――――叫びの意味を、理解できない。



高層ビルの壁面が砕け散った。
瓦礫とガラスの瀑布を貫いて紫衣の女が宙を舞い、反対側の建造物の壁に着地する。
僅かに遅れ、砲弾の如き黒い塊が女を追って飛翔した。
崩れ落ちるビルを眼下に、二つの影が銀と金の刃を交える。
咆哮とともに銀の刀を振るう黒衣の少女。
冷徹に金の剣を繰り出す紫衣の女。
夜天を背景に繰り広げられる戦いは、もはや人知の及ぶところではない。
垂直の壁を足場に虚空を駆け、認識の限界に迫る速度の剣戟を交わし続けている。

その光景を、地上から見上げる誰かがいた。

刃が少女の柔肌を引き裂き、赤い血飛沫を空に飛び散らせた。
甘ったるい血の匂いを引き連れて、一振りの刀が地面に突き刺さる。
しかしその誰かは、眼前に突き立つ刀ではなく、数歩先に墜落した少女の姿に目を奪われていた。
―――無残な光景だ。
黒衣は既にぼろぼろで、裂け目から覗く肌も裂傷と血糊に染まっている。
色違いの双眸はまるで焦点が合わず、杖にされたもう一振りの刀も小刻みに震えている。
叫ぶように、喘ぐように開かれた口からは不明瞭な雑音が漏れているだけだ。
■くて、■しくて、■■てしまいたいと。
■■に、■■叫んでいた。
今の俺には少女の叫びが理解できない。
何かとても大切なコトを訴えている気がするけれど、分からないものは分からない。
脳を振るわせる怨嗟の声に、鼓膜が麻痺させられてしまっているのだろう。
けれど『俺ではない誰か』には理解できたらしい。
決して果たすことのできない約束を口にして、跳び去った少女を追って駆け出していく。

刀の柄を握り締めた手が、鈍く痛んだ。




   ◇  ◇  ◇



両断されたカリバーンの刀身が宙を舞い、ひび割れた道路に突き刺さる。
士郎は残った柄を即座に投げ棄て、無手のままで大きく踏み込んだ。
迎え撃つ式の斬撃を投影された日本刀が受け止める。
刀が切断されるまでの一瞬に、右手の指が三本の刀を握り締める。

「――――っ」

三爪の刺突を、式は後方に飛び退いて回避した。
一跳びで七歩分の間合いが開く。
尋常ならば接近に一秒強を要する距離である。
だが、今の士郎は尋常とは程遠い。
殺され霧散する刀を放棄し、対となる三爪の投影を詠唱する。

「おおおっ!」

右手に三爪、左手に三爪。
神速の踏み込みを以って彼我の間合いを制圧する。
しかし、それをも上回る速度で式の両腕が跳ね上がった。
下段から抉るが如く繰り出された一撃を、士郎は左の三爪を犠牲に押し留める。
片腕の腕力と渾身の膂力の差は著しく、三本の爪が弾かれるまで半秒と掛からない。
その僅かな猶予を突き、右の三爪が横薙ぎに式へと襲い掛かる。
三つの刃が式の細身に達する刹那、振り上げられた斬撃が、上段からの一撃と化して肩口を裂いた。

「ぐっ……!」

鮮血が飛び散る。
今度は士郎が間合いを離す番だった。
傷自体は肉を裂いたのみで骨までは達していない。
それでも猛攻を取り止めるには充分過ぎる斬撃であったはずだ。
士郎が一手を打つ間に、式は下段と上段の二手を繰り出してみせたのだ。
この事実は決して小さくはない。

「…………」

式は引き離された間合いを維持したまま、刀をそっと構え直した。
血液が鎬を伝ってゆっくり滴り落ちていく。
重心は微かに低く、刀の柄は腹の前で固定し、刀身を敵に向けて傾かせる。
正眼の構え。基本にして最強の型。
僅か数秒の攻防であったが、式は対峙する敵の戦いの異常性を把握した。
先ほどの動きと黄金の剣を用いていたときの動きが全く違う。
それはどちらか一方が優れていたという意味ではない。
武器を変えるごとに、戦い方の質が『切り替わっている』のだ。
複数の使い手が入れ替わり立ち替わり挑んでくる感覚といえばいいだろうか。
刀剣を生み出すらしいあの魔術は、きっとそういうものなのだろう。

「投影、開始」

士郎が左の三爪を補充した。
肌を焼くほどの殺意が、黎明の冷たい大気を塗り潰す。
幾千もの刃を突きつけられたかのような殺気を、式は正面から受け止める。
その殺気を貫いて、式の殺意が士郎を射抜く。

「――――!」

式が一歩を踏み込む。
空間を歪めるかのように白い影が加速する。
残像も残らぬ速度が古の刀に必殺の威力を宿らせる。
風斬り音すら置き去りにした斬撃は、しかし士郎が翳した六爪の格子に阻まれた。
六爪に走る死の線は一振りごとに位置が異なる。
翳された六振りの線が、一撃で断ち切れるように並ぶことはまずありえない。
士郎が盾とした六爪のうち、一振りは死の線を断たれ、一振りは純粋な斬撃の威力で切断され、一振りは拵えが軋み刀としての機能を失った。
残された三爪が衝撃を受け止め、斬撃を辛うじて受け流す。

船着場に激しい金属音が響き渡ったとき、式は既に第二撃を繰り出していた。

斜め下方より逆流する返し刃を、欠けた六爪が紙一重で受け止める。
一撃の重みに耐えかねて、士郎の片腕が跳ね上がった。
指の間から二振りの刀が弾け飛ぶ。
残された刀を士郎が握り直した瞬間、九字兼定の切っ先が無防備な脇腹を突き破った。

「が――――――っ」

士郎の貌が苦痛に歪む。
鋭い刃先に裂かれた背中から、赤黒い液体が塊になって溢れ出す。
あの体勢で狙える位置に線はなかった。
しかし、この一撃は充分に致命的だ。
このまま横向きに薙げば、腹部に詰まった臓物は丸ごと両断される。
式は九字兼定の柄に力を込め――――

「――――ちっ!」

突如、式は柄から手を離して後方に飛び退いた。
強引な跳躍で大幅に距離を取り、両手足を路面に突いて停止する。
士郎は自ら優位を捨てた式に、追撃を加えようとはしなかった。
腹部に突き刺さった刀を見下ろし、呆然としたまま、その柄に手をかける。

「なんだ……何が……」

士郎は柄を握り、刀を引き抜こうとした。
僅かに刀身を引いた途端、肉体に突き刺さっていた部分が跡形もなく崩れ去る。
背中から露出していた切っ先が、ぼろりと抜け落ちて落下した。
腹と背の傷口から、溶けた刀身を排出するように、黒い液体が止め処なく流れ出す。
式は目を細め、その異様を見据えた。
あのまま刀を薙いでいたら、刀は式の手元で崩壊していただろう。
懐に潜り込んだ状態で晒すには危険すぎる隙だ。
しかし張本人である士郎自身、己の身に起きた異変を把握し切れていないらしい。
式は士郎に対する警戒を維持したまま、己のデイパックへにじり寄り、片手を差し入れた。

「やっぱり普通のやり方じゃ死なないのか」

魔眼が士郎の死を浮かび上がらせる。
どれだけ異形に成り果てようと、生きているなら死から逃れることはできない。
手探りで握った鞘は陸奥守吉行のものだった。
もう同じ轍は踏まない。
次は線を断ち切って、確実に殺す。

「…………」

刀を引き抜こうとした手が鈍る。
不意に、心の底から平和そうな男の顔が頭に浮かんできた。
もしもあいつがここにいたら、どんなことを言うのだろうか。
……そんなこと、問うまでもない。
式は白刃を煌かせた。




   ◇  ◇  ◇




――――大切な約束を、思い出せない。



薄暗い林道の片隅で、俺ではない誰かが、小さな少女に胸倉を掴まれていた。
カーキ色の制服の上着を掴む少女の手はとても華奢で、強く握れば折れてしまいそうだ。
少女の叫びが林道に響き渡る。
白い木漏れ日の陰影が、泣き出しそうな少女の顔を照らしている。
もしかしたら、本当に泣いているのかもしれない。
けれど、俺はそれを確かめることができない。
少女は叫ぶ。
同じコトを何度も何度も。
何度も何度も。
何度も、何度も。
地面に涙の雫を落とし、俺ではない誰かの肩を揺すりながら。
とても大切なことなのだと、とても悲しいことなのだと、何度も繰り返す。

だけど、俺はその言葉を理解できない。

少女の涙を指先が拭う。
目に映るその指は、黒い泥に薄汚れてなどいなかった。
綺麗とはお世辞にも言いがたいが、確かにこれは人間の指だ。
短い会話の後、彼女はとある約束を口にする。
だが、沸騰するほどに加熱する脳髄が理解を拒む。
何故なら■■と約束を交わしたのは、■■■■■という理想を目指していた大馬鹿野郎なのだから。
こんな殺意に塗れた怪物には、彼女の叫びを理解する資格などあるはずがない。
思い出すことなど許されるわけがない。




   ◇  ◇  ◇




澪は路面に腰を落とし、力なく顔を上げていた。
数十メートル先で、制服の男と和服の女が刃を打ち鳴らしている。
打ち合うたびに裂帛の気合が炸裂し、剃刀のような殺意が澪の肌を焼き焦がす。
明け方の肌寒さなど微塵も感じられない。
遠方から戦いを見ているだけだというのに、澪は剣戟の最中にいるような錯覚すら覚えていた。

「あ……う……」

思考が言葉にならない。
知らず涙が浮かび、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走る。
刃がぶつかり合う音がするたびに、恐怖が骨の髄を貫いて、澪をこの場に釘付けにする。
両者の戦いは、それほどまでに凄まじかった。

式の腕がぶれる。
それに呼応するように、士郎もまた同様の動きを見せる。

―――それが『刀を振るう』行為だと分かったのは、刃のぶつかり合う音が聞こえてからだった。

澪にとって、二人の剣戟はあまりにも速過ぎた。
玉鋼の輝きが暗闇を割り、静かな船着場に甲高い音を響かせる。
一歩で数メートルもの間合いを取り、それを一瞬にして詰め返す。
わずか千分の一秒で振り抜かれる斬撃を、同等の速度を以って打ち落とす。
鉛玉が飛び交う銃撃戦のごとき様相で、鋼の刃が宙を裂く。
もはや人間同士の戦いだとは到底思えない光景だ。

「嫌、だ……」

澪は尻餅を突いた格好のまま、はいずるように退いた。
殺される。
ここにいたら殺される。
間違いなく殺される。
刃の音がするたびに精神が鑢で削られていくのが分かる。
式が現れたときの安心感はとっくに消え失せていた。
せめぎ合う二人の殺気は、それが澪に向けられたものでないとしても、彼女の精神を圧迫し続けていた。

士郎の刀が天高く弾き飛ばされる。
だが士郎は、そんなことお構い無しに別の刀を取り出して、式の一撃を迎え撃った。

この戦いを異様足らしめているもの。
それは常人の域を超えた速度の攻防だけではない。
弾かれようと壊されようと際限なく剣―――士郎の武器。
初めて目の当たりにしたときは、士郎が逐一デイパックから取り出しているのだと思っていた。
しかしあれだけ目の当たりにすれば、否応なく思い違いに気付かされる。
黄金の剣や無数の日本刀は、文字通り何もないところから現れていたのだ。
不意に、切断された銀色の刀身がくるくると宙を舞い、澪の眼前に突き刺さる。

「ひっ……!」

澪は手足をばたつかせるようにして後ろに逃れた。
式と士郎が織り成す地獄の淵からは、既に二十メートル以上の距離が開いている。
普通なら安全圏だと思えるようなこの距離も、澪にとっては無いも同然の至近距離だった。
瞬く間に近付かれ、首を切り落とされる想像に肌が粟立つ。
人外の戦いに出くわしたことは初めてではない。
だが、政庁の時は大勢の人がいた。
今のように、一人きりで辺獄に取り残されたかのような状況ではなかった。
似ているのはコロッセウムでの殺し合いだ。
けれど、それとも確実に違う点がある。
あのとき、光秀は澪のことを眼中に収めていなかった。
澪は殺しがいのある得物を釣り上げる『餌』に過ぎなかったのだ。

今は、違う。

二振りの刀がぶつかり合い、互いの刃を押し潰す。
素人である澪から見ても、優位に立っているのは式の方だ。
士郎は数合の打ち合いで刀を失い、辛うじて次の刀を手に取っている状態である。
それでも、この状況が続けばどうなるのか。
数に限りのある刀を磨り潰しながら戦う式と、刀剣を湯水の如く使える士郎。
この違いは、いずれ目に見える形で表面化するに違いない。
金属が歪む音がして、士郎の刀が刃物としての機能を喪失した。
次の瞬間には新たな刀が出現し、追撃を紙一重で防ぎ止める。

直後、式が白刃を振るい間合いを取った。

傍から見れば、何度目かの仕切り直しとしか思えない行為である。
しかしこの瞬間、澪の理解が及ばない領域で戦いに変化が起こっていた。
式は打ち合い傷ついた名刀を構え、士郎は新たに取り出した古刀の柄を握る。
もしも澪に武術の心得があったなら、士郎が取った正眼の構えに著しい既視感を覚えたことだろう。
両者の違いは数センチ分の体格差と手にした得物。
二人はほぼ同時に踏み込んで、鏡写しの斬撃をぶつけ合った。

「どうしよう……早く逃げないと……」

頭では分かっていても、竦んだ身体は自由にならない。
這ってでも逃げようとした手の先に、何か硬いものがぶつかった。
咄嗟に手繰り寄せようとしたが、予想外の重さに引っ掛けた爪が剥がれそうになる。
――ミニミ軽機関銃。
サザーランドから脱出したときに落としてしまったものだ。
澪はどうにか引き寄せた軽機関銃を抱え、尚も斬り合う二人に向き直った。
無骨な銃身を握り締める。
手の平に伝わる冷たい痛みが、今だけは快かった。




   ◇  ◇  ◇




――――記憶が、逆流する。



夜空を断つ黄金の光。


雄々しく翼を広げる天馬。


淡雪のように白い少女。


紅い槍と陰陽の双剣。


凛と佇む誇り高き騎士の姿。



そして――――




   ◇  ◇  ◇




「――――!」

そう吐き捨てたのは、これで何回目だろうか。
何と言う意味の言葉だったのか、記憶が曖昧で思い出せない。
刀の切っ先が血肉を抉り取るたびに、頭の中身がシェイクされる。
まるで、脳味噌が直火で加熱されてどろどろに蕩けてしまったかのようだ。
湧き上がる衝動は苛烈過ぎて、頭が感情を処理しきれない。
目の前のモノを■さなければならないという思いだけが、俺の身体を突き動かしている。

「――――――」

和装の女が何か言っている。
けれど、耳鳴りが酷くて聞き取れない。
絶え間なく繰り出される斬撃を、投影していた九字兼定で迎撃する。
相手は強い。
経験に共感し、魔力で体のスペックを水増しして、ようやく食い下がることができる。
だが、それで充分だ。
こちらの魔力が尽きるまでに、相手の刀を全て使い潰させればそれで終わる。

「……っ!?」

受け止めたと思った一撃が、こちらの刀身をバターのように両断した。
貫通した刃が俺の肉を浅く切り裂く。
この現象だけは、どうしても防ぎようがない。
奴が見ている『何か』を理解できない以上、俺に出来るのは最悪を想定して戦うことだけだ。

「投影、開始―――」

同じ刀を再び投影する。
相手の刀は損傷が限界を超えつつある。
俺の肉体も、かねてからの斬り合いで何箇所も負傷している。
だが致命的な傷はまだ受けていない。
脇腹に開いた穴も、刺さった刃が溶けて解けて融けて熔けてトケテ鎔けて―――――――――

「が、あ……っ!」

強烈なノイズが神経を逆流する。
炭酸を血管にブチ込まれたような激痛が脳を駆け巡り、視界が一瞬だけブラックアウトした。
気付いたときには、俺は路面に両膝を突いていた。
右手の九字兼定が輪郭を失い、形のない魔力になって霧散する。
喉が焼けるように熱い。
肺臓が跡形も無く燃えてしまいそうだ。
酸素を求めて口を開くと、奴らを  すという言葉を吐きそうになる。
どうにか顔を上げると、女が冷めた顔で俺を見下ろしていた。
使い物にならない刀から片手を離して、聞き取れない声で  っている。

「――――、――」

聞き  なくても、言いたいことは何となく分かる。
俺がもう限界だと言いたいのだろう。
ああ、そんなの知って

だからせめて、     だけは      ないと

無防備に立ち上がる俺を、
女はただ眺めていた。
片足を引きずりながら真横を通り過ぎ、
背中を向けたまま歩き続ける。
行く先には、
銃を抱え怯える一人の少女。

アイツは殺した
だから殺す
殺す殺したから殺す殺さなければならない
アレは悪だ故に殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺

「―――ぐ、」

どさりと、またも膝を突く。
あの少女まで十数歩もの距離がある。
けれど、もう立ち上がることはできないと、おぼろげながらに理解する。
肉体ではなく、精神が終わる。
渦巻く怨嗟に飲み込まれ、汚濁の一片に成り果てる。
首を傾けて空を仰ぐ。
黎明の空は、朝と夜が混ざり合った色をしていた。

「殺さ、ないと―――」

もう多くは望まない。
せめて最期に、コイツだけは。
侵食された理性のヒトカケラを搾り出して、銀色のペーパーナイフを投影する。
これが限界。マトモな剣をイメージする力なんて残っちゃいない。
手が届かないほど遠くから、少女が何か叫んでいる。

「――――! ――!」

理解できなくなっていた。
汚染され、血に塗れた■■■■■が叫んでいた理由を。

「――! ――――――!」

思い出せなくなっていた。
衛宮士郎の在り方を知り慟哭する■■■■に誓った約束を。

「――――――――――――!」

分からなくなってしまったのは、当たり前のことだ。
何故なら、どちらの記憶も衛宮士郎が体験したことなのだから。
こんな怪物が理解できてはいけない。
思い出せていいはずがない。

「……ははっ……」

このまま死ぬのは裏切りだ。
だからせめて、最期くらいは衛宮士郎として振舞わないと。
彼女達が信じた男が、この怪物にするであろうことは唯一つ。
せめてこれくらいはしなければ、

「あいつに、顔向け……できない……よな」


正義のために悪を殺す。


「―――――――――――ぁ!」


正義の味方を目指した『衛宮士郎』が、悪に染まった『俺』を殺す。


「―――――――――る―ぁ!」


俺は銀色のナイフを逆手に持ち替え、自らの首へと


「―――――――近寄るなぁ!」






銃声。






―――胸に孔が開いていた。
心臓のあるべきところに、指先ほどの穴が開いていた。
銀のナイフが、感覚の薄れた手から滑り落ちる。
ぱしゃん、という鈍い水音がした。
これは当然の報いなのだろうか。
己自身の在り方を見失った男には、最期を選ぶ権利などない、と。
うつ伏せに倒れる瞬間、少女の銃が煙を上げているのが見えた。
そして、涙でぐしゃぐしゃになった顔も。





   ◇  ◇  ◇





「ばかなやつ」

式はぽつりと呟いた。
陸奥守吉行を鞘に収めようとして、半分ほど入れたところで手が止まる。
刀身が歪んでしまったせいで、鞘の穴の形に合わなくなったようだ。
名刀を二振りも使い潰した結果を悔いる様子もなく、式は静かに踵を返す。

「……ばかな、やつ」

もう一度、同じことを繰り返す。
それは誰に向けられた言葉なのだろうか。
自らの血溜まりに倒れ付した衛宮士郎を一瞥し、今も震え続ける澪を見やる。
澪はまるでお守りか何かのように機関銃を抱えていた。
銃身を抱き締め、焦点の合わない目で、衛宮士郎だったモノから視線を逸らしている。

「あ……ああ……」

助けられたという安堵から一転、常人の域を超えた死闘に晒されたのだ。
この強烈な落差は、澪に多大な恐怖心を与えたに違いない。
それこそ、物理的には安全圏にいたというのに、まるで死の一歩手前にいるかのような錯覚を覚えるほどに。
一度や二度の経験で慣れることができるほど、死への恐怖は軽くないのだから。
あんな状態では、近付いてくる男の状態を見分けることなどできなかったはずだ。
式から見れば子猫一匹すら殺す余力もない半死半生の有様でも、澪にとっては強大極まりない怪物だった。
恐怖に駆り立てられて発砲に及んだのは、むしろ必然と言えるだろう。

「行くぞ、秋山」

式はあっさりとした口調で澪に告げた。
この戦場に対する一切の興味を失ったかのように、単調な歩幅で澪の横を通り過ぎていく。

「で、でも、サザーランドが……」

澪は擱座した機体と式の間で目線を左右させた。
この機体は澪にとって戦うための力であり、身を護る合金の揺り篭だ。
機体を失うことは、無力な自分に逆戻りしてしまうことを意味する。
それはとても耐え難いことなのだろう。
かといって、澪をここに置いて帰るわけにはいかない。
式は瞼をきつく閉じて、それらしく聞こえる理由付けを考えた。

「オレ達だけであのデカブツを引き上げるのか?
 他の連中を連れてきて手伝わせないと無理だろ」
「あ……そうか、そうだな」

その場凌ぎの言い分だったが、それなりに説得力はあったらしい。
澪は仕掛け人形のようにこくこくと頷いて、式の背中を追いかけた。
まるで二度目の殺人を犯したという事実から逃避するように。
船着場を後にしようとした瞬間、式が後ろに鋭い視線を向けた。
睨まれたと思った澪がびくんと震える。

「な、なんだよ」
「……悪い、気のせいだ」

そして何事も無かったかのように歩き出す。
一瞬だけ感じた違和感―――あまりにも歪な気配に警戒を抱いたままで。





   ◇  ◇  ◇

―――月の綺麗な夜だった。
彼の傍らには、何かに疲れ果て、年齢以上に老いさらばえた男がいた。
少しだけ肌寒い縁側で月を眺めながら、男は不意にこんなことを口にした。

「……子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた」

その一言に込められた思いに、彼は気付かない。
ただ、尊敬する男が自らを否定するのが嫌なのだと、不機嫌に表情を変える。

「なんだよそれ。憧れてたって、諦めたのかよ」

彼は何も知らない。
男の抱く感情を。
男が犯した罪を。
男を苛む後悔を。

男―――衛宮切嗣は、遠い月を眺める振りをして、
彼―――衛宮士郎への悲痛な思いを苦笑で誤魔化した。

「うん、残念ながらね。
 ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。
 そんなコト、もっと早くに気が付けば良かった」

切嗣は自らに言い聞かせるように、士郎の問いに答えた。
もっと早く気付いていれば、もっと早く諦めていれば。
士郎はしばらく考え込んだ後、神妙な顔で頷いた。

「そっか。それじゃしょうがないな」
「そうだね。本当に、しょうがない」

悼みを込めた相槌を返す。
こんな単純なことに気付いていれば、あれほどの人々を犠牲にすることはなかったのに。
失うばかりの人生を送ることはなかったのに。
だからこそ、切嗣は士郎に自分と同じ道を辿って欲しくないと願っていた。
もしも士郎が、自分と同じように絶望し、壊れていくとしたら、それは自らがもたらした呪いではないか。
けれど、士郎は―――

「うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ」

ごくさりげない口調で、そんな誓いを立てた。

「爺さんはオトナだからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ。
 まかせろって、爺さんの夢は――」

士郎は今この瞬間を、美しい月夜とともに、心の奥深くに刻み込んでいく。
それが衛宮士郎の始まりの想い。
貴く無垢な祈りのカタチ。
衛宮切嗣がかつて抱き、そして忘れてしまった、眩いばかりの誓い。
彼はきっと、今夜の思い出を忘れまい。
数多の嘆きを知り、数限りない絶望を味わってもなお、必ずこの瞬間の自分に立ち戻れる。
切嗣は胸の内に広がる安らぎを感じながら、そっと目を閉じた。

「そうか。ああ――安心した」

それは生涯を理想に捧げ、何も成し得ることなく、喪失と絶望に打ちのめされた男に与えられた、最期の救済。
そして、衛宮士郎という男の原風景。









――それなのに、あんな声に負けちまうなんてな――


暗いセカイを堕ちていく。
どちらが上でどちらが下かも分からない。
ただ、堕ちていくという感覚だけは理解できる。

無くして、失くして、亡くして。
何一つ救えないまま堕ちていく。

きっとここで目を閉じれば、二度と開くことは叶うまい。
絶望からも哀しみからも顔を背け、暗いセカイに堕ちていく。
そうすることができればどれほど楽だろう。


――結局俺は、何も――――

――そんなこと、ないよ――


不意に、優しい声がした。
いつの間にか堕ちていく感覚が消えていた。
柔らかいものに抱き止められたような暖かさが、胸のうちから湧き上がってくる。


――あのとき掛けてくれた言葉、すごく嬉しかった――

――……――

――だから、衛宮君――――


誰かが軽く背中を押した。
たったそれだけで、彼の身体は嘘のように浮き上がっていく。
セカイが白んでいくを自覚しながら、士郎は身体を捩って振り返った。
慈しむように微笑む二色の綺麗な瞳に向けて、磨耗しかけていた名前を叫ぶ。


「――――福路――――っ!」





   ◇  ◇  ◇





口腔に入った砂の不快感と共に、衛宮士郎の意識は覚醒した。
全身が鉛のように重い。
四肢の関節は錆びた蝶番のようで、動かそうとすること自体が億劫だ。

「やはり時期を見誤ったか」

どこからか、聞き覚えのある声がした。
しかし胡乱なままの頭では、女の言葉を把握しきれない。
女は士郎が目覚めていることに気付いていない様子で、よく分からないことを語り続ける。

「狂気に歪んだ思考で大魔術を行使できるほどの実力はなかったとみえる」
「だが、そのお陰で楽しみがいのある状況になった」

唐突に別の声が割って入ってきた。
やたらと低音の目立つ男の声だ。
――どうしてだろう。
あの声を聞いていると、不思議と心がざわつく。
今すぐ立ち上がれという衝動が湧き上がってくるほどに。

「ふむ、もう目覚めるとはな」

男が感心したように言う。
その落ち着き払った声が神経を逆撫でし、強張った腕を動かす原動力になる。
せめて上体を起こそうとする士郎の抗いをよそに、彼らは身勝手な会話を続けていた。
しかし脳の半分がまだ夢から醒め切っていないようで、それが誰の声なのかも釈然としない。

「ところで、まだこの男を使うのか」
「一度敗北したとはいえ、二度目も通用しないとは限るまい。
 それにおまえにとっては好ましい情勢だろう」
「ああ、確かに期待できる展開だ。なにせ―――」

ぐるんと上下感覚が反転し、目蓋越しに淡い光が瞳孔を照らす。
姿勢を仰向けに出来たところで、士郎の意識は再び闇に吸い込まれていった。
今度は致命的な暗黒ではなく、一時のまどろみ。
男が何事か呟いていたが、それを解読する余裕もないままに、士郎は意識を手放した。





しばらくして目を覚ますと、空がうっすらと明らんでいた。
眠っていた時間はそう長くないようだが、肉体のコンディションは随分マシになっている。
士郎は脇腹の痛みを堪えながら上体を起こした。

「痛っ……」
「まだ動くな。治療を施したとはいえ、まだ完全には塞がっていない」

視線を上げると、数メートル先の路上に蒼崎橙子が立っていた。
その他の人影は見当たらない。
秋山澪も、和装の女も、あの不愉快な声の主も。
廃墟と化した船着場には、蒼崎と士郎以外の人間は存在しなかった。

「すまない、私が駆けつけたときには全て終わっていた」

どこか白々しい謝罪の弁を述べる蒼崎。
士郎は蒼崎の忠告を無視して無理矢理立ち上がり、港にそびえる構造物を仰いだ。
ギャンブル船、エスポワール号。
この地における始まりの場所。
ところどころが焼け焦げたそれは、延焼による損壊を負ってなお、不気味なまでの威容を保っていた。

「その顔、迷いはないようだな」
「ああ、早く白井のところに行かないと……それに……」

死に瀕したときに見た光景を思い浮かべる。
あれは瀕死の脳髄に浮かんだ幻覚なのか、それとも黒い泥を通じて伝わった現実の想いなのか。
正体が何であれ、あの邂逅が士郎の背中を押したのは本当だ。
手放しかけていた理想を取り戻させて、もう一度頑張れと後押しをしてくれた。
その想いを裏切ることは、もう二度としない。
決意を新たにする士郎の後ろで、蒼崎は何やら意味深な表情をしていた。

「―――衛宮士郎、心臓のことはまだ気付いていないのか」
「心臓……?」

士郎は自分の胸に目を向けた。
着衣には明確な銃創が残っているにも関わらず、胸板には僅かなへこみすら付いていない。
背筋が粟立つような不安を抱きながら、胸の中心に手を重ねる。




鼓動が、消えていた。

















――――――なにせ、あの男が私と同じ有様で蘇ったのだからな――――――



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最終更新:2010年09月19日 21:03