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「今日は特に暑いわね」

 時刻は昼時を過ぎた頃、市場が開かれている広場は今日一番の賑わいを見せていた。
 そんな中で文字通り日蔭者となっているシュガリーとアグリアスは市場を退屈そうに見つめている。

 いつの間にか一つ増えた日傘にすっぽりと収まっているアグリアスが額の汗を拭った。
「今はもう春か?それとも夏?」
「そんなの私が知った事じゃないわよ。そもそもこの村にそんな概念は無いしね」
 手で生温かい風をおくりながらうんざりとした顔でシュガリーはそう告げた。蒸し風呂状態となっているアグリアスの身体からは
遠目越しに見ても湯気が沸いているのが確認できた。
「鎧ぬがないの?死ぬわよ」
「…」
 どこか遠い眼でアグリアスは、向こうの世界たる市場の中心を見つめている。返答がないアグリアスを見かねたのか、
シュガリーは手にした如雨露でアグリアス目がけて水を投げかけた。打ち水がわりだ。
「あぐぅ!騎士たるもの不埒な…」
「あー、はいはい」
 シュガリーは説法めいたアグリアスの言葉を受け流した。このやりとりももはや指では数え切れないほど行われたのだ。

 ラムザ達がこの村を訪れてから何日、いや何カ月が経過したのか。もはや本人たちも村人も知りようはない。
だが宿屋では相も変わらず毎晩のように宴が催されていた。最近の隊のメンバーは村の中で気の合う者同士で飲みあうようになり、
誰彼かまわず騒いでいた当初の宴の姿勢は、時を経るにつれて微細な変化を見せていた。ある朝、既に日課となりつつある朝食を
摂りに階下へ降りたら、居間でまだ語らいを続けていた者がいたほどだ。アグリアスは隊の者どもをひっ捕らえると、すぐに拳骨をお見舞いした。
隊長、痛いですよー、
と酒臭い飲兵衛が泣きついてきたが、アグリアスは素知らぬ顔をして二人を部屋に帰したのだった。

「ラムザとはあれからうまくいっているの?」
 シュガリーの言う、あれからとは、いつかシュガリーとマウリドがアグリアスに対し恋の指南を行った時のことである。
アグリアスは急いで首を横に振った。顔に付着していた水が飛沫となりシュガリーに容赦なく襲いかかった。

「それは駄目よ。そうね、今晩デートにでもお誘いなさいな」
「で、デート!」
 聞きなれぬ言葉を耳にしたせいか、勢いよくアグリアスが立ちあがった。
 アグリアスもシュガリーに対してマズラというアドバンテージを有しており、シュガリーの言葉に応酬することは十分に可能なのだが、
目の前の言葉に翻弄され上手くそのカードを切る事が出来ない。

「教会のてっぺんに登って夜景をプレゼントするの。入口の裏手に確か錆びた階段があったはずよ。私は怖くて上ってないけど」
 笑顔でシュガリーは告げた。
「だ、だが…」
「…今のままでいいのかしらね。ラムザの周りには魅力的な女性が多いわよねえ」
 アグリアスの脳裏に、小憎たらしい笑顔を浮かべる神殿騎士と、女から見ても可愛げのある天動士の微笑む姿が浮かんでは消えた。
「…その代わり、あなたが誘ったんなら、私も誘うわよ…」
 呟かれた言葉に、アグリアスは驚いてシュガリーを見た。
シュガリーは顔を熟れトマトのように赤くして俯いている。暑さのせいではないだろう。

 そんなシュガリーの姿を見て、アグリアスが思わず頷いてしまおうかと思案する前に、
いつもの通り気前の良い客が訪れた。
「こんにちは」
「あ、あら。いらっしゃいマウリド。さあさあ」
 照れ隠しからか、シュガリーは急いで横から椅子を引っ張り出して彼女に勧めた。
マウリドはそんな彼女の様子に気づいているのかいないのか、ニコニコと太陽にも負けない輝かしい笑顔をふりまいている。
そんなシュガリーの横で、アグリアスは静かに微笑んだ。

 その時、
ふと傘の切れ間から見えた“何か”に、彼女は思わず日傘の中から飛び出した。
「どうしたのよ。ムスタディオが裸踊りでも始めたの?」
 シュガリーは目を合わせることなく、目の前の庭園を慈雨で潤わせながら大した期待を込めずに尋ねた。

「雲が…」
「え?」
「雲が、出ている」
 アグリアスの眼前には、果てが見えない程の真っ青な大海原が広がっていた。その中心には、
煌びやかな光を放った巨大なクラーケンが居座り、灼熱を振りまいている。そんな状況下で、まるで命知らずともとれる、
小振りの白いボートがふらふらと、しかし確実に怪物に近づいていくではないか。
「雲ぐらいどうもしないわよ」
 期待して損をした、そう言外にこめながらシュガリーは頭を後ろの樽の山に乗せた。
アグリアスは未だに空を眺めつづけている。
「そういえば、最近は雲ひとつない快晴ばかりの天気でしたよね?」
 マウリドの言葉に、アグリアスは神妙に頷いた。アグリアスの記憶が正しければ、この村に来てからまだ一度も
快晴以外の天候になっていない。
 昼夜ともに雲一つ出ず、昼は太陽が、夜は満月が支配する世界。
そんな光景に慣れかかっていただけに、形は小さいながらも確かに存在する雲に、アグリアスは静かに体を震わせた。
 まるで酒の酔いが体全体に回るかのように、アグリアスの体を急速に“現実”という何かが駆け巡って行った。


「今日はこの村に伝わる文字を教えてしんぜよう!」
 宿屋から比較的近い、開けた農地の上にラムザ、マズラ、ムスタディオ、ラッドそしてマドーシャスは立っていた。
「どうでもいいが、どうして俺がいるんだ」
 ポリポリと頬をかきながらムスタディオはラムザに訊ねた。
「ムスタ、暇じゃないか」
「お前な…そうだけどさ。」
 その言葉にムスタディオはがっくりと肩を下ろした。二日酔いの抜けきらない体は本人の思っている以上によく弾んだ。
「まあまあいいじゃねえか。二人よりは三人、三人よりは四人さ」
 ムスタディオの隣にいたマドーシャスという青年が両手を叩きながら明朗快活にそう述べた。
このマドーシャスという男、機構に精通しているという点でムスタディオと気があった。容姿はまるでムスタディオの兄貴分と言った具合で、
精悍そうな顔つきのマドーシャスと、紙風船のような顔とよく評されているムスタディオとの間には決定的な差がある。
「話がわかるね、流石はマドーだ」
 笑顔でマズラはそう感想を述べた。親から無理やり着させられた白の木綿服を窮屈そうに身にまとっている。
「どうでもいいが日蔭とかないのか?この陽じゃ、土と心中しそうだ」
 額の汗をぬぐいながら、ラッドはそう告げた。
するとラッドの言葉に呼応したかのように、ラムザ達の視界が瞬間、薄暗くなった。

「おー、日陰になったねえ」
 頭上を通る分厚い雲の層は一過性に過ぎなかったが、横を見上げると次々と雲の艦隊が陽に押しよせている。
地上の気温もいくらか落ち着きを取り戻すに違いなかった。

 ラムザは暫くの間雲を見上げたままでいた。何故か、酷く懐かしい感を覚えたのだ。
「おほん。それでは、これよりマズラ講師による言語講座を始める。こら、そこ。ラムザ君。先生の顔は空にはないぞ」
 手に持った木の棒を振り上げながらマズラは熱弁をふるい始めた。

 ハミサイダル・ガッドで用いられている文字は、違いはあれど、畏国文字とは根本的な部分で合致していたため、
ラムザたちは比較的簡単に文字を描写し始めることができた。
「このように…そう。僕の名前はこうなる」
書き方は違えど、文字としての全体像は相似している。頭の中でミミズが這うような文字を思い浮かべながら、覚えたてのラムザは、
見よう見まねで自分の名前を地面に刻んだ。書き終えて周りを見ると、他の二人はマドーの指導の元、地面と激しい睨みあいをしていた。

「そろそろ上がろう。このままだと日射病でどうにかなってしまいそうだ」
 不意にマドーシャスがそう提案した。田んぼの地面に一心不乱に文字を書き連ねている光景は傍から見たらとても奇妙だ。
全員は久方ぶりにお互いの顔を見やり、初めて相手と自分が汗だくであることに気付いた。
「確かにそうだ。ああ、近くに大木があるんだ。そこで日陰ぼっこをしようや。ああ、宿からキンキンに冷えたミルクを持ってこよう」
 発起人であるマズラが夢見心地の表情でそう述べ、本日の講義は終了した。


 市場にはアグリアスとマウリドがぽつんと取り残されていた。
店主たるシュガリーは現在、教会への礼拝及び自由時間のため外出中だ。他の者に店を任せることなど普通ならば考えもつかないが、
“どうせ誰も来ないし”という言葉一つで三者は三様に納得した。
事実、アグリアスはシュガリーと出会ってからずっと重きをこの店に置いているが、マウリド以外の訪客を見かけた事が無かった。
店主がこのような有りさまなのだ。本人と顔見知りでなければ、よほどこの店に足を運ぶ事はないだろう。
 そして、今も珍客は訪れない。

「暇ですね」
 マウリドの言葉にアグリアスは苦笑しながらも頷いた。すぐに沈黙が店を包み込む。
 アグリアスはこのマウリドという少女があまり得意ではなかった。笑顔を絶やさずにいるが、その実、
何を考えているのかてんで知れないのである。

「アグリアスさんのいた所は、ここと同じ平穏な場所なんですか?」
 アグリアスは首を横にふった。
そして、畏国内には領地を統べる貴族の王が存在し、市民とは絶対的な差が存在している状況を説明した。
「へえ。そうなんですか。住みにくい世界なんですねえ」
 大よそ他人事のようにマウリドは大げさに驚嘆した。仕方がない、とアグリアスは思った。

 マウリドの笑顔はそこでほんの少し、狂気に歪んだ。
「アグリアスさんはそんな世界を変えようとは思わないんですか?」
 アグリアスはその質問の内容に少々面食らった。
「暴虐の限りを尽くす貴族の大部分は既に戦争によって死に絶えてしまったんだ。
そんな貴族を扇動し切り捨てた、戦争を蜂起させた奴等がどこかに存在する。私たちはそんな敵を追っている。
詳しくは言えないが、世界を恐怖と混沌に変革しようとする奴等だ」
 アグリアスはこれまでの旅路を振り返った。
ドラクロワ枢機卿に始まり、バリンテン大公、ゴルターナ公そしてラーグ公までもが自らの私利私欲のために聖石、争いを欲し、結果死を遂げた。
今、畏国は荒廃している。その機に乗じて教会が畏国全土を、いや全世界を支配しようと画策している。
 打ち砕かなければいけない。奴等の思い通りにしてはいけないのだ。

 しかし、私たちはこのようなところで一体…

「違いますよアグリアスさん」
 マウリドの言葉に、アグリアスは深い渦の只中にあった意識を戻した。
「あなた方がどれだけ苦労されたのかは多少なりともわかりました。けど、私が訊きたいのは別のことです」
 マウリドはそこで一旦言葉を切り、いつも通りの清楚な笑顔を振りまいた。

「貴族と平民は同じ人間ですよ。貴族の家畜では決してない平民が、どうして貴族から無残にも物品を搾取され、
ただひたすら奪い続ける事が許されるのでしょう。
そんな支配階級が浸透する世界を、あなたは野放にし続けるんですか?」

 アグリアスは冷汗三斗の思いをした。それもそのはず、少女はそのような事を笑顔のままで話しているのだ。
無邪気とは何か違う。
「努力はしているんだ。そのような者たちの気持ちは痛いほど…」
 アグリアスの言葉を遮り、マウリドは、ぴょん、と椅子から跳んだ。
「アグリアスさん。あなたは“神の奇跡”を信じますか?」
 アグリアスは戸惑いを隠せない。

「何を、何を言っているんだお前は」

「“神の奇跡”を信じるのは弱い人間だけ。誰かがそう言っていたわ」


 突如、鈍い音が広場にこだました。
 広場の中心を歩いていた老婆が突然うつ伏せで倒れたのだ。
手にしていたバスケットから、果物があちらこちらに四散していく。

「!!大丈夫ですか!!」
 椅子から立ち上がり、アグリアスはすぐに老婆の元へ駆け寄った。日射病ではなさそうだ。
腹部を抑えたままピクリとも動かない。
「おいマウリド!!宿に走って私の仲間に状況を説明してくれ!!隊の中に治癒士がいる!!」

 はて、マウリドはきょとんとした表情でアグリアスを上から見つめた。

「どうして?どうしてそのお婆さんを助けるんですか?」

 アグリアスは驚嘆よりも寧ろ激高した。
「ふざけるな!!御老体が苦しんでおられるんだ!!」
「人の命がかかっているんだぞ!!」
 畳みかけるアグリアスの言葉を、しかしマウリドは丁寧に首を横に振った。

「私たちは皆“神の子”です。もちろん、そのお婆さんもです。
つまり私たちは神と近い立場にいることになるのです」
 朗々とマウリドは語り始める。何事かと事態を静観していた周りの人々も、
マウリドの言葉にじっと耳を傾けている。

「神は苦しんでいる人を助けてくれますか?神は貧困にあえぐ家庭にパンを恵みますか?
神はお互いが抱く憎悪を等しく取り払ってくれますか?
神は、私たちは、干渉しないんです。そのお婆さんを助けることはできません。
そうして私たちの意義が、神の定義が保たれるのです」

 マウリドの演説が終わった途端、静まり返っていた市場はそれを合図にしたかのようにいつもの活気を取り戻した。
中心にいるアグリアスと老婆を抜いて。
 通行人は彼女等を避けて通る。見えていないわけではない。姿をその視界に捉えながらも、まるで道端に咲く名もない花を見る要領で、
大した感情を抱かずに通り過ぎていく。

「何を言っている!同じ人間だと言ったのはお前自身じゃないか!!」
 商人の甲高い売り声が響く中、アグリアスは声を張り上げてそう叫んだ。
市場は一向に静まることを知らない。

「勘違いしてはいけません。そのお婆さんと私たちは同じなのです。勿論、この村にいる時点であなたも同じですが。
第一、いつの日だったか、付き添っていた子供が階段から転落したことがありました。
その時、私たちと同じ立場にいたのはそのお婆さんです。今度は自分の番が来たときっと思っていますよ」

 信じられない面持ちでアグリアスは周りを見渡した。商人が、通りすがりの村人が、一度こちらを見て、
そして何事も無かったかのように日常へ戻っていく。
 アグリアスは唇を噛んだ。そして、無言で老婆を肩に背負った。

今一度、市場を見渡す。
穏やかな空気がそこには流れていた。

「“神の奇跡”など、おこるはずないんですよ!」

後ろからそう叫ぶ声に続いて笑い声が聞こえたが、
アグリアスはその声を頭の中で振り払うと、一心不乱に来た道を駆けだした。


 アグリアスが宿屋に着いたのは数刻の後だった。居間に辿り着き、起きぬけの治癒士に老婆を見せたとき、
既に老婆は猫のように丸まったままで、その瞳を決して開けはしなかった。

 遺体は宿屋の夫妻が荷台で教会まで運んでいった。
まるでジャガイモを荷台に積む要領で、荷台で運ばれていく死体を、
マズラはやりきれない表情で見つめていた。
そんな彼の表情にアグリアスは気付く余裕は既にかけらも残っていなかった。
彼女の中でのマズラ達は冷酷で狂気にまみれたものへと変貌を遂げていた。

「アグリアス姉ちゃん…」
マズラの言葉に、アグリアスは目を閉じて首を横に振る。そして無言で宿へ戻っていった。
マズラは蜃気楼があがる道に一人残された。
手にしていたミルクから、杯についた雫が途切れることなく地面にしみ込んでいく。
天気は下り坂へ向かう気配を見せていた。


「あら、アグリアスは?」
 シュガリーが市場に戻った時には既にアグリアスの姿はなく、
そこには朗らかな笑顔を浮かべたマウリドが待ちかまえていた。

「隊の皆と話があるんだって言って、戻って行ったよ」
「あらそう」
 暗い表情でシュガリーはアグリアスのすわっていた位置に、どかりと身を下ろした。
「蝋燭が、一本消えていたわ」
 ポツリとシュガリーは告げた。
「そうなの」
笑顔でマウリドはそう告げた。シュガリーは言葉を発することなく、目の前の庭園をじっと見つめている。

「まだ慣れないのね。人の死に」
 マウリドがシュガリーを牽制した。
それに対してシュガリーは反論する。
「だって、おかしいじゃない。人間なのに、同じ人間なのに。マズラもそう言っていた」
「何度も言っているでしょう。この村では、私たちは皆“神の子”なんだよ」
 マウリドはその言葉を繰り返し使った。

 沈黙が二人の周りを覆う。
 マウリドはにわかに立ちあがり、目の前に広がる庭園に足を踏み入れた。
その中、花壇の中ですくすくと育つ一片の花を、マウリドは静かに摘んだ。

「今日はこの花を。押し花にでもしようかな」
「それは…エンドウの花?」

シュガリーが尋ねる。
嬉しそうにマウリドが頷いた。

「うん。
花言葉は、そうね。

“永遠に続く楽しみ”」


最終更新:2010年07月27日 01:13