雑記:文アルとか近代芸術、116


4月23日めも。


まずあれ【文藝春秋】辺りから、いやあの、キャラの続き書こうと思ったんだけど毎度のことながらなんとなくです。
菊池寛の作った同人誌、のちに総合誌、そののちに会社化、の順番。
関東大震災(9月ね)の直前の大正12年から発行されまして、実際何号くらいで震災にあったんだかちょっと覚えてないんだけど、えーと、1月からだからある程度は軌道に乗ってからか、返品が皆無だったりとかあっても好成績とか続いてるんだよね。
てか、雑誌は年末年始ってわりとよくあるよな(鉄道なんかも多いね)。
この文藝春秋は関東大震災の時点で田端の元犀星宅に移転されまして、その後、手狭になったので元有島武郎宅に、大正15年の時点で再度移転して、この時点でビルに入ったって認識でいいのかな?
もうちょい移転してる可能性はあるかも、なんか記述が散ってるので…。

大正15年に「総合誌」という政治取り扱い(新聞検閲を受ける)を出来る分類となり、さらに昭和3年に会社化しました。
どうも菊池さんは芥川に文藝春秋を譲るつもりだったらしく、会社化しなかったのはそれでだったみたい、自分の死後どうなっても別に構わない、というようなことを言ってるのはどこで見たんだっけか。
ただなんかいろいろな謎が多くて、どうも「横領事件」がいつあったのか不明とか(この事件から復帰したらしい人が復帰したのが昭和2年て…)(社史に書いてあったのは確か昭和6年の時点、ひょっとしてその後のショットガン事件の年?)。
初期は書籍部門が、あるのかないのか、本はあるんだけど体制が謎ってなにそれ。


4月24日めも。


じゃあえーと、続いて【中央公論】、こないだ雑誌の本を読んでいたら『明六雑誌』に続いていて本気で突っ伏したんだけどどういうことなのそれは。
というかどうも初期の雑誌って雑誌ではなくて機関誌という分類らしいんですよね、特定組織のための冊子を一般にも売るよー、的なスタイル。
この中央公論も後に分離独立するものの、もともと本願寺の機関誌。
なんだっけ、反省会雑誌? あってた、なんかもう一回改名してたと思うんだけど、まあなんというか、先に独立してやって行きます! と麻田さんという社長さんが本願寺に願い出まして、その後、経営不振にて小説を取り扱うことになったようです。
いまいち時期がピンと来てなかったんだけど、紅葉先生が「金色夜叉」を大ヒットさせたあとで小杉天外さんが一山当て、小説は売れるってことが知られた頃のようですねー、麻田さんが天外さんみたいな恋愛ものは嫌って言ってたので。
結局まあ、学者の先生に恋愛ものを書かせたのち、瀧田さんていう名物編集者さんが『ホトトギス』でぽちぽち書いてただけの漱石さんを口説き落として書いて貰うことに成功し、そこから小説を扱うことが一般的になったようです。
なぜかこの辺が全て時期がつながるようになるまで1年掛ったんだけど、なんで分断してたんだろう正直…。

登竜門って言われてるものの「新人が呼ばれたらプロ扱い」という感じの位置らしいので中央公論が頂点だと解説されてる時は話半分にしたほうが良さそうです…。
皆の憧れの雑誌という表現も、プロとして依頼来ない人たちの憧れらしいのであの…その、そこに載ることでトップになる系統の取り違えされてるとほんのり胸が痛むね…。


4月25日めも。


んじゃ次は【改造】、で改造社の話。
大正8年に創刊、新思潮ら「当代の第一線作家にそっぽを向かれた」ということが語られているのをちょいちょい散見するものの、どういう意味なのか微妙にわからないんだよね、まああれ、大正8年にパーティやってて明治末とほぼほぼ同じ面子だとさすがになんだろうねこれとは思わないでもない。
なにかいろんな方向でいろんなことを言われているのですが、賀川豊彦さんという方が特大ヒットを飛ばし、出版社を立て直し、円本ブームのけん引役であった、原稿料が安いからという理由で多くのプロ文作家たちに書かせていたというのは事実なものの、別に思想があるというわけでもなくてどちらかというと商業主義。
しかして、ただの俗物というわけでもないんじゃないかな、というのが現在はだいたいの妥当な評価となっているようです。
まあ、水島さんという編集者さんは思い付きは立派なものの、すぐに飽きたり成果出るまで我慢が出来なかったり、という欠点は挙げてはいるけれど、その立派な思い付き自体はそこまで流行に乗るという風情でもなかったもんなー。

初期に白樺の人らが呼ばれてたとか、菊池さんが「新講談」の試みをやっていたとか、昭和初期に主に載っていたのが利一くんと川端という新感覚だとか、待ってあんまり聞かないわね? みたいな感じのことになっていたようですし。
菊池さんらはまたどうやって改造に書くことになったの、初期に編集部にいたという「芥川の弟子」はどうなったの昭和2年に入った人が全く触れてないのちょっとどうなのとか、こちらも謎が多い、どっかには載ってるかな。


4月26日めも。


えーと、書ける自信はないものの【新潮】の話。
ここまで挙げた三つの雑誌は三大総合誌、と戦前までになってまして、この新潮さんはかなり古参の文芸誌、まああんまりお金はないらしく。
さらに大衆文学ブームに乗っかって『日の出』が作られ、こちらもかなり辛い赤字状態だったらしいんですけど、どうやって持ち堪えたのかのほうがわからない。
書籍部門は持ってたようなのでそっちで稼いでいたんだろうか、謎い。

というかあれ、改造が執筆陣が安定して新人受け入れ雑誌ではなくなった後、なんで今更新潮にその役が回ってきたのかもちょっとわかんないよね…。
ただ、よく考えてみたら改造が登場する大正8年より前は文士となることそのものが非常に狭き門であって、同じ雑誌に載ってるだけで文句が出るとか言われてたっけ、それと比べると新人に対しての一定のチャンスはある時代になったのかなぁ。
菊池さんと新潮の関係が悪いと言われていたものの、大衆雑誌が赤字なんだよどうしよう、と2代め社長が相談していたため、多分違うなこれ、としか。
もともと中村武羅夫さんて人と仲良かったのに決別したらしいので、そっちのせいかなぁ、というか、日の出の編集さんが新潮と言っただけで締め出され、「来るのは貴方ね?」という確認を何度かされていたのであの、それも武羅夫さんかな…。
ぶっちゃけほとんど借金したことない菊池さんが金を借りようとした、文藝春秋を作る前から宣伝出してたほどの新潮との関係で超売れっ子の作家とでも縁を切らせるほど我が強いと、あの、そのせいで極端にジリ貧新人雑誌になった疑惑が…、今。
そういや「新興芸術派」ってここの企画らしいよ、他の出版社では触れてないけど…。


4月27日めも。


んじゃあれ、だいぶ遡りますけども【硯友社】で。
というかこの硯友社が初めての「雑誌」を出したんだよー、というのはどういう分類においての見解と見たほうがいいのか…(かなりガチな人だったんである程度の根拠はあると思うんだけど、雑誌はそもそも新聞と見分け付かない程度の状態から少しずつ形が成り立って行ったのでなにがどう初めてなのか)。
『明六雑誌』や『反省会雑誌』のほうがどう考えても早いんだけど、これどっちも機関誌だしね、この機関誌仲間には『女学雑誌』ってのもあります、明治女学院の機関誌から、んー、その後中央公論みたいに独立したのかしら。

いや硯友社の話なんだけども、ここはかなりたくさんの雑誌を出していて、まあ有名といえば有名なのは『我楽多文庫』なのかなぁ、あんまり実績がないためかほとんど出てこないのでよくわからないんだけど、他の雑誌もそんなに続いたわけでもないしな。
同人誌扱いになっていたりするし、まあ、実際のところ同人誌と大差はないとは思うものの、似たようなスタイルで出されてる雑誌は他にも相当数あるというか、あの、プロがいないのでそんなこと言っても…。
商業誌が生まれるまで同人誌って概念がないんですよね…、そして硯友社の前には商業誌がないというまああれ…。
日本初の文化結社であるとはよく聞くものの、この文化結社というものが構成員のことをどの程度厳密に取り扱うものなのかは語られているのを見たことがなく、出してた雑誌もここの機関誌ということになるのかなぁ? 出版社を後ろ盾にした雑誌もあるんだけどね、程度の、とにかく曖昧な認識、解説出来るのから数人みたいだしね、ううん。


4月28日めも。


一つ前からもう触れてますけども【女学雑誌】。
なんか知らんけどネットで検索しても機関誌どうのということが出てこないんですけども、当時はそういうことはわりとちょくちょくあったようです、そもそも「学校」そのものが文部省のような扱いだったらしいからなぁ。
あれですね、新聞の初期に開成学校で検閲を行っていたとは聞いていたんですが、そもそも各地の学校も同じようなことをしていたようです。
ある意味で、地方にインテリがいる場所がそこにしかないなんていうだけのことかもしれないんだけどねー、とにかく教師足りなかったってのは有名だしな…。

えーと、明治女学院の機関誌扱いだったんですけど、検索してみると一応別のところで作られた雑誌なのかなこれ、ただ、明治18年てまだ商業雑誌ない扱いだよね…。
(なんというか硯友社が同年に結成。)
なんか若干あとが怖いものの中央公論の来歴考えるとそこまで問題でもなさそうな気もしないでもない、今後雑誌の変遷で詰めてくしかなさそう。
あ、女学校ではあったんだけど、わりと男性も普通に読んでいたようです。
あとあれ、『文学界』も明治女学院の中で校長に反乱を起こした教師らが中核となって作られた同人誌なのだそうなので、話がなんだかミニマム。
そもそも内容にしたところで、詩やら小説などの文芸メインだったとも思いにくいので、だんだんそれが増えてったんじゃないのかな、とぼんやり思ってるんですが、思ってるだけでちゃんとした研究者が触れていてくれたものは読んでません。
ただ、黎明期すぎて継ぎ接ぎなので私のせいでも…ないかな。


4月29日めも。


で、あれ【文学界】ですね、新旧二つあって新のほうはこの旧のほうを意識した雑誌だよ、ということが創刊号で触れられていたようです(文章が紹介されてたのは読んだ、そしてそこで旧『文学界』が詩の雑誌だと書かれていて突っ伏した、あとで改めて)。
昔は旧字で文「學」界と表記していたんですが、新旧どっちの雑誌も新字でも旧字でも書かれていたこともあったので忘れました、ええもう、あんまり拘ってないという当時の人に従うしかないじゃない! 現代人にはなんか特別っぽく見えるんだけどね!

あとあれ、詩の雑誌であるということが長いことわからず、そういや確かに文学界に属していてそこで有名になったのは詩人が多いな?(そして小説家らはその時点でアマチュア的存在だった気もしてる)
とか、あとになると思い至ることはあったんだけどね…。
あの、こと文学史関係はマジでネットにたまにしか頼らないんだけどもどうなってますかね、なんか心配になってきた。
だって真面目に『日本文壇史』に詩の雑誌って本気で書かれてないんだもん、ところがあれ、昭和に作られた『文学界』にはかつて存在した同人誌が詩の雑誌であるということは本気できちっと触れられてました。
なぜ取り落とされたのかが怖くて深く考えたくない。
あ、短歌の雑誌などでもそうだったけれど、小説や他の文芸が載ってることそのものはどうもそんなに珍しくないようです、漱石さんの小説も俳句雑誌に載ってたしね。
そして『明星』や『スバル』はこの文学界の後継的存在であったようです、詩の雑誌の系譜ってのもよくわからないね!? てかこの辺わからんしか書いてないな。


4月30日めも。


ここまで書いて【文藝時代】を忘れてました、あ、文藝春秋と文藝時代に関しては旧字にしています、文藝春秋は旧字で見慣れていて、文藝時代はそこと一応兄弟分らしいからなんですが大正13年、文藝春秋の翌年の創刊。
この「一応」というのは文藝時代に関してそもそも川端が菊池さんに逆らったわけではない、ということが言われてはいるものの、どういうわけか宗教ブームの否定を掲げて出発しようとしていたというのを読み、それ自体がそもそも社会主義者の発想に近い、ということで一旦保留にしたためです。
文藝時代が廃刊になる頃には出版社の編集の手が入って、社会主義雑誌化してたったのは普通に確定路線で語られていたので、まあ、「最初から画策していた」としてもそこまで違和感はなく、菊池さんの肝入りで作られていて特定思想に偏るというのもちょっとピンと来なかったのでまとめて棚上げ。

ただそもそも、菊池さんには川端やら利一くんに対してもともと弟子扱いをしておらず、別の雑誌作ると聞いたところで「へー」で済んでたと思うんだよね。
なんか面倒なことになってたっぽいのは、あるいは社会主義を掲げた看板でやろうとしてたことのほうなんじゃないかなー、と思ってるんだけど確認難しそう。
宗教否定したからってすぐにピンと来る人もそんなにいなさそうだしね、あるいは菊池さんには誰かが教えたのかもなぁ(宗教は体制擁護の側面があるからという否定)。
で、この発行していた金星堂から調べようとしているものの、博文館の社員が数人、花袋を中心に独立したということまでしかわからなくてこれもまた行き止まり。
この雑誌、創刊はやけに語られてるのに、潰れた経緯は触れられてないよね…。


5月1日めも。


で、ここまで書いてふと「正直知っていると調べ事が楽情報」では特にないな? という絶対真理に気付いてしまったのですがそのまま葬る所存、で【朝日新聞】について。
とはいえ、知っているのはごく限られた漱石さんが関わっていた時期だけなんだけどねー、ええとまあ、『猫』がどうも世に知れ渡るようになったらしく、続いて中央公論にて掲載が始まり、どうやらどの新聞社でも次はウチが! という発想になっていたようです、当時の新聞はいわゆる中新聞と呼ばれる読み物も政治も両方を扱うというスタイルが一般的になっていたので、インテリ出身の庶民が読める作品はある意味でぴったりなんだろうな、ということはわかるからねー。
(毎日/日日新聞が漱石さん取得に動いた話自体は聞いたことがないけれど、朝日新聞への対抗ってことはしてたからね、どうも日日新聞はちょっとお堅い傾向があったようです、毎日は家庭小説とか載せてたから今更だよな。)

まあただ、最終的になにかことがあるとぽーんと大枚を叩く朝日新聞には叶わなかった可能性もあるかな、当時からすでに東京帝大にてかなりの高給取りだった漱石さんの年俸の数割増しでどどーんと迫ったようで即決でした。
どうも読売新聞が数割減で契約をお願いしたらしく、返事を先延ばしにされていましたがあの、なんだ、まあ(拘束時間をかなり減らすとかならありかなとは思うけど、朝日新聞の対応を見るとどうしても霞む…)。
なのでまあ、漱石さんの小説はほとんどは朝日新聞にて連載されていたもののようです、前に孫娘さんの本読んでたら新作小説柄の着物とか出してたのでだいぶ人気だよね。
そしてさらに新旧作家を呼び、この時期に朝日に書いてた人も多いんだってさ。


5月2日めも。


んでまあ、このページラストの【日日/毎日新聞】について。
というかどっちを前にするかはわりと迷うんだけどね、日日が買収されたほう、毎日が買収したほう、日日のほうが創刊がかなり古いです、その時代にも軽く現存最古っていう、確かこれより古い日刊紙って一つしかないんじゃなかったかな。
芥川が先に潜り込んで菊池さんのことを呼んでいたんですが、なんで「一緒に入ったのは日日側の意向で偶然」とまで言われているのに呼んだと言い切っているかというと、日日がちょっとお堅く、鴎外さんの歴史題材の小説などを掲載していたということがあるので、まあ、歴史好きの菊池さんを斡旋したいなら私でもここにするかな、と。
実際のところは方針転換を図っていたらしいのでちょっとタイミング悪かったんじゃないかって気もするけど(営業さんがぎゃあぎゃあ騒いでた)。

まああれ、大正9年に『真珠夫人』の連載がありまして、その連載中の半年間に20万件ほどの契約増加が東西合わせてあり(関東版が日日、関西版が毎日、連載は両方に載ってることとそうでないことがある)、近代史の本でも「新聞100万部時代!」と謡われているのにも関わらず日日/毎日本体の語る文章ではこの時期のことはだいたい特になにごともなく、人気連載がありましたとの穏当な内容すらない。
5分の1の契約件数で連載直後に桁が変化したなら、本来なら軽くでも語っていて良さそうなものなのにない、毎日新聞の記者は文士の全てと戦後は手を切った、ということを半ば誇らしげに語っている。
よくはわかりませんが愛憎劇なんだろうなという見当を付けても怒られないよね。
日日、朝日共に大衆文学時代は彼ら取得に動いたらしく、その間はどうなんだろ。

(文アルとか近代芸術、116)
最終更新:2018年09月01日 23:45