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谷崎潤一郎「「門」を評す」

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amizako

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明治四十三年九月「新思潮」第一號

僕は漱石先生を以て、當代にズバ拔けたる頭腦と技倆とを持つた作家だと思つて居る。多くの缺點と、多くの批難とを有しつゝ猶先生は、其の大たるに於いて容易に他の企及す可からざる作家だと信じて居る。紅葉なく一葉なく二葉亭なき今日に於いて、僕は誰に遠慮もなく先生を文壇の第一人と認めて居る。然も從來先生の評到は、其の實力と相件はざる恨があつた。それだけ僕は、先生に就いて多くの云ひたい事論じたい事を持って居る。「門」を評するに方りて、先づこれだけの斷り書きをして置かないと、安心して筆を執ることが出來ない。
「それから」は代助と三千代とが姦通する小説であつた。「門」は姦通して夫婦となつた宗助とお米との小説である。此の二篇はいろいろの點から見て、切り放して讀む事の出來ない理由を持つて居る。勿論先生は其の後の代助三千代を書く積で、「門」を作られたのであらう。そこで僕も始終「それから」と比較して、自分の考を云はうと思ふ。
誰やらが「漱石は自然主義に近くなつた。」と云つたと覺えて居る。若し「門」を讀んで尚此の言を爲す人があれば、其れは大なる謬りと云はねばなるまい。
「門」は「それから」よりも一層露骨に多くのうそを描いて居る。其のうそは、一方に於いては作者の抱懐する上品なる───然し我々には縁の遠い理想である。一方に於ては先生の老獪なる技巧である。以下僕は逐一其のうそを指摘して見たい。
宗助とお米とは姦通によつて出來上つた夫婦である。「宗助は當時を憶ひ出す毎に、自然の進行が其處ではたりと留まつて、自分もお米も忽ち化石して了つたら、却つて苦はなかつたらうと思った。事は冬の下から春が頭を擡《もた》げる時分に始まつて、散り盡した櫻の花が若葉に色を易へる頃に終つた。凡てが生死の戰ひであつた、青竹を灸つて油を絞る程の苦しみであつた。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上つた時分は何處も既に砂だらけであつたのである。彼等は砂だらけになつた自分逹を認めた。けれども何時吹き倒されたかを知らなかつた。」さうして氣が付いて見たら、いつの間にか徳義上許す可からざる大罪を犯して居たのである。
即ち二人の罪は、戀と云ふ大風───自然の不可抗力に駈られた結果で、決して放埓な淫奔な性質の然らしめた所でない事を、作者は辯明して居る。此のいきさつは「それから」を讀めば能く解る事である。かくて二人は當然の制裁として、社會から繼子扱ひにされつつ、淋しい所帶を持つた。制裁は種々の形で二人に迫つた。貧と云ふ奴が第一に來た。それから病氣がお米のかよわい體を襲つた。
第三には、「貴方は人に對して濟まない事をした覺えがある。其の罪が祟つてゐるから、子供は決して育たない」と云つた賣卜者の豫言が中つて、三度迄妊娠した胎兒が悉く闇から闇へ葬られて了つた。夫婦は前後六年の問、「世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪へかねて、抱き合つて暖を取るやうな工合に、お互仝志を頼りとして暮して居」るのである。
 「宗さんは何《ど》うも悉皆《すつかり》變つちまいましたね」と叔母が叔父に話す事があつた。すると叔父は、
 「左うよなあ。矢つ張り、あゝ云ふ事があると、永く迄後へ響くものだからな」と答へて、因果は恐ろしいと云ふ風をする。
かう宗助は人にも云はれる迄に、みじめな月日を送つて居るのである。「彼等が毎日同じ判を同じ胸に押して長の月日を倦まず渡つて來たのは、彼等が始めから一般の社會に興味を失つてゐた」のでなく「社會の方で彼等二人限に切り詰めて、其二人に冷かな背を向けた結果に外ならない」としてある。然し現今の社會は此の二人のやうな罪人に對してかほど迄に嚴肅な制裁を與へる程鋭敏な良心を持つて居るだらうか。世の中の因果應報と云ふものは、案外もつとルーズな、ふしだらなものではなからうか。少くとも其の富を奪ひ、其の健康を奪ひ、其の三人の子を奪ふ程慘酷なものであらうか。僕は此の點に關して疑なきを得ない。世間はもつと複雜な、アイロニカルな事實に富むで居る筈である。甚不遜な申分ながら、若し先生が眞に世間は斯う云ふものだと解して居られるなら、其は極めて甘い見方だと云はねばならぬ。たまたま先生の作物が、讀者の胸に痛切な響を與へないと云はるゝ點は此處にあるのであらう。
更に考ふ可きは、此の状態に於ける夫婦の愛情である。「彼等は六年の問世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月を舉げて、互の胸を掘り出した。彼等の命はいつの間にか互の底に喰ひ入った。………二人の精神を組み立てる神經系は、最後の纎維に至る迄、互に抱き合って出來上つて居た。」
「彼等は此の抱合の中に、尋常の夫婦に見出し難い親切と飽滿と、それに件ふ倦怠とを兼具へてゐた。さうして其の倦怠の傭い氣分に支配されながら自己の幸福を評價する事丈は忘れなかつた。」
「彼等は自然が彼等の前にもたらした恐るべき復讐の下に戰きながら跪づいた。同時に此の復讐を受ける爲めに得た互の幸福に封して、愛の神に一瓣の香を焚く事を忘れなかつた。彼等は鞭たれつゝ死に赴くものであつた。たゞ其の鞭の先に、凡てを癒す甘い蜜の着いて居る事を覺つたのである。」之に依つて見れば、宗助とお米とは當節に珍しいロマンチツクな生活を送って居ると云はねばならぬ。新しき教育を受けた代助が「それから」のやうな戀をするのは無理ならぬ事である。然し新しき思潮に觸れた宗助が、如何に大いなる犠牲を拂ってかち得たる戀であるとは云へ、ヒステリーの病妻を抱いて、子なく金なき詫びしい家庭に、前後六年の間、青年時代の甘い戀の夢から覺めずに居たと云ふ事實は、一寸受け取り難い話である。「蒲團」の作者に云はしたなら、頭から「拵へ物だ」と評するかも知れぬ。イムポツシブルでない迄も宗助の境遇と性格とは、甞て先生御自身が獨歩の「酒中日記」を批評せられた如く、「千萬人中の一人にして有り得べき事實」であらう。
「門」を「それから」の續篇と見て、特種の性格をもつた代助の戀は、「門」に描かれたるが如く發展するのが自然の成行であらうかどうか。斯う云ふ點からも考へて見る必要がある。代助の道徳から云へば、斯く發展す可きが正當であるかも知れぬ。代助の道徳は是非とも代助に「永劫變らざる愛情あるべし。」と教へなければならぬ。然し實際の愛情は之に反する事が多くはあるまいか。さうして自己を僞らざらむが爲めにあらゆる物を犧牲にして、眞の戀に生きむとして峻嚴なる代助の性格は、戀のさめたる女を抱いて、再びもとのやうな、或はそれよりも更に絶望なヂレンマに陷る事がありはすまいか。其の時々にこそ二人の姦通者は眞の報復を受く可きである。若し「それから」が「門」に描かれたやうな發展の徑路を取つたとしたならば其れは作者に取つても代助に取つても甚好都合な次第であると云はねばならぬ。
以上は全篇の骨子に横つて居る大いなるうそである。先生の作物が、如何に自然主義作家のそれと異つて居るかは、これだけで既に明瞭であらう。先生は「戀は斯くあり」と云ふ事を示さないで「戀は斯くあるべし」と云ふ事を教へて居られる。先生に依つて教へられたる戀は、僕の考へて居るものよりも遙に眞面目で遙に貴いものである。
僕は先に宗助とお米とは、ロマンチツクな生活を送つて居ると云つた。けれども二人の戀は決して芝居や淨瑠璃に現れるやうな淺薄な派手なものではなく、深く生命の底に根ざした嚴肅な質實なものとして描かれて居る。信仰の對象なく、道徳の根底なく、荒れすさんだ現實の中に住する今日の我々が幸福に生きる唯一の道は、まことの戀によつて永劫に結合した夫婦間の愛情の中に第一義の生活を營むにある、これが「門」の作者の我々に教ふる所である。其の戀は單なる性慾滿足の戀でもなければ、徒に美しきものに憧るゝ戀でもない。相當の分別ある人が、姦通の大罪を犯して迄も之を得なければ生きて居られない程、必要な戀である。之を得た宗助とお米とは我々から見ると遙に幸福な羨しい身の上と云はなければならぬ。人生の落ち付き場所は此の戀である。「それから」の戀は破壞的であつたが、「門」の戀は建設的であると云ふ事が出來る。
作者の暢逹な筆力は、此の戀を可なり讀者に會得させる迄に書いてある。二人を貧乏な境遇に置き、お米を病身にさせ、三人の子を死亡させたのも、又彼等の間に小六と云ふ第三者を配したのも畢竟は此の戀をヱムファサイズせんが爲めの細工であつたのだ。作者が其の狙つた目標を、充分に射中てゝ居る事だけは確である。我々もならう事なら宗助のやうな戀に依つて、落ち付きのある一生を邊りたいと思ふ。けれども其れは今日の青年に取つては到底空想にすぎないであらう。
等しく拵へ物としても、「それから」は事實の土臺の上に立つて居たが、「門」は空想の上に築かれて居る。いろ〳〵の方面から見て、「門」は「それから」に劣つて居ると云はねばなるまい。若し事實に立脚して、宗助とお米との戀の破綻を種材に捉へたならば、「門」は「それから」よりも更に大きい問題と、深い意味とをもたらす事が出來たであらうと思はれる。僕は返す返すも「それから」に依つて提供された大きな問題が、「門」に於いて、なまじひな解決を與へられた事を殘念に思ふ。
「門」は眞實を語つて居ない。然し「門」にあらはれたる局部々々の描寫は極めて自然で、眞實を捕捉して居る。日曜におもてを散歩する時の宗助の氣持、殊に電車へ乘つて天井の廣告を見て居るあたり。年越の夜の一家の有樣。其の他到る所の光景が自然主義の作家と雖容易に企て及び難いほど鋭敏な觀察眼を以て仔細に描けて居る。篇中に出て來る人物の性格も可なりに躍動して居る。家主の坂井、(これは「野分」の中野君に似て居る。作者はかう云ふ人物の性格を表すのが大分得意と見える)佐伯の叔母などは、一寸顏を現すだけだが、一と通り其の人物の輪廓を髣髴せしめて居る。慾を云へば小六だけがはつきりとしないやうである。さうして會話をうつす事に於いては、先生は今の作家中に群を拔いて居るやうである。「虞美人草」「草枕」時代の會話は、少々お芝居がかつて居たが、宗助やお米の言葉は、如何にも自然とたくまずして眞に迫つて居る。僕の最感心した一節を左に引いてみようと思ふ。
 寐る時、着物を睨いで、寐卷の上に、絞りの兵兒帶をぐる〳〵卷つけながら、
 「今夜は久し振に論語を讀んだ」と云つた。
 「論語に何かあつて」とお米が聞き返したら、宗助は、
 「いや何もない」と答へた。それから、「おい、己の齒は矢張り年の所爲《せゐ》だとさ。ぐら〳〵するのは到底《とても》癒らないさうだ」と云ひつゝ、黒い頭を枕の上に着けた。
かう讀んで行くと、何となく二人の聲が聞えるやうな氣がする。殊に全篇の終りを、二人の會話で何となく結んだのは趣が深い。
 御米は障子の硝子に映る麗な日影をすかして見て、
 「本當に有難いわね。漸くの事春になって」と云つて、晴れ〴〵しい眉を張つた。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、
 「うん、然し又ぢき冬になるよ」と答へて、下を向いたまゝ鋏を動かして居た。
こゝで全體がポツリと切れて居る。長い、長い二人の生涯の一部分を、無雜作に切り放したやうな終り方である。餘韻がある。
先生は常に一般讀者の興味と云ふ事に充分注意して、筆を執られるかと思ふ。兎も角も先生の小説は多くの階級の人に、面白く讀まれるだけは事實であらうと思はれる。鮪船に石油ヱンヂンを取り付ける事や、電氣で文字を印刷する發明や、先生の小説は比較的廣い範圍で今日の實社會と何等かの交渉を有して居るやうである。さうして、坂井の盜難だの、抱一の屏風だの、風船玉の事件だの論語の話だの、いろ〳〵と讀者を面白がらせるやうな出來事が現れて來る。これは讀者を單に紺がすりのニキビ黨にのみ求めず、普く一般の社會の大人を對手にしようと云ふ抱負のある作者としては、必要な心掛けである。僕は先生の此の大きな態度を頼もしく思ふ。然しなるべく卑俗に或は不自然に陷らない範圍に於て願ひたいものである。宗助が鎌倉へ參禪に行く所は、如何に見ても突飛であらうと考へる。「三四郎」「それから」「門」と順を追うて先生の筆には著しくさびが出て來た。僕の友人に「八百藏の聲を聞くだけでも、歌舞伎座は他の芝居よりは有難い。」と云つた者がある。僕もそれと全じやうに、「先生の文章を見るだけでも『門』は他の小説よりも有難い。」と云ひたい。
思ふ事をくど〳〵と順序もなく書立てたが、大變長くなつて了つた。まだ云ひたい事は澤山あるのだが、冗漫になるから此の位にして置く。最後に僕はこれだけの事を明言しておきたい。
先生の小説は拵へ物である。然し小なる眞實よりも大いなる意味のうその方が價値がある。「それから」はこの意味に於いて成功した作である。「門」はこの意味に於いて失敗である。
僕等の先生である人に對して、不遜な論評を敢てした事は重々お詫びをする。

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