王妃オヴェリアの訃報。
 その報せを知ることなく、彼女はこの世を去った。
 アグリアス・オークスの突然の死…ディリータが王位に就いてから半年後、ラムザ一行がイヴァリースに
帰還してからおよそ七ヵ月後のことだった。
 死の原因は…わからない。

 アルマの救出後、機工都市ゴーグに身を潜めていた一行は、少しずつではあったが人並みの生活を
取り戻していた。数人はゴーグから旅立ち、また別の旅を始めた。今ゴーグにいるのは、ラムザ、アルマ、
ムスタディオ、ラッド、アリシア、ラヴィアン、そしてアグリアスという、古い付き合いの面々である。
 ドラクロワ枢機卿亡き後から教会の影響力から解放されつつあったゴーグの町は、ムスタディオという
友人の力もあって、異端者であるラムザにとって格好の潜伏場所であった。悪名高いバート商会を追っ払った
ことも、彼らが歓迎された一因である。そのためムスタディオにとっては普段通りの、アグリアスやラヴィアン、
アリシアといった元オーボンヌ修道院の3人にとっては昔に近しい生活を営むことができていた。

 この日もまた、朝食を取り終え、日課であった剣の素振りを始めよう、というときのことだった。
 いつも最初に庭に出ていたアグリアスが、胸をおさえて倒れていたのだ。すぐにムスタディオが医者を呼んだが、
奇怪なことに原因がわからない、という。
 外傷もなければ病気やなんらかの中毒といった症状もなく、魔法による治癒すら効果がないとあっては、その医者が
いかな名医であってもアグリアスを救うことは困難…いや、できなかったであろう。

 彼女を救うことができない。
 皆が絶望している中、アグリアスはラムザを呼び出した。
「ラムザ。悪いが、おまじないをかけてくれるか…?」
「ええ、すぐに」
 さまざまな治癒の魔法を試したが、アグリアスの容態は変わらない。おまじないとてそうは変わるまい。
そうは思っても他ならぬアグリアスの頼みである。ラムザは、藁にも縋る思いで、アグリアスにおまじないを
施した。
「…すごいな、本当に苦しさが和らいでいく」
 その言葉にラムザは素直に喜んだ。
 少しでも力になりたい、元気になって欲しいという願いが届いたのだ。それこそがおまじないだ。
「ありがとう。安心した…」
 そのアグリアスの表情には、安堵とともに、何故か達成感が見て取れた。しかしその数時間後、アグリアスは
眠るように、穏やかな顔で息を引き取ったのだった。

「ったく、やってらんないわよっ!」
 ラヴィアンがそう言って、がん、と乱暴にグラスをテーブルに叩きつける。
「ほらっ、ムスタ『ひ』オも飲みなさいよ! マスター! おかわぃ早く持ってきてっ!」
「ちょっとっ、その辺にしなさいよラヴィアン。いい加減にしないと体を壊すわよ」
「いーのっ、壊れたってっ。もーお、壊れてますもーーんキャハハハハ! あー、面白くなーい!!」
 自棄酒を呷るラヴィアンを、必死にアリシアがなだめている。
「だいったい、あんな地獄に行ってきて、それをなんとか生きて帰ってきて、それでいて、一体全体
何なのよこの仕打ちは! そんなに神様ってのはあらひらぃが嫌いあのかってーの!!」
「ばーか、あっちの世界にゃあ神様なんかいなかったろ。つまりそういうこった」
「あやぁ、ラッド君てば、じゅいぶん達観してやっひゃるのねええ、むっかつくうーー」
 壁に寄りかかったラッドが蔑むような目つきで、呂律の回らないラヴィアンと睨みあう。
「あーっもう、こういう時は酒でしょ! 飲めばいいのよ飲めばっ! ほらっ、のめーー!」
 誰も寄せ付けないようなオーラを放っていたムスタディオが、目の前に突きつけられたグラスを手にする。
「………」
 そしてそのまま中の液体を一息に飲み干した。おお、という表情でその様を覗き込むラヴィアン。
「不味い」
 ムスタディオがそう言って、だん、と力任せにグラスをテーブルに叩きつけた。
「まじゅいぃ? そんなぅあけある筈ないじゃない、酔いが足りないんだわ、きっとそうっ!」
「お前がそうやって酒に溺れたところで、アグリアスが喜ぶとは思えないがな」
 表情を変えず言い捨てて、ムスタディオが席を立つ。
「なによぉ、喜ぶとか喜ばないとか…もう、死んじゃったんあもん、喜んれくれぅも何もないじゃない!!」
 酒場を後にしたムスタディオの椅子を睨みながら、ラヴィアンが堰を切れたように泣き喚きはじめた。
「喜ぶどころか、叱ってもくえないんだよ! ふじゃけんなっちゅーの! あたしが、あたしが欲しかったのあ、
 昔みたいな、みんなと一緒の毎日がっ、なんで、なんで…うぐ、うああああん」
「ちょっとやめてよラヴィアン! ぐすっ、そ、その辺にしなさいよ!」
「…仕方ねえ。付き合ってやるよ」
 ぼろぼろと泣き出す二人を見かねてか、ラッドが渋々ムスタディオの席に座る。
「泣き上戸じゃねえんで薄情と思うかもしれねえがな。話を聞くだけでいいなら、俺だってできら」
 そう言ってラッドが飲む。そして女たちが飲んでは泣き、泣いては飲む。
――そういや、ガフガリオンの時は、こんなんじゃなかったな…。
 ラッドは少しだけ、昔の上司を哀れんでいた。

 星が良く見える丘の上、ラムザの隣にムスタディオが座る。
 空を見つめ、流れる星に願いを込めていたのだろうか、ラムザは何も言わない。時折瞼を閉じたまま、
小さくため息をついてはまた夜空を仰ぐ。
「俺はオーボンヌには行かねえ」
 そのムスタディオの言葉にラムザは驚いて彼の顔を見た。アグリアスの遺言により、ラムザは彼女とともに
明日船に乗る。当然ムスタディオも一緒に来るとラムザは思っていた。
「俺は、もう、お別れを済ませちまったからな」
 アグリアスが息を引き取った日、ムスタディオは彼女に愛の告白をしていた。
 気になり始めたのはいつからだ、いついつに告白するつもりだった、こんな形で花を捧げたくなかったと、
号泣し、叫んでいた。ラムザもまたそれを目にして少なくない嫉妬を覚え、それが自分もまたアグリアスに
恋心に近しいものを抱いていたことを自覚させた。ラムザは、この時点でムスタディオに後れを取って
いたのである。
 だからこそ、そのムスタディオの言葉に驚いた。
「それに…ほら、仕事もあるし、忙しいからさ。落ち着いたら、そのとき花でも持っていくさ」
 寂しそうに笑うムスタディオに、ラムザは「うん」としか返す返事がなかった。

「俺も辛気臭いのはごめんだ。ラムザ、お前が見届けろ。…ったく、世話が焼けるぜあいつらは」
 ラッドもまた行く気がないらしい。酔い潰れた二人が心配なのか、それとも本当に彼の言うとおりなのかは
わからない。
 そしてアルマもまた残ることにした。
「ごめんねラムザ兄さん、ちょっと疲れちゃって」
 目元を泣き腫らしたアルマに、ラムザは黙って頷いた。アグリアスの死んだ翌日、オヴェリアの訃が
知らされたのだ。アグリアスだけではなく、オヴェリアについても理解していたアルマにはつらすぎる。
 結局、オーボンヌへ向かうのはラムザ一人となった。

 航海は順調だった。喪に服した姿ならば顔を隠していても不思議がられないし、人も寄ってこない。港に
ついてからはチョコボが引く鳥車を借り、オーボンヌで簡単な葬儀を済ませる。小さいながら立派な墓碑も
作ってもらえた。彼女が好きだった花も供えた。
 こうして、ついにラムザがすることは何もなくなった。
 曇り空。
 修道院跡地のそばにあるそれなりの広さの墓所、そのひとつにアグリアス・オークスの名が刻まれた
墓碑の前で、ラムザは立ち尽くしていた。ただぼんやりと、アグリアスの早すぎた死を受け入れられずにいた。

「もし」
 不意に背後から声がかかる。上品な口調ではあるが、何故か古臭い男物の外套を羽織った、やつれた感じの女。
「こちらに、アグリアス…アグリアス様はいらっしゃいますか?」
「いえ…。彼女は…亡くなりました」
 ラムザはその声に振り向こうともせず、努めて感情を抑えて言う。
「では、アグリアスは今…」
 感情を抑えたつもりだったが、自分が今言った事実に涙が出そうになる。ラムザは眼を閉じて、ほんの少しだけ
声のほうに振り向いて、
「こちらです」
 と、言った。女はああ、と息をのみ、ラムザの…否、アグリアスの墓へと歩み寄る。

「ああ…アグリアス、あなたは…私のために」

 ラムザがその声とその言葉にぎょっとする。そこにいたのは、かつてのアグリアスの主、オヴェリア・
アトカーシャその人だったのだ。
「オ、オヴェリア…様っ!?」
 肩口で無造作に切られた髪の毛に、男物の外套…それはとても王妃と呼ばれる姿ではない。それにオヴェリアは
死んだはず。ディリータとともに賊に襲われ死亡したとイヴァリース全土に伝えられ、大々的に葬儀も執り行われた。
 しかし、ここにいる彼女は確かにオヴェリアだ。
 …ディリータが嘘をついた? いや、だとしたら何故!?
「あなたこそ亡くなられたと聞きましたが…一体どうやってここに!? その髪は!? 何故死んだと…」
 混乱するラムザがオヴェリアへ矢継ぎ早に問いを放つ。
「そんなに一度に訊かれても、お答えできません」
 狼狽するラムザに、オヴェリアは落ち着いた口調で答える。
「ラムザ・ベオルブ様ですね。アルマ様のお兄様」
「は、はい…!」
 ラムザは慌てて跪くが、オヴェリアが微笑みながらそれを制した。
「ああ、どうぞ畏まらないで。ここにいるのはただの女、自分の名もしらない女なのですから」
 オヴェリアはそう告げてラムザの顔を覗き込む。
「衣服や髪は路銀にしました。だって、あんなに目立っていては、ここへ来るのに邪魔だと思って」
 顔を上げたラムザの前で、オヴェリアがおもむろにラムザに跪く。
「私は、王妃オヴェリアの身代わりとなる筈だった者です。王の命にて、政略の争いに巻き込まれぬよう、
 オヴェリア様の影武者として用意された者です。しかし、王妃は私が用意される前に崩御されました。
 もはや私が王都にいる理由もございません、僅かながら宝石を戴いています、これでオーボンヌまで
 お連れくださいませんでしょうか」
 突然のオヴェリアの熱演に、ラムザはただただ目を見開くばかり。
「こうやって、私はここまで来たのです。それにしても…オヴェリアの偽物、なんて、誰が考えたのでしょうね」
 唖然とするラムザの前でオヴェリアがくすくすと笑っている。笑ってはいるが、その笑いに感情らしい
感情はない。まるで他人事、といった風に、オヴェリアは笑っている。
「それではオヴェリア様が…あなたが亡くなったというのは嘘だったのですか?」
 ラムザが悲痛な面持ちで、オヴェリアに問いかける。
「いいえ、私は死にました。ナイフであの男を刺し、私もまたあの男にこのナイフで貫かれて死んだのです」
「ま、待ってください。あの男を刺した…って」
「ディリータを刺したのは私です」
 まるで鈍器で殴られたような衝撃。ラムザは襲ってくる眩暈をこらえ、オヴェリアに更に問うた。
「何故、何故そんなことを…」
「あの男が許せなかったのです」
 何の感情の抑揚もなく、オヴェリアは言う。
「ラムザ、あなたは今でもディリータを信じていますか?」
「はい」
「…それは、どうして!?」
 躊躇わず答えるラムザに、オヴェリアは初めて感情をあらわにした。
「ディリータは、あなたを利用したのよ? あなたや私だけじゃなく、もっとたくさんの、全ての人間を
 利用して王の座についたのよ? それでも、あなたはあの男を信じるの?」
「僕は…ディリータを信じています。彼なりの信念が、考えがあってのことでしょう」
 重い沈黙。
「そう…大切な友達なのね」
 オヴェリアは悲しげな微笑みを浮かべてから首を振る。
「でも、私には…もう、無理。彼を信じられない…」
「だから刺した…と?」
 オヴェリアは静かに頷いて、短剣を取り出して見せた。
「これは、アグリアスが私に握らせたの。お守り代わりに、って。つらいとき、さびしいとき、私はこれを見て、
 アグリアスのことを思い出したの。アグリアスが一緒にいると思うと、それで大分気が紛れたわ。そして、
 あの時も、これを見て、勇気を出した…」
 否。勇気ではない。そこにあったのは覚悟だった。命を投げ出す覚悟。誰かのために…或いは、誇りのために。
 オヴェリアは天を仰いだ。
「不思議なのはその後。死んだ私は夢を見たの…アグリアスの夢」
 そして手にした短剣を、自分の前にかざしてみせる。
「アグリアスが夢に出てきて、私を護ると、剣に誓ってみせたの」
 オヴェリアが目を閉じる。
「私が目を覚ましたのは棺の中だったわ。真っ暗で、最初はわけがわからなくって、とてもびっくりした。
 どうにかして出られないか、って思っていたらこの剣が光って、次の瞬間どこなのかよくわからない草原に
 倒れてたわ。その後、歩いたり、通りがかった鳥車に拾ってもらって、ここまで来たの。きっと、この短剣に
 おまじないがかかっていたんだわ。私に何かがあったとき、アグリアスが助けてくれる…私を守ってくれる、
 力になってくれる…そんなおまじない」
「おまじない…?」

――ラムザ。悪いが、おまじないをかけてくれるか…?

――ありがとう。安心した…。

「まさか…そんな馬鹿な」
 ラムザがアグリアスが今わの際に遺した言葉を思い出して愕然とする。彼女の言葉がオヴェリアの
言うとおりだとしたら、オヴェリアを守るというアグリアスの目的が果たされたことを、彼女は満足
していた、ということになる。
 引き替えは…自らの命。
「アグリアス…あなたはずっと、私のことを心配してくれていたのね…」
 オヴェリアの生還は果たされた。では、ラムザは何をすべきか?
「僕たちと一緒に行きましょう。アグリアスさんが守ってくださったんです、これからは僕たちが…」
「駄目よ」
 その答えを必死に探るラムザの言葉を遮って、オヴェリアは寂しそうに微笑んだ。
「あなたは今でもディリータを信じてる。それが私には苦痛でしかないの」
 その一言にラムザは言葉を失う。
「私はここにいるわ…アグリアスと一緒にいたいの」
 そう言って、オヴェリアはアグリアスの墓碑の前に跪き、祈りを捧げた…ように見えた。
「…ぐ」
 小さな呻き声に続いて、どたり、とラムザの目の前でオヴェリアが倒れる。
「オ、オヴェリア様ッ!?」
 倒れたオヴェリアにラムザが駆け寄る。
 オヴェリアは、自らの喉をあの短剣で突いていた。
 …助からない、とラムザは即座に判断した。
 助けたとしても、彼女は生きようとしただろうか?
 オヴェリアは、アグリアスとともに眠ることを、自分の意思で選択したのだ。今まで誰かに利用され続けた、
人間が、ようやく自分の手で掴んだ初めての自由を行使した行為だ。
 …彼女を真に尊重するのならば、この行為を僕は侵すべきではない。
 ラムザは差し伸べようとした手を抑え、オヴェリアを見守る。
 彼女の口が、アグリアス、と動いて、微笑んだままこときれた。

 その一部始終を見送ったラムザが、くそっ、と、小さく、しかし抱えきれぬ悲憤の念を口にする。
 アグリアスが望んだオヴェリアの守護は果たされた。そして得たオヴェリアの生は、アグリアスのために、
死という形で果たされた。お互いがお互いを望んだ結果のすれ違いに、ラムザは彼女たちの運命を呪った。
 雲の切れ間から陽光が差し込み、オヴェリアの頬をなで、そしてアグリアスの墓碑をなでる。
それはあたかも神が天から手を差し伸べ、祝福し天国に招き入れるかのように。
 しかしその神々しい光景を、ラムザは憎悪と、そして嫉妬とともに凝視していた。

 神様は本当にいるのだろうか?
 いるとしたらそれはなんと意地悪で我侭な神だろう。アグリアスとオヴェリアを、人間の手の届かぬ場所へ、
自分の庭へと連れ去って行ったのだから。

 ラムザが天を仰ぐと、陽光は逃げるように雲間に隠れて見えなくなった。
 ラムザが天を睨むと、大空はゴロゴロと雷を響かせて矮小な人間を威嚇する。

 神に祈りを捧げ続けた二人は、この世界にはいない。おそらくは、一緒に神のもとにいるのかもしれない。
 ラムザは神を呪った。
 そして同時に、ラムザは、二人が幸せであるように、祈らずにはいられなかった。
 楽園が、神の世界であることを忌々しく思いながら。


END
最終更新:2010年03月28日 16:44