「井伊直親」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
井伊直親 - (2007/06/13 (水) 09:47:52) のソース
[[今川家]] *&ruby(イイナオチカ){井伊直親}; [#bc216232] **レベル [#c6a6a260] 45-7 **職業 [#p0b6b373] 薬師 **戦闘開始時セリフ [#kbf564c0] **防衛陣 [#jfec0102] 中翼中備([[奥平>奥平貞能]])副将 **構成 [#kf6c56ad] |~名前|~職業|~レベル|~初期付与|~特殊技能| |CENTER:井伊直親|CENTER:薬師|CENTER:45|再生&color(gray){▲};|| |CENTER:山家三方衆|CENTER:侍|CENTER:45||| |CENTER:駿河のくノ一|CENTER:忍者|CENTER:40||| |CENTER:駿府文人|CENTER:陰陽|CENTER:40||| |CENTER:浅間社雅楽隊|CENTER:神主|CENTER:40||| |CENTER:焼津海賊精鋭|CENTER:鍛冶|CENTER:40||| |CENTER:国分寺僧兵|CENTER:僧|CENTER:40||| **特徴詳細 [#pda82abe] **ドロップアイテム [#b37b49a8] -[[井伊の赤頭巾]] -[[井伊の赤胴]] -[[矢]] **列伝 [#v5b724a7] 井伊直満の子。亀之丞、肥後守。1535年ごろの生まれと考えられるが実際には不明。 井伊氏は藤原家を祖として[[遠江]]国引佐郡井伊谷に土着したのが始まりとされる。~ 一説には子が女子ばかりで跡取りに困った藤原共資が古くから井伊谷にあった国司を養子に迎え入れたのが始まりといわれ、こちらのほうがどうも有力なようである。~ 井伊城を根拠地とし、はやくから遠江の有力武士となっていたようである。古くは新田義貞に従軍した記録があり、うそ臭い家系が非常に多い藤原家の出自の中では、信憑性がある。 今川氏に南北朝より仕えていた名跡(ただし16世紀前半に何度か全面衝突していることから、完全な臣下ではなかったようである)であったが、総じて高い扱いではない。これは今川氏にとって井伊氏はたびたび謀反を起こす邪魔な存在であったからであろう。 1542年、当主であった直宗が討ち死に、44年には井伊氏は小野氏の諫言をうけた[[今川義元]]より井伊直宗の弟にあたる井伊直満と井伊直義が自害させられると、直満の子である直親にも追っ手が迫ったが、直満の家臣である今村藤七郎正実という人物に助けられ、以後かれの教育を受けたという。 1555年に井伊谷に舞い戻り、当時井伊氏当主であった直盛の養子となる。このときから直親を名乗っていたようである。~ しかし[[桶狭間]]で直盛は戦死、直親はその後をついて当主となるものの、1562年には親である直満を諫言によって自害させた小野氏に再び謀反の嫌疑を井伊氏にかける(なお、このときの疑いは濡れ衣であったことが[[家康>徳川家康]]によって証明、小野氏は磔にされている)。~ 井伊直親はこれの申し開きをするために[[駿府]]に向かう途中、[[今川氏真]]の命を受けた[[朝比奈泰朝]]の襲撃にあい討ち死に。さらには翌年、一族の長老であった井伊直平が出兵の折に[[飯尾連竜]]の妻に毒茶をのまされ死亡。井伊谷は完全に今川のものとなった。 なお、直親が討ち死にしたさい、彼の子は2歳であったが、一命を取り留めている。これが後の徳川四天王が一人[[井伊直政]]である **その他情報 [#h2a4110e] #comment