] -[[会則>http://www43.atwiki.jp/abetge?cmd=upload&act=open&pageid=15&file=1989Constitution.pdf]] ***1990 Cyert学長の来日とCMUAJの総会 -日本IBM主催によるCyert学長の講演会と二人の教授の企業訪問  1990年2月5日に、日本IBMが主催する後援会のためにCyert学長が2名の教授を伴って来日された。講演会は、ホテルオークラ本館2階の青嵐の間で行われた。演題は『知識革命』で招待されたのは、天城ホームズテッド有識者会議の出席者57名である。筆者も招待者の1人となった。  講演は午前11時から12時までで、これからの時代が知識が主役になる社会になることについて展望が語られた。未来社会の展望は、出席者に大いなる感銘を与えた。なおこの講演内容は、2月10日の総会においても語られたが、より熱い調子で語られたのが印象深かった。  講演後、Luncheon Partyが開催された。出席者同士の交流が随所にみられたが、Cyert学長に随行して来日した二人の教授―Dr.Paul Christino(Copmputer Science)とDr.Elizabeth Dailey(大学院院長)-も打ち解けた会話をたのしんでいるようであった。  このLunceheon Partyが終わってから、2月9日まで、筆者は、二人の教授を企業に紹介する役割を担った。以下に示すように、この企業訪問は時間に追われる忙しさであったが、CMU出身者としての誇りを感じる同行であった。 |2月5日(月)|13:30~14:30|野村総研| |2月5日(月)|15:00~16:30|安田火災| |2月6日(火)|11:00~12:00|セコム| |2月7日(水)|9:30~10:30|NTTデータ| |2月7日(水)|11:00~14:40|オムロン| |2月8日(木)|9:00~10:00|日本債権信用銀行| |2月8日(木)|13:30~14:40|松下電器| |2月9日(金)|14:00~15:00|丸紅| 各社はいずれも常務取締役あるいは専務取締役の出席のもと、CMUとの連携をどのようにするかの意見交換で、筆者としても有意義な企業訪問であった。安田火災海上保険とセコムの場合は、社長が出席して他社よりも、具体的な内容で話し合っていたことが印象的であった。  これらの企業が翌日の2月10日のCMUAJに参加するのであれば、協会として発足することも意義のあることだと痛感した。 -CMUAJの総会  2月10日開催の総会を滞りなく実施するために、1月22日日本IBMにおいて、進行に関する打ち合わせを行った。当時、日本IBMおよびIBMワールド・トレード・アジアコーポレーションには少なからぬCMU出身者が勤務していた。その中にEdward E. LucenteはIBMの副社長・IBMワールド・トレード・アジア・コーポレーションのグループテグゼクティブであるが、総会の開催に強い関心を示してくれていた。  このうちあわせにおいて、CMUAJの会長、副会長、事務局長の候補として、会長松田武彦、副会長片方善治、事務局長三谷史生を総会に諮り、出席者の同意を得るようにしようということが決まった。そのためには上記三人の経歴を紹介する必要があるとして、英文による紹介の印刷物が用意された。当日、乾杯・挨拶をするIBM副社長のEd Lucenteの英文紹介物も同時に配布することとなった。  参考までに、当日に向けて準備されたこれらの印刷物を添付しておく。 -[[1990CMUAJアジェンダ>http://www43.atwiki.jp/abetge?cmd=upload&act=open&pageid=15&file=1990CMUAJ.pdf]] -1991~1998 松田会長を囲む小さな集い  1991年から松田会長が国際会議に出席することが多くなった。また、三谷事務局長には仕事の関係で、CMAJのために時間をつくって準備委員会を招集することが困難になっていた。筆者もまた、産業視察団のリーダーとして海外に出張することが多くなっていた。また、1993年に滋賀県堅田市に開学する成安造形大学の教授に迎えられていたために、東京にいることが少なくなり、CMUAJのための時間的余裕がなかった。  このような理由で、組織としてのCMUAJは、いわば休眠状態となっていたが、松田会長が時にふれ折にふれてCMU出身者に声をかけて、いわば非公式のCMUAJの集いは年に2回から3回はあり、その都度にCMUAJのけいぞくについて心配をし、意見交換もしていた。そのような意味ででCMUAJは絶え間なく続いていたといってよい。  もちろん、このようにして集った時は、CMUの状況がその都度、情報交換のようにして伝えられた。たとえば1997年に学長がDr.JaredCohen氏に変わったことで、Campus改修プロジェクトが順調に進んでいることなどが話題になった。   東京在住のCMU出身者だけによるこのような集いのほかに、松田会長は関西から東京に出張してきたCMU出身者と関係者をまじえて、前述のような集いをすることによって、CMUAJ総会の代替とはいえないまでも、それに近い趣を感じていたようである。 -1999 二つの同窓会 (1)松田会長追悼CMUAJ総会  1998年CMU元学長のDr.Richard Cyert氏が逝去されたときは、松田会長を囲む小さな集いは”Dr.Cyertをしのぶ会”となった。それからそれほど時間がたたない1999年、まるでDr.Cyert逝去の跡を追うように、松田会長の逝去が伝えられた。  この報にに接して、松田会長追悼のCMUAJ総会を急いで行うべきだということが、準備員会で決定された。たまたまGSIA DeanのDr.Dunnと井尻博士が来日するとの情報を得て、1999年6月28日(月)に、青学会館シャロンにおいて開催することとなった。総会においてCMUAJの今後の運営として、組織・役員の選任・今後の進め方を重要議事としなければならない。  そこでこの時の総会の内容は会員各位に向けて次のような案内として伝えられた。 -[[CMU ALUMNI各位への文書>http://www43.atwiki.jp/abetge?cmd=upload&act=open&pageid=15&file=CMU+ALUMNI%E5%90%84%E4%BD%8D%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%96%87%E6%9B%B8.pdf]]  この総会で筆者が会長に、副会長に三上吉彦氏、石原滋氏、三谷史生が選任された。なお新役員各位の一覧は次のように示される。 -[[CMUAJ New Officers>http://www43.atwiki.jp/abetge?cmd=upload&act=open&pageid=15&file=CMUAJ+New+Officers.pdf]] (2)Material Scienceの同窓会  CMUAJとは関係なく、Material Scienceの同窓会が発足したのが1999年である。2010年横断的CMU総会に参加するまで、この同窓会の開催は、第11回まで継続していた。以下に、年次ごとの記録を紹介するが、ここでは第一回同窓会の記録を紹介する。 #left(){1999年 第一回} #left(){日時 1999(平成11)年3月3日(火)午後6~8時} #left(){場所 住友金属工業(株)白山寮} #left(){(東京都文京区本郷駒込1-21-11)} #left(){費用 8000円} #left(){担当 中瀬和夫(代表幹事 邦武立郎)} #left(){行事 同窓会規約決定、名簿作成} #left(){案内 手紙、はがき返事} #left(){参加者数 35名(一名韓国より)} #left(){残金 80539円}

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