先程までの草木が折れるこそばゆい音ではない、力強い大地を噛みしめる音が響き渡る。
アグリアスとラムザは靄のかかった町に入ったのだ。お互いはお互いの足音で存在を確認し合いながら片手を鞘に、
もう片手を柄にかけ態勢を低く保ちながら慎重に一歩ずつ歩く。
町の中だというのに人の声、生の声がこだましない。そして二人の前に広がる靄。警戒をしない理由はなかった。
「…ラムザ。目の前に何かないか?…」
アグリアスの声に、靄に塞がれている辺りを見回していたラムザが前方に目を凝らす。
暗がりで徐々に目が冴えてくるのと同じ要領で、白い靄にラムザの目は、少しずつではあるが回復へ向かっていた。
立ち止まる。
ラムザは目の前にある、不安定な一本脚で直立不動を心がける看板を見上げた。
「なんと書いてあるんでしょうか」
「…畏国語ではなさそうだな。貴公は読めんのか?」
「鴎国の言語は少し齧った程度ですけど、これはそれでもないようです。えーと、これは…」
看板の文字が靄で見え隠れする。見慣れない文字だ。
「ようこそ。『ハミサイダル・ガッド』へ」
ラムザでもアグリアスでもない、凛とした声が辺りに響いた。
二人は突然聞こえた第三者の声に驚きながらも、
解きかけていた緊張感をすぐに張り巡らせた。
「ラムザ…靄が晴れていくぞ」
あれほど周りを覆い隠していた靄が、先程の声を皮切りに波を引いたように一様に消えていく。
建物、田畑、そして城壁が、次々と二人の周りに姿を現した。
人の気配だ。ラムザは身構えた。
すると、看板の右横、つまりラムザ達から見て左横に、微笑を浮かべた少年が二人を見つめていた。
少年はラムザと同じ栗毛の短髪で、前髪をおかっぱのように揃えている。背丈はアグリアスの肩幅にやや届かない辺り。
年頃の男子の背丈を考えれば、十分に長身と成りえる資格を備えていると言える。
「ようこそ。『ハミサイダル・ガッド』へ」
先程の張り上げたような口調ではなく、優しげな口調で少年は再びそう告げた。
「ハミサイダル・ガッド。それが、この村の名か?…」
異国の言葉を口にするように、ラムザは怪訝な面持で呟いた。
「うん。僕たちの言葉で“目に見えぬ幸せ”という意味さ」
実に嬉しそうに少年は答えた。
「皆が待ッてるよ。僕に付いてきて!」
二人の返事を聞く前に、少年は踵を返し村の中心部へと走っていく。
「あ!待て!」
ラムザはそう声をあげると、半ば呆然としているアグリアスの手を掴み少年の後を追いかけた。
「僕の名はラムザ。隣がアグリアスさんだ」
先程から歩くほどの速度に戻った少年へ、ラムザはそう伝えた。
「僕はマズラ。この村唯一の宿屋の一人息子さ」
ラムザの肩越しに嬉しそうなマズラの声が響く。彼はとても嬉しそうにステップを踏みながら村を練り歩いている。
「貴君に訊ねたい。この村に、私たちより前に数人の旅の者が訪れなかっただろうか?」
マズラは横から投げかけられた彼女の言葉に目を丸くした。
そして物珍しそうな目でアグリアスを見つめ、瞬間、マズラは悪戯っ子のようにニッと笑って次のように答えた。
「お姉さん、お堅いなあ。そんなに生真面目だとせっかくの美貌を生かしきれないよ?」
思いもしなかった返答にアグリアスは一瞬歩みをとめたが、次の瞬間、
耳まで真っ赤にしながらラムザ越しにいるマズラに向かって怒号を浴びせた。
「き、貴様!大きなお世話だ!!自分の身ぐらい自分で心配する!!それに、私だって、私だって…!!」
怒りに身を任せ彼女は柄に手をかけした。大慌てでラムザがアグリアスの前に両手を広げ、その動きを制する。
「落ち着いてくださいアグリアスさん!相手はまだほんの子供です」
猫のように口から一定のリズムで息を洩らし、アグリアスは少年に威嚇をした。困ったような笑みを浮かべていたラムザは、
しかし後方のマズラを横目で睨んだ。彼からの攻撃を同じく横目で流したマズラは、二人の前に一歩出て振り返った。
その顔は喜びに満ちている。
「素直になりなよお姉さん。なに、簡単なことだよ。心を開け渡せばいいのさ」
「心を、開け渡す…?」
聞きなれないマズラの言葉に、抵抗を止めたアグリアスが眉を潜めた。
「そう、開け渡す。欲望を曝け出す。うーん、言い方が悪いや。
つまり、他人に心を渡して有りのままの自分を見てもらうのさ。
ここにいる皆はそれができるよ。ああ、でも花屋のシュガリーはまだだけど」
マズラは跳ねるように二人の前に出た。
「さあ、着いたよ。“お連れさん”がお待ちさ」
マズラの指さす方向には、赤い屋根に白いレンガという平凡陳腐な造りの群落の中で黒い屋根にクリーム色のレンガ造りという、
周りとは一線を画した建物がちょこんと建っていた。
ただ、クリーム色で塗られた壁のペンキは年月の所為かところどころはがれかけており、建物全体の印象は薄暗い。
「“お連れさん”…まさか!」
マズラの言葉に真っ先に反応したアグリアスが宿に向かって走りだした。今度は慌ててラムザがその後を追った。
宿までは数秒もかからなかった。
扉の前に到達すると無礼も承知で、アグリアスは宿の扉を強引に勢いよく開けた。
宿屋の一階は大広間となっていて、宿の入り口と居間が併設した造りとなっていた。
そんな居間に、神妙な面持ちで議論を行っていた騎士の姿が二人。
扉の音に驚き目を丸くしているオルランドゥ伯とベイオウーフ、二人が隊で最も信頼を置く人物たちであった。
「伯!それにベイオウーフ殿も!」
自分でも驚くほどの声量で叫んだアグリアスの声を聞きつけ、階上から続々と見知った顔が姿を現した。
「アグリアスさん!それにラムザも!!」
一人が歓喜を含んだ大声でそう言ったのが二人の運のツキか。続々と仲間が階下に押し寄せる中で、
二人はまるで雪崩のように押し寄せる仲間たちから祝福を受けた。握手、抱擁、終いには胴上げまで。
激しい揺れに気分の悪化を訴えた二人がテーブルを支えに体を崩していると、二人の後ろから、
頭の中で残響しそうな程のマズラの笑い声が二人に届いた。
「それで…私たち以外の者たちは皆無事なのか?」
口を開けることすらできないラムザに変わり、幾分か具合を戻したアグリアスがオルランドゥに訊ねた。
彼女の片腕の中にはやんちゃなマズラ坊がもがいている。
「うむ。皆無事だ。君たちが揃えば隊は全員揃った事になる。行幸、行幸。」
オルランドゥが満足そうに頷いた。
「怪我は無さそうだな」
「はい。不幸中の幸いでした」
アグリアスの言葉に思うところがあったのか、オルランドゥが深く頷いた。
「不思議な事に、我々の中にも怪我ひとつ負った者はいないのだよ。最初は皆、草原に投げ出されていてな。
君たちだけがいないことに気付いたのだよ」
「どうやら馬車とボコも行方不明になったみたいで」
ポーキーもいなくなったことを言外に匂わせながら、ムスタディオは悲痛な面持ちでそう割り込んだ。
「ラムザもアグリアスさんもいなくなるし。一時はどうなることかと」
「この人たちもあんた達と同じようなものさ。ふらふらとこの村にやってきたんだ。
まあ、そんなことよりこの態勢をどうにかしておくれよ」
足をぶらつかせながら、マズラはそう訴えた。アグリアスはそうか、とマズラの言葉に頷いた。
無論、訴えは却下された。
「…皆さんは何時頃ここに到着したんですか?」
アグリアスの横で、ようやく立ち上がったラムザが周りに尋ねる。顔色は心なしか青い。
「…二日前、いや昨日の今頃だった気がするな」
ベイオウーフが思案するように答えた。
会話はそこで一旦途切れ、駘蕩とした村の様子に感化されたのか居間は暫しの休息を求めた。
「只今、戻りましたー」
二人にとって、聞きなれた声が扉から響いた。
村の探索から戻ったラヴィアンは、入口前で集まっている仲間に驚いたぎょっとした。入口付近にいたラムザとアグリアスを
囲むようにして仲間が扉の前に溢れていたのだ。
「一体なんの集まりで……アグリアス様」
仲間をかき分けてラヴィアンはテーブル前に辿り着いた。
ラヴィアンとアグリアスの視線が合う。
よく人の酒癖を注意し、夕食に出る人参を残そうとすると怒鳴り、そのくせ本人は出されたゴブリンのしっぽをこっそりと残そうとし、
更には朝には弱く、他人を叱りつけるくせに自分には一切無頓着で、何事にも不器用で、そのくせ努力は人一倍で、
戦場では驚くほど冷静で、首尾一貫で正々堂々としていて、とどのつまり、心底から尊敬する上司が、そこにはいた。
手に抱えていたバスケットが落ちる。
後ろで人垣をかき分けていたアリシアもアグリアスの姿を見てはっと息を呑んだ。
「アグリアス様!!…とラムザ隊長!」
横でラムザが苦笑した。
知ってか知らずか、二人はアグリアスの元へ駆けていった。
「いやー。隊長、もとい、アグリアス様と再会できて本当によかったですよー!」
「ラヴィアン、飲みすぎだぞ。お前は昔から酒癖が悪い」
「気難しい顔しちゃってー。このこのー、嬉しいくせに」
「こら、アリシア!絡むな、酒くさい!」
満月が夜空に浮かぶ中、ハミサイダル・ガッドで唯一の宿屋の居間では盛大な祝宴が開かれていた。
静まりかえった村の中で、まるで村の活気を根こそぎ奪っているかのようだ。酒の席で隊の吟遊詩人がそう呟いた。
豪勢に振る舞われる酒と食事を思う存分満喫しながら、ラムザ隊は馬鹿騒ぎを続けていた。
「いやー、あのときは駄目かと思いましたよねー」
「へー。そんなに危険だったの」
「そうよそうよー。昨日飲み過ぎたからあんたがおかしくなったかと思ったわよ」
「何言ってるのよラヴィアン!あたしは飲兵衛よ!」
「へー。そうなの。確かに酒豪という感じはするわね」
「…アリシア。この女の子は誰だ?」
「あー、それはーですねー、…誰でしたっけ?えへへー」
「飲兵衛さんはダメダメのようね。今日の昼間に挨拶をしたばかりだというのに。
いいわ、自己紹介させてもらうから。私の名はシュガリーよ」
居間に取り付けられているカウンターでいつの間にか横で当然のように飲んでいる少女は、
アグリアスに手を伸ばした。
少女は丁度、少年マズラと齢同じ程の容姿であった。腰にまで届きそうなクリーム色の髪、背は年相応といったところであろうか。
少年マズラよろしく、彼女もあまり着飾ることはせず、白を基調とした木綿服を着用している。
少女の手を拒む理由もなく、アグリアスは差し出された手を握った。ガラスのように透き通った手。
マメが幾重にも連なっている自分の手とは大違いだ。アグリアスは内心でそう独りごちた。
「アグリアスだ。その隣の、テーブルに突っ伏しているのがアリシア、酒樽をまるごと担いで来そうな眼をしているのがラヴィアンだ」
「よろしく。私もこの宿に泊まらせてもらっているの。知り合って早速で悪いけれど、貴方今日は私と相部屋みたい。宿屋の主人がそう話していたわ」
見かけに反しこれまた少年マズラよろしく、相手を小馬鹿にしたような笑みを浮かべながらシュガリーはそう告げた。
「そうか。…ん?シュガリー。貴公はもしかして花屋を営んでいる家系か?」
花屋に家系も何もないだろうに。シュガリーはそう思いはしたが否定しなかった。
真面目な物言いは寧ろシュガリーには好意に値した。手にある杯の中身をあおる。中身はワインに似て非なる葡萄ジュースだ。
「貴方とは気が合いそう。予感…いえ、願望でしかないけれど」
レーゼみたいな喋り方をするような少女だ。アグリアスは第一にそう思った。小馬鹿にするような喋り方はまさにそれだ。
しかし、年下だからといってそのような態度にアグリアスは別段思うところはなかった。
アグリアスは彼女の言葉に肯定的な意味を込めた返答をした。
「ええ。そうだといいわね」
時を同じくして、居間に置かれた大テーブルを囲むように、村の住人を交えて行われた
ムスタディオ主催の田舎っぺトークショーも終盤にさしかかり、それまで笑顔を介していた
隊の兵たちは段々と落ち着いた雰囲気を持ち会話を始めた。
「よく無事だったなラムザ」
「ご心配をおかけしました。伯もご無事で何よりです」
周りの馬鹿騒ぎの中で、テーブルの端に構えるオルランドゥとラムザは静かに語らっていた。
普段は余り自ら進んで酒を口にしないラムザも、この時ばかりは喜びの味とやらを体感してみたくなったのか、
常人の飲むペースの1.5倍の勢いで飲んでいる。今また、ラムザは手に持っている杯の中身を空にしたところであった。
「いい飲みっぷりぞ。流石はバルバネスの末子といったところ」
「得意な方ではないんですが…すみません。頂きます」
すぐにオルランドゥの手によって空いた杯が満たされていく。
「しかし、ここは一体どこなんでしょうか」
「ふむ。言葉は通じるようなのだが、文字はちんぷんかんぷん。畏国でも欧国のそれでもない。
村人にその事を訊ねても要領を得ない答えが返ってくる」
そこで言葉を切り、オルランドゥは手にしていた杯を口に含む程度に飲んだ。
酒瓶を用意して今か今かと注ぐ機会を待っていたラムザは、彼の杯がまだ酒で満ち足りている事に気づき少々落胆した。
「畏国の外れでしょうか」
気持ちを入れ替え、ラムザは目の前にある杯を飲み干した。
そして流れ作業のようにオルランドゥがラムザの杯をすぐに満たらせる。
この間、およそ数秒。剣聖としての鋭い感性が、宴という戦場でもどうやら発揮されている。
「私たちも昨日到着したばかりで碌に情報収集はできていない。村の外に捜索隊を何人か出す予定だったのだが、
村人に止められてしまってな。
『外は地獄です。恐ろしい怪物がうようよと蠢いております。外に出るのはおやめください。』とな。
鳥の囀りさえ聞こえないというのに。ハッハッハッ…」
よほど可笑しかったのか、珍しくオルランドゥは声を上げて笑った。
「明日から村人に話を聞いてみます。その間に、もしかしたらボコ達がふらふらとここに来るかもしれないし」
居間に再びあの靄が発生したと勘違いをする程に、その時のラムザの視界は酔いによるものからか、薄ぼんやりとしていた。
しかし目の前のオルランドゥの杯が確かに空になったのを目をこらし確認したラムザは、
オルランドゥにほんのばかりの意趣を試みようと目の前の酒瓶に手を伸ばした。やった、勝ったぞ。
ラムザの手が届くほんの僅かの間に、ひょいとオルランドゥが酒瓶を取り上げた。
「おやおや、ラムザ。杯が空じゃないか」
呆然としながら本来酒瓶があった場所に手を突き出しているままのラムザに、満面の笑みを浮かべた彼はそう告げた。
剣聖はどの場にあっても剣聖のままでいた。
時刻はそろそろ日付を跨ぐ。
少女シュガリーとともに一足早く階上へ向かったアグリアスは、部屋の窓から外の村の風景を垣間見ていた。
辺りに同じ高さほどの建物が無い事もあり、窓からは家屋の屋根だけがちょこんと出ている。
一直線上には村の象徴ともいえる教会がそびえ立っている。
月の光だけがこの村の唯一の街灯なのだろうか、それほどまでに村の電灯といえる電灯はその機能を果たしていなかった。
そもそも電灯など無いのかもしれない。ただ、月光に照らされるこの村はとても幻想的だ。
アグリアスはしみじみとそう実感した。
「静かでしょう、この村は」
寝巻に着替え終わり、自慢の髪を櫛で梳かしながら、ベッドの上のシュガリーはアグリアスにそう告げた。
「ええ、それにとても美しいわ」
アグリアスの言葉に自慢げにシュガリーは頷く。
「この村は素晴らしい所だと村の人たちは口を揃えて言うわ。勿論私もね」
「そうね」
アグリアスはシュガリーに微笑を向けながら言った。
すると、体に蓄積された疲労と睡魔が突如として彼女に押し寄せた。
鎧はとうに着外していたが、体が鉛のように重い。
「今日はもう寝るよ」
「あらそう。まあ積もる話は明日に持ち越しということでいいのかしら」
シュガリーの言葉に反応する気力も起こらず、三つ編みも解かずにアグリアスはベッドに倒れこんだ。
「あらあら」
階下にいるレーゼ嬢の口癖がシュガリーにもうつったようだ。立ち上がり、毛布を手に取りアグリアスにかける。
彼女は窓の外を何の気なしに見つめる。
満月が同じように彼女を見つめていた。
明朝、シュガリーに叩き起こされたアグリアスは不貞腐れた顔で朝の食卓に着いた。
彼女曰く“朝食は一日の元気の源よ!欠かすなんて私が許さないわ!”だそうで、
毛布をひっぺがされた彼女は渋々と起き上がり、自身の三つ編みを結い始めた。
酒気と疲労とが複雑に絡み合ったアグリアスがやっとのことで居間に辿り着くと、そこには既に席に着いているシュガリー、
そしてアグリアスと同じ状況なのだろうか、朝食を心待ちにしているマズラと、今にも倒れそうなラムザがいた。
軽い挨拶を終え、対面に座るラムザにアグリアスは小声で話しかけた。
「貴公も、連れてこられたのか」
言葉なくしてラムザは渋い顔をつくり懸命に頷いた。
「他の者たちはどうした?」
「多分起きてこられないんでしょう。私たちが寝た後もまだ相当飲んでいたみたいだから」
目の前に出されたミルクをがぶがぶと飲みながらシュガリーがそう答えた。
ラヴィアンとアリシアもこの苦行に付き合わせたいと思ったが、気づくとアグリアスの眼前には朝食の盆が広がっていた。
「いただきます」
食事は派手すぎず淡泊ではない、丁度いい分量だった。たいそう食欲の無かったラムザとアグリアスも朝食の味に舌鼓をうちながら
ぺろりとたいらげ食後のコーヒーまで飲みほした。
「とても美味しかったです。夫人にお礼を」
立ち上がろうとしたラムザを慌ててマズラが制した。
「いいよいいよ、そんなの。水臭いじゃないか」
「しかし、せめて礼だけでも…」
「いいじゃないの、マズラがそう言っているんですもの。それより」
アグリアスの言葉を今度はシュガリーが制した。そしてパンくずを膝から払いながら立ち上がった。
「市場へ行くの。よかったら付いてこない?」
市場は宿屋から数分歩いた場所で行われていた。
開けた広場に集まった商人は早速店構えを始めている。見上げればすぐ近くには教会がこちらを見かえしている状況だ。
「広場自体はこの村にたくさんあるわ。だけどここはこの村で一番人の流通量が多い場所なの」
広場に到着して早々、シュガリーは二人に説明するような口調でそう言った。
広場の一角に畳んであった日傘とシートをシュガリーは慣れた手つきで用意し始める。
「貴公自身が商売をしているのか?」
アグリアスが驚いたようにシュガリーに訊ねた。シュガリーは、お堅い口調ねえ、と軽口をたたきながらも
アグリアスの質問にはしっかりと答えた。
「ええ、そうよ。私の花屋よ。経営は私の手腕、収入はがっぽり私の下よ」
子供っぽい笑顔で、おおよそ子供には似つかわしくない事をシュガリーは平然と述べた。
ビーチに置かれるような巨大な傘を組み終える。どこから用意したのか手にしたエプロンに袖を通し、
長い髪をヘアピンで一つに束ねた。
脇に積み上げられた古びた樽が椅子代わりとなっているのか、一仕事を終えたシュガリーはどかりと身を下ろした。
「あれ?花は?」
店頭に何も置かずに悠然と構えている店主、シュガリーにラムザが訊ねた。
「来るわよ。もうすぐね。…ほら、来たわ」
シュガリーが先程来た通りとは真逆の道を指で示す。ラムザ達が振り返ると、細い路地から荷台を引きずりながら
こちらに手をふる若い二人の女性の姿が見えた。
「紹介するわ。おさげの髪がナヴァリ、クルクルした髪がカイリアよ。」
ゆっくりとした速さで荷台は彼等の前に停車した。
二人はどちらも灰色の作業服を着用しており、泥だらけだ。
ナヴァリは泥まみれの服の袖をまくってタンクトップのように着崩している。男勝りな性格であることが伺える。
対してカイリアは同じように泥だらけでありながらも自らの顔には泥の一粒だってついてはいない。
ナヴァリには無い気品さが前面に表れていた。かくに、こうまでも差が出るものなのか。
遠目ながらラムザはそう観察し、次に二人の後ろにある荷台の中身を確認した。汚らしい荷台に似合わず、
中は色とりどりのちょっとした庭園ができあがっている。橙、赤、白という目が眩みそうな程の元気な色の花が
束ねられたブーケ、陽光に似た色を放つ蕾をつけた花壇など。
芽吹きの季節ということもあってか、荷台の中の花畑は普段以上に厚い化粧を施しているようだった。
「あんたねえ、もうちょっとちゃんとした紹介の仕方が…ん?」
ナヴァリがそこで言葉を切り、アグリアスの顔をじっと見つめた。
「なにか」
アグリアスは若干困惑した。
「あんた…アグリアスさんかい?」
「そうだが…どうして私の名を」
そこでナヴァリは驚いた表情で隣にいたカイリアに顔を向けた。カイリアも驚いた表情をナヴァリに向けている。
勢いよくナヴァリはアグリアスの手をとった。
「いやー!あんたがアグリアスさんかい!!皆と再会できてよかったねー!!」
ぶんぶん、と効果音がつきそうな程に手を振られるアグリアスに、カイリアが口に手を当て、笑みを浮かべている。
「あの。どうしてアグリアスさんのことを…」
ラムザが遠慮がちにナヴァリに問いかけた。その言葉でナヴァリは初めてラムザがアグリアスの横にいることに気付いたのか、
同じように彼にもアグレシッブな握手をした。
「あんたが隊長さんだね。噂はかねがね。お二方、本当に無事でよかったね!」
呆れた顔でシュガリーがため息をついた。横に控えていたカイリアが助け船を出す。
「実はアグリアスさん。あなたのお部下さん方と昨日お会いする機会がありまして」
そういえば昨日ラヴィアンとアリシアは村の探索に出たと話していたな。
アグリアスは酒で浸食されていた脳を洗い出しそのような話を思い出した。
「そこであまりにもお二方が浮かない顔をしていらしたので、ナヴァリが訊いたんですよ」
カイリアの説明を引き継ぐように、ナヴァリが話し始めた。
「そうさ。そしたらポツリポツリと話を聞く事が出来てさ。不慮の事故で最愛の上司と、隊長がいなくなってしまったていうじゃないか。
その日は家の農園で採れた果物をあげて返したんだけどさ」
そう言ってナヴァリはカラカラと笑う。
何と親切な方か。部下二人も見習うべきだ。
アグリアスは勢いよく頭を下げた。
「品物まで頂いて、私の部下が大変世話になった。礼を言います!」
「やりすぎだって姉ちゃん…」
商人全員が注目する中でマズラの呆れた言葉に、市場は普段以上の和やかさを取り戻したようだった。
「こんにちは。花を一本くださいな」
市場が多少の賑わいを見せる中で、まるで冬が到来したかのように通行人の気配が無かったシュガリーの花屋にも
遂に春が訪れた。
「あら。マウリドじゃない」
読んでいた本から目を離したシュガリーはその客人を見つけると喜んだように手をうった。
「早いじゃない。今日は何にするのかしら?」
「青いバラを一輪くださいな」
笑顔でマウリドはそう告げた。袖口のないワンピースからは健康的な素肌が露わになっている。
優しげな笑顔は清楚な雰囲気を与えた。
「青いバラ…花言葉は“神の祝福”、か」
後方で樽に座っていたアグリアスがそう呟いた。
「へぇ。詳しいんですね、アグリアスさん」
「うむ。オヴェリア様の影響だが」
シュガリーは刺を切り、そのままマウリドに手渡した。青いバラは太陽の光に反射することなく独特の色合いを維持していた。
「ありがとう」
嬉しそうにマウリドは花の匂いをかんでいる。
そしてバラを手にしたマウリドはアグリアスにそのバラを差し出した。
「差し上げます」
アグリアスは目を丸くした。
「私にか?」
「アグリアスさん。祝福ですよ」
横にいるラムザがそう茶化した。
アグリアスは少し唸ったが、差し出された花を静かに摘み取った。
「ありがとう、マウリド」
少女は嬉しそうに微笑んだ。
「ちょっと待ちなさいな。マウリド」
帰る素振りを見せる少女にそう言を発したシュガリーは、次いで後ろを振り返った。
「マズラ。あなた、確か家の手伝いがあるんじゃなかったっけ?」
シュガリーの突然の言葉に、マズラは面食らった。
「何を言っているんだいシュガ…」
「あるんでしょう?」
マズラの言葉を遮ったシュガリーは悪戯小僧のような笑みを浮かべていた。それに刺激される形で、
マズラも同じような笑みを浮かべた。
「ああ、そうだった。じゃあ僕は一旦戻るよ」
壁に積み上がった樽から降り、マズラは食べ終わった林檎の骨を辺りに投げ捨てた。ちなみに、林檎は
隣の商店で先程、カイリアが人数分購入した物である。
「あらそう。残念だわ」
シュガリーがそう述べた。言葉と顔が合致していない。
「では僕も。この村を探索してこようと思います」
横で同じく林檎を齧っていたラムザも、マズラの後に続く。
「それでは私も…」
なし崩し的に進む展開に待ったをかけたのはやはり若店主、シュガリーその人だった。
「駄目よアグリアス、貴方はここに残るの」
ポカンとするアグリアスを尻目に、シュガリーは目の前のマズラとラムザにも視線を向けた。
「マズラ、優先順位が変わったわ。ラムザにこの村を紹介してあげて。頼んだわよ」
「ああ。仰せの通りに」
仰々しい態度をとり、マズラとラムザは路地に姿を消した。
「ふぅ。やっとお邪魔虫がいなくなったわね」
二人が路地へ入るのを確認してから、先程から立ちすくんでいたアグリアスとマウリドにシュガリーはそう話しかけた。
「なぜ、私をここに残した?」
「その理由を語るには、まず貴方のその堅い口調が解けなければね」
身長も齢もまるで違う相手にここまで翻弄されてしまうものかと、どこか客観的な思いでアグリアスは事態を眺めていた。
普段なら子供相手に説教の一つでもかましているアグリアスだが、どうしてか彼女にはそうする気にはなれなかった。
彼女は分かっているのかもしれない。自分が子供っぽく、生意気で口が悪く、やる気がないように見えている事を。
全てを知っているうえで彼女はそれを続けているのかもしれない。アグリアスが小さき店主シュガリーに若干の好感を抱いているのは、
初志貫徹とした彼女のその行動が起因になっているからかもしれない。
「わかったわ。これでいい?さあ、教えて」
額の汗でへばりついた前髪を払いながらアグリアスはそう告げた。
「昨日言ったでしょう。積もる話がある、と。まあ焦ってはいけないわ。とりあえず水汲みをお願い」
本日二度目の笑顔を浮かべ、シュガリーはアグリアスに向かって如雨露を突き出した。
その横ではマウリドが困ったような笑顔を浮かべている。
やはり叱っておくべきなのかもしれない。
日差しを一重にうけながら、アグリアスはそう熟慮した。
陽炎が蝋燭のように何度も立ち揺らめく中、一戸建て集落の中で、この村の象徴ともいえる教会は異様な存在感を放っていた。
ところどころペンキがはがれた箇所は、ススのようなもので薄汚れている。
およそ厳かで聖なる印象とはかけ離れた教会は、それでも開かれた戸口から村人を何人も招き入れている。
「大きいなあ」
ラムザの言うとおり、教会の高さは畏国の平均以上だ。
「大きいだけさ。中は以外と狭いよ」
マズラとラムザは開け放たれていた扉をくぐった。
中は外面以上に簡素な造りであった。信者が崇拝する偶像、神や祈り子が描かれている
ネオステンドグラスは一切描かれていない。そもそも窓が一切取り付けられていないのだ。
ラムザは上を見た。塔の最上まで続くだろう天井はほの暗く、より一層不気味さを煽っていた。
「村人全員はここに来たらあの壺に蝋燭を立てる。毎日、それだけのためにここを訪れる」
広い広間の中心には、大人の顔を十人あわせたような巨大な壺が無造作に置かれている。
そこから、白く細長い蝋燭が突き出ている。
壺の横に無造作に積まれている蝋燭の中から一本を取り出して、マズラは火をつけた。
横では村人が同じように蝋燭を灯している。
マズラは既に半分近く埋まっている壺の端に、遠慮がちに蝋燭を立てた。
「行こう。ここで話はしづらい」
ラムザは無言で彼の言葉に頷いた。
「あれが崇拝?」
不思議な光景を見たかのように、ラムザは開口一番、マズラにそう尋ねた。
「ああ、そうさ。田畑を耕しているように見えたかい?」
マズラは言った。
「蝋燭を立てる事が崇拝なのか?」
「村人は必ず一日一本蝋燭を立てる。それに、偶像崇拝なんてこの村の風習にはない。
何千年も前にいた神の姿をした石像に拝んだところで何になるというのさ」
「君たちの神はファーラムじゃないのか」
「ファー…なんだって?神に名前なんてないよ。神は神さ」
マズラの言葉にラムザは唸るばかりであった。この村の宗教は大よそイヴァリース全土に広がるグレバドス教とは
全く異なるものだった。やはり、別大陸に来てしまったのか。ラムザは考えを煮詰めることができずにいた。
「ああ。知りたいのならもう一つ。僕だけじゃなくて、村人全員がだけど。僕たちの名前は皆、洗礼名なんだよ」
「洗礼名?」
「そうさ。子の名前を実の親ではなくて、神様が名付けるんだ。僕のこのマズラという名前もシュガリーもナヴァリも、
ほかのみんなも全て教会から授かったものさ」
その言葉の真意をラムザは汲み取ることができなかった。
「帰ろう。このままだと母さんに薪割りでも頼まれそうだ」
その夜、ハミサイダル・ガッドの一角では再度宴による盛り上がりを見せた。噂を聞きつけたお調子者たちがこぞって現れたのだ。
初対面といえど、ラムザ隊も村人も物おじせず誰彼かまわず酌を勧めるものだから、ただでさえ近隣住民に迷惑をかける程の騒音を
発生させる宴にはますます拍車がかかった。
あれから本当に薪割りを手伝わされ、更に食事の支度まで手伝わされ、頃あいを見てマズラ一家から逃げ出したラムザは
その身体を先刻ぶりに休息の地へと運んだ。
昨夜、杯をともにあわせたオルランドゥは、村で腕の立つ老剣士ルナードなる者と会話を弾ませていた。
親友ムスタディオは村で機械工具をいじっているマドーシャスという若者と一緒に馬鹿騒ぎをおこしている。
どうやら個人個人は村人と相手を見つけて飲みあっているみたいだ。
ラムザはカウンターの一角の席に座る、一人で杯を注ぐアグリアスの姿を見つけた。久方ぶりだ。
何時も飲んでいるラヴィアンとアリシアは同年代と思われるナヴァリ、カイリアと意気投合している。
「隣、よろしいですか」
「む。ラムザか」
ラムザの姿を見て、アグリアスは若干取り乱したようにラムザは見えたが、
気にかけずに彼は、自分の席を用意した。
「村の探索はできたか?」
そう切り出しながらアグリアスはラムザの分の杯を用意し、並々と注ぐ。
「見物なんてほんの僅かな時間ですよ。ここに帰ってからは薪割りに釜戸に火をつけ、配膳まで。
ここの夫人は意外と人使いが荒いです」
斧は他の隊の仲間が使っているため使う機会がないと考えていただけに、掌にできた代償をラムザは真摯にうけとめた。
杯を傾ける。
疲れた体に染みわたる酒の成分はラムザの体の至るところに瞬時に行き渡った。
「アグリアスさんは何をなさっていたんですか?」
途端にアグリアスは狼狽した。
「う…最近の若い者は、その、色々と知りすぎている」
ラムザの質問には答えずに、赤裸々にそう語ったアグリアスは手に持った杯を一気に飲み干した。
昨日の剣聖よろしくいい飲みっぷりだ。
口をついて出そうになったその言葉を何とか呑みこんだ。。彼女の行動の理由が非常に気になるラムザではあったが、
如何せん彼女の今の状態を見る限り、箸に当たり棒に当たりそうである。
名残惜しいながらもラムザはそこで話を転換させることにした。
「マズラと村の教会に行ってきました」
アグリアスの顔が一瞬で緊迫した表情へと変わる。
目で続きを促され、ラムザは話を続けた。
「教会と言ってもそれは名ばかりのものです。中は普通の家屋を広くしたばかりで、中央に壺が置いてあっただけでした」
「壺とは?」
「蝋燭を、村人一人一人が毎日、蝋燭を立てるためのものです。彼等にとっての崇拝はそれが全てです」
「聞いた事の無い崇拝の仕方だな。教団名を聞いたのか?」
「それが…教団名も神の名も、彼等にとっては無意味な行いらしいんです」
ムスタディオのトークが終わったのか、テーブル席からどっと笑い声があがった。
アグリアスは思案するような面持ちで、空になった杯を見つめた。
「グレバドス教の影響をこの地は全くと言っていいほど受けていません。やはりここは別なのか、それとも…」
「アグリアス。部屋に行きましょう」
ラムザの言葉はそこで遮られた。二人が振り返ると、先程のムスタディオのトークショーを眺めていたのだろうか、
笑いによるものか目じりに涙を浮かべたシュガリーが立っていた。
アグリアスは沈思黙考していたが、やがて遠慮がちにラムザを見つめた。
「すまないラムザ。この話はまた今度にでも」
「いえ、レディーファーストです」
彼女の元来の生真面目さをよく理解しているラムザは拙者扼腕することなく笑顔でそう返した。
アグリアスは申し訳なさそうにラムザに振り返りながらシュガリーとともに階上に上がっていった。
ラムザは彼女の姿が見えなくなるとカウンターの上に重たい頭を乗せた。
ひんやりとしていて気持ちいい。
彼は次の朝食時まで同じ態勢を取りつづけることとなる。
「お熱いところを申し訳なかったわね」
部屋に着き、開口一番、シュガリーは昨日と同じように窓の外を見つめるアグリアスにそう告げた。
「構わない。シュガリーはまだ幼いから貴公は何も悪くはない」
「…口調、戻っているわよ」
シュガリーの言葉を聞き流し、アグリアスは窓の外の景色を眺めつづけた。その顔は美しくも儚く、
月光が彼女の顔を照らし続けていなければそのまま闇に溶けてしまいそうなものだ。
暫くの静寂が部屋を包み込んだ後、耐えきれなくなったのかシュガリーが喚きだした。
「あーはいはい。私が悪かったわよ。今日の昼ね?昼の事で怒っているんでしょう!
確かに私やマウリドはからかいすぎたかもしれないわ!あの子ったら可愛い顔して私以上に
突っ込んでくるから…でも事実でしょうに!貴方がラムザのことを異性の対象として見つめているなんて初対面でわかったことよ!」
恐らく昼から抱え込んでいた罪悪感に蝕まれた胸中の内を罵声とともに放出したシュガリーは、
免罪符を発行して安心したのか、ベッドに倒れこんだ。
「あら。私は怒ってなんかいないわ。それにお相子よ。あなたもマズラのことが好きなんでしょう?」
「なっ!!」
心底驚いたのか、反射的にシュガリーは羽毛枕から起き上がりアグリアスを見つめた。
アグリアスは先刻とは真逆の、好奇心、そして悪戯心に満ち溢れていた表情をしている。
「どうしてそんな…」
「あら。私も初対面でわかったわよ」
悪びれもなくアグリアスはさらりとそう告げた。シュガリーは咄嗟に言葉を詰まらせる。否定をしないことが
肯定の意味合いを醸し出していた。窓から身を離したアグリアスは三つ編みを自ら解きながらこう言った。
「積もる話があると言っていたわね。実は私もなの。今日は色々と話し合いましょう。
マズラの事について、ね」
「な、な、…」
口をパクパクと開き、シュガリーはベッドに近寄るアグリアスから逃げることもできずにその場にすくんだ。
普段は強気で斜に構えている彼女は今、生真面目で純粋な彼女に見事に料理されようとしていた。
アグリアスは思った。
彼女はやはり私に似ている。どんなに生意気でも、純粋な部分は見事に私と合致しているのだ。
その後、夜通しかけて行われた彼女たちの会合を見聞していたのは、空にぽっかりと
穴が空いたように浮かぶ満月だけだった。
彼はいつもそこに居続けた。
そこが彼の特等席なのだ。そこから村を見下ろせる。
村の全てを。
だから彼は席を構えその夜も、明くる夜も、その明くる夜も…
最終更新:2010年07月27日 01:14