エロパロ > 名無し > 音無×椎名×奏3 > 艱難辛苦という言葉がある。

艱難辛苦という言葉がある。
意味するところとしては立ちはだかる困難や辛く苦しい出来事、降りかかる苦労に四苦八苦し思い悩むといったところか。
何事も上手くいかず、思うようにならず、足掻けども足掻けどもどうにもできず。
艱難辛苦とはそういう事態に直面したときのことを指す言葉であり、人間生きていればそんな経験の一つや二つして然るべしだ。
そしてそれを乗り越えられたとき、人はそれまでの自身から脱却し、一皮剥け、より大きく成長するのだろう。
与えられる試練はみなそのためにあるとは誰が口にしたことだったか。
なるほど、言い得て妙だ。
とどのつまりは生きていく上で避けては通れぬ物であり、ならば額面どおりではなく逆に捉えるのだ。
それを乗り越えるからこその人生である、と。
飛行場の滑走路のようにアスファルトで舗装しローラーでガチガチに踏み固められ高性能測量機器を何度も確かめてやっと施工完了した石ころひとつとしてないフラットかつ綺麗な道をただ言われたとおりに歩み進むことのどこに愉悦を感じられよう。
自ら選んだ山の、その鬱蒼と翳りぼうぼうに伸びた雑草を掻き分け蜘蛛の巣を被りアブに刺され泥だらけの埃まみれになりながら這いつくばるようにして登りきった先にある景色はきっとなによりも美しかろう。
だが、登った山は降りねばならず、またしても生い茂る木々やら図鑑でも紹介されないような珍妙な草花と耳障りに飛び回る鬱陶しい羽虫を相手にしなければならない。
放逐されてつい野生を取り戻してしまったトイプードルやらコーギーやらダックスフンドがうようよと息を潜めて飛びつく隙を狙っているかもしれない。
見目愛くるしい小型犬であればまだいいが、中にはより凶悪な毒持ちの蛇やらしたたかな猿やら腹ペコの熊やらタタリ神に堕ちた乙事主なんてものもいるかもしれない。
考えただけでうんざりする。そこが落石滑落上等の超高難度の山であればなおさらだ。
えてして人生と名の付く山はそんなもんである。
ここが己のベストだと腰を据えてじっくり下界を見下ろし疲れた体を休めつつよくやったと自分を褒めるのもいい。
一寸先は闇だ、何が起こるかわかったもんじゃない。
しかし、また違う景色を、もっと素晴らしいものを目指すのなら。
人生山あり谷ありとはよく言ったものだ。楽ありゃ苦もあるさとはよく歌ったものだ。
最終的には乗り越えられる試練ならば、お迎えが来る頃には酸いも甘いも噛み分けた、それはそれは満足いく人生を生きられることだろう。
でも、もし、その試練を乗り越えることが叶わなかったら。
目の前に聳え立つそれが乗り越えられないほど大きく、厚く、理不尽で不条理なものだったら。
しかして今俺はここにいる。
艱難辛苦で塗り固められた人生を歩んできたやつばかりのこの世界に、目を覚ませば、俺はいた。
呪われた青春時代とでも例えればいいのか、理想的な学生生活を送れなかった者達にもう一度あてがわれた謳歌の舞台。
にも関わらず、未だに艱難辛苦を敷き詰めて作られた路上を伝統ある箱根駅伝を全区画単独走破するが如き過酷さをもってして突き進まなければならないのはどういうわけか。
責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。
「どうしたの。気分、悪い?」
横壁をじっと睨みつけたままでいたためか、奏が不安げに問いかけてくる。
俺は体勢はそのままに、何でもないんだと言うが、それが気にくわなかったのだろう。
ころんと反対側、伸びてきた手の方、彼女の方へと向かせられてしまう。
なんという貧弱野郎だと誹られるのももっともだが、奏が言うところのうにゃうにゃはわからなくとも怪力設定は常時発動しているらしい。
高校生というか中学生、下手すりゃ小学生にも間違われそうなほど小さな体で、それ相応の力しか持ち合わせていないだろうという彼女が身長差も体重差もかなりある寝転ぶ大の男を簡単にひっくり返せるのにはそれ相応の理由があった。
俺のような凡庸な人間を何の拘束措置も取らずに閉じ込め、力ずくで言いなりにさせるのにわけはないのだ。
監禁先が彼女の自室であり、拘束されてるのは主にベッドの上であり、力ずくといってもせいぜいがこんな、床擦れしないように寝返りをうたせるくらいのものだとしても。
誤解のなきよう言うと、誰も甘んじて篭の中の鳥を演じているわけじゃない。

嫌なのかと突っ込まれれば閉口せざるをえないが、だからといって好き好んでこんな厚かましいマネを働いているわけでもない。
話は少し遡る。
退席するのは一向に構わないが俺をここから一緒に連れ出してくれるやつに限定するでなければご清聴願いたいむしろ連れ出してくれることを願う、切に願う。
あれはだいたい三十分ほど前だったか。
早々に手放した意識を次に取り戻したときには俺はすでに奏の自室にいた。
番狂わせは滅多に起こらないから番狂わせであって、大方の予想したとおり、常識の範疇を大きく逸脱した奇妙奇天烈な能力を縦横無尽に遠慮なく発揮した奏は難なくお目当てのものを掻っ攫うことに成功したようだ。
でなけりゃ俺は今ここにはいない。
とすると、あの場にいたゆりと椎名のその後が気になるところだが、奏は教えてくれないし聞いたところでなんだか冷めた目を返されるので聞きづらい。
巻き添えをくらっただろう日向達に至っては心底何の心配もしちゃいないが、仮にもゆりだって女の子だし、椎名にしてはそれのみならず病み上がりだ。
起き抜けに様子を確かめに行こうとして、それも無言で見つめてくる奏によって阻止された。
いや、その流星雨か高輝度HIDランプのように爛々と光りを放つ双眸は雄弁に語っていたんだ。
いかないで、ここにいて、看病させて、と。
目は口ほどにものを言うらしいが、いやはやこいつと一緒にいるとその言葉が痛いほど感じられる。まさに痛感だ。
こちらからまず聞かなきゃ必要なことも言いやしないんだからある意味必然だが。
しかも聞いたところで、狙ってやってんじゃないかというほど紛らわしくかつ不器用な返答をよこすときが多々ある。
こうして静かに本音をたたえる瞳から言いたいことを汲んでやるのが一番厄介がなくていい。
そしてここに、俺が篭の中の鳥よろしく大人しく寝付いているわけもあった。
言わんとしていることが読めてしまう分、言葉にされるよりもなお振り払い難いんだよ。
これが迷惑がれるようなことだったらどんなに楽だったか知れないが、あからさまに迷惑がれるようなものでないために強く拒否できず。
顔面においては眉ひとつ微動だにさせないくせに、ミリ単位で揺れ波打つ瞳を前に、俺は己の無力さを嘆くしかなく、極力彼女を見ないようにするだけで精一杯で、だから壁なんぞを睨んでいたんだ。
そうしていないと看護精神過剰の白衣の天使はひたすら動き回り、あれこれと甲斐甲斐しく介護一歩手前の手厚い看病を買ってでてくれる。
ありがたくて涙が出そうだ。
「そうだわ。おかゆ、できたの」
あ、マジで泣きそう。
ベッド際に寄せられたテーブルに置かれたお盆と、お盆に乗せられている小ぶりな土鍋を目にし、俺は頬と胃が引き攣らんばかりの思いだった。
お粥って普通白いよな? 入れても卵とか梅干とか、あとはまあ鮭の身をほぐしたのとか、そんなのだよな。
凝るやつは出汁や薬味、滋養のありそうなものを入れるんだろうが、お粥のスタンダードなものとしてはただ生米を煮たもののはずだ。
それがどうだろう。
百歩譲って豆腐はまだいいとして何故ラー油を入れたような刺激的な赤色をしてるんだ、ほのかに鼻腔をくすぐるこの山椒みたいな香ばしいかおりはいったい。
なんとも斬新かつ劇的なお粥がそこにはあったというかそこにあったのは誰がどう見ても麻婆豆腐でありお粥の要素は申し訳程度に見えるふやけた米粒くらいにしか感じ取れなかった。
食欲はそそられるが見ているだけで腹が膨れそうだ、胸焼けと言い換えても差し支えない。
ごくりと喉が鳴ったのはあまりにもうまそうに見えたからだと信じたい。信じなければやってられない。
今になって先刻のゆりの言葉がまざまざと思い出される。
まさか本気でそんなもん出すわけねえだろうと高をくくっていたが、あいつ、ビタリと当ててくれやがった。
「どうしたんだ、これ」
くゆる湯気の向こうに座る奏にそう言う。
「食堂でお願いしてきたの。うまいわ、きっと」

それは食券乱用、じゃない職権乱用じゃないのか。しかもできたっていうか出前が来た、じゃないのか。
一般生徒の見本であるはずの生徒会長はしかし欠片も悪びれた様子はなく、一杯のかけそばをじゃあないが分け合って食う気満々である。
よそう椀はなく、土鍋が一つ、蓮華は二つ。
内一つは奏が手にし、すくったお粥と言う名の麻婆をわざわざ食わせてくれるのか、鼻先まで持ってくる。
こぼさぬよう自然と下に添えた手が、今の格好と相まって、なんだか本当に白衣の天使みたいだ。
無償で慈愛を振りまき救いの手を差し伸べる天の御使い。
「食べて」
差し出されるのは天上の甘露とは程遠い、辛味という味らいに痛いカプサイシンと刺激の塊だが。
なんたる艱難辛苦だ。むしろ辛いだけだ。
学食で出されている麻婆豆腐そのものに気休め程度に煮米を加えただけであり、何度か食してるんだから想像がつくが、はたして麻婆粥の味や如何に。
意を決し、俺はそろそろと口を開き。
「あさはかなり」
その言葉を耳にしたのは、身を包みこむいい匂いのする布団から一転、何もない空を舞っているときだった。
窓ガラスをけたたましく突き破った真っ黒なボールがひとりでに破裂し、次の瞬間閃光が一面を覆い尽くすのに要した時間は刹那に終わり。
反射的に身を強張らせた俺の首根っこを誰かが引っ掴むと、とんでもない勢いで引っ張られていった。
開きっぱなしの口の中に奏曰くうまいお粥が運ばれることはなく、けれども代わりに必要以上の酸素が流入してきて、一気に食道まで乾燥してそうだ。
搾り出したい絶叫は張り付く喉では不可能であり、呼吸すらも満足にできない。
一応重力の縛りは健在らしいこの世界でこんな高さから羽ばたこうものなら蝋でできた翼をもってしても楽々と落下が可能であり蝋の翼なんてデッドウェイトなもん付けていようがいまいが落ちるものは落ちる。
このままでは地面への激突は必至であり必死である。
突然のことに体は石みたいに動かない。
僅か数秒足らずででっかいピザを地面に作ることになるだろう恐怖で竦みあがってしまい、なれども突然浮遊感が収まり、やおら降下が再開する。
十分に安全な高さまでくると、俺を脇に抱えたそいつは鉤付きの縄から手を離して飛び降り、危なげなく着地すると息つく間も惜しむように駆け出した。
地面が近いことをこんなに感謝したことはない。
竦みきった体は噴出す安堵によって一転して弛緩しきる。
そうしてようやっと見上げれば、ひたすらに真ん前目指して全速力で走る椎名の顔があり、俺が自分を見ていることに気が付くとチロリと目線を逸らした。
はて、何故だろう。
声を出そうとし、しかし今もって渇ききったままだった喉は咳をするに留まる。
「大丈夫か」
ややスピードを落とし、彼女が言う。
俺は何度か唾液を飲み込んで喉を潤し、その最中、これは何だろうと視界に入った白い布に疑問を抱いた。
その白い布はどうもエプロンらしく、それだけでなく、普段の彼女が好んで穿くようなものじゃない、いやに長いスカート。
両サイドに深く入れられたスリットがなければこんな全力疾走していたら転んでしまいそうだ。
下半身から徐々に上半身へと視点を移せば、やはり白いのはエプロンだったようで、スカートだと思っていたのは一体型のロングドレスだった。
黒地のドレスに白いエプロンが映える、なかなかにクラシカルな出来栄えの衣装だ。
俺は行ったことはないが、有数の電気街では加熱したブームを過ぎた今日でもお目にかかることが容易だろうと、そんなことを現実逃避気味に思った。
「ひとつ、いいか」
俺は最後に一度咳払いすると、期待と不安が織り交ざった色を滲ませる瞳でこちらを見たり逸らしたりを繰り返す椎名に向けて口を開く。
「それも売店で売ってるのか」
動きやすさを追求した結果だろうか、一部改造した跡が見受けられるメイド服を着込んだ艶やかな黒髪メイドは、ぷいっと顔を背けただけだった。
                    ***

意外にもしっかりと女の子してた奏の部屋から場所は変わって、人目につかないよう忍んで連れてこられたのはかび臭くほの暗い体育館倉庫だった。
あっちに戻りたいというわけじゃないが居心地において雲泥の差があるのは確かだ。
一見するとマットだのハードルだのが整然と並べられてはいるが、別段掃除が行き届いているわけでなく、きちっと放置されてるだけだろう。
換気も悪いらしく淀み溜まった湿気と、充満する埃で息が詰まる。
明り取り窓から差す日でキラキラと儚く舞い散る様はそこだけ切り取れば氷晶さながらに幻想的ではあるものの、どんなに美しかろうがダニとダニの死骸が空気中に浮遊してると思うとやっぱり息が詰まる。
ダイヤモンドとは似ても似つかないただのダスト。
清潔とは程遠い、所詮運動に使われる道具を一纏めにするためにあつらえられたほったて小屋に過ぎない。
とてもじゃないが長居したいともくつろげるとも思えない。
どっかから持ち込んだパイプ椅子に腰かけ、これもかっぱらってきたらしい机に頬杖つきつつそんな考えに没頭していた俺はまたしても横壁を睨んでいた。
くすみも見当たらなかった奏の部屋の真白い壁とは大違いのシミと錆びだらけで、だからといって見ていてもこれっぽっちも面白くない。
天井のシミを数えてる間に終わるよとはものの本で読んだがこれだけあったら宵が明けても数え切れないんじゃないだろうか。
というか何が終わるんだったか。
「どうした。気分でも悪いのか」
「奏にも同じようなこと言われたよ」
それよりもと、いい加減代わり映えしない壁との睨めっこも飽き、やむなく彼女へと向き直る。
立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花とは意外と西欧給仕にもありなのかもと、思わず目を奪われる。
見てくれだけなら文句なくそう評していい。
生徒会長の部屋に襲撃をしかけるようなアグレッシブさはすっかりなりを潜め、こんな汚い汁が染み付いた場所に立たせておくには勿体ない落ち着き払ったメイド。
しかし。
「なんなんだ、その格好」
どういうつもりでそんな乙女チックな装いをしてるんだろう。
いつもは無造作に垂らしているだけの髪の毛を背中の辺りで結い、フリル付きのカチューシャまで。
上から下まで完全武装した椎名の気合の入れようで余計に疑問を覚える。
可愛いもの好きってのは知ってたが、これはベクトルが違うだろ。
本人もその自覚はあるらしく、指摘された椎名はちょっと恥ずかしそうだ。
だったらやらなきゃいいんじゃないかとは言わないでおいた。
喋る前から話の腰を折ってちゃあ世話ない。
「私はこういった動きづらいのはあまり着ないんだが」
「だろうな」
「……だからといって、その、着たくないというとそうでもなく……」
「そいつは、まあ、俺からはなんとも」
「勘違いするな、なにも進んで着たいわけじゃない」
説明しだした途端尻すぼみになってしまい、かと思えば強く否定する椎名の言いたいことがいまいち判然としない。
常ならば着ないような服、それが穢れも知らない女児の夢かもしくは薄汚れた大きなお友達の理想を具現化したようなものでも、着てみたいと思うことがあってもいいだろう。
じゃあ何で着たくて着ているわけじゃないということも言うんだろう。
首を傾げる俺を前にして、彼女はくるりと反転した。
一拍遅れてふわりと微かに翻ったスカート、その奥に覗いた白い肌に、どうにもこちらが気恥ずかしくなる。
「こういうのが、いいんだろう」
その言葉の示すところを理解したと同時、そんなもん吹き飛んだが。
「日向が言っていた。お前はこういうのが好きだと」
よかった、あの野郎無事だったのか。巻き込んだ腹いせかはともかく次見つけたらただじゃおかねえ。
それに何を吹き込まれたのか知る由もないが、鵜呑みにするこいつもこいつだ。
ていうか、それじゃあ、まるで。
「それに天使だって、だから、私は」
「おい」
「だというのにお前は憮然とした顔ばかりで、あまつさえ私を見ようともしない」
「なあ、おいって」
「ひとがどれだけ我慢して、こんな」
「椎名」

俯きながら小声で捲くし立てる彼女はこちらの声が聞こえていないようで、仕方なしに立ち上がり、その肩に手を置く。
言葉は途切れ、弾かれたように振り返った椎名の顔は、昨日のそれとは違う赤色をしていた。
飛び込んできたそれのおかげで、かけようとしたセリフが追い出されてしまい、俺まで口を閉ざしてしまう。
「一言くらいあってもいいじゃないか」
ぽそりと、沈黙を破ったのは彼女だった。
期待と不安が織り交ざった色を滲ませる瞳でこちらを見たり逸らしたりを繰り返すのはさっきとおんなじで、いや、今は割合的には不安が多いか。
そんな目で見るなよ、咄嗟にすまんと謝りかけちまったじゃねえか。
そんな言葉が聞きたいわけじゃないのは百も承知だ。
でも、じゃあ具体的にどう言えばいいんだろうか。
何を言ってもなんだか薄っぺらくなっちまいそうで、じっくり言葉を選んでみてもどれもしっくりこない。
まにまに俯きだす椎名は今にも消え入りそうで、長考する時間は与えてくれず。
だから。
「あー、その……いいんじゃ、ないか。うん、いいと思うぞ。スゲエいい」
とんでもなく薄っぺらい、それどころかどうでもよさげな言葉を吐くこの口は誰の口だ。
俺のだよ。
重ねた推敲はこれっぽっちも役に立たず、雲よりも軽い社交辞令みたいな褒め言葉はしかし、耳にした彼女にはことの外嬉しかったらしい。
「ほ、本当か? いいのか?」
そんなことを言われて今さらうっぴょーんやーいひっかかったーなんて言えるほどイタズラ好きでも無謀でも人でなしでもなく。
言葉は軽いが本音ではそう思っているのも確かで。
早い話、ブレーキを踏めなくなった。
「嘘言ってどうすんだよ。よく似合ってんじゃん」
「そ、そうか、よかった」
「なんていうか、そう、萌えるっていうの? そんな感じにグッとくるな」
「萌えるのか」
「萌え萌えだ」
「そ、そんなにか」
俺はいったい何を口走ってるんだろう。
百面相とまではいかなくともコロコロと表情を変える椎名の様子だけはわかるが、肝心の喋っている内容がまったく思い出せない。
まるで反射で答えてすぐさま記憶から忘却しているようだ。
やぶれかぶれにもほどがある。
でも、止まれない。
「ああ、そんなにだ。もし俺がご主人様だったらこんなメイドがいたら絶対傍から離さないな」
ボンっ! とでも擬音化すればいいのだろうか。
そのときの椎名はまさにそんな爆発音がぴったりな勢いで真っ赤だった顔をもっと染めあげた。
俺はといえばそんな椎名のおかげではたと止まり、目を逸らし続けていた己の、とりわけ今の今放ったセリフを数十回は脳内で噛みしめ、よおく理解してから噛み砕き、
事ここに至り発した言葉によって赤っ恥をかきまくってはいるが表面上は完全に真っ青になっていた。
穴があったら一生引きこもる覚悟で引き篭もりてえ。墓穴だって今なら小躍りして飛び込む。
それができないならもう消えてしまいたい。
「……なら、なってみるか?」
「え?」
カチューシャを外し、パサリと結わえられていた髪も解かれて広がる。
半歩分空いていた隙間も踏み出す彼女は躊躇せずに潰した。
「……あさはかなり」
両手が首に回され、瞼を瞑った彼女は爪先立ちになって。
「見つけた」
そんな椎名の向こうから屋根を吹き飛ばし、抜けた空から神々しく降り立ったところどころに煤をつけた白衣の天使は、しかし何故だろうか、見てくれの可愛らしさに全力で反しており、
言いたいことが全く伝わってこないその流星雨か高輝度HIDランプのように爛々と光りを放つ双眸を一段と輝かせて佇んでいた。

おわり

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最終更新:2010年06月05日 21:07