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idealism

それは、月の綺麗な夜だった。
夜空には宝石と見紛いそうなまでのきらびやかな星屑が散りばめられて、世界を照らす。
都会であれだけ綺麗な夜空を見られることなんて滅多にないだろうし、生まれも育ちも都会の自他共に認める都会っ子の私には、生まれて初めて見る満天の星空だった。
時刻は既に夜の9時を指し、人気はすっかり少なくなって寂しくなってきていた。

大学教授の雑用に付き合わされていたらすっかりこんな時間――あの人は一体何を研究しているのか今度こそみっちり問い詰めてやろう、と苛々していた私は、星空に心をすっかり癒される。
あんなつまらないこといつものことだし、許してあげよう。入学してからもお世話になった人だし、このくらいのことはしてあげたっていい。
いつになく寛大な気持ちになった私は、るんるんとスキップさえして、帰途につく。
録画予約しておいたテレビ番組が無事録画されているかだけは不安………だけどね。
あの時の私は、確かに浮かれていた。
初めて見る程に雄大な星空の絨毯に、散りばめられた宝珠の如き星々に―――或いは、心のどこかで思いを寄せていたあの教授と、少しでも長く過ごせたから、だったかもしれない。

二十歳になったばかりで、やっと将来のビジョンが漠然と見えてきた。
仕事に遊びに、恋に焦がれて。大変なこともあるけど、やっぱり楽しい。
一時の幻想(ゆめ)だと分かっていても、この日々が永遠に続くことを望んでしまった――。

けれど、背中に走った衝撃と共に、幻想は静かに崩れて消えるのだった。
この日、私は純潔を失った。
それは、八神美保の一つの終焉であり、当時の私はまだ知らない、もうひとつのスタート


地獄のような時間が過ぎて、私は通りかかった巡視中の警官に保護される。
―――実は、ショックが大きすぎてあの時のことはよく覚えていない。だけど、周りの人から聞いてみれば皆が口を揃えて『酷い』と答えるレベルには、悲惨だったのだろう。
暴れて、喚いて、叫んで、自傷に走ろうとして、醜く現実から逃げていたんだと何となく思う。
私は、いつだってそうだったから。
飼っていたペットが死んだ時も誰より長くペットロス症候群にかかっていたし、虐めにあえば加害者が謝りに来るくらいまで追い詰められて、逃げてきた。
逃げることだけ上手くなって、人間としてはどんどん弱くなっていく。
八神美保は―――そんな、愚かな人間。

その私の一つの転機は、医者から告げられた『妊娠』の報せであった。
周囲は当然猛反対。
どこの誰とも知れぬ性犯罪者の子供など産むべきではない、とか。随分説教されたものだ。
でも私は、逃げなかった。
お腹の中の小さな命を見捨ててまで、守りたいプライドなんて生憎、私は持っていないから。
双子の生命を、この世に産み落とすことを決意して、周囲を押し切ってまで――出産した。
相当な難産だった。命を落としてもおかしくないレベルのそれで、しかし無事に二つの生命を産み落とすことに成功できたのは奇跡としか言いようがないと我ながら思わざるを得ない。


二人の名前―――八神玄(やがみ・くろ)と八神白(やがみ・はく)。
仲のよい兄妹で、周囲からの強い風当たりにもめげずに強く生きる、理想的な我が子。
大学は中退した。幸い看護婦の資格を得ることは然程困難ではなく、元々人より『弱い』私には似合う仕事だったのか、すぐに職場環境に慣れることが出来た。
裕福な暮らしでもなく、だけど決して不幸な暮らしではなかったと思う。
噂はいつまでも付きまとってきたけれど、それに適応さえしてしまえば――それは侮蔑から同情に変わり、やがて消えると私は既に知っていた。
………ま、職場の婦長さんからの受け売りなんだけどね。
患者さんにも、そういう差別が蔓延することは珍しくないんだとか。
とにかく、私たちは幸せになれた。彼らが小学生になる頃には、私ももう二十五歳で。
若奥様と呼ばれることが嬉しくて仕方ない―――そんな幸せを、噛み締めていた。



――――九月十五日。てんきは晴れている。二人はいない。いなくなってしまった。
五秒間で、わたしは全てをうしなった。





◆ ◇


「あはは。どうしたんですかぁ、何かしゃべってくださいよぉ、つまんないですよ」
『五月蝿い、黙ってろ』


鬱陶しそうに紙に文字を書き綴る柏原をからかうように笑うのは、八神美保。
自らの命よりも重い宝物を奪われた女と、防波堤をなくした殺し屋が繰り広げるにしては随分と和やかな光景だ。
だが、この二人は各々が各々の目的に従って優勝を目指している。
今はまだ下手に動くことをせずに隠れ潜み、時を見て一気に『プレイヤー』を殲滅すること。
それが柏原修一の目論見であり、また八神美保の協力する『計画』であった。
八神だけではこの争奪戦を勝ち抜くことはまず無理だ。まだ狂う前の彼女が自負していたように、八神美保は逃避に優れ、真っ向からの戦闘においてはとても弱い。
訓練をしていない一般人でさえ殺せるか分からないのに、柏原のような人間を殺せる筈がない。

対する柏原は、八神に僅かながら亡き姉の幻影を見ている。
性格こそまるで違うが、顔つきも背丈も、まるでクローン人間と見紛うレベルで、似ているのだ。
幻影を振り払う為に、ただそれだけの為に、最悪足手まといにさえなる八神を連れている。
だが、もしいざという時になれば切り捨てる覚悟は完了していた。そんなものは、殺し屋の道を歩み始めた当の昔に終わっているのだから。


「そういえばなんですけど。窓からちらっと見たら森が跡形もなくなってますよ? デンジャラスですねぇ」


――――暢気に言う八神だったが、それこそ、柏原修一が計算外だったことなのだ。


能力者の存在は把握していたし、それが相当な強さを持っている難敵だとも知っていた。
遠距離攻撃を主としたアタッカー。
間違いない、このゲームの優勝候補筆頭だろう―――とは、思っていたのだが。

よもやこれほどとは、思ってもいなかった。
森を一つ消し飛ばし、大地にくっきりと破壊の爪痕を残している。
圧倒的と言う他ないその威力に、流石の柏原も少々肝を冷やす羽目になった。
あれを殺せるのか、と聞かれれば、かなり厳しいだろうと答える他ない。
リーチを無視して、超高威力の攻撃で狙い撃ってくる相手を仕留めるには、相当な準備が必要だ。
スナイパーライフルのような武器でならどうにでもできそうなものだが、生憎手元にない。
パートナーの八神を囮にしたとしても、全方位を一度に攻撃できでもしたら恐ろしい。
肉体をどれだけ人殺しのために鍛えていようと柏原修一は人間である。あんな一撃をまともに受ければ、耐えようとも生き永らえる可能性がかなり低い。
それ自体は、彼自身も理解していることだった。


『ひとまず奴の脅威は去った。こういう時は容易な相手から崩していくのが定石』
「ふぅん。そういうものなんですかねぇ……ところで修一くん、そんなに高速で文字書いてよく疲れないですね。私も結構筆記する方ですけど、比べ物にならないですよ」
『慣れているのでな』


まるでワープロを使い、ブラインドタッチで文字を打ち込んだような速度で、柏原は文を書く。
しかもペン習字の講師を勤められそうなくらいの達筆だ。
実際は暗殺者稼業を営む内に鍛えられた神経と力で普通の人間ではまずありえないような速度での筆記を可能としているだけなのだが、それは語る必要のないことだろう。
メモ用紙を一枚破り捨て、次のページに。


――――ごんっ。


その時だった。
玄関の分厚い扉を殴り付けるような轟音が、屋敷の中一帯に響いたのだ。


和気藹々とまではいかなくとも、それなりにリラックス出来ていた二人の目がものの一瞬で変化する。
自然現象である可能性も否定はしきれない。
だが、そんなことよりも『何者か』が侵入しようとしていると考えるのが普通だろう。
例に漏れず柏原は、侵入者―――能力者が相手であると既に脳内で仮定して対策を講じていた。
それは単純にして明快。しかしながら相応の危険が伴う行為。
窓を開き、あえてこちらの居場所を把握させるのだ。
当然侵入者は窓を確認するために一度扉から離れ――柏原と目が合う。
それは女だった。歳は間違いなく柏原より上だろうが、この争奪戦を心の底から楽しんでいることが窺える、人殺しの微笑みを浮かべながら、柏原を見ていた。
柏原は彼女と目を合わせたまま―――ここで、支給品を取り出した。

それは、柏原修一という人間を知る者から見たなら間抜けな光景だったかもしれない。
彼が取り出したものは、小学校で用いるような可愛らしいデザインの裁縫セットだった。
だが当然、『執行人』の異名を持つ柏原がそんな可愛らしい行動を取る筈がない。
ひとえに彼が用がある物は――大きな鋏、裁ち鋏と呼ばれるそれだ。
グリップを掴み、侵入者の女の胴体目掛けて思い切り投げつける。
頭を狙わなかったのは、避けられる可能性が高いからに決まっている。
まずこの一発で傷を負わせ、満身創痍となったところを二人で叩けば如何に能力者といえど殺せる。


とはいえ―――こんな風に上手く事が進むことなど、柏原は最初から考えていなかった。
だとしても、だ。
この状況は、彼の予測の範疇を大きく超えていた。
裁ち鋏は女の身体を貫くことなく、その身体に力無くぶつかり、地面にあっさりと落ちてしまったのだ。
馬鹿な。そう思わずにはいられず、らしくない事にも呆然となってしまった。
女は目の前の裁ち鋏には目もくれず、あえてポケットから一本の空き缶を取り出し、柏原に向けて笑いかける。
それは―――確かな、殺意の籠もった笑顔だった。

惜しみなく放たれた殺気を感知した柏原が屈んだ瞬間、つい一瞬前まで彼の立っていた座標を、暴虐が通り抜けた。
女が投げたのは何の変哲もない空き缶。
だが、ガラスの窓が粉々になるまでの威力と、弾丸と見紛うまでの速度で、凶器となって放たれた。
この女は能力者だ―――それも、かなり厄介な。

ここで仕留めておかなければ、後々厄介なことになる。
このタイプのプレイヤーは、傷そのものを負わないからこそ、最後まで残ることに限りなく特化しているのだ。
しかし得られたものが無い訳でもない。
奴の能力については理解できた。あの二つの『殺』りとりだけで、あれがどんなものか見抜くことは容易かった。

いわば『逆になる』能力。
強い攻撃では奴を殺せず、弱い攻撃でなら致命傷を与えることが出来る。
奴が強い攻撃を放てばそれは恐れるに値しないが、奴の弱い攻撃は脅威となる。
言葉にすれば攻略は簡単なようだが、実際のところこれほど厄介な能力というものも珍しい。
特にこんな殺し合いで、強さと弱さ、速さと遅さが逆転する能力なんて―――恐ろしいほどに有効だ。


「うわわ! どうします、修一くん。このままだと殺されちゃいますよぉ」
『八神。お前、手話は理解できるか』
「え? ええ。一応看護婦やってましたから、出来ますよ」
『あれを迎え撃つ。ここで仕留めないとあれは、きっと最大の敵になる』


まさか殺し合いながら筆談するわけにもいくまい。
八神は手話を理解し、口頭で返事してくれればいい。
いけるか、と手話を送り、彼女の「いつでもいけますよ~」という間延びした返事を聞いて、いよいよ殺し屋が動く。
屋敷に備えられていた装飾剣を武装として持ち、八神は念のためコルトガバメントを持つ。

どちらも普通に使えば通用しないだろうが、その抜け道を提示するのが柏原の仕事だ。
どんな手段を使ってでも生き残るために。

荘厳な玄関の扉が吹き飛ぶ轟音を合図として、戦乱の幕が開かれた。

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最終更新:2012年05月11日 09:52
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