網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「織田作之助「探し人」」で検索した結果

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  • 織田作之助「探し人」
     子供心にもさすがに母親の死ぬことは悲しかった。子供といってももう十一であった。まだ五つにしかならぬ妹の芳枝はいざ知らず、新吉の顔には悲しい心でするする涙が落ちた。  狭苦しい家のことゆえ、真夏の西日がカンカン当るところで病人は息を引きとらねばならず、見ていてさぞ暑かろうと同情されたが、しかし病人はもはや汗をかく元気もなく、かえって新吉は子供に似合わぬ大汗をかいた。  三日前、蚊細い声で母親がくどくど言い聞かせてくれた言葉を想い出せば存分に悲しく、汗と涙がこっちゃになって眼にたまり、自然母親の顔もぼやけて見えた。  1お母さんが死んだらナ、お父つあんはきっと後妻ちゅうもんを貰はるやろ、ほんならお前らは継《まま》子で、可哀想なこっちゃ、後妻テ鬼みたいに怖いもんやぜ。そやよって、今の内にこのお母はんの顔よう見ときなはれや。  半年たたぬ内にその通りになり、こんどの母親はこともあろうに近所の小料...
  • 織田作之助「人情噺」
     年中夜中の三時に起こされた。風呂の釜を焚くのだ。毎日毎日釜を焚いて、もうかれこれ三十年になる。  十八の時、和歌山から大阪へ出て来て、下寺町の風呂屋へ雇われた。三右衛門という名が呼びにくいというので、いきなり三平と呼ばれ、下足番をやらされた。女客の下駄を男客の下駄棚にいれたりして、随分まごついた。悲しいと思った。が、直ぐ馴れて、客のない時の欠伸のしかたなどもいかにも下足番らしく板について、やがて二十一になった。  その年の春から、風呂の釜を焚かされることになった。夜中の三時に起こされてびつくりした眼で釜の下を覗いたときは、さすがに随分情けない気持になったが、これも直ぐ馴れた。あまり日に当らぬので、顔色が無気力に蒼ざめて、しょっちゅう赤い目をしていたが、鏡を見ても、べつになんの感慨もなかった。そして十年経った。  まる十三年一つ風呂屋に勤めた勘定だが、べつに苦労し辛抱したわけではない。根気...
  • 小倉金之助「素人文学談義」
    一 「素人のみた文学の話」というテーマで、自分の長い間の経験をもとにして、何かお話し申しあげましょう。  この間、わたしは病気で休んでおりましたが、その時分に『マノン・レスコオ』という小説を読んで、非常な感銘を受けました。この小説はアベ・プレヴォーという坊さんが、今から二百二十年も前、およそ一七三〇年ごろに著したものです。  みなさんもよくご承知とは思いますが、ざっとその筋をお話し申しますと、フランスのある良家に生れたシュヴァリエ・デ・グリュウという青年がおりました。十七歳のとき哲学の勉強を終って宗教家になろうというので、学問に志していたのですが、ある日、マノンという美しい娘さんに出会って急に情熱が燃え上りました。それからシュヴァリエはひたすら恋人の愛を捉えるために、いろいろ詐欺をやったり、賭博をやったり、殺人をも犯したりして、自分では何度か悔いたり悲しんだりしながら、どこまでもマノソを離...
  • 小倉金之助「荷風文学と私」
     私のような自然科学方面の老人が、荷風の文学について語るのは、はなはだ僣越のように思われよう。けれども私は、青春時代における人生の危機を、荷風の小説を力として切りぬけた、とも言えなくないのであって、荷風に負うところ大なるものがあると、衷心から信じている。それで今ここに、主としてその事実について、ありのままに述べて見たいのである。尤もそれは、今から四十年ばかりも前のことで、その当時の私の読み方・味わい方は、恐らく小説の読み方ではなく、文学の味わい方でもなかったであろう。私のような主観的な見方をされては、作家その人にとってはなはだ迷惑なことであるかも知れないが、そういった点についてはーただ昔の思い出ばなしとしてーお許しを願いたいとおもう。  私が荷風文学に親しみだしたのは、明治三十九年のころからであるが、特にそれに熱中したのは明治四十二年から大正元年ごろまで(荷風が満で三+歳から三+三歳のころ...
  • 国木田独歩「節操」
    「房、奥様の出る時何とか言つたかい。」と佐山銀之助は茶の間に入ると直ぐ訊いた。 「今日は講習會から後藤|樣≪さん≫へ一寸廻るから少し遲くなると|被仰≪おつしや≫いました。」 「飯を|食≪くは≫せろー」と銀之助は|忌々≪いま/\≫しさうに言つて、白布の|覆≪か≫けてある長方形の食卓の前にドツカと坐わつた。  女中の房は手早く燗瓶を銅壺に入れ、食卓の布を除つた。そして更に卓上の食品を彼處此處と置き直して心配さうに主人の樣子をうかゞつた。  銀之助は外套も脱がないで兩臂を食卓に突いたまゝ眼を閉ぢて居る。 「お衣服《めし》をお着更になつてから召上つたら如何で御座います。」と房は主人の窮屈さうな樣子を見て、恐る/\言つた。御機嫌を取る積りでもあつた。何故主人が不機嫌であるかも略ぼ知つて居るので、 「面倒臭い此儘で食ふ、お燗は|最早可≪もうい≫いだらう。」  房は燗瓶を揚げて直ぐ酌をした。銀之助は會社...
  • 村雨退二郎「地獄舟」
    美男子の相婿 地獄舟  参政白井伊豆と用談をすまして、使番の堀田市左衛門が、御用部屋から出てきた時、ちょうどそこの廊下を、相婿の望月富之助が通りかかった。  富之助は、おなじ水戸藩の家中、富田小平太の弟で、ふつうなら同格の二一二百石内外の家に、養子にでもやられるところを、美貌のおかげでまず児小姓《こごしょう》に召出され、去年十九歳で家禄千石の望月家の婿養子になり、市左衛門の妻の妹を妻にして、その家を相続した。現在の役目は小姓である。  色白で中高な、ちょっと苦味ばしったこめ美貌の相婿と顔を合わせた瞬間、市左衛門の頭にあるかんがえが、電光のように閃《ひら》めいた。  如才のない微笑を見せ、かるく会釈して通りすぎようとする富之助を、彼は呼びとめた。 「富之助殿」 「は?」 「ちょっとお手前に、たのんでおきたいことがありますから」 (向うまで)と目配《めくば》せして、じぶんが先に立った。  別棟...
  • 江戸川乱歩「二廃人」
     ふたりは湯から上がって、一局囲んだあとをタバコにして、渋い煎茶《せんちや》をすすりながら、いつものようにポッリポッリと世間話を取りかわしていた。おだやかな冬の日光が障子いっぱいにひろがって、八畳の座敷をほかほかと暖めていた。大きな桐《きり》の火バチには銀瓶《ぎんびん》が眠けをさそうような音をたててたぎっていた。夢のような冬の温泉場の午後であった。  無意味な世間話がいつのまにか、懐旧談にはいって行った。客の斎藤氏は青島役《ちんたおえき》の実戦談を語りはじめていた。部屋のあるじの井原氏は火バチに軽く手をかざしながら、だまってその血なまぐさい話に聞き入っていた。かすかにウグイスの遠音が、話の合の手のように聞こえて来たりした。昔を語るにふさわしい周囲の情景だった。  斎藤氏の見るも無残に傷ついた顔面はそうした武勇伝の話し手としては、しごく似つかわしかった。彼は砲弾の破片に打たれてできたとい...
  • 三好達治「萩原さんという人」
     映画俳優のバスター・キートンというのはひと頃人気のあった喜劇俳優だ。近頃の若い人はもうご存じでないかもしれぬ。額が広く、眼玉がとび出て、長身痩驅《ちようしんそうく》、動作は何だかぎくしゃくしていてとん狂で無器用らしく、いつも孤独な風変りな淋しげな雰囲気を背負っている、一種品のいい人物だった。萩原さんの風つきは、どこかこのキートン君に似通った処があった。それはご本人も承認していられたし、またそれがいくらかお得意の様子で、よくその映画を見物に出かけられた後などそれをまた話題にもされた。先生にはあの俳優のして見せる演技のような、間抜けた節がいつもどこかにあって、妙にそれが子供っぽくて魅力があり、品がよかった。突拍子もない  著想《ちやくそう》は、あの人の随筆や感想の随所にちらばってのぞいている呼びかけだし、あの人の詩の不連続の連続のかげにもたしかに潜んでいる。先生には、著想の奇抜で読者の意表に...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十五
     平(北条)宜時朝臣《たいらののぶとぎあそん》が老後の追懐談に最明寺入道北秉時頼からある宵の口に召されたことがあったが「直ぐさま」と答えておいて直垂《ひたたれ》が見えないのでぐずぐずしていると、また使者が来て「直垂でもないのですか、夜分のことではあり、身装《みなり》などかまいませんから早く」とのことであったから、よれよれの直垂のふだん着のままで行ったところ、入道は銚子に土器《かわらけ》を取りそえて出て来て「これをひとりで飲むのがもの足りないので来て下さいと申したのです。肴《さかな》がありませんがもう家の者は寝たでしょう。適当なものはありますまいか、存分に探して下さい」と言われたので、紙燭《しそく》をつけて隅々まで探したところが小さな土器に味噌のすこしのせてあったのを見つけて「こんなものがありましたが」というと「それで結構」とそれを肴に愉快に数盃を傾け合って興に入られた。その当時はこんな質素...
  • 佐藤春夫「家常茶飯」
     朝田が或日訪ねて来た。  書斎へ通すとイキナリ「(理想的マッチ)を君は持っていないか」と言う。 「何、(理想的マッチ)て何だい」と、僕は聞いた。 「お伽話《とぎぱなし》なんだが、僕は其のテキストを無くして弱っているんだ。  年越しの金を工面する為に受け合った例の拙速な翻訳仕事の一つなんだが、本屋が出版を馬鹿に急いでいるのでね。外国に注文して取り寄せるにしても、時日がもう間に合わないのだ。  クリスマスの贈答用をアテコミなんだからね。  君のところには色んな本が沢山あるから、ヒョットしたら持っていないかと思って来たんだが、珍らしい本でもないのにあまり見かけない  アッサージの初期の作なんだ」 「うん、聞いた事は有る様にもあるが、あいにく僕は持っていないよ。何《ど》うして又無くしたんだい」 「それがね、翻訳はもう出来上っているんだ。原稿は印刷所に廻してあるんだがね。  只大人に読ませるんなら...
  • 小杉未醒「西遊記 一 孫悟空生る」
    昔、傲来国と云う国があった、その国の海岸に花果山と云う山があった、その山の上で石が石の卵を産んだ、石の高さは三十六尺。 その石の卵が割れて、石の猴が飛び出した。石の猴に血が通いだして、独でに駈け廻り、自ら天地四方を拝して喜びの声を揚げた。両眼の金色の光り、直ちに雲霄を射て、天上の玉皇上帝を驚かした。 玉皇とは、世界の善悪を判っ天上の政府の主宰者だそうだ。その上帝が千里眼将軍順風耳将軍に命じてこの怪光を査べしめる。二人の復命には、 「成程不思議の石猴ではありますが、矢張り普通の獣の如き飲食を為しまするから、程なく光りも熄むで御座ろう」とあった。 石猴が生れてから、幾年経ったか分らぬ、何時の間にか他の凡猿共と相馴れて遊んでいた。ある日谷川の源の瀑布の前で、猿共が斯う云った、 「この滝壺を見とどけて来る者があるか、あったら我等の王にしよう」すると忽ち、 「己が行こう」と、叫んで石猴が飛び込んだ。...
  • 江戸川乱歩「兇器」
    「アッ、助けてえ!」という金切り声がしたかと思うと、ガチャンと大きな音がきこえ、カリカリとガラスのわれるのがわかったって言います。主人がいきなり飛んで行って、細君の部屋の襖をあけてみると、細君の美弥子があけに染まって倒れていたのです。  傷は左腕の肩に近いところで、傷口がパックリわれて、血がドクドク流れていたそうです。さいわい動脈をはずれたので、吹き出すほどでありませんが、ともかく非常な出血ですから、主人はすぐ近所の医者を呼んで手当てをした上、署へ電話をかけたというのです。捜査の木下君と私が出向いて、事情を聴きました。  何者かが、窓をまたいで、部屋にはいり、うしろ向きになっていた美弥子を、短刀で刺して逃げ出したのですね。逃げるとき、窓のガラス戸にぶつかったので、その一枚がはずれてそとに落ち、ガラスがわれたのです。  窓のぞとには一間幅ぐらいの狭い空き地があって、す...
  • 久生十蘭「呂宋の壷」
         一  慶長のころ、鹿児島揖宿《いぶすき》郡、山川の津に、薩摩藩の御朱印船を預り、南蛮貿易の御用をつとめる大迫吉之丞という海商がいた。 慶長十六年の六月、隠居して惟新といっていた島津義弘の命令で、はるばる呂宋《ルソン》(フィリッピン)まで茶壺を探しに出かけた。そのとき惟新は、なにかと便宜があろうから、吉利支丹になれといった。吉之丞は長崎で洗礼を受けて心にもなき信者になり、呂宋から柬埔塞《カンポジヤ》の町々を七年がかりで探し歩いたが、その結末は面白いというようなものではなく、そのうえ、帰国後、宗門の取調べで、あやうく火焙りになるところだった。寛永十一年に上書した申状には、吉之丞のやるせない憤懣の情があらわれている。  惟新様申され候には、呂宋へ罷越、如何様にしても清香か蓮華王の茶壼を手に入れるべし、呂宋とか申す国は吉利支丹の者どもにて候に付き、この節は吉利支丹に罷成り...
  • 佐藤春夫「散文精神の発生」
    佐藤春夫? 散文精神の発生  新潮の九月号で広津和郎君が書かれた「散文芸術の位置」といふ文章は多少不備で、散漫で、然も尽くさないところがあったやうに思ふが、それでも   「沢山の芸術の種類の中で、散文芸術は。直ぐ人生の隣りにゐるものである。右隣りには、詩、美術、音楽といふやうに、いろいろの芸術が並んでゐるが、左隣りは直ぐ人生である。」 といふ結論は確かな真実で   「認識不足の美学者などに云はせると、それ故散文芸術は、芸術として最も不純なものであるやうに解釈するが、しかし人生と直ぐ隣り合せたといふところに、散文芸術の一番純粋の特色があるのであって。それは不純でもない、さういふ種類のものであり、それ以外のものでないといふ純粋さを持ってゐるものなのである。」 と看破したのは達見である。まさしく吾々が知らず識らずのうちに陥ってゐる散文芸術を律するに、詩によって立てられた美学を襲...
  • 南幸夫「くらがり坂の怪」
     K村の――勿論、村だから村端れで、町はずれとは云えないだろうけれども、どうも、町はずれといいたい所、――村の真中にあたって日本中に名を知れた霊場があるが、その門前を右へ曲って、街道筋の両側はおお方は商家で、銭湯もあればその隣りが小間物屋で申訳らしく化粧品が|塵≪ちり≫まみれになっていようという陳列箱が店先に|晒≪さら≫されているし、その向いが内科外科小児科何でも出来ないものはないという便利な名医の家であると、その隣りには黒々と光りかえって焼芋の|竃≪かまど≫がのさばりかえっている上に、こいつばかりは流石に自慢に価しようという草鞋が束でぶらさがっている。魚屋もあれば呉服物をならべた荒物屋もある。といった風に軒を並べているのである。道が曲って駄菓子屋があって、少し行って醤油屋があって、やがて片側は麦畑、片側は小学校で門の柳が、村はずれらしくというか、町はずれらしくというかいささか風情ありげに...
  • 三好達治「萩原朔太郎詩集あとがき」
     萩原さんが生前上刊された詩集を刊行の年次に従って列記してみると次の如くである。  「月に吠える」(大正六年二月十五日 感情詩社 白日社出版部共同刊)  「青猫」(大正十二年一月二十六日 新潮社刊)  「蝶を夢む」(大正十二年七月十四日 新潮社刊)  「純情小曲集」(大正十四年八月十二日 新潮社刊)  「萩原朔太郎詩集」(昭和三年三月二十五日 第一書房刊)  「氷島」(昭和九年六月一日 第一書房刊)  「定本青猫」(昭和十一年三月二十日 版画荘刊)  「宿命」(昭和十四年九月十五日 創元社刊) 別に「月に吠える」の再版(大正十一年アルス刊)、「現代詩人全集」第九巻(昭和四年新潮社刊)、その他の重版本合著選抄等数種があるが本文庫本の編輯に当ってはそれらは全く関聯するところがないから略する。本書の編纂に底本として用いたのは右に挙げた初版本八冊であった。さてその八冊の刊行年次は先の順序であるが、...
  • 亀井勝一郎「佐渡が島」
     佐渡が島は新潟を去る三十二浬の海上にある。四年前の初夏の頃であった。新潟に旅行して、 偶々寄居の浜を散歩したとき、日本海の紺碧の波の涯に横たわるこの島を私ははじめて見た。 「あれが佐渡だ。」そう言って連れの友人が指さす。彼方に、菅笠を二つ伏せたようなすがたの 島が低く横たわっている。私はそのとき、異邦人に接するような、一種の惧れを伴った好奇心を 抱いていた・絶海の孤島、瀞痘の島、死ぬほど淋しいところ、そういう観念を以て眺めていたよ うである。現実の佐渡よりも、芭蕉の「銀河序」を通してみた幻の佐渡の影響を私はつよく受け ていたらしい。                                おも 北陸道に行脚して越後国出雲崎といふ処に泊る。かの佐渡が島は海の面十八里滄波を隔てて、                      くまぐま 東西三十五里に横折り臥したり。峰の嶮難、谷の隈々まで...
  • 尾崎士郎「夏草」
     いよいよ番付編制ということになるとたちまち大へんな騒ぎになった。  ー朝に酒、夕に酒、というと甚だ威勢がいいが、欝結した気もちをまぎらすものは酒のほかにはなかったのである。それほど、誰も彼も貧乏だ、退屈をまぎらす時間を持てあましきっていた。酒の余勢が此処まで延長してしまったと言えばそれまでのはなしになるが、しかし考えようによっては理屈はどうにでもつく。当時、相撲協会は天竜脱退事件の余波をうけて、その成立さえも覚束なくなるのではないかと思われるほどの悲境時代にあった。雛壇も二階桟敷もがら空きで、どんな名勝負があったところで熱狂して湧きたつ空気などは薬にしたくもない。新聞の社会面の片隅にやっとその日の勝負だけ六号活字で報道されるという時代である。銀座の雑踏の申にのそのそ歩いている力士の姿があらわれると、その頃時代色の中からあざやかにうきだした有閑婦人やモダンボーイたちは、まるで牛か馬がとびこ...
  • 仲原善忠「私たちの小学時代」
    一  「日清だんぱん破裂して」とか「けむりも見えず雲もなく」とか、そんなふうな軍歌がさかんにうたわれていた明治三十年代が私たちの小学時代です。  「小学時代の思い出」というのが編集者の課題だが、一平凡人の私的な思い出よりも、私の記憶に残る当時の教育風情というようなことに焦点をむけるようにしよう。  とはいうものの、往事は茫々として夢の如し、自分の記憶にあざやかな印象として残っているものは、すべて子供らしい、また自分中心のことでしかなかったことも、読者よ、許したまえと、お断りしておく。  生れた家は久米島の真謝石垣の屋号でよばれていた。兄が二人、下には数人の弟妹が次々と生れつつあった。小学校は生れ村にあった。私は多分四つぐらいから学校に通ったらしい。一年で二回らくだいし、三度目にやっと二年に進級した。今度は大丈夫だろうと母もいっていたが、またらくだいで、泣きさけびながら家に帰って来た。つま...
  • 科学への道 part6
    第三章 !-- タイトル -- 天才論 !-- --  自然研究者の中にはとくに天才を要望するのであって、天才が出でて初めて研究 が|進捗《しんちよく》し、天才が出でざれば|停頓《ていとん》するのである。天才は出ずる事がはなはだまれで あり、天才はまた|薄幸《はつこう》である。おそらくその時代においては理解出来ない議論を|吐《は》 く故でもあろうが、時の経過とともに|尊敬《そんけい》されるのである。天才は正に科学史を綴 る人である。|凡庸《ぼんよう》は単に科学を持続けるに役立ち、科学を横に|濃《みなぎ》らせることは出来 ても前進させることは出来ない。天オは果たしてその出現を期待し得べきものであ ろうか、また天才は|栴檀《せんだん》の|二葉《ふたば》より|香《かん》ばしというがごとく、幼少よりして|聡明《そうめい》なる ものであろうか、筆者の思索は|低迷《ていめい》する。  天才は先...
  • 服部之総「新撰組」
    新撰組 一 清河八郎 夫れ非常之変に処する者は、必ずや非常之士を用ふ──  清河八郎得意の漢文で、文久二年の冬、こうした建白書を幕府政治総裁松平春嶽に奉ったところから、新撰組の歴史は淵源するのだが、この建白にいう「非常之変」には、もちろん外交上の意味ばかりでなく、内政上の意味も含まれていた。さて幕末「非常時」の主役者は、映画で相場が決まっているように「浪士」と呼ばれたが、その社会的素姓は何であろうか。  文久二年春の寺田屋騒動、夏の幕政改革を経て秋の再勅使東下、その結果将軍家は攘夷期限奉答のため上洛することとなり、その京都ではすでに「浪士」派の「学習院党」が隠然政界を牛耳っている。時をえた浪士の「非常手段」は、このとし師走以来の暦をくってみるだけでも、品川御殿山イギリス公使館焼打ち、廃帝故事を調査したといわれた塙次郎の暗殺、京都ではもひとつあくどくなって、 「天誅」の犠牲の首や耳や手やを書...
  • 永井荷風「榎物語」
    市外荏原郡世田ケ谷町に満行寺という小さな寺がある。その寺に、今から三、四代前とやらの住職が寂滅の際に、わしが死んでも五十年たった後でなくては、この文庫は開けてはならない、と遺言したとか言伝えられた堅固な姫路革の篋があった。 大正某年の某月が丁度その五十年になったので、その時の住持は錠前を打破して篋をあけて見た。すると中には何やら細字でしたためた文書が一通収められてあって、次のようなことがかいてあったそうである。 愚僧儀一生涯の行状、懺悔のためその大略を此に認め置候もの也。愚僧儀はもと西国丸円藩の御家臣深沢重右衛門と串候者の次男にて有之候。不束ながら 行末は儒者とも相なり家名を揚げたき心願にて有之候処、十五歳の春、父上は殿様御帰国の砌御供廻仰付けられそのまま御国詰になされ候に依り、愚僧は芝山内青樹院と申す学寮の住職雲石殿、年来父上とは眤懇の間柄にて有之候まゝ、右の学寮に寄宿仕り、従前通り江...
  • 永井荷風「雨瀟瀟」
    その年の二百十日はたしか涼しい月夜であった。つづいて二百二十日の厄日もまたそれとは殆ど気もつかぬばかり、いつに変らぬ残暑の西口に蜩の声のみあわただしく夜になった。夜になってからはさすが厄日の申訳らしく降り出す雨の音を聞きつけたもののしかし風は芭蕉も破らず紫苑をも鶏頭をも倒しはしなかったーわたしはその年の日記を繰り開いて見るまでもなく斯く明に記憶しているのは、その夜の雨から時候が打って変ってとても浴衣一枚ではいられぬ肌寒さにわたしはうろたえて襦袢を重ねたのみか、すこし夜も深けかけた頃には袷羽織まで引掛けた事があるからである。彼岸前に羽織を着るなぞとはいかに多病な身にもついぞ覚えたことがないので、立つ秋の俄に肌寒く覚える夕といえば何ともつかずその頃のことを思出すのである。 その頃のことといったとて、いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。唯その頃までわたしは数年の間さしては心...
  • 江戸川乱歩「黒手組」
    あらわれたる事実  またしても明智小五郎のてがら話です.  それは、わたしが明智と知り合いになってから一年ほどたった時分のできごとなのですが、事件に一種劇的な色彩があって、なかなかおもしろかったばかりでなく、それがわたしの身内《みうち》のものの家庭を中心にして行なわれたという点で、わたしにはいっそう忘れがたいのです。  この事件で、わたしは、明智に暗号解読のすばらしい才能のあることを発見しました。読者諸君の興味のために、かれの解いた暗号文というのを、まず冒頭に掲げておきましょうか。 一度お伺《うかが》いしたいしたいと存じながらつい 好《よ》いおりがなく失礼ばかり致しております 割合にお暖《あたた》かな日がつづいてますのね是非 此頃《このごろ》にお邪魔《じやま》させていただきますわさて日 外《いつぞや》×つまらぬ品物をおおくりしました処《ところ》御《ご...
  • 亀井勝一郎「美貌の皇后」
                                             ふぴ  法華寺は大和の国分尼寺である。天平十三年光明皇后の発願されしところで、寺地は藤原不比 と 等の旧宅、平城京の佐保大路にあたる。天平の盛時には、墾田一千町の施入を受くるほどの大伽 藍であった。その後次第に崩壊し、現在の本堂は、慶長年間豊臣氏の命で旧金堂の残木を以て復 興されたものと伝えられる。円柱の腐蝕甚しく、荒廃の感は深い。平城宮の廃墟に近く、今はわ ずか七人の尼僧によって法燈が擁られるのみ。本尊は光明皇后の御姿を写したと云われる十一面 観音である。この二月久しぶりで拝観した。  私は「大和古寺風物誌」の中でもかいたが、この観音像についての有名な伝説をもう一度紹介 しておきたい。北天竺の轍階羅国に見生王という王様がいたが、どうかして生身の観音を拝みた く思い、或るとき発願入定して念じた。するとやがて、...
  • 大下宇陀児「石の下の記録」(2)
    群盗  その同じ晩1。  というのは、代議士藤井有太の留守宅へ、中正党代議士 の諸内達也が訪ねてきて、バヵバカしいほど大きな果物の 籠を、手土産としておいて行った晩に、不良少年有吉の仲 間は、午後八時キッカリ、省線池袋駅前のパチンコ屋でせ いぞろいした。  彼らは、その日四谷の麻雀クラブへあつまって打合せを すました。ちょうどそこへ友杉がやってきて、有吉だけを つれ去ったが、あとに五人の仲間がのこった。そうしてこ の五人で相談して、ともかく『あれ』を、思い立った今佼 のうちに、決行しようということになったのである。『あ れ』というのは、隠語で言えば、トントンとか、タタキと か、言うのであろう。強盗をやるということを、さすがに 彼らは、そのまま口へ出していうのが恐ろしく、こういう あいまいな代名詞で、間に合わしていたわけだった。それ に『あれ』は、もし飼か都合のよいことが起って、しない で...
  • 江戸川乱歩「一枚の切符」
    上  「いや、ぼくは多少は知っているさ。あれはまず、近来の珍事だったからな。世間はあのうわさで持ち切っているが、たぶん、きみほどくわしくはないんだ。話してくれないか」  ひとりの青年紳士が、こういって、赤い血のしたたる肉の切れをロへ持って行った。 「じゃ、ひとつ話すかな。オイ、ボーイさん、ビールのお代わりだ」  みなりの端正なのにそぐわず、髪の毛をばかにモジャモジャと伸ばした相手の青年は、次のように語りだした。  「時はー大正i年十月十日午前四時、所はi町の町はずれ、富田博士邸裏の鉄道線路、これが舞台面だ。晩秋のまだ薄暗い曉の静寂を破って、上り第○号列車が驀進《ぼくしん》して来たと思いたまえ。すると、どうしたわけか、突然けたたましい警笛が鳴ったかと思うと、非常制動機の力で、列車はだしぬけに止められたが、少しの違いで車が止まる前に、ひとりの婦人がひき殺されてしまったんだ。ぼくはその...
  • 永井荷風「監獄署の裏」
    われは病いをも死をも見る事を好まず、われより遠けよ。世のあらゆる醜きものを。ー『ヘッダガブレル』イプセン     兄閣下お手紙ありがとう御在います。無事帰朝しまして、もう四、五ヵ月になります。しかし御存じの通り、西洋へ行ってもこれと定った職業は覚えず、学位の肩書も取れず、取集めたものは芝居とオペラと音楽会の番組に女芸人の寫車と裸体画ばかヴ。年は己に三十歳になりますが、まだ家をなす訳にも行かないので、今だにぐずぐずと父が屋敷の一室に閉居しております。処は市ヶ谷監獄署の裏手で、この近所では見付のやや大い門構え、高い樹木がこんもりと繁っていますから、近辺で父の名前をお聞きになれば、直にそれと分りましょう。 私は当分、何にもせず、此処にこうしているより仕様がありますまい。一生涯こうしているのかも知れません。しかし、この境遇は私に取っては別に意外というほどの事ではない。日本に帰ったらどうして暮そう...
  • 妹尾アキ夫「本牧のヴィナス」
      そのころ――とある男が話しはじめた。そのころ、私は徹底的な嫌人病に冒されていた。ひとと話をするのが、ただわけもなく嫌で、大儀で、億劫で、まア、ちょっと例をあげると、自分の家の近くで、お隣の人に出会うと、ただちょっと会釈するだけで、それでいいのだけれど、それがどうも億劫でならないので、遠方から姿を見つけると、逃げるように横道へ折れるというありさまだった。そんなわけで、私は少々便利は悪くても、文明の雑音の響いてこない、隣近所のない、静かな一軒家で、しかも出入りすることに靴を脱いだり履いたりする煩わしさのない、粗末ながらも簡素な洋式生活のできる家を、長い間探していたのであるが、とうとうどうにかこうにか、まずこの条件にかなうと言っていい家を見つけたのである。それは横浜の本牧岬の、俗に八王子という村の西の海岸の谷間にある家で、一の谷という畑中の停留場から、右に山、左に森や畑の問の細道を海のほうへ...
  • 吉川英治・佐藤春夫対談「「太平記」縦横談」
    佐藤 吉川君、実は僕は中学三年ぐらいの時に中学生らしい読み方で読んだきりその後読まないから、とても君のおつきあいできないので、今日は君に主役になってもらって、僕がワキをつとめたいんだから、そのつもりでよろしく。 吉川 主役になれるかどうかわかりませんが、雑淡しましょう。 佐藤 僕は吉川君が、「平家」のあとに「太平記」を書いておられるが、それを「平家」に続いて書く気になった気持を聞きたいと思っている。僕はかってに憶測して、「平家」は平家琵琶があり、「太平記」には太平記読みがあって、国民にもっとも親しまれた国民文学というようなものだから、二つを同じような意向でつづけて雷く気になったのかなあと解釈しているんだけれど、それでまちがえありませんか。 吉川 だいたいそうです、「新・平家」が終わりましたものの、もっと実朝を、それから鎌倉幕府の将来というような点まで書いたらどうかとすすめられたのです。実は...
  • 佐藤春夫訳「方丈記」
     河水《かわみず》の流れは絶え間はないが、しかしいつも同一の水ではない。停滞した個所に浮いている泡沫《みなわ》は消えたり湧《わ》いたりして、ながいあいだ同じ形でいるものではない。世上の人間とその住宅とてもまた同様の趣《おもむき》である。壮麗な都に高さを争い、瓦の美を競っている貴賤の住民の居宅は幾代もつきぬものではあるが、これを常住不変の実在かと調べてみると、むかしながらの家というのはまれである。去年焼けて今年で・きたというのや、大きかったのが無くなって小さいのになったりしている。住民のほうもまた家と同様、住む場所は同じ所で、住民も多いが、むかしながらの人は二三十人のうちで僅か一人か二人である。朝《あした》に死ぬ人もあれば、夕方に生れる人があったり、水の泡や何かにそっくりではないか。不可解にも生れる人や死ぬ人はいったいどこから来たり、どこへ行ってしまったりするのであろう。さらに不可解なのはほ...
  • 江戸川乱歩「断崖」
     春、K温泉から山路をのぼること一マイル、はるか目の下に渓流をのぞむ断崖の上、自然石のベンチに肩をならべて男女が語りあっていた。男は二十七、八歳、女はそれより二つ三つ年上、二人とも温泉宿のゆかたに丹前をかさねている。 女「たえず思いだしていながら、話せないっていうのは、息ぐるしいものね。あれからもうずいぶんになるのに、あたしたち一度も、あの時のこと話しあっていないでしょう。ゆっくり思い出しながら、順序をたてて、おさらいがしてみたくなったわ。あなたは、いや?」 男「いやということはないさ。おさらいをしてもいいよ。君の忘れているところは、僕が思い出すようにしてね」 女「じゃあ、はじめるわ……最初あれに気づいたのは、ある晩、ベッドの中で、斎藤と抱きあって、頬と頬をくっつけて、そして、斎藤がいつものように泣いていた時よ。くっつけ合った二人の頬のあいだに、涙があふれて、あたし...
  • 大下宇陀児「偽悪病患者」
      (妹より兄へ)  ××日付、佐治さんを接近させてはいけないというお手紙、本日拝見いたしました。  いつもどおり、いろんなことに気を配ってくださるお兄様だけれど、喬子、こんどのお手紙だ けはよくわかんない。佐治さんは、喬子が接近したのでもないし、接近させたんでもないの。お 兄様だって御承知のとおり、お兄様や漆戸と同期生だったんですって。アメリカから帰られると、 すぐ漆戸を訪ねていらっしゃって、漆戸は、病気で退屈で、話し相手が欲しいもんだから、佐治 さんが来てくださるのを、ずいぶん楽しみにしているんですわ。  そういえば思い出すけれど、漆戸が一度いいました。「佐治という男は、学校時代からちょっ と変わったところがあって、他人からずいぶん誤解されたものだが、芯は、気の弱い正直な男 さ」って。喬子、まだ佐治さんがどんなふうに変わっている人か知らないけれど、お兄様が何か きっと誤解しているんじゃ...
  • 大下宇陀児「石の下の記録」(3)
    血の部屋 一  夜の空気の中で、貴美子夫人の顔や姿は、光る絹か、透 明な、そして柔かいガラスで作った生物のような感じをあ たえた。  何時何分という、ハッキリした時刻を、あとで思ってみ ても残念なことに、誰も記憶していない。が、ともかく、 午前一時半に近いか、もしかしたら、それをもう過ぎてい る。  二人は、びっくりして門の前に立ちどまったままだった が、驚きは、向うでも、大きい風だった。 「あら、どうしたのよ、有吉ちゃんも友杉さんも……」  そうして、貴美子夫人は、こっちの二人を、頭から爪の 先きまで、吟味する眼つきで見なおし、それから抱いてい た白いエナメル塗りのハンド。バッグから、白い小さなハン ケチを出した。  疲れたという表情であり、顔の汗をそのハンケチでおさ えている。 げ 「電車がなくなっちゃったの。しかたがないから歩いた 、わ。 一時間もl」 「どこへ行ってらしたんで...
  • 大下宇陀児「老婆三態」
    その一 老婆と水道  「おばあちゃん、おばあちゃんてば!」  ぐいぐいと肩を揺すられて、村井家の老婆はふっと眼を覚ました。七十五になる中風のお 婆さん、膝の上に本を開いて眼鏡を掛けたまま居眠っていた。  「おばあちゃん、あたちにめがねかちて」  孫娘の君ちゃんは、祖母の肩に両手を置いて言った。 「どうします、眼鏡などを──」 「あたちね、おはりしごとするの。いとがはりにとおらないのよう」 「ホ、ホ、ホ、ホ──」  老婆は笑まし気な声を立てた。右半身が中風でよくいうことを利かない。辛うじて歩けるが 使うのには左手が便利だ。左手を不器用に動かして眼鏡を外した。  「あらおばあちゃん、このめがねこわれてる?」  「どうしてなの」  「あたち、おめがいたいの。みえないわ」  鼻のとっ端へ老眼鏡をかけて、一生懸命糸を針のめどに通そうとする孫娘に、老婆はも一度 声を立てて笑った。 「ホ、ホ、ホ、ホ─...
  • 亀井勝一郎「古塔の天女」
     この春東大寺の観音院を訪れたときは、もう日がとっぷり暮れていた。星ひとつない闇夜で あった。老松の並木に沿うて参道を行くと、ふいに、まるで巨大な怪物のような南大門に出っく わした。いかにも突然の感じで、昼間は幾たびも見なれて気にもとめないこの門の、異様な夜景 に驚いた。昼間よりはずっと大きくみえる。地にうずくまりながら、頭をもたげ、大きな口を開 いて咆号する化物じみたすがただ。仁王の顔面はみえないが、胴体はさながら節くれだった巨大 な古木であった。夜の寺は凄くまた底しれぬ深さを感じさせるものである。  大仏殿はなおさらのことで、廻廊が長々とつづいて闇に消える辺りを見ていると、建物が地上 全体を蔽うているようだ。形の実にいいのに感心した。大和の古寺の中では新しい方だが、こう して夜眺めるとなかなか風格が出来たといった印象を与えられる。人影もなく、あたりは森閑と して物音ひとつ聞えない。廻廊...
  • 江戸川乱歩「空気男」
    「二人の探偵小説家」改題 一  北村五郎《きたむらごろう》と柴野金十《しばのきんじゆう》とが、始めてお互《たがい》の顔を、というよりは、お互の声を聞き合ったのは、(もう出発点からして、この話は余程《よほど》変っているのだ)ある妙な商売のうちの、二階においてであった。  それがあまり上等の場所ではないので、壁などもチャチなもので、一方の、赤茶けた畳《たたみ》の四畳半に寝ている北村五郎の耳に、その隣の、恐らく同じ構造の四畳半で、変な小うたを口吟《くちずさ》んでいる、柴野金十の声が聞えて来たのである。北村が想像するには、あの隣の男も、北村自身と同じ様に、相手の一夜妻はとっくに逃げ出してしまって、彼もまた退屈し切っているのであろう。そして、あんな変な、何の節《ふし》ともわからない、ヌエの様な小うたをうなっているのであろう。一つこっちから声をかけて見ようかな。北村は、そこで、そういう場合のこ...
  • 科学への道 part2
    !-- タイトル -- 科学者と理性 !-- --  科学者という者が社会からは別箇孤立の人間であるごとく考える人もあろうが、 彼らはもっとも理性に忠実で好んで自我を表現せんとする人間であるからでもあろ う。人間一般は時代の進歩に伴って、より多く理性生活をなす状態になったが、未 だ前途はほど遠いのである。即ち科学の進歩は絶えず行なわれておりながら、我々 今日の知識として自然現象を充分|闡明《せんめい》し得ることが出来ないからである。なかんず く、生命に関する問題は人生にとってもっとも重大な事件であるにもかかわらず医 学者の未だ触れることすら出来ない現象が暗黒の中に|潜《ひそ》んでいるからともいえるで あろう。即ちこの点で迷信が|跳梁《ちようりよう》することも致し方なき次第である。  世の中には|迷信《めいしん》的な|取《と》り|極《き》めがはなはだ多い。中にも|縁組《えんぐ》み、|...
  • 伊波普猷「中学時代の思出」
      -この一篇を恩師下国先生に捧くー-  「沖縄を引上げる時、沖縄を第二の故郷だといつた人は可なりあるが、この第二の故郷に帰つて来た人は至つて少ない。」と仲吉朝助氏がいはれたのは事実に近い。よし、帰って来た人があるとしても、恩師下国先生位歓迎された人は少なからう。沖縄を去る可く余儀なくされた時、下国先生が沖縄を第二の故郷といはれたかどうかは覚えてゐないが、先生は数年来の私たちの希望を容れられて、旧臘三十年振りに、この第二の故郷に帰つて来られた。三十年といへば随分長い年月である。この間に私たちの環境は著しく変つた。けれども旧師弟間の精神的関係のみは少しも変らなかつた。先生が思出多き南国で旧門下生に取巻かれて、六十一の春を迎へられたのは、岸本賀昌氏がいはれた通り、社会的意義があるに相違ない。下国良之助の名は兎に角沖縄の教育史を編む人の忘れてはならない名であらう。この際、四年八ケ月の間親しく先...
  • 菊池寛「三人兄弟」
    一 三筋の別れ道  まだ天子様の都が、京都にあった頃で、今から千年も昔のお話です。  都から二十里ばかり北に離れた丹波の国のある村に、三人の兄弟がありました。一番上の兄を一郎次と言いました。真中を二郎次と言い、末の弟を三郎次と言いました。兄弟と申しましても、十八、十七、十六という一つ違いで脊の高さも同じ位で、顔の様子や物の言いぶりまで、どれが一郎次でどれが二郎次だか、他人には見分けの付かないほどよく似ていました。  不幸なことに、この兄弟は少い時に、両親に別れたため、少しばかりあった田や畑も、いつの間にか他人に取られてしまい、今では誰もかまってくれるものもなく、他人の仕事などを手伝って、漸くその日その日を暮しておりました。が、貧乏ではありましたが、三人とも大の仲よしでありました。  ある夜のことでありました。一郎次は、何かヒドク考え込んでいましたが、ふと顔を上げて、  「こんなにして、毎日...
  • 岩野泡鳴「ぼんち」
    『ほんまに、頼りない友人や、なア、人の苦しいのんもほツたらかしといて、女子《をなご》にばかり相手になって』と、定《さだ》さんは私かに溜らなくなった。  づん/\痛むあたまを、組んで後ろへまわした両手でしツかり押さへて、大廣間の床の間《ま》を枕にしてゐるのは、ほんの、醉つた振りをよそほってゐるに過ぎないので。  實は、あたまの心《しん》まで痛くツて溜らないのである。  藝者も藝者だ。氣の利かない奴ばかりで、洒落《しゃれ》を云ったり、三味をじやん/\鳴らしたり、四人も來てゐた癖に、誰れ一人《ひとり》として世話をして呉れるものがない。 『ええツ、こツちやもほツたらかして往《い》んだろかい』とも心が激《げき》して來た。  渠は實際何が爲めにこんなところへ來たのかを考へて見た。夕飯を喰べてから、近頃おぼえ出した玉突をやりに行くと、百點を突く長《ちやう》さんと八十點の繁《しげ》さんとが來てゐた。  長...
  • 大下宇陀児「石の下の記録」(4)終
    絶壁       一                へきぎよくろう  M県S海洋という町の温泉旅館碧玉楼へ、ある日の夕 方、二つの大型トランクを携帯した、男女二人つれの奇妙 な客がぎて泊った。  男は五十歳ぐらい、女はずっと若くて三十歳ぐらい ー。  彼等は、駅からまっすぐに自動車でやってきた。  しかし、その自動車からおりたばかりの時は、まことに みすぼらしい服装をしていて、男の方は、ところどころつ ぎ目のあたっている白麻のズボンに汚れきった開襟シャ ツ、古びたカンカン帽に軍隊靴といういでたちだったし、 女がまた、顔立ちだけは整っていながら、着ているワンピ ースの服が、仕立も柄合もひどくじみで不恰好で、その上 むきだしの足に、ズックの運動靴をはいているという有様 だったから、はじめ宿ではこの二人をすっかりと軽蔑し、 ほかに空いた部屋もあったのに、彼等を宿としては最下等 の一室に通したほど...
  • 久保田万太郎「「北風」のくれたテーブルかけ」
        その一  宿屋。  夜。  宿屋のかみさんは洗濯ものにアイロンをかけている。  亭主は火のぞぱで煙草を喫《の》んでいる。 宿屋の亭主 月日のたつのは早いものだ。——お前と、おれと、この商売をはじめてからもう十年になる。 宿屋のかみさん 十年に? 宿屋の亭主 勘定して御覧、そうなるから。 宿屋のかみさん (勘定してみて自分に)ほんとうだ。——(亭主に)ほんとうにそうなりますね。 宿屋の亭主 あの時分は、おれたちは、随分貧乏だった。——それを思うと、このごろは、うそのように金持になった。(ト、一人言のようにいう) 宿屋のかみさん ほんとうにねえ。 宿屋の亭主 だが、まだいけない。——こんなことじゃあまだいけない。——もっともっとおれたちは儲《もう》けなくっちゃあいけない。(ト、矢っ張、一人言のように) 宿屋のかみさん そうですわねえ。 宿屋の亭主 だが、宿屋って商売はいい商売だ。——お...
  • 楠田匡介「脱獄を了えて」
    第四十八号監房 「よし! これで脱獄の理由がついたぞ1」  六年刑の川野正三は、こう心の中で呟いていた。正三の 前には、一本の手紙があった。  内縁の妻から来たもので、それには下手な字で、こまご まと、正三と別れなければならない理由が書かれていた。  今度の入獄以来、正三には、こうなる事は判っていたの である。  終戦後、これで三回目の刑務所入りである。罪名は詐 欺、文書偽造。  三回目の今度と云う今度は、妻の領子もさすがに、愛想 をつかしていた。 「畜生!」  正三は声を出して云った。 「どうしたい?」  同じ監房の諸田が、雑誌から顔をあげて訊いた。 「うんー」 「細君《ばした》からの手紙だろう?」 林が訊いた。 「うん」 「そうか……」  諸田が判ったように頷いた。  その川野の前にある手紙の女名前から、別れ話である事 に、察しがついたからである。十二年囚の諸田にも、その 経験があっ...
  • 科学への道 part4
    !-- 十一 -- !-- タイトル -- 科学と芸術 !-- --  科学と芸術とは一見対蹄的位置に立つごとく見えるものであるから、科学者は芸 術を|遊戯《ゆうぎ》のごとくに|蔑《さげす》み、芸術家は科学をあらずも|哉《がな》の|所作《しよさ》と断ずる。しかし、こ れらはいずれも人間性に|立脚《りつきやく》した|崇高《すうこう》の所作であり、真と美に対する人間の創作た ることを信じて疑わず、かっ尊敬するに|躊躇《ちゆうちよ》しないのである。即ち人間性中、美を 対象として|憧《あこが》れる心も、理性的に自然に即さんとする心も、いかなる外力を以てし ても|圧《お》し|潰《つぷ》すことは出来ないのである。これらはいずれも本能に起因される所作で あるからである。  芸術家の養成については、その才能がまず問題となり、全く好きであるという出 発点があって、音楽家となり、画家となり、彫刻家...
  • 宇野浩二「枯木のある風景」
     紀元節の朝、目をさますと、珍しい大雪がつもっていたので、大阪でこのくらいなら奈良へ行けば五ロぐらいは大丈夫だろうと思いたつと、島木新吉は、そこそこに床をはなれて、なれた写生旅行の仕度にかかった。家を出る時、島木は「四五日旅行する」と書いた浪華《なにわ》洋画研究所あての葉書を妻にわたしながら、「研究所には内証やで、」と云い残した。  浪華洋画研究所というのは、六年前、島木が、その頃、もっとも親しくしていた古泉《こいずみ》圭造と相談して創設したもので、二人だけでは手がたりないので、彼等の共通な友だちで、おなじ土地(大阪市内外)に在住する八田《やた》弥作と入井市造とを講師にたのみ、以来今日までつづいている大阪唯一の新画派の洋画研究所である。新画派というのは、この四人の画家が、この研究所が創設される前の年、同時に新興協会(反官学派画家の団体)の会員に推選されたという由来があるからである。  奈良...
  • 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」
    1  たぶんそれは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田《こうた》三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやってみても、いっこうこの世がおもしろくないのでした。  学校を出てからーその学校とても、一年に何日と勘定のできるほどしか出席しなかったのですがーかれにできそうな職業は、片ッ端からやってみたのです。けれど、これこそ一生をささげるに足りると思うようなものには、まだ一つもでくわさないのです。おそらく、かれを満足させる職業などは、この世に存在しないのかもしれません。長くて一年、短いのは一月ぐらい、かれは職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を捜すでもなく、文字どおり何もしないで、おもしろくもないその日その日を送っているのでした。  遊びのほうもそのとおりでした。かるた、玉突き、テニス、水泳、山登り、碁、将棋、さては各種のとばくにいたるま...
  • 科学への道 part5
    !-- 十五 -- !-- タイトル -- 研究と労作 !-- --  自然研究に当っては人々は極めて多くの労作に時を費さなければならぬ。一つの 事実を認めようとする場合においても、出来るだけ四囲の状況を確めてみてようや く一つの事が判明する場合が多くて、これだけの労力は決して|厭《いと》ってはならぬ。し かも事実の|穿整《せんさく》のみが科学の要素ではない。得られた事実を系統|統轄《とうかつ》することもも ちろんである。このためにはたえず考えていなくてはならぬ。すべての事実を系統 立てる行為は頭の中の仕事であって、決して目には見えない。したがって外観的に 遊んでいるごとくに見える場合もあろうが、むしろこの頭中の労作ほど偉大なもの はないのである。また頭中の労作は目に見えないために、これをよき|幸《さいわい》として、|獺惰癖《らんだへき》に|陥《おちい》る学者もまた絶無とはいえ...
  • 宇野浩二「枯野の夢」
    一 旅に病むで夢は枯野をかけめぐる 芭蕉  汽車が大阪の町をはなれて平野を走る頃から、空模様がしだいに怪しくなって来た。スティイムの温度と人いきれで車内はのぼせるほど暖かであったが、窓ガラスひとえ外は如何にも寒そうな冬枯れの景色であった。青い物の殆んど見られない茶褐色の野の果てには、雪をかぶった紀伊の山脈、その手前に黒褐色をした和泉《いずみ》の山脈、汽車の行く手には、右側に、二上山《ふたがみやま》、葛城山《かつらぎやま》、金剛山、左側に、信貴山《しぎさん》、百足山《むかでやま》、生駒山《いこまやま》などが墨絵の景色のように眺められ、目の下の野には、ときどき村落、ときどき森林、などが走り過ぎるだけで、人の子ひとり犬の子一ぴき見えない。と、見る見るうちに、まず紀伊の山脈が頂上の方から姿を消しはじめ、つぎに和泉の山脈が、それから、右手は、金剛山、葛城山、二上山の順に、左手は、生駒山、百足山、...
  • 飛田穂洲「熱球三十年」3
    順ちゃんのタンカ 一番愉快な思い出  こうした当時の人々を思い出すたび、ことに私の胸になつかしくよみがえってくるものは、大正十年のアメリカ遠征である。私はいったい旅行がきらいだ。汽車というものを好かない。汽船には存外好感を持てるけれども、汽車は窮屈で、なんともからだを持てあます。だから、単独で遠い旅行をすることはほとんどないし、その意味から、遠征などに好印象を残しているのが少ない。  しかしこのアメリカ遠征だけは、私の一生の中でもっとも愉快な思い出である。ああした旅行をもう一度してみたいような気がする。このときのティームは、まえにもいったように大正十三、四年ごろのティームに比較すれば、ふぞろいであった。谷口はこの遠征に苦労したため、小野三千麿と併称されるまでになったのであって、この遠征の中途までは、さほどでなかったし、全体としての守備、打力とも決して充実したものとはいわれなかった。こ...
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