網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「神西清「ロマネスクへの脱出 太宰治の場合」」で検索した結果

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  • 亀井勝一郎「佐渡が島」
     佐渡が島は新潟を去る三十二浬の海上にある。四年前の初夏の頃であった。新潟に旅行して、 偶々寄居の浜を散歩したとき、日本海の紺碧の波の涯に横たわるこの島を私ははじめて見た。 「あれが佐渡だ。」そう言って連れの友人が指さす。彼方に、菅笠を二つ伏せたようなすがたの 島が低く横たわっている。私はそのとき、異邦人に接するような、一種の惧れを伴った好奇心を 抱いていた・絶海の孤島、瀞痘の島、死ぬほど淋しいところ、そういう観念を以て眺めていたよ うである。現実の佐渡よりも、芭蕉の「銀河序」を通してみた幻の佐渡の影響を私はつよく受け ていたらしい。                                おも 北陸道に行脚して越後国出雲崎といふ処に泊る。かの佐渡が島は海の面十八里滄波を隔てて、                      くまぐま 東西三十五里に横折り臥したり。峰の嶮難、谷の隈々まで...
  • 服部之総「新撰組」
    新撰組 一 清河八郎 夫れ非常之変に処する者は、必ずや非常之士を用ふ──  清河八郎得意の漢文で、文久二年の冬、こうした建白書を幕府政治総裁松平春嶽に奉ったところから、新撰組の歴史は淵源するのだが、この建白にいう「非常之変」には、もちろん外交上の意味ばかりでなく、内政上の意味も含まれていた。さて幕末「非常時」の主役者は、映画で相場が決まっているように「浪士」と呼ばれたが、その社会的素姓は何であろうか。  文久二年春の寺田屋騒動、夏の幕政改革を経て秋の再勅使東下、その結果将軍家は攘夷期限奉答のため上洛することとなり、その京都ではすでに「浪士」派の「学習院党」が隠然政界を牛耳っている。時をえた浪士の「非常手段」は、このとし師走以来の暦をくってみるだけでも、品川御殿山イギリス公使館焼打ち、廃帝故事を調査したといわれた塙次郎の暗殺、京都ではもひとつあくどくなって、 「天誅」の犠牲の首や耳や手やを書...
  • 三好達治「堀辰雄君のこと」
     一身|憔悴《せうすい》花ニ対シテ眠ル、  いつどこで記《おぽ》えた句か前後は忘れてしまったのが近頃時たま唇にのぼってくるのを愛誦している、まったくそれは今の僕の境涯だからね、  堀は臥床の中から天井を見あげたままそういって淋しく笑った。一昨年秋のこと、それが最後の訪問となった折の話柄であった。その庭さきにはカンナやなんぞ西洋花らしいのが二三美しく咲いていた。大歴の才子司空曙の七絶「病中妓ヲ遣ル」というのの前半「万事傷心目前二在リ、一身憔悴花ニ対シテ眠ル」はまったくそのまま当時の堀にあてはめて恰好《かつこう》であった。詩の後半「黄金散ジ尽シテ歌舞ヲ教ヘシガ、他人ニ留与シテ少年ヲ楽シマシメン」というのは、年少のお妾《めかけ》さんを憐れんで適当な若者に遣わそうというのだよ、と私がうろ記えのつけ足しをすると、それも不思議に堀の気に入ったようであった。牀中《しようちゆう》の堀は言葉少なに応答も大儀...
  • 中谷宇吉郎「霜柱と凍上の話」
      私は二、三年前に「霜柱と白粉の話」というのを書いたことがある。  一寸妙な題目であるが、その話というのは、私の同窓の友人の物理学者が、大学卒業後、寺田寅彦先生の下で霜柱の実験をしていたが、その時の研究の体験が、後になって、その友人が白粉の製造をするようになった時に大変役に立ったという話なのである。  私は勿論大真面目にかいたつもりなのであるが、何ぶん取り合わせが少々突飛なもので、中には信用しない人もかなりあったようである。それで今度は霜柱と凍上の話というのを書いてみることにする。  ところで凍上という現象であるが、この問題で一番手をやいているのは、寒地の鉄道局の人たちである。  冬になって気温が零下十度以下くらいになる土地では、大抵は地面はかなりの深さまで凍ってしまう。もっとも零下十度程度ならば、大したこともないが、北海道でも零下三十度くらいまで気温が低下するところは珍しくないし...
  • 江戸川乱歩「そろばんが恋を語る話」
     ○○造船株式会社会計係のTは、きょうはどうしたものか、いつになく早くから事務所へやって来ました。そして、会計部の事務室へはいると、がいとうと帽子をかたえの壁にかけながら、いかにも落ちつかぬ様子で、キョロキョロと室の中を見まわすのでした。  出勤時間の九時にだいぶ間がありますので、そこにはまだだれも来ていません。たくさんならんだ安物のデスクに白くほこりのつもったのが、まぶしい朝の日光に照らし出されているばかりです。  Tはだれもいないのを確かめると、自分の席へは着かないで、隣の、かれの助手を勤めている若い女事務員のS子のデスクの前に、そっと腰をかけました。そして、何かこう、盗みでもするような格好で、そこの本立ての中にたくさんの帳簿といっしょに立ててあった一丁のそろばんを取り出すと、デスクの端において、いかにもなれた手つきで、その玉をパチパチはじきました。 「十二億四千五百三十二万二千...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」1
    父のこと、母のこと  私はすでに明治、大正、昭和の三時代にわたる野球に親しく接してきた。これからもまた幾年かの野球をスタンドからながめることであろう。ここで私の野球生活を合算するなら実に三十余年間となる。  選手時代から記者、コーチ時代から再び記者へと移り変ってはいるけれども、つねに辛抱強く野球につきまとって飽くことを知らなかった。  しかも私が野球に走ったころは、むろん今日のごときものではなかった。野球に直接関係あるもののほか、全部といっていいくらい、すべてのものが野球の反対者であり、排斥者であった。学校も家庭もこぞって忌みきらった。当時の選手というものは、教育者からまるで不良少年のごとき扱いをうけていた。こうした迫害の中に成長した私どもの野球に、いくた困難のまつわっていたのは想嫁するにかたくはないであろう。  ことに野球ぎらいな父を持った私などの野球に対する境遇というもの...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」2
    懐しの球友 野球との心中  野球と心中、それが前世からの約束ごとでもあろう。生きてきた七十余年、ふりかえりみるなら、野球のほかになにものも残らない。女房子供のあるのがふしぎにも思える。少年時代人なみに描いていた希望も野心も、一度野球に対面したが最後、すべて雲散霧消、きれいさっばり、空想にも英雄豪傑と別れを告げてしまった。大臣大将の夢とボールの現実とを、いさぎよく引きかえにした、穂洲庵忠順愛球居士の末路が、さていかに落ち着くかは、熱球三十年にして終るか、四十年、五十年に生きのびるか、その心中たるや悲愴をきわめるか、はなやかではなくとも、得心のいくものとなるか、むろん穂洲庵自身にもわからないし、世間のだれにもそれを占うことができまい。ただ、この鍵を握っているものは、つれそうてきたボールのみであろう。  磯節に明ける大洗小学校の巣立ちから、老松に暮れる水戸佐竹城趾のグラウンド、目白の若葉を...
  • 吉川英治・服部之総対談「「吉川文学」問答」
    服部 ヤア、忙しいんでしょう。 吉川 忙しいんだが、君の名前を聞いたら、急に会いたくなってね。 服部 さっき会うなり思ったのだが、あんたは若い。七、八年ぶりというのに……。 吉川 ハハハ……。そうかしらん。この方が黒いので(と頭髪を両手でかき乱しながら)よくそういわれるのだよ。 服部 それにむかしとちがって顔に疲れが見えないな。ぼくはどう? 吉川 だからさ、君を見た瞬間丈夫になったなと思った。前よりふとった位いじゃないか。 服部 ぼくがあなたに初めてお目にかかったときが三十一、二の頃だったと思う。「檜山兄弟」を書いていたときでしょう。 吉川 あんたは丑で、ぼくは辰。 服部  (同席の記者たちを顧みながら)そのころ吉川さんはすでにうつ然たる大家でね、ぼくは一介の歴史家さ。岩波の「資本主義発達史講座」を書き、肺病にかかっていて、家内の故郷に癒しかたがた行こうという直前だった。吉川さんが訪ねてみ...
  • 江戸川乱歩「心理試験」
    1  蕗屋《ふきや》清一郎が、なぜ、これから記すような恐ろしい悪事を思い立ったか、その動機についてはくわしいことはわからぬ。また、たといわかったとしても、このお話には、たいして関係がないのだ。彼がなかば苦学みたいなことをして、ある大学に通っていたところをみると、学資の必要に迫られたのかとも考えられる。彼はまれに見る秀才で、しかも非常な勉強家だったから、学資を得るために、つまらぬ内職に時を取られて、好ぎな読書や思索がじゅうぶんでぎないのを残念に思っていたのは確かだ。だが、そのくらいの理由で、人間はあんな大罪を犯すものだろうか。おそらく、彼は先天的の悪人だったのかもしれない。そして、学資ばかりでなく、ほかのさまざまな欲望をおさえかねたのかもしれない。それはともかく、彼がそれを思いついてから、もう半年になる。その聞、彼は迷いに迷い、考えに考えたあげく、結局やっつけることに決心したのだ。 ...
  • 大下宇陀児「偽悪病患者」
      (妹より兄へ)  ××日付、佐治さんを接近させてはいけないというお手紙、本日拝見いたしました。  いつもどおり、いろんなことに気を配ってくださるお兄様だけれど、喬子、こんどのお手紙だ けはよくわかんない。佐治さんは、喬子が接近したのでもないし、接近させたんでもないの。お 兄様だって御承知のとおり、お兄様や漆戸と同期生だったんですって。アメリカから帰られると、 すぐ漆戸を訪ねていらっしゃって、漆戸は、病気で退屈で、話し相手が欲しいもんだから、佐治 さんが来てくださるのを、ずいぶん楽しみにしているんですわ。  そういえば思い出すけれど、漆戸が一度いいました。「佐治という男は、学校時代からちょっ と変わったところがあって、他人からずいぶん誤解されたものだが、芯は、気の弱い正直な男 さ」って。喬子、まだ佐治さんがどんなふうに変わっている人か知らないけれど、お兄様が何か きっと誤解しているんじゃ...
  • 江戸川乱歩「赤いへや」
     異常な興奮を求めて集まった、七人のしかつめらしい男が(わたしもその中のひとりだった)わざわざそのためにしつらえた「赤いへや」の、緋色《ひいろ》のビロードで張った深いひじ掛けイスにもたれ込んで、今晩の話し手が、なにごとか怪異な物語を話しだすのを、今か今かと待ちかまえていた。  七人のまん中には、これも緋色のビロードでおおわれた一つの大きなまるテーブルの上に、古風な彫刻のある燭台《しよくだい》にさされた、三丁の太いローソクがユラユラとかすかにゆれながら燃えていた。  へやの四周には、窓や入り口のドアさえ残さないで、天井から床まで、真紅な重々しいたれ絹が豊かなひだを作ってかけられていた。ロマ払チックなローソクの光が、その静脈から流れ出したばかりの血のようにもドス黒い色をした、たれ絹の表に、われわれ七人の異様に大きな影法師を投げていた。そして、その影法師は、ローソクの炎につれて、いくつかの巨...
  • 尾崎士郎「中村遊廓」
    「古き城下町にて」──、と私はノートのはしに走り書きをした。幻想のいとぐちが、そんなところからひらけて来そうな気がしたからである。彦根の宿で、その部屋は数年前、天皇陛下が行幸のとき、御寝所になったということを宿の女中が、もったいをつけた調子でいった。その言葉が耳にこびりついていた。  何気なくいった女中の言葉が、あるいは、明治の末にうまれて、天皇という言葉の威厳にうたれる習慣のついている私の耳にそうひびいたのかも知れぬ。ほかの連中はまだ眠っているらしい。昨夜は、いよいよ旅の終りだというので気をゆるして度はずれに飲んだせいか、おそろしく長い廊下を雪洞を持った女中に案内されて、この部屋へ入ったことだけをおぼえている。あとの記憶は、もうごちゃごちゃに入りみだれていた。  伊吹の周辺をめぐる、というB雑誌社の計画で、関ヶ原を中心に中山道を自動車でうろつき廻っているうちに、同じ場所を何度も行きつ戻り...
  • 小倉金之助「素人文学談義」
    一 「素人のみた文学の話」というテーマで、自分の長い間の経験をもとにして、何かお話し申しあげましょう。  この間、わたしは病気で休んでおりましたが、その時分に『マノン・レスコオ』という小説を読んで、非常な感銘を受けました。この小説はアベ・プレヴォーという坊さんが、今から二百二十年も前、およそ一七三〇年ごろに著したものです。  みなさんもよくご承知とは思いますが、ざっとその筋をお話し申しますと、フランスのある良家に生れたシュヴァリエ・デ・グリュウという青年がおりました。十七歳のとき哲学の勉強を終って宗教家になろうというので、学問に志していたのですが、ある日、マノンという美しい娘さんに出会って急に情熱が燃え上りました。それからシュヴァリエはひたすら恋人の愛を捉えるために、いろいろ詐欺をやったり、賭博をやったり、殺人をも犯したりして、自分では何度か悔いたり悲しんだりしながら、どこまでもマノソを離...
  • 神西清「散文の運命」
     一つの幕間《まくあい》が予感される。つよい予感である。それは殆ど現実感を帯びている。ひょっとすると現実以上の必然であるのかも知れない。  ここ半年ほどの文芸雑誌を散読して(今わたしは、あと数日で終戦一周年を迎えようという日に、これを書いているのだが)、その印象を、荒野に呼ばわる人の声がある  などという文句で言いあらわしたら、もとより大袈裟《おおげさ》のきらいがあるだろう。とはいえ、確かにそんな声は響いている。その声はおもに外国文学の畠からひびいてくる。その声はかなり気ぜわしく、わが小説の伝統に訣別《けつべつ》せよと叫んでいる。わびやさびの境地を振り棄てて、トルストイやスタンダールの門に帰向せよと叫んでいる。  その声は誠実と熱意とにみちて、そのため些《いささ》か急《せ》きこみ気味ではあるが、為にする政治意識の汚染などは少しもみとめられない。まさしく新たな文学十字軍が、発航の準備にかかろ...
  • 江戸川乱歩「一枚の切符」
    上  「いや、ぼくは多少は知っているさ。あれはまず、近来の珍事だったからな。世間はあのうわさで持ち切っているが、たぶん、きみほどくわしくはないんだ。話してくれないか」  ひとりの青年紳士が、こういって、赤い血のしたたる肉の切れをロへ持って行った。 「じゃ、ひとつ話すかな。オイ、ボーイさん、ビールのお代わりだ」  みなりの端正なのにそぐわず、髪の毛をばかにモジャモジャと伸ばした相手の青年は、次のように語りだした。  「時はー大正i年十月十日午前四時、所はi町の町はずれ、富田博士邸裏の鉄道線路、これが舞台面だ。晩秋のまだ薄暗い曉の静寂を破って、上り第○号列車が驀進《ぼくしん》して来たと思いたまえ。すると、どうしたわけか、突然けたたましい警笛が鳴ったかと思うと、非常制動機の力で、列車はだしぬけに止められたが、少しの違いで車が止まる前に、ひとりの婦人がひき殺されてしまったんだ。ぼくはその...
  • 大下宇陀児「石の下の記録」(4)終
    絶壁       一                へきぎよくろう  M県S海洋という町の温泉旅館碧玉楼へ、ある日の夕 方、二つの大型トランクを携帯した、男女二人つれの奇妙 な客がぎて泊った。  男は五十歳ぐらい、女はずっと若くて三十歳ぐらい ー。  彼等は、駅からまっすぐに自動車でやってきた。  しかし、その自動車からおりたばかりの時は、まことに みすぼらしい服装をしていて、男の方は、ところどころつ ぎ目のあたっている白麻のズボンに汚れきった開襟シャ ツ、古びたカンカン帽に軍隊靴といういでたちだったし、 女がまた、顔立ちだけは整っていながら、着ているワンピ ースの服が、仕立も柄合もひどくじみで不恰好で、その上 むきだしの足に、ズックの運動靴をはいているという有様 だったから、はじめ宿ではこの二人をすっかりと軽蔑し、 ほかに空いた部屋もあったのに、彼等を宿としては最下等 の一室に通したほど...
  • 三好達治「萩原朔太郎詩集あとがき」
     萩原さんが生前上刊された詩集を刊行の年次に従って列記してみると次の如くである。  「月に吠える」(大正六年二月十五日 感情詩社 白日社出版部共同刊)  「青猫」(大正十二年一月二十六日 新潮社刊)  「蝶を夢む」(大正十二年七月十四日 新潮社刊)  「純情小曲集」(大正十四年八月十二日 新潮社刊)  「萩原朔太郎詩集」(昭和三年三月二十五日 第一書房刊)  「氷島」(昭和九年六月一日 第一書房刊)  「定本青猫」(昭和十一年三月二十日 版画荘刊)  「宿命」(昭和十四年九月十五日 創元社刊) 別に「月に吠える」の再版(大正十一年アルス刊)、「現代詩人全集」第九巻(昭和四年新潮社刊)、その他の重版本合著選抄等数種があるが本文庫本の編輯に当ってはそれらは全く関聯するところがないから略する。本書の編纂に底本として用いたのは右に挙げた初版本八冊であった。さてその八冊の刊行年次は先の順序であるが、...
  • 亀井勝一郎「美貌の皇后」
                                             ふぴ  法華寺は大和の国分尼寺である。天平十三年光明皇后の発願されしところで、寺地は藤原不比 と 等の旧宅、平城京の佐保大路にあたる。天平の盛時には、墾田一千町の施入を受くるほどの大伽 藍であった。その後次第に崩壊し、現在の本堂は、慶長年間豊臣氏の命で旧金堂の残木を以て復 興されたものと伝えられる。円柱の腐蝕甚しく、荒廃の感は深い。平城宮の廃墟に近く、今はわ ずか七人の尼僧によって法燈が擁られるのみ。本尊は光明皇后の御姿を写したと云われる十一面 観音である。この二月久しぶりで拝観した。  私は「大和古寺風物誌」の中でもかいたが、この観音像についての有名な伝説をもう一度紹介 しておきたい。北天竺の轍階羅国に見生王という王様がいたが、どうかして生身の観音を拝みた く思い、或るとき発願入定して念じた。するとやがて、...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」3
    順ちゃんのタンカ 一番愉快な思い出  こうした当時の人々を思い出すたび、ことに私の胸になつかしくよみがえってくるものは、大正十年のアメリカ遠征である。私はいったい旅行がきらいだ。汽車というものを好かない。汽船には存外好感を持てるけれども、汽車は窮屈で、なんともからだを持てあます。だから、単独で遠い旅行をすることはほとんどないし、その意味から、遠征などに好印象を残しているのが少ない。  しかしこのアメリカ遠征だけは、私の一生の中でもっとも愉快な思い出である。ああした旅行をもう一度してみたいような気がする。このときのティームは、まえにもいったように大正十三、四年ごろのティームに比較すれば、ふぞろいであった。谷口はこの遠征に苦労したため、小野三千麿と併称されるまでになったのであって、この遠征の中途までは、さほどでなかったし、全体としての守備、打力とも決して充実したものとはいわれなかった。こ...
  • 江戸川乱歩「人間椅子」
     佳子《よしこ》は、毎朝、夫の登庁を見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館のほうの、夫と共用の書斎へ、とじこもるのが例になっていた。そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせるための、長い創作にとりかかっているのだった。  美しい閨秀作家《けいしゆうさつか》としての彼女は、このごろでは、外務省書記官である夫君《ふくん》の影を薄く思わせるほども、有名になっていた。彼女のところへは、毎日のように未知の崇拝者たちからの手紙が、幾通となくやって来た。  けさとても、彼女は書斎の机の前にすわると、仕事にとりかかる前に、まず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。  それはいずれも、きまりきったように、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女のやさしい心づかいから、どのような手紙であろうとも、自分にあてられたものは、ともか...
  • 楠田匡介「脱獄を了えて」
    第四十八号監房 「よし! これで脱獄の理由がついたぞ1」  六年刑の川野正三は、こう心の中で呟いていた。正三の 前には、一本の手紙があった。  内縁の妻から来たもので、それには下手な字で、こまご まと、正三と別れなければならない理由が書かれていた。  今度の入獄以来、正三には、こうなる事は判っていたの である。  終戦後、これで三回目の刑務所入りである。罪名は詐 欺、文書偽造。  三回目の今度と云う今度は、妻の領子もさすがに、愛想 をつかしていた。 「畜生!」  正三は声を出して云った。 「どうしたい?」  同じ監房の諸田が、雑誌から顔をあげて訊いた。 「うんー」 「細君《ばした》からの手紙だろう?」 林が訊いた。 「うん」 「そうか……」  諸田が判ったように頷いた。  その川野の前にある手紙の女名前から、別れ話である事 に、察しがついたからである。十二年囚の諸田にも、その 経験があっ...
  • 江戸川乱歩「日記帳」
     ちょうど初七日《しょなのか》の夜のことでした。わたしは死んだ弟の書斎にはいって、何かと彼の書き残したものなどを取り出しては、ひとりもの思いにふけっていました。  まだ、さして夜もふけていないのに、家じゅうは涙にしめって、しんとしずまりかえっています。そこへもって来て、なんだか新派のおしばいめいていますけれど、遠くのほうからは、物売りの呼び声などが、さも悲しげな調子で響いて来るのです。わたしは長いあいだ忘れていた、幼い、しみじみした気持ちになって、ふと、そこにあった弟の日記帳を繰りひろげて見ました。  この日記帳を見るにつけても、わたしは、おそらく恋も知らないでこの世を去った、はたちの弟をあわれに思わないではいられません。  内気者で、友だちも少なかった弟は、自然書斎に引きこもっている時間が多いのでした。細いペンでこくめいに書かれた日記帳からだけでも、そうした彼の性...
  • 柳宗悦「沖繩人に訴ふるの書」
    一  沖繩学の先駆者は、彼の著書の一つに題して「孤島苦の琉球史」と名づけた。誰か此の言葉に胸を打たれないであらう。切々たる想ひが迫るではないか。  識名の名園を訪ふ者は、勧耕台へと案内を受ける。何処を眺めるとも丘又丘であつて少しも海が見えぬ。こんな場所の発見は、孤島に住む者のせめてもの慰めである。だが心もとない慰めではないか。  沖繩は小さな島々に過ぎない。それも中央からは幾百海里の遠い彼方の孤島である。昔は往き来にさぞや難儀を重ねたであらう。今だとて親しく此の島を訪ふ者はさう沢山はない。だから県外の者の此の島に対する概念は多くの場合いとも杜撰である。疎んずる者は何か蕃地の続きでゴもある如く想像する。沖繩人は長い間此のやうな屈辱を受けた。遺憾ではあるが、今も此の不幸な事情は全く拭はれておらぬ。  だから沖繩人は沖繩に生れたことを苦しむ。さうして琉球人と呼ばれることを厭ふ。私が沖繩を訪はう...
  • 江戸川乱歩「二廃人」
     ふたりは湯から上がって、一局囲んだあとをタバコにして、渋い煎茶《せんちや》をすすりながら、いつものようにポッリポッリと世間話を取りかわしていた。おだやかな冬の日光が障子いっぱいにひろがって、八畳の座敷をほかほかと暖めていた。大きな桐《きり》の火バチには銀瓶《ぎんびん》が眠けをさそうような音をたててたぎっていた。夢のような冬の温泉場の午後であった。  無意味な世間話がいつのまにか、懐旧談にはいって行った。客の斎藤氏は青島役《ちんたおえき》の実戦談を語りはじめていた。部屋のあるじの井原氏は火バチに軽く手をかざしながら、だまってその血なまぐさい話に聞き入っていた。かすかにウグイスの遠音が、話の合の手のように聞こえて来たりした。昔を語るにふさわしい周囲の情景だった。  斎藤氏の見るも無残に傷ついた顔面はそうした武勇伝の話し手としては、しごく似つかわしかった。彼は砲弾の破片に打たれてできたとい...
  • 佐藤春夫訳「方丈記」
     河水《かわみず》の流れは絶え間はないが、しかしいつも同一の水ではない。停滞した個所に浮いている泡沫《みなわ》は消えたり湧《わ》いたりして、ながいあいだ同じ形でいるものではない。世上の人間とその住宅とてもまた同様の趣《おもむき》である。壮麗な都に高さを争い、瓦の美を競っている貴賤の住民の居宅は幾代もつきぬものではあるが、これを常住不変の実在かと調べてみると、むかしながらの家というのはまれである。去年焼けて今年で・きたというのや、大きかったのが無くなって小さいのになったりしている。住民のほうもまた家と同様、住む場所は同じ所で、住民も多いが、むかしながらの人は二三十人のうちで僅か一人か二人である。朝《あした》に死ぬ人もあれば、夕方に生れる人があったり、水の泡や何かにそっくりではないか。不可解にも生れる人や死ぬ人はいったいどこから来たり、どこへ行ってしまったりするのであろう。さらに不可解なのはほ...
  • 柳田国男「南島研究の現状」
    大炎厄の機会に  大地震の当時は私はロンドンに居た。殆と有り得べからざる母国大厄…難の報に接して、動巓しない者は一人も無いといふ有様であつた。丸二年前のたしか今日では無かつたかと思ふ。丁抹に開かれた万国議員会議に列席した数名の代議士が、林大使の宅に集まつて悲みと憂ひの会話を交へて居る中に、或一人の年長議員は、最も沈痛なる口調を以て斯ういふことを謂つた。是は全く神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄に流れて居たからだと謂つた。  私は之を聴いて、斯ういふ大きな愁傷の中ではあつたが、尚強硬なる抗議を提出せざるを得なかつたのである。本所深川あたりの狭苦しい町裏に住んで、被服廠に遁げ込んで一命を助からうとした者の大部分は、寧ろ平生から放縦な生活を為し得なかつた人々では無いか。彼等が他の碌でも無い市民に代つて、この惨酷なる制裁を受けなければならぬ理由はどこに在るかと詰問した。  此議員のしたやうな...
  • 亀井勝一郎「飛鳥路」
                        みささぎ  飛鳥路はすべて墓場だ。古樹に蔽われた帝王の陵、一基の碑によってわずかに知られる宮址、 礎石だけを残す大寺の跡、無数の古墳と、石棺や土器や瓦の破片等、千二百年以前の大和朝の夢 の跡である。畝傍、耳梨、香久山の三山を中心に、南は橘寺、岡寺から島庄に至る平原、東寄り の多武の山の麓に沿うて北は大原の丘陵地帯になっている。更に一里ほど北へ歩むと、三輪山を 背景とした桜井の町があり、鳥見山山麓一帯もまた大和朝にゆかり深い地だ。この周辺を克明に 歩いたら十数里はあるだろう。広大な地域とは云えないが、ここに埋れた歴史は広大である。こ こに成立した宗教芸術は世界的である。即ち日本書紀の事跡の殆んど全部を含む。とくに欽明朝 より持統朝にかけて、飛鳥は政治文化の中心として隆盛を極めた。この間権勢を誇り、また流血 の悲劇をくりかえした大氏族は蘇我家である。  ...
  • 大下宇陀児「石の下の記録」(1)
    青い石 一  その石は、公園にあるベンチほどの大きさがあり、形も ベンチに似ていて、人が二人ならんで腰かけられるほどの ものだった。  庭石としては、わりに上等とされる伊予の青石だったか ら、昔でもかなり多額な金を出して、この庭のうちに引か せたものだったのだろう。庭の広さや、所々にのこってい る基礎工事のコンクリートの配置などで、戦災前はこの家            せつちゅうしき が、かなりりっぱな和洋折衷式の屋敷であったということ が、うなずかれる。石はその屋敷の焼け跡の、半分は附近 の人の手でたがやされた家庭菜園になっている庭のうち の、枯れて黒くなった桜の木のそばに、どつしりすえてあ った。  表面には、ほこりをかぶっているし、陽が射して乾いて いる時は、見向く気もしないほど白茶けた汚い石に見える けれど、雨がふって濡れて、ほこりが洗い流されたと...
  • 江戸川乱歩「恐ろしき錯誤」
    「勝ったぞ、勝ったぞ、勝ったぞ……」  北川氏の頭の中には、勝ったという意識だけが、風車のように旋転していた。ほかのことは何も思わなかった。  かれは今、どこを歩いているのやら、どこへ行こうとしているのやら、まるで知らなかった。だいいち、歩いているという、そのことすらも意識しなかった。  往来の人たちは妙な顔をして、かれのへんてこな歩きぶりをながめた。酔っぱらいにしては顔色が尋常だった。病気にしては元気があった。  ちょうどあの気違いじみた文句を思い出させるような、一種異様の歩きぶりだった。北川氏は決して現実の毒グモにかまれたわけではなかった。しかし、毒グモにもまして恐ろしい執念のとりことなっていた。-  かれは今全身をもって復讐《ふくしゆう》の快感に酔っているのだった。 「勝った、勝った、勝った……」  一種の快いリズムをもって、毒々しい勝利のささやきが、いつまでも、いつま...
  • 江戸川乱歩「堀越捜査一課長殿」
           異様な封書  警視庁捜査一課長|堀越貞三郎氏《ほりこしていざぶろうし》は、ある日、課長室で非常に分厚い配達証明の封書を受け取った。  普通のものよりひとまわり大きい厚いハトロン封筒で、差し出し人は「大阪市福島区玉川町三丁月、花崎正敏《はなさきまさとし》」とあり、表面には東京警視庁のあて名を正しく書き、「堀越捜査一課長殿、必親展」となっていた。なかなかしっかりした書体なので、よくある投書にしても、軽視はできないように感じられた。堀越課長は封筒の表と裏をよくあらためたうえで、ペンナイフで封を切ったが、そのとき、「わざわざ東京へ送ってよこしたのは、東京警視庁管内に関係のあることがらだな」と考えた。しかし、思い出してみても、花崎正敏という人物には、まったく心当たりがなかった。  封筒をひらくと、中にもう一つ封筒がはいっていた。そして、その封筒を包むようにして五枚とじの書簡箋《し...
  • 江戸川乱歩「黒手組」
    あらわれたる事実  またしても明智小五郎のてがら話です.  それは、わたしが明智と知り合いになってから一年ほどたった時分のできごとなのですが、事件に一種劇的な色彩があって、なかなかおもしろかったばかりでなく、それがわたしの身内《みうち》のものの家庭を中心にして行なわれたという点で、わたしにはいっそう忘れがたいのです。  この事件で、わたしは、明智に暗号解読のすばらしい才能のあることを発見しました。読者諸君の興味のために、かれの解いた暗号文というのを、まず冒頭に掲げておきましょうか。 一度お伺《うかが》いしたいしたいと存じながらつい 好《よ》いおりがなく失礼ばかり致しております 割合にお暖《あたた》かな日がつづいてますのね是非 此頃《このごろ》にお邪魔《じやま》させていただきますわさて日 外《いつぞや》×つまらぬ品物をおおくりしました処《ところ》御《ご...
  • 岩野泡鳴「ぼんち」
    『ほんまに、頼りない友人や、なア、人の苦しいのんもほツたらかしといて、女子《をなご》にばかり相手になって』と、定《さだ》さんは私かに溜らなくなった。  づん/\痛むあたまを、組んで後ろへまわした両手でしツかり押さへて、大廣間の床の間《ま》を枕にしてゐるのは、ほんの、醉つた振りをよそほってゐるに過ぎないので。  實は、あたまの心《しん》まで痛くツて溜らないのである。  藝者も藝者だ。氣の利かない奴ばかりで、洒落《しゃれ》を云ったり、三味をじやん/\鳴らしたり、四人も來てゐた癖に、誰れ一人《ひとり》として世話をして呉れるものがない。 『ええツ、こツちやもほツたらかして往《い》んだろかい』とも心が激《げき》して來た。  渠は實際何が爲めにこんなところへ來たのかを考へて見た。夕飯を喰べてから、近頃おぼえ出した玉突をやりに行くと、百點を突く長《ちやう》さんと八十點の繁《しげ》さんとが來てゐた。  長...
  • 大下宇陀児「石の下の記録」(3)
    血の部屋 一  夜の空気の中で、貴美子夫人の顔や姿は、光る絹か、透 明な、そして柔かいガラスで作った生物のような感じをあ たえた。  何時何分という、ハッキリした時刻を、あとで思ってみ ても残念なことに、誰も記憶していない。が、ともかく、 午前一時半に近いか、もしかしたら、それをもう過ぎてい る。  二人は、びっくりして門の前に立ちどまったままだった が、驚きは、向うでも、大きい風だった。 「あら、どうしたのよ、有吉ちゃんも友杉さんも……」  そうして、貴美子夫人は、こっちの二人を、頭から爪の 先きまで、吟味する眼つきで見なおし、それから抱いてい た白いエナメル塗りのハンド。バッグから、白い小さなハン ケチを出した。  疲れたという表情であり、顔の汗をそのハンケチでおさ えている。 げ 「電車がなくなっちゃったの。しかたがないから歩いた 、わ。 一時間もl」 「どこへ行ってらしたんで...
  • 科学への道 part4
    !-- 十一 -- !-- タイトル -- 科学と芸術 !-- --  科学と芸術とは一見対蹄的位置に立つごとく見えるものであるから、科学者は芸 術を|遊戯《ゆうぎ》のごとくに|蔑《さげす》み、芸術家は科学をあらずも|哉《がな》の|所作《しよさ》と断ずる。しかし、こ れらはいずれも人間性に|立脚《りつきやく》した|崇高《すうこう》の所作であり、真と美に対する人間の創作た ることを信じて疑わず、かっ尊敬するに|躊躇《ちゆうちよ》しないのである。即ち人間性中、美を 対象として|憧《あこが》れる心も、理性的に自然に即さんとする心も、いかなる外力を以てし ても|圧《お》し|潰《つぷ》すことは出来ないのである。これらはいずれも本能に起因される所作で あるからである。  芸術家の養成については、その才能がまず問題となり、全く好きであるという出 発点があって、音楽家となり、画家となり、彫刻家...
  • 科学への道 石本巳四雄
    国会図書館の近代デジタルライブラリの画像を使って校正したので、 旧仮名使い(途中まで -- 後半は新かなつかいのまま)になっています。 コメントは、 !-- -- の中に記載しました。 part1 科学への道 石本巳四雄 序  天地自然の|悠久《ゆうきゆう》なる流れは歩みを止めることがない。この間に各人が|暫時《ざんじ》生れ出 でて色々のことを考える。しかし、人々がいかなることを考えても、人間の能力に は限度があって、自然現象を研究し|尽《つく》すことは不可能である。  しかし、古来思想の卓絶《たくぜつ》した碩学《せきがく》が逐次《ちくじ》に出《い》でて、簡《かん》より密《みつ》に、素《そ》より繁《はん》に研究 が進められ、自然現象の中に認められた事実は|仮説《かせつ》と云ふ形式によって|綴《つづ》られ、今 日もなおその発展が続けられているのである...
  • 江戸川乱歩「ざくろ」
    1  わたしは以前から『犯罪捜査録』という手記を書きためていて、それには、わたしの長い探偵生活中に取り扱っためぼしい事件は、ほとんど漏れなく、詳細に記録しているのだが、ここに書ぎつけておこうとする『硫酸殺人事件』はなかなか風変わりなおもしろい事件であったにもかかわらず、なぜか、わたしの捜査録にまだしるされていなかった。取り扱った事件のおびただしさに、わたしはつい、この奇妙な小事件を忘れてしまっていたのに違いない。  ところが、最近のこと、その『硫酸殺人事件』をこまごまと思い出す機会に出くわした。それは実に不思議干万な驚くぺき「機会」であったが、そのことは、いずれあとでしるすとして、ともかく、この事件をわたしに思い出させたのは、信州のS温泉で知り合いになった猪股《いのまた》という紳士、というよりは、その人が持っていた一冊の英文探偵小説であった。手ずれでよごれた青黒いクロース表紙の探偵小説...
  • 太宰治「津軽」一二三(新仮名)
    青空文庫の「新字旧仮名」のものをもとに、新仮名にしようとしています。 https //www.aozora.gr.jp/cards/000035/card2282.html 津軽 太宰治 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)業《わざ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)白髪|逓《たがい》 [#ページの左右中央] [#ここから8字下げ] 津軽の雪  こな雪  つぶ雪  わた雪  みず雪  かた雪  ざらめ雪  こおり雪   (東奥年鑑より) [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#大見出し]序編[#大見出し終わり]  或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に...
  • 太宰治「津軽」四五(新仮名)
    https //w.atwiki.jp/amizako/pages/629.html (から、つづき) [#5字下げ][#中見出し]四 津軽平野[#中見出し終わり] 「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越《コシ》の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田《アキタ》(今の秋田)渟代《ヌシロ》(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連|石布《イワシキ》、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳《ユキノムラジハカトコ》、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷《ニギエゾ》、次を麁蝦夷《アラエゾ》、遠きを都加留《ツガル》と名くと。其他の蝦夷は、おのずから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の...
  • 大下宇陀児「石の下の記録」(2)
    群盗  その同じ晩1。  というのは、代議士藤井有太の留守宅へ、中正党代議士 の諸内達也が訪ねてきて、バヵバカしいほど大きな果物の 籠を、手土産としておいて行った晩に、不良少年有吉の仲 間は、午後八時キッカリ、省線池袋駅前のパチンコ屋でせ いぞろいした。  彼らは、その日四谷の麻雀クラブへあつまって打合せを すました。ちょうどそこへ友杉がやってきて、有吉だけを つれ去ったが、あとに五人の仲間がのこった。そうしてこ の五人で相談して、ともかく『あれ』を、思い立った今佼 のうちに、決行しようということになったのである。『あ れ』というのは、隠語で言えば、トントンとか、タタキと か、言うのであろう。強盗をやるということを、さすがに 彼らは、そのまま口へ出していうのが恐ろしく、こういう あいまいな代名詞で、間に合わしていたわけだった。それ に『あれ』は、もし飼か都合のよいことが起って、しない で...
  • 江戸川乱歩「D坂の殺人事件」
    事実  それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。わたしは、D坂の大通りの中ほどにある、白梅軒という、行きつけのカフェーで、冷やしコーヒーをすすっていた。当時わたしは、学校を出たばかりで、まだこれという職業もなく、下宿屋にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに飽きると、あてどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬカフェー回りをやるくらいが、毎日の日課だった。この白梅軒というのは、下宿屋から近くもあり、どこへ散歩するにも必ずその前を通るような位置にあったので、したがって、いちばんよく出入りするわけであったが、わたしという男は悪い癖で、カフェーにはいると、どうも長っちりになる。それは、元来食欲の少ないほうなので、一つは嚢中《のうちゆう》の乏しいせいもあってだが、洋食一サラ注文するでなく、安いコーヒーを二杯も三杯もおかわりして、一時間も二時間もじっとしているのだ。そうかといって、別段...
  • 江戸川乱歩「覆面の舞踏者」
     わたしがその不思議なクラブの存在を知ったのは、わたしの友人の井上次郎によってでありました。井上次郎という男は、世間にはそうした男がままあみものですが、妙にいろいろな暗黒面に通じていて、たとえば、どこそこの女優なら、どこそこの家へ行けば話がつくとか、オブシーン・ピクチュアを見せる遊郭はどこそこにあるとか、東京における第一流の賭場《とば》は、どこそこの外国人街にあるとか、そのほかわたしたちの好奇心を満足させるような、種々さまざまの知識をきわめて豊富に持ち合わせているのでした。その井上次郎が、ある日のことわたしの家へやって来て、さて改まって改まって言うことには、 「むろんきみなぞは知るまいが、ぼくたちの仲間に二十日会《はつかかい》という一種のクラブがあるのだ。実に変わったクラブなんだ。いわば秘密結社なんだが、会員は皆、この世のあらゆる遊戯や道楽に飽きはてた、まあ上流階級だろうな、金には...
  • 永井荷風「あぢさゐ」
     駒込辺を散策の道すがら、ふと立寄つた或寺の門内《もんない》で思ひがけない人に出逢つた。まだ鶴喜太夫が達者で寄席へも出てゐた時分だから、二十年ちかくにもならう。その頃折々|家《うち》へも出入をした鶴沢宗吉といふ三味線ひきである。 「めづらしい処で逢ふものだ。変りがなくつて結構だ。」 「その節はいろ/\御厄介になりました。是非一度御機嫌伺ひに上らなくつちやな与ないんで御在ますが、申訳が御在ません。」 「噂にきくと、その後商売替をしなすつたといふが、ほんとうかね。」 「へえ。見切をつけて足を洗ひました。」 「それア結構だ。して今は何をしておいでだ。」 「へえ。四谷も大木戸のはつれでケチな芸者家をして居ります。」 「芸人よりかその方がい猿だらう。何事によらず腕ばかりぢや出世のできない世の中だからな。好加減に見切をつけた方が利口だ。」 「さうおつしやられると、何と御返事をしていゝかわかりません。い...
  • 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」
    1  たぶんそれは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田《こうた》三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやってみても、いっこうこの世がおもしろくないのでした。  学校を出てからーその学校とても、一年に何日と勘定のできるほどしか出席しなかったのですがーかれにできそうな職業は、片ッ端からやってみたのです。けれど、これこそ一生をささげるに足りると思うようなものには、まだ一つもでくわさないのです。おそらく、かれを満足させる職業などは、この世に存在しないのかもしれません。長くて一年、短いのは一月ぐらい、かれは職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を捜すでもなく、文字どおり何もしないで、おもしろくもないその日その日を送っているのでした。  遊びのほうもそのとおりでした。かるた、玉突き、テニス、水泳、山登り、碁、将棋、さては各種のとばくにいたるま...
  • 太宰治「お伽草紙」
    青空文庫の「新字旧仮名」をもとに、新仮名に改めました。 https //www.aozora.gr.jp/cards/000035/card307.html その際、講談社文庫を参照しました。 お伽草紙 太宰治 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)間《ま》 |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)約百万|山《やま》くらい [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 「あ、鳴った。」  と言って、父はペンを置いて立ち上る。警報くらいでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかえて防空壕にはいる。既に、母は二歳の男の子を背負って壕の奥にうずくまっている。 「近いようだね。」 「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」 ...
  • 江戸川乱歩「白昼夢」
     あれは、白昼の悪夢であったか、それとも現実のできごとであったか。  晩春のなま暖かい風が、オドロオドロと、ほてったほおに感ぜられる、むし暑い日の午後であった。  用事があって通ったのか、散歩のみちすがらであったのか、それさえぼんやりとして思いだせぬけれど、わたしは、ある場末の、見るかぎりどこまでもどこまでもまっすぐに続いている、広いほこりっぽい大通りを歩いていた。  洗いざらしたひとえもののように白茶けた商家が、黙って軒を並べていた。三尺のショーウインドウに、ほこりでだんだら染めにした小学生の運動シャツが下がっていたり、碁盤《ごばん》のように仕切った薄っぺらな本箱の中に、赤や黄や白や茶色などの砂のような種物を入れたのが、店いっぱいに並んでいたり、狭い薄暗い家じゅうが、天井からどこから、自転車のフレームやタイヤで充満していたり、そして、それらの殺風景な家々のあいだにはさまって、細い格...
  • 江戸川乱歩「お勢登場」
    1  肺病やみの格太郎は、きょうもまた、細君においてけぼりを食って、ぼんやりと、るすを守っていなければならなかった。最初のほどは、いかなるお人よしの彼も激憤を感じ、それを種に離別をもくろんだことさえあったのだけれど、病《やまい》という弱味がだんだん彼をあきらめっぼくしてしまった。隼尢の短い自分のこと、かわいい子どものことなどを考えると、乱暴なまねはできなかった。その点.では、第三者であるだけ、弟の格二郎などのほうがテキパキした考えを持っていた。彼は兄の弱闘味を歯がゆがって、時々意見めいた口をきくこともあった。 「なぜ、にいさんはそうなんだろう。ぼくだったら、とっくに離縁にしているんだがなあ。あんな人に憐《あわ》れみをかけるところがあるんだろうか」  だが、格太郎にとっては、単に憐れみというようなことばかりではなかった。なるほど、今おせいを離別すれば、文なしの書生っぽに相違ない彼女の相...
  • 亀井勝一郎「古塔の天女」
     この春東大寺の観音院を訪れたときは、もう日がとっぷり暮れていた。星ひとつない闇夜で あった。老松の並木に沿うて参道を行くと、ふいに、まるで巨大な怪物のような南大門に出っく わした。いかにも突然の感じで、昼間は幾たびも見なれて気にもとめないこの門の、異様な夜景 に驚いた。昼間よりはずっと大きくみえる。地にうずくまりながら、頭をもたげ、大きな口を開 いて咆号する化物じみたすがただ。仁王の顔面はみえないが、胴体はさながら節くれだった巨大 な古木であった。夜の寺は凄くまた底しれぬ深さを感じさせるものである。  大仏殿はなおさらのことで、廻廊が長々とつづいて闇に消える辺りを見ていると、建物が地上 全体を蔽うているようだ。形の実にいいのに感心した。大和の古寺の中では新しい方だが、こう して夜眺めるとなかなか風格が出来たといった印象を与えられる。人影もなく、あたりは森閑と して物音ひとつ聞えない。廻廊...
  • 永井荷風「ひかげの花」
     二人の借りている二階の硝子窓《ガラスまど》の外はこの家《うち》の物干場《ものほしば》になっている。その日もやがて正午《ひる》ちかくであろう。どこからともなく鰯《いわし》を焼く匂《におい》がして物干の上にはさっきから同じ二階の表《おもて》座敷を借りている女が寐衣《ねまき》の裾《すそ》をかかげて頻《しきり》に物を干している影が磨硝子《すりガラス》の面に動いている。  「ちょいと、今日は晦日《みそか》だったわね。後《あと》であんた郵便局まで行ってきてくれない。」とまだ夜具の中で新聞を見ている男の方を見返ったのは年のころ三十も大分越したと見える女で、細帯もしめず洗いざらしの浴衣《ゆかた》の前も引きはだけたまま、鏡台の前に立膝《たてひざ》して寝乱れた髪を束《たば》ねている。 「うむ。行って来《こ》よう。火種《ひだね》はあるか。この二、三日大分寒くなって来たな。」と男はまだ寐《ね》たまま起きようとも...
  • 江戸川乱歩「虫」
    1  この話は、柾木愛造《まさきあいぞう》と木下芙蓉《きのしたふよう》との、あの運命的な再会から出発すべきであるが、それについては、まず男主人公である柾木愛造の、いとも風変わりな性格について、一言しておかねばならぬ。  柾木愛造は、すでに世を去った両親から、いくばくの財産を受け継いだひとりむすごで、当時二十七歳の、私立大学中途退学者で、独身の無職者《もの》であった。ということは、あらゆる貧乏人、あらゆる家族所有者の、羨望《せんぼう》の的《まと》であるところの、このうえもなく容易で自由な身のうえを意味するのだが、柾木愛造は不幸にも、その境涯《きようがい》を楽しんでいくことができなかった。かれは世にたぐいもあらぬ厭人病者《えんじんびようしゃ》であったからである。  かれのこの病的な素質は、いったいぜんたい、どこからきたものであるか、かれ自身にも不明であったが、その徴候は、すでにすでにかれ...
  • 邦枝完二「女間者」
           一 「若菜《わかな》、予《よ》は久し振りに屋敷に落着いて、のびのびといたしたぞ。良い心持じゃ」  師走を前触れする町の慌しさも知らぬもののように、ここ本所松坂町の吉良左兵衛《きらさひょうえ》の屋敷では、今しも寒さに意気地のない隠居の上野介《こうずけのすけ》が、愛妾の若菜を傍に侍らせたまま、まだ頭上に日が高い真ツ昼間から酒盃《さかずき》を傾けていた。  丁度一年余りというもの、上杉家の上《かみ》、中《なか》、下《しも》の三屋敷と、わが屋敷との間を絶えず往復し続けて、腰の温まる暇もなかった上野介に取っては、この感慨めいた言葉も無理からぬことだった。 「矢張りわが屋敷に超《こ》したことはないの」 「大殿様には、何ゆえお屋敷にお落着遊ばして、お寛《くつろ》ぎなさらないのでございます」  今年《ことし》十九歳のあでやかな姿を擦り寄せた若菜は、銚子を傾けて満々《なみなみ》と酌をしながら...
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