網迫の電子テキスト乞校正@Wiki内検索 / 「馬場恒吾『自伝点描』「人生随想」処世訓」で検索した結果

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  • 緒方竹虎『人間中野正剛』「中野正剛の回想」
    ~三田村武夫中野正剛の回想   中野の碑文   現状打破の牢騒心   東洋的熱血児   竹馬の友   悍馬御し難し   打倒東条の決意   自刃・凄愴の気、面を撲つ  中野の碑文 「おれが死んだら、貴様アおれの碑文を書いてくれ、その代り、貴様が先に死んだらおれが書くから」中野君はよく冗談にこういうことを話していた。それで、昭和十八年十月、中野君が自刃した時、一応のショックがおさまると同時に、何よりも先に私の頭に浮んだことは、この旧約に基く中野君の碑文のことであった。二人が生きていて冗談を言い合っている時には、必ずしも真面目に碑文を書くつもりでもなかった。中野君も同様であったろうと思う。しかし目の当り中野君の死、しかも非命の死にぶっつかってみると、多少とも中野君が当てにしていたであろう碑文を書くことが、自分の責任のように思われ出した。  当時は戦局がだんだんに悪くなるとともに、世相はなはだ険...
  • 佐藤春夫「「都会の憂鬱」の巻尾にしるす文」
    佐藤春夫? 「都会の憂鬱」?の巻尾にしるす文 「都会の憂鬱」は大正十一年一月から同年十二月まで雑誌「婦人公論」に連載されたものである。単に一人の男の平板なただ困憊し切っただけの生活を現はして見よう──描くのでもない、写すのでもない、歌ふのでもない、現はして見ようとしたのである──と思ってから五年目に筆をとった。──といふと、それほど永い間の腹案で、従ってよほどの大作などと早呑込みは困る。ゆっくりとさきをお読み下さい。──五年前の腹案は、白状するが筆をとって見ると殆んど役に立たなかった。何となれば私だってたとひさまざまの不安定のうちに育っても五年立てば五つになってゐたからである。さうして私はその腹案を打壊すことに苦しみながらいつも手さぐりで書いたのである。やけに書いたのである。大へんつまらない作だと思ったり──謙遜などといふ口クでもないものでこんな事を言ふのぢやない──、必ずしもさ...
  • 江戸川乱歩「人間椅子」
     佳子《よしこ》は、毎朝、夫の登庁を見送ってしまうと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館のほうの、夫と共用の書斎へ、とじこもるのが例になっていた。そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせるための、長い創作にとりかかっているのだった。  美しい閨秀作家《けいしゆうさつか》としての彼女は、このごろでは、外務省書記官である夫君《ふくん》の影を薄く思わせるほども、有名になっていた。彼女のところへは、毎日のように未知の崇拝者たちからの手紙が、幾通となくやって来た。  けさとても、彼女は書斎の机の前にすわると、仕事にとりかかる前に、まず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。  それはいずれも、きまりきったように、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女のやさしい心づかいから、どのような手紙であろうとも、自分にあてられたものは、ともか...
  • 織田作之助「人情噺」
     年中夜中の三時に起こされた。風呂の釜を焚くのだ。毎日毎日釜を焚いて、もうかれこれ三十年になる。  十八の時、和歌山から大阪へ出て来て、下寺町の風呂屋へ雇われた。三右衛門という名が呼びにくいというので、いきなり三平と呼ばれ、下足番をやらされた。女客の下駄を男客の下駄棚にいれたりして、随分まごついた。悲しいと思った。が、直ぐ馴れて、客のない時の欠伸のしかたなどもいかにも下足番らしく板について、やがて二十一になった。  その年の春から、風呂の釜を焚かされることになった。夜中の三時に起こされてびつくりした眼で釜の下を覗いたときは、さすがに随分情けない気持になったが、これも直ぐ馴れた。あまり日に当らぬので、顔色が無気力に蒼ざめて、しょっちゅう赤い目をしていたが、鏡を見ても、べつになんの感慨もなかった。そして十年経った。  まる十三年一つ風呂屋に勤めた勘定だが、べつに苦労し辛抱したわけではない。根気...
  • 江戸川乱歩「人でなしの恋」
    1  門野《かどの》、ご存じでいらっしゃいましょう。十年以前になくなった先《せん》の夫なのでございます。こんなに月目がたちますと、門野と口に出していってみましても、いっこう他人さまのようで、あのできごとにしましても、なんだか、こう夢ではなかったかしら、なんて思われるほどでございます。  門野豕へわたしがお嫁入りをしましたのは、どうしたご縁からでございましたかしら。申すまでもなく、お嫁入り前に、お互いに好き合っていたなんて、そんなみだらなのではなく、仲人《なこうど》が母を説きつけて、母がまたわたしに申し聞かせて、それを、おぼこ娘のわたしは、どういなやが申せましょう。おきまりでございますわ、畳にのの字を書きながら、ついうなずいてしまったのでございます。  でも、あの人がわたしの夫になるかたかと思いますと、狭い町のことで、それに先方も相当の家柄なものですから、顔ぐらいは見...
  • 大曲駒村『東京灰燼記』「書物の行衛」
    十五 図書の行衛  東京の書肆と云ふ書肆は、悉く焼失して終った。山の手方面に一部の災禍を免れたものもないではないが、先づ九分強は皆灰燼に帰した。博文館、丸善、三省堂、冨山房、金港堂、春陽堂、有朋堂、大鐙閣、大倉書店、岩波書店、植竹書院、吉川弘文館、前川文栄閣、越山堂、教文館、アルス社、啓成社、わんや、玄文社等、兔に角一流どころの老舗或は新興の書肆は全く全焼して、其跡を訪ふと余焔の中に貴重なる書籍の俤を止めてゐる。  古書籍商も、浅草の浅倉書店、九段下から真っ直ぐに下りて来た村口書店をはじめ、神田の一誠堂、村越書店、下谷の源泉堂、本郷の南陽堂等、悉く全滅した。あの神保町の電車通りで、軒を並べた古書籍店が、凡そ幾戸あったか数へ難いほどであったが、珍籍奇書と共に悉く烏有に帰した。  図書館もその通りである。上野図書館、日比谷図書館、早稲田大学図書館等は皆無事で、遂に劫火を免れたが、明治大学...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百四十一
     十五夜の月の円満な形も一刻も固定的なものではない。すぐ欠けてくる。注意深くない人は一夜のうちにだって月の形がそれほど変化して行く状態などは目にもとまらないのであろう。病が重るのもある状態で落ちついている隙もなく、刻々に重くなって行ってやがて死期は的確に来る。しかし病勢がまだあらたまらず、死に直面しないあいだはとかく人間は人生が固定不動という考えが習慣になって生涯のうちに多くの事業を成就して後静かに仏道を修行しようなどと思っているうちに病にかかって死の門に接近する。その時かえりみれば平生の志は何一つ成就していない。この度命をとりとめて全快したら昼夜兼行このこともあのこともつとめて完成しようという念願を起すようであるが、ほどなく病が昂じては我を忘れて取り乱して終る。人間は誰しもこんなふうである。なん人《びと》もこの一事を痛切に念頭におくべきである。欲望を成就して後に、余暇があったら道を修しよ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二十二
     何事につけても昔がとかく慕わしい。現代ふうはこの上なく下品になってしまったようだ。指物《さしもの》師の作った細工物類にしても昔の様式が趣味深く思われる。手紙の文句なども昔の反古《はこ》が立派である。口でいうだけの言葉にしたところが、昔は「車もたげよ」「火かかげよ」と言ったものを、現代の人は「もてあげよ」「かきあげよ」などという。主殿《とのも》寮の「人数《にんじゆ》立て」というべきを、「たちあかししろくせよ」(松明《たいまつ》を明るくせよ)と言い、最勝講《さいじようこう》の御聴聞所《ちようもんじよ》は「御講の盧」というべきを「講盧《こうろ》」などと言っている。心外な事であると、さる老人が申された。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百二十五
     人に死なれて四十九日の仏事にある高僧に来ていただいたところ、説法が結構で人々みな涙を流した。導師が帰ってからのち、聴聞の人々が「いつもよりは今日は特別に有難く感じられました」と感心し合っていると、ある人が「なにしろあれほど唐の狗《いぬ》に似ていられるのですものね」と言ったのには、感動もさめて吹き出したくなった。そんな導師のほめ方なんてあるものか。また、「人に酒をすすめるつもりで、自分がまず飲んでから人にしいようというのは剣で人を斬ろうとしているようなものである。両方に刃がついているから、ふり上げたとき、まず自分の頭を斬るから相手を斬ることはできない。自分がまず酔い倒れたら、人にはとても飲ませられはすまい」とも言った。剣で人を斬ってみたことがあるのだろうか、じつに滑稽であった。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百七十四
     小鷹狩に適した犬を大鷹狩に使用すると.小鷹狩に悪くなるということである。大について小を棄てる道理は、じつに尤もな次第である。人生の事がらが多事な中で、道を修めることを楽しみとするほど、興・趣の深遠なものはない。これこそは真の大事である。一たん人間の志すべき道をきいて、これに志を向けた人が、どうして世上一般の何事か捨てられないことがあろうか。何事を営む心があろうか。愚人だっても、怜悧な犬の心に劣るはずがあろうか。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百四十
     死後に財宝をのこすようなことは智者のせぬところである。よくないものを蓄えておくのも品格を下げるし、立派なものは執蒼のほどを思わせるので趣味性ならぬ、人生観を浅薄に思わせる。ましてさまざまなものがごたごたとあるのはいよいよいけない。自分が手にいれたいという人々が現われて、争いになるのは不体裁である。後に誰に譲りたいと思うものがあるなら、生存中に譲るべきである、毎日欠くべからざるものは無くてはなるまい。それ以外のものはなに一つ持たないでいたいものである。
  • 佐藤春夫「散文精神の発生」
    佐藤春夫? 散文精神の発生  新潮の九月号で広津和郎君が書かれた「散文芸術の位置」といふ文章は多少不備で、散漫で、然も尽くさないところがあったやうに思ふが、それでも   「沢山の芸術の種類の中で、散文芸術は。直ぐ人生の隣りにゐるものである。右隣りには、詩、美術、音楽といふやうに、いろいろの芸術が並んでゐるが、左隣りは直ぐ人生である。」 といふ結論は確かな真実で   「認識不足の美学者などに云はせると、それ故散文芸術は、芸術として最も不純なものであるやうに解釈するが、しかし人生と直ぐ隣り合せたといふところに、散文芸術の一番純粋の特色があるのであって。それは不純でもない、さういふ種類のものであり、それ以外のものでないといふ純粋さを持ってゐるものなのである。」 と看破したのは達見である。まさしく吾々が知らず識らずのうちに陥ってゐる散文芸術を律するに、詩によって立てられた美学を襲...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」七十四
     蟻のように集まって、東西に急ぎ、南北に奔走している。高貴の人もあれば卑賤の人もある。老人もいるし、若者もいる、出かけて行く場所があり、帰って来る家庭がある。みな、夜には寝て、朝になれば起きて働く。営[々と労苦するのはなんのためであるか。死にたくない。儲けたい。休息する時もない。身を養って何を待つのであろうか。待つのはただ年をとって死ぬだけのことではないか。死期の来るのは速いもので、一秒一秒の間でさえ近づいて来ているのである。これを待つ間にどんな楽しみがあり得るか。眩惑されている者はこれを恐れない。名聞や利慾に惑溺して冥途の近づくことを顧慮しないからである。愚人はまた徒《いたず》らに死の近づくのを悲しむ。人生をいつまでもつづけたいと願って変化の法則を悟らないためである。
  • 佐藤春夫訳「徒然草」九十三
    「牛を売る者があった。買う人が、明日、その代価を支払って牛を引取ろうと約束した。夜の間に牛が死んだ。買おうという人が得をした。売ろうという人は損をした」と話した人があった。  この話を聞いていたそばの人が「牛の持主は、なるほど損をしたわけだが、また大きな得もある。というのは生きている者が死の近いのに気づかぬ例は、牛が、現にそれである。人とてもまた同様である。思いがけなくも牛は死に、思いがけなく、持主は生きている。一日の命は万金よりも重い。牛の価は鵝毛《がもう》よりも軽い。万金を得て一銭を失った人を、損をしたとは申されまい」と言ったら人々はみな嘲って「その理窟は牛の主だけに限ったものではあるまい」と言った。  そこでそばの人が重ねて「人が死を悪《にく》むというならば須《すべか》らく生を愛したがよかろう。命を長らえた喜びを毎日楽しまないはずはない。しかるに人は愚かにもこの楽しみを無視して、...
  • 小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集』後語
     寅彦の随筆を選んで文庫本三冊程度の分量にまとめてくれないかと岩波書店から頼まれたのは、たしか昭和十九年の秋の事だった。私が仙台でその仕事を終え目次を岩波書店に送り届けたのは、翌年の二月だったが、ちょうどその時分から戦局はますます日本に不利となり、東京は絶えざる爆撃にさらされ、印刷所と製本所とは次々破壊されて行ったので、それはなかなか印刷には回されなかった。そのうち終戦という事になった。終戦になっても日本の印刷能力と製本能力とはすぐ復旧するはずもなく、用紙の入手さえ一層困難を加えて来たので、自然選集はそのままにしておかれないわけに行かなかった。文庫本出版の見通しが相当はっきりついて、いよいよ選集の印刷にとりかかるがさしつかえはないかと岩波書店から言って来たのは、その昭和二十年も押し詰まった、十二月のころだったかと思う。しかし私は|躊躇《ちゆうちよ》し出した。  初め私は、そのうち戦争がすん...
  • 吉川英治・服部之総対談「「吉川文学」問答」
    服部 ヤア、忙しいんでしょう。 吉川 忙しいんだが、君の名前を聞いたら、急に会いたくなってね。 服部 さっき会うなり思ったのだが、あんたは若い。七、八年ぶりというのに……。 吉川 ハハハ……。そうかしらん。この方が黒いので(と頭髪を両手でかき乱しながら)よくそういわれるのだよ。 服部 それにむかしとちがって顔に疲れが見えないな。ぼくはどう? 吉川 だからさ、君を見た瞬間丈夫になったなと思った。前よりふとった位いじゃないか。 服部 ぼくがあなたに初めてお目にかかったときが三十一、二の頃だったと思う。「檜山兄弟」を書いていたときでしょう。 吉川 あんたは丑で、ぼくは辰。 服部  (同席の記者たちを顧みながら)そのころ吉川さんはすでにうつ然たる大家でね、ぼくは一介の歴史家さ。岩波の「資本主義発達史講座」を書き、肺病にかかっていて、家内の故郷に癒しかたがた行こうという直前だった。吉川さんが訪ねてみ...
  • 江戸川乱歩「百面相役者」
    1  ぼくの書生時代の話だから、ずいぶん古いことだ。年代などもハッキリしないが、なんでも、日露戦争のすぐあとだったと思う。  そのころ、ぼくは中学校を出て、さて、上の学校へはいりたいのだけれど、当時ぼくの地方には高等学校もなし、そうかといって、東京へ出て勉強させてもらうほど、家が豊かでもなかったので、気の長い話だ、ぼくは小学教員でかせいで、そのかせぎためた金で、上京して苦学をしようと思いたったものだ。なに、そのころは、そんなのがめずらしくはなかったよ。なにしろ給料にくらべて物価のほうがずっと安い時代だからね。  話というのは、ぼくがその小学教員でかせいでいたあいだに起こったことだ。 (起こったというほど大げさな事件でもないがね)ある日、それは、よく覚えているが、こうおさえつけられるような、いやにドロンとした春先のある日曜日だった。ぼくは、中学時代の先輩で、町の(町といっても××市のこ...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」百五十五
     俗に順応して世に生きる人は、まず第一に時機を察知しなければなるまい。順序が悪いと、人の耳にも逆らい、心持をもそこない、事は成就《じようじゆ》しない。これほど大切な機運というものをわきまえなくてはならない。しかし、病気になるとか、子を産むとか、死ぬることなどに従っては時機も何もない。折が悪いといって見合わすこともない、発生、存生、異状、壊滅の四相の移り変る真の重大時は、あたかも漲る奔流のように停止するところを知らない力である。寸時も停滞せず即時に変化進行を実現する。それ故、真理に関する方面の努力にしろ、世俗的な業で、この一事はかならず遂行しようと思うほどのものは、時機などは問題ではない。あれこれと準備も用意も必要はない、即刻実行に着手するがいい。春が暮れて夏になり、夏が終って秋が来るのではない。春はその時に早くも夏の気をもよおし、夏の時すでに秋の気が来ているのである。秋はやがて冬の寒さを伴...
  • 三好達治「堀辰雄君のこと」
     一身|憔悴《せうすい》花ニ対シテ眠ル、  いつどこで記《おぽ》えた句か前後は忘れてしまったのが近頃時たま唇にのぼってくるのを愛誦している、まったくそれは今の僕の境涯だからね、  堀は臥床の中から天井を見あげたままそういって淋しく笑った。一昨年秋のこと、それが最後の訪問となった折の話柄であった。その庭さきにはカンナやなんぞ西洋花らしいのが二三美しく咲いていた。大歴の才子司空曙の七絶「病中妓ヲ遣ル」というのの前半「万事傷心目前二在リ、一身憔悴花ニ対シテ眠ル」はまったくそのまま当時の堀にあてはめて恰好《かつこう》であった。詩の後半「黄金散ジ尽シテ歌舞ヲ教ヘシガ、他人ニ留与シテ少年ヲ楽シマシメン」というのは、年少のお妾《めかけ》さんを憐れんで適当な若者に遣わそうというのだよ、と私がうろ記えのつけ足しをすると、それも不思議に堀の気に入ったようであった。牀中《しようちゆう》の堀は言葉少なに応答も大儀...
  • 川路柳虹「跋」
     先驅者の仕事はその當時にあつてはいつも不幸だ。故平戸廉吉君の詩集の如きもその一つである。君の詩に於ける建設は今日から見て單なる詩の手法上の新意以上の或るものを有つてゐたのである。君は最初伊太利藝術界に端を發した未來主義の名のもとにその創作を發表した。しかしそれは最も獨創に富む君自身の創設であつた。それから第四側面の詩、即ち詩に於ける第四次元的宇宙の展開を意圖する時から何人もが提唱するをえなかつた新しき詩論に立て籠つて『アナロジスムの詩』の樹立に向つた。不幸その創作半ばで君は肺患のために倒れた。がその新しき詩論はとりもなほさず君の新しき宇宙觀であり、そこに立脚する詩の創造である。アルス・ポエチカといふ語が單なる詩の技法を示すのでなく詩人の宇宙觀を示す意味に往古から使はれてゐる如く君のアルス・ポエチカも又單なる詩のテクノロジー以外の大きな背景から發足してゐる。それを回顧することは決して今日の...
  • 佐藤春夫訳「徒然草」二百十七
     ある大富豪の説に「入は万事をさしおいて専念に財産を積もうとすべきものである。貧乏では生き甲斐も無い。富者ばかりが人間である。裕福になろうと思ったら、よろしくまずその心がけから修養しなければならない。その心がけとはほかでもない。入間はいつまでも生きておられるものという心持を抱いていやしくも人生の無常などは観じてはならない。これが第一の心がけである。つぎにいっさいの所用を弁じてはならない。世にある間はわが身や他人に関して願い事は無際限である。欲望に身を任して、その慾を果そうという気になると百万の銭があってもいくらも手に残るものではない。人の願望は絶え間もないのに、財産は無くなる時期のあるものである。局限のある財産をもって無際限の願望に従うことは不可能事である。願望が生じたならば身を亡ぼそうとする悪念が襲うたと堅固に謹慎恐怖して、些少の用をもかなえてはならない。つぎに、金銭を奴僕のように用いる...
  • 小倉金之助「素人文学談義」
    一 「素人のみた文学の話」というテーマで、自分の長い間の経験をもとにして、何かお話し申しあげましょう。  この間、わたしは病気で休んでおりましたが、その時分に『マノン・レスコオ』という小説を読んで、非常な感銘を受けました。この小説はアベ・プレヴォーという坊さんが、今から二百二十年も前、およそ一七三〇年ごろに著したものです。  みなさんもよくご承知とは思いますが、ざっとその筋をお話し申しますと、フランスのある良家に生れたシュヴァリエ・デ・グリュウという青年がおりました。十七歳のとき哲学の勉強を終って宗教家になろうというので、学問に志していたのですが、ある日、マノンという美しい娘さんに出会って急に情熱が燃え上りました。それからシュヴァリエはひたすら恋人の愛を捉えるために、いろいろ詐欺をやったり、賭博をやったり、殺人をも犯したりして、自分では何度か悔いたり悲しんだりしながら、どこまでもマノソを離...
  • 佐藤春夫「殉情詩集自序」
    殉情詩集自序  われ幼少≪えうせう≫より詩歌≪しいか≫を愛誦≪あいしよう≫し、自≪みづか≫ら始≪はじ≫めてこれが作≪さく≫を試≪こレろ≫みしは十六歳の時なりしと覚≪おぼ≫ゆ。いま早くも十五年の昔とはなれり。爾来≪じらい≫、公≪おほやけ≫にするを得≪え≫たるわが試作≪しさく≫おほよそ百章≪しやう≫はありぬべし。その一|半≪ぱん≫は抒情詩≪じよじやうし≫にして、一半は当時のわが一|面≪めん≫を表はして社会問題に対する傾向詩≪けいかうし≫なりき。今≪いま≫ことごとく散佚≪さんいつ≫す。自らの記憶≪きおく≫にあるものすら数へて僅≪わづか≫に十|指≪し≫に足≪た≫らず。然≪しか≫も些≪いささか≫の恨≪うらみ≫なし。寧≪むし≫ろこれを喜ぶ。後≪のち≫、 志≪こころざし≫を詩歌に断≪た≫てりとには非≪あら≫ざりしも、われは無才≪むざえ≫にして且≪か≫つは精進≪しやうじん≫の念にさへ乏≪とぼ≫しく、自ら省...
  • 科学への道 石本巳四雄
    国会図書館の近代デジタルライブラリの画像を使って校正したので、 旧仮名使い(途中まで -- 後半は新かなつかいのまま)になっています。 コメントは、 !-- -- の中に記載しました。 part1 科学への道 石本巳四雄 序  天地自然の|悠久《ゆうきゆう》なる流れは歩みを止めることがない。この間に各人が|暫時《ざんじ》生れ出 でて色々のことを考える。しかし、人々がいかなることを考えても、人間の能力に は限度があって、自然現象を研究し|尽《つく》すことは不可能である。  しかし、古来思想の卓絶《たくぜつ》した碩学《せきがく》が逐次《ちくじ》に出《い》でて、簡《かん》より密《みつ》に、素《そ》より繁《はん》に研究 が進められ、自然現象の中に認められた事実は|仮説《かせつ》と云ふ形式によって|綴《つづ》られ、今 日もなおその発展が続けられているのである...
  • 小倉金之助「荷風文学と私」
     私のような自然科学方面の老人が、荷風の文学について語るのは、はなはだ僣越のように思われよう。けれども私は、青春時代における人生の危機を、荷風の小説を力として切りぬけた、とも言えなくないのであって、荷風に負うところ大なるものがあると、衷心から信じている。それで今ここに、主としてその事実について、ありのままに述べて見たいのである。尤もそれは、今から四十年ばかりも前のことで、その当時の私の読み方・味わい方は、恐らく小説の読み方ではなく、文学の味わい方でもなかったであろう。私のような主観的な見方をされては、作家その人にとってはなはだ迷惑なことであるかも知れないが、そういった点についてはーただ昔の思い出ばなしとしてーお許しを願いたいとおもう。  私が荷風文学に親しみだしたのは、明治三十九年のころからであるが、特にそれに熱中したのは明治四十二年から大正元年ごろまで(荷風が満で三+歳から三+三歳のころ...
  • 科学への道 part2
    !-- タイトル -- 科学者と理性 !-- --  科学者という者が社会からは別箇孤立の人間であるごとく考える人もあろうが、 彼らはもっとも理性に忠実で好んで自我を表現せんとする人間であるからでもあろ う。人間一般は時代の進歩に伴って、より多く理性生活をなす状態になったが、未 だ前途はほど遠いのである。即ち科学の進歩は絶えず行なわれておりながら、我々 今日の知識として自然現象を充分|闡明《せんめい》し得ることが出来ないからである。なかんず く、生命に関する問題は人生にとってもっとも重大な事件であるにもかかわらず医 学者の未だ触れることすら出来ない現象が暗黒の中に|潜《ひそ》んでいるからともいえるで あろう。即ちこの点で迷信が|跳梁《ちようりよう》することも致し方なき次第である。  世の中には|迷信《めいしん》的な|取《と》り|極《き》めがはなはだ多い。中にも|縁組《えんぐ》み、|...
  • 邦枝完二「曲亭馬琴」
            一  きのう一日、江戸中のあらゆる雑音を掻き消していた近年稀れな大雪が、東叡山の九つの鐘を別れに止んで行った、その明けの日の七草の朝は、風もなく、空はびいどろ[#「びいどろ」に傍点]鏡のように澄んで、正月とは思われない暖かさが、万年青《おもと》の鉢の土にまで吸い込まれていた。  戯作者《ぎさくしゃ》山東庵京伝《さんとうあんきょうでん》は、旧臘《くれ》の中《うち》から筆を染め始めた黄表紙「心学早染草」の草稿が、まだ予定の半数も書けないために、扇屋から根引した新妻のお菊《きく》と、箱根の湯治場廻りに出かける腹を極めていたにも拘らず、二日が三日、三日が五日と延び延びになって、きょうもまだその目的を達することが出来ない始末。それに、正月といえば必ず吉原にとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いている筈の京伝が、幾年振りかで家にいると聞いた善友悪友が、われもわれもと押しかけて来る接待に悩...
  • 森鴎外「大発見」
    僕も自然研究者の端榑《はしくれ》として、顕微鏡や試験管をいぢつて、何物をか発見しようとしてゐた事があつた。 併し運命は僕を業室《げふしつ》から引きずり出して、所謂《いはゆる》事務といふものを扱ふ人間にしてしまつた。二三の破格を除く外は、大学出のものに事務の出来るものはないといふ話である。出来ない事をするのも勤なれば是非が無い。そこで発見とか発明とかいふことには頗《すこぶ》る縁遠い身の上となつた。 考へて見れば、発見とか発明とかいふ詞《ことば》を今のやうに用ゐるのは、翻訳から出てゐるのだが、甚だ曖昧《あいまい》ではないかと思ふ。亜米利加《アメリカ》を発見したとか、ラヂウムを発見したとかいふのは、あれはdiscoverである。クリストバン・コロンが出て来なくても、亜米利加の大陸は元から横《よこた》はつてゐたのだ。キユリイ夫婦が骨を折らなくても、ラヂウムは昔から地の底にあつて、熱を起したり、電...
  • 尾崎士郎「中村遊廓」
    「古き城下町にて」──、と私はノートのはしに走り書きをした。幻想のいとぐちが、そんなところからひらけて来そうな気がしたからである。彦根の宿で、その部屋は数年前、天皇陛下が行幸のとき、御寝所になったということを宿の女中が、もったいをつけた調子でいった。その言葉が耳にこびりついていた。  何気なくいった女中の言葉が、あるいは、明治の末にうまれて、天皇という言葉の威厳にうたれる習慣のついている私の耳にそうひびいたのかも知れぬ。ほかの連中はまだ眠っているらしい。昨夜は、いよいよ旅の終りだというので気をゆるして度はずれに飲んだせいか、おそろしく長い廊下を雪洞を持った女中に案内されて、この部屋へ入ったことだけをおぼえている。あとの記憶は、もうごちゃごちゃに入りみだれていた。  伊吹の周辺をめぐる、というB雑誌社の計画で、関ヶ原を中心に中山道を自動車でうろつき廻っているうちに、同じ場所を何度も行きつ戻り...
  • 佐藤春夫訳「方丈記」
     河水《かわみず》の流れは絶え間はないが、しかしいつも同一の水ではない。停滞した個所に浮いている泡沫《みなわ》は消えたり湧《わ》いたりして、ながいあいだ同じ形でいるものではない。世上の人間とその住宅とてもまた同様の趣《おもむき》である。壮麗な都に高さを争い、瓦の美を競っている貴賤の住民の居宅は幾代もつきぬものではあるが、これを常住不変の実在かと調べてみると、むかしながらの家というのはまれである。去年焼けて今年で・きたというのや、大きかったのが無くなって小さいのになったりしている。住民のほうもまた家と同様、住む場所は同じ所で、住民も多いが、むかしながらの人は二三十人のうちで僅か一人か二人である。朝《あした》に死ぬ人もあれば、夕方に生れる人があったり、水の泡や何かにそっくりではないか。不可解にも生れる人や死ぬ人はいったいどこから来たり、どこへ行ってしまったりするのであろう。さらに不可解なのはほ...
  • 科学への道 part5
    !-- 十五 -- !-- タイトル -- 研究と労作 !-- --  自然研究に当っては人々は極めて多くの労作に時を費さなければならぬ。一つの 事実を認めようとする場合においても、出来るだけ四囲の状況を確めてみてようや く一つの事が判明する場合が多くて、これだけの労力は決して|厭《いと》ってはならぬ。し かも事実の|穿整《せんさく》のみが科学の要素ではない。得られた事実を系統|統轄《とうかつ》することもも ちろんである。このためにはたえず考えていなくてはならぬ。すべての事実を系統 立てる行為は頭の中の仕事であって、決して目には見えない。したがって外観的に 遊んでいるごとくに見える場合もあろうが、むしろこの頭中の労作ほど偉大なもの はないのである。また頭中の労作は目に見えないために、これをよき|幸《さいわい》として、|獺惰癖《らんだへき》に|陥《おちい》る学者もまた絶無とはいえ...
  • 火野葦平「岩下俊作「無法松の一生」解説」
     最近、東寶のカラー・シネスコの大作「無法松の一生」が封切られる。私は、まだ見ていないが、前に、同じ稻垣浩監督、阪東妻三郎主演の映畫を見て感動したことがあり、今度の三船敏郎主演映畫はさらにすばらしいであろうと期待している。なぜなら、前のは戰爭中であつたため、主人公松五郎が、吉岡大尉の未亡人に對するひそやかな戀心──つまり、この作品では、もつとも大切な部分が、檢閲のきびしさのためボカされていたからである。逆にいえば、どんなに松五郎から惚れられていても、帝國軍人たる者の妻が、亡夫以外の男に、心を動かすことなど絶對にあり得ないという、非人間的、封建的道徳觀が強制的に押しつけられていたため、藝術からさえも遠ざけられる危險を持つていたといえよう。今は、その大切なテーマが自由に表現できるわけだから、前のよりは完璧であるにちがいないと思う。最近は、また、「無法松の一生」はラジオで連續放送され、浪花節にも...
  • 国木田独歩「節操」
    「房、奥様の出る時何とか言つたかい。」と佐山銀之助は茶の間に入ると直ぐ訊いた。 「今日は講習會から後藤|樣≪さん≫へ一寸廻るから少し遲くなると|被仰≪おつしや≫いました。」 「飯を|食≪くは≫せろー」と銀之助は|忌々≪いま/\≫しさうに言つて、白布の|覆≪か≫けてある長方形の食卓の前にドツカと坐わつた。  女中の房は手早く燗瓶を銅壺に入れ、食卓の布を除つた。そして更に卓上の食品を彼處此處と置き直して心配さうに主人の樣子をうかゞつた。  銀之助は外套も脱がないで兩臂を食卓に突いたまゝ眼を閉ぢて居る。 「お衣服《めし》をお着更になつてから召上つたら如何で御座います。」と房は主人の窮屈さうな樣子を見て、恐る/\言つた。御機嫌を取る積りでもあつた。何故主人が不機嫌であるかも略ぼ知つて居るので、 「面倒臭い此儘で食ふ、お燗は|最早可≪もうい≫いだらう。」  房は燗瓶を揚げて直ぐ酌をした。銀之助は會社...
  • 江戸川乱歩「黒手組」
    あらわれたる事実  またしても明智小五郎のてがら話です.  それは、わたしが明智と知り合いになってから一年ほどたった時分のできごとなのですが、事件に一種劇的な色彩があって、なかなかおもしろかったばかりでなく、それがわたしの身内《みうち》のものの家庭を中心にして行なわれたという点で、わたしにはいっそう忘れがたいのです。  この事件で、わたしは、明智に暗号解読のすばらしい才能のあることを発見しました。読者諸君の興味のために、かれの解いた暗号文というのを、まず冒頭に掲げておきましょうか。 一度お伺《うかが》いしたいしたいと存じながらつい 好《よ》いおりがなく失礼ばかり致しております 割合にお暖《あたた》かな日がつづいてますのね是非 此頃《このごろ》にお邪魔《じやま》させていただきますわさて日 外《いつぞや》×つまらぬ品物をおおくりしました処《ところ》御《ご...
  • 吉川英治・五島慶太対談「文学と事業」
    吉川 相変らずお元気のようで結構ですね。健康法としてはどのようなことをなさっておりますか。 五島 毎朝六時半に起きまして九時まで歩きます、多摩川ぶちを……。帰ってきて、樫の棒を百回振るのです。 吉川 そうですか。 五島 それから昼寝をするのです。 吉川 昼寝はいいですね。しかし、樫の棒を振るというのは長く続いておりますか。 五島 百回毎日振ります。そうでなければ手が弱ってくるし、また歩かないと足が弱る。われわれぐらいになると、歩く以外に健康法はありません。樫の棒は必ずしも振らなくてもいいかもしれないが、しかし、振ったほうがいいですな。 吉川 昼寝は……これは久原さんがそうです。昼寝自慢みたい。 五島 昼寝自慢と熊胆《くまのい》を飲むことです。私も教わって熊胆を毎日飲んだ。あれを飲みますと、まず第一に澱粉の消化を助ける。だから胆汁が多少少くてもいい。肝臓及び胆嚢の弱ったのを助ける。また肝嚢と...
  • 森鴎外「我をして九州の富人たらしめば」
    森鴎外「我をして九州の富人たらしめば」  我をして九州の富人たらしめば、いかなることをか為すべき。こは屡々わが念頭に起りし問題なり。今年わが職事のために此福岡県に来り居ることゝなりしより、人々我に説くに九州の富人多くして、九州の富人の勢力逈に官吏の上に在ることを以てす。既にしてその境に入りその俗を察するに、事として物として聞く所の我を欺かざるを証せざるはなし。こゝに一例を挙げんか。嘗て直方より車を倩《やと》ひて福丸に至らんとせしに、町はづれに客待せる車夫十余人ありて、一人の応ずるものなく、或は既に人に約せりといひ、或は病と称して辞《いな》みたり。われは雨中短靴を穿きて田塍の間を歩むこと二里許なりき。後人に問ひて車夫の坑業家の価を数倍して乗るに狃《な》れて、官吏の程を計りて価を償ふを嫌ふを知りぬ。九州に来るもの、富の抑圧を覚ゆること概ね此類なり。  われは此等の事に遭ふごとに、九州の富人の為...
  • 江戸川乱歩「モノグラム」
     わたしが、わたしの勤めていたある工場の老守衛(といっても、まだ五十歳には間のある男なのですが、なんとなく老人みたいな感じがするのです)栗原さんと心安くなってまもなく、おそらくこれは栗原さんのとっておきの話の種で、彼はだれにでも、そうして打ち明け話をしてもさしつかえのない間柄になると、待ちかねたように、それを持ち出すのでありましょうが、わたしもある晩のこと、守衛室のストーブを囲んで、その栗原さんの妙な経験談を聞かされたのです。  栗原さんは話しじょうずな上に、なかなか小説家でもあるらしく、この小ぱなしめいた経験談にも、どうやら作為の跡が見えぬではありませんが、それならそれとして、やつぱり捨てがたい昧があり、そうした種類の打ち明け話としては、わたしはいまだに忘れることのできないものの一つなのです。栗原さんの話しつぷりをまねて、次に、それを書いてみることにいたしましょうか。  いやはや、落...
  • 江戸川乱歩「毒草」
     よく暗れた、秋の一日であった。仲のよい友だちがたずねて来て、ひとしきり話がはずんだあとで、 「気持ちのいい天気じゃないか。どうだ、そこいらを、少し歩こうか」ということになって、わたしとその友だちとは、わたしの家は場末にあったので、近くの広っぱへと散歩に出かけたことであった。  雑草のおい茂った広っぱには、昼間でも秋の虫がチロチロと鳴いていた。草の中を一尺ばかりの小川が流れていたりした。ところどころには小高い丘もあった。わたしたちは、とある丘の中腹に腰をおろして、一点の雲もなくすみ渡っている空をながめたり、あるいはまた、すぐ足の下に流、れている、みそのような小川や、その岸にはえているさまざまの、見れば見るほど無数の種類の、小さな雑草をながめたり、そして「ああ、秋だなあ」とため息をついてみたり、長い間一つととろにじっとしていたものである。  すると、ふとわたしは、やはり小川の岸のじめじめ...
  • 江戸川乱歩「灰神楽」
    1  アッと思う間に、相手は、まるでどうでこしらえた人形がくずれでもするように、グナリと、前の机の上に平たくなった。顔は鼻柱がくだけはしないかと思われるほど、ベッタリとまっ正面に、机におしつけられていた。そして、その顔の黄色い皮膚と、机掛けの青い織り物とのあいだから、ツバキのようにまっかな液体が、ドクドクと吹き出していた。  今の騒ぎでテツビンがくつがえり、大きなキリの角ヒバチからは、噴火山のように灰神楽《はいかぐら》が立ち昇って、それがピストルの煙といっしょに、まるで濃霧のように部屋の中をとじ込めていた。  のぞき・からくりの絵板が、カタリと落ちたように、一せつなに世界が変わってしまった。庄太郎はいっそう不思議な気がした。 「こりゃ まあ、どうしたことだ」  彼は胸の中で、さものんきそうに、そんなことを言っていた。  しかし、数秒の後には、彼は右の手先が重いのを意識した。見る...
  • 谷崎潤一郎「「門」を評す」
    谷崎潤一郎? 「門」?を評す 明治四十三年九月「新思潮」第一號 僕は漱石先生を以て、當代にズバ拔けたる頭腦と技倆とを持つた作家だと思つて居る。多くの缺點と、多くの批難とを有しつゝ猶先生は、其の大たるに於いて容易に他の企及す可からざる作家だと信じて居る。紅葉なく一葉なく二葉亭なき今日に於いて、僕は誰に遠慮もなく先生を文壇の第一人と認めて居る。然も從來先生の評到は、其の實力と相件はざる恨があつた。それだけ僕は、先生に就いて多くの云ひたい事論じたい事を持って居る。「門」を評するに方りて、先づこれだけの斷り書きをして置かないと、安心して筆を執ることが出來ない。 「それから」は代助と三千代とが姦通する小説であつた。「門」は姦通して夫婦となつた宗助とお米との小説である。此の二篇はいろいろの點から見て、切り放して讀む事の出來ない理由を持つて居る。勿論先生は其の後の代助三千代を書く積で...
  • 亀井勝一郎「中尊寺」
                            せきやま  平泉の駅から北へ約八丁の道を行くと、中尊寺のある関山の麓に達する。さほど高くはない が、相当に嶮しそうな一大丘陵で、その全体が寺域となっている。麓から本坊への登り道は、月 見坂と呼ばれ、かなりの急坂だ。全山を蔽うのは鬱蒼たる数丈の杉の巨木、根もとには熊笹が繁 り、深山へわけ入った感が深い。天狗が出て来そうな風景である。彼岸には大雪が降ったとい う。私の出かけたのは数日後だが、快晴にもかかわらず至るところ残雪があり、道もまだ凍りつ いていた。  急坂を登りつめて稍ー平坦になったところに、昔の仁王門の址がある。その傍に東の物見がある が、ここへ来て、眼前に突如として展けた広漠たる風景に驚いた。平泉の東北方深く、一望のも                                     たはしねやま とに眺められるのである。稲株の...
  • 三好達治「萩原さんという人」
     映画俳優のバスター・キートンというのはひと頃人気のあった喜劇俳優だ。近頃の若い人はもうご存じでないかもしれぬ。額が広く、眼玉がとび出て、長身痩驅《ちようしんそうく》、動作は何だかぎくしゃくしていてとん狂で無器用らしく、いつも孤独な風変りな淋しげな雰囲気を背負っている、一種品のいい人物だった。萩原さんの風つきは、どこかこのキートン君に似通った処があった。それはご本人も承認していられたし、またそれがいくらかお得意の様子で、よくその映画を見物に出かけられた後などそれをまた話題にもされた。先生にはあの俳優のして見せる演技のような、間抜けた節がいつもどこかにあって、妙にそれが子供っぽくて魅力があり、品がよかった。突拍子もない  著想《ちやくそう》は、あの人の随筆や感想の随所にちらばってのぞいている呼びかけだし、あの人の詩の不連続の連続のかげにもたしかに潜んでいる。先生には、著想の奇抜で読者の意表に...
  • 大下宇陀児「石の下の記録」(4)終
    絶壁       一                へきぎよくろう  M県S海洋という町の温泉旅館碧玉楼へ、ある日の夕 方、二つの大型トランクを携帯した、男女二人つれの奇妙 な客がぎて泊った。  男は五十歳ぐらい、女はずっと若くて三十歳ぐらい ー。  彼等は、駅からまっすぐに自動車でやってきた。  しかし、その自動車からおりたばかりの時は、まことに みすぼらしい服装をしていて、男の方は、ところどころつ ぎ目のあたっている白麻のズボンに汚れきった開襟シャ ツ、古びたカンカン帽に軍隊靴といういでたちだったし、 女がまた、顔立ちだけは整っていながら、着ているワンピ ースの服が、仕立も柄合もひどくじみで不恰好で、その上 むきだしの足に、ズックの運動靴をはいているという有様 だったから、はじめ宿ではこの二人をすっかりと軽蔑し、 ほかに空いた部屋もあったのに、彼等を宿としては最下等 の一室に通したほど...
  • 科学への道 part7
     しかしながら、一人の天才、一人の賢者によって、自然研究の大方針は樹てられ、 方向づけられることは古来の科学発展経過の我々に教えるところである。我々は万 骨の枯るるを|惜《おし》みながらも、一将功なる輝きをなお仰ぎ望むものである。  自然研究の大道が指示されて、その道に従って努力すれば、科学の発達が出来上 ると考えるものは|愚者《ぐしや》の意見である。自然研究に、いかなる事物が飛び出すかは誰 人も|臆測《おくそく》することは出来ない、ただ天才が出でてその方向を明示するのである。天 才は常人の考え得る以外の範囲を|思索《しさく》するのであ奄この思索の力は、幾人かかっ ても|比敵《ひてき》することは出来ない、全く一人一人の力の競争である。|毛利元就《もうりもとなり》が|臨終《りんじゆう》の 床に子息を呼んで与えた|教訓《きようくん》はこの場合、決してあてはめることは出来ないのであ る。天才は何...
  • 江戸川乱歩「D坂の殺人事件」
    事実  それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。わたしは、D坂の大通りの中ほどにある、白梅軒という、行きつけのカフェーで、冷やしコーヒーをすすっていた。当時わたしは、学校を出たばかりで、まだこれという職業もなく、下宿屋にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに飽きると、あてどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬカフェー回りをやるくらいが、毎日の日課だった。この白梅軒というのは、下宿屋から近くもあり、どこへ散歩するにも必ずその前を通るような位置にあったので、したがって、いちばんよく出入りするわけであったが、わたしという男は悪い癖で、カフェーにはいると、どうも長っちりになる。それは、元来食欲の少ないほうなので、一つは嚢中《のうちゆう》の乏しいせいもあってだが、洋食一サラ注文するでなく、安いコーヒーを二杯も三杯もおかわりして、一時間も二時間もじっとしているのだ。そうかといって、別段...
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