『黒猫エレンの宅急便』/Mitchell & Carroll




 帰って来るやいなや、ベッドに体ごと投げ出し、そのまま寝てしまう。メイクも落とさずに、風呂にも入らずに、食事も摂らずに、そのまま寝てしまう。そんな日がもう何日続いている事か。心配したハミィが、非力ながらも、エレンの足をベッドの中に納めて、布団を掛けてやる。そんな日がもう何日続いている事か。朝起きて、自分の体に栄養を流し込み、ろくに身支度も整えないまま、また忙しなく働き出す。そんな日がもう何日続いている事か。日に日にやつれ、亡霊にでも取り憑かれているように髪もボサボサに荒れ、口元は何やら住所のようなものをブツブツと唱えている。心配した奏が、「女の子は身だしなみが大事よ」と言って髪を梳かしてやろうとするが、そんな暇は無いと言って何処かへ消えてしまう、響もまた、「疲れた体には甘いものがイチバン!」と言って、スイーツを差し入れたりするのだが、必ずと言っていいほどエレンは、ダンボールが擦れる“シュガー”という音を思い出し、やはり何処かへと姿を消してしまう。そんな日がもう何日続いている事か。

 事の発端は数日前。
「私、宅急便を始めるわ!」
 何でも新しいギターを買うため、そしていつまでも音吉に世話になるのも申し訳無いから一人暮らしをするための資金作りとのことらしい。それともう一つ、困っている人を助けたい、自分も何か社会貢献がしたいとのことだった。何でも宅配業者が本格的な人手不足で困っているというニュースを聞いて、居ても立ってもいられなくなったのだ。しかし始めてみるとこれがまた大変で、そもそも運転免許を持っていないエレンは、トラックの代わりにリアカーを牽いて荷物を運んでいる。ここ、加音町は音楽を嗜んでいる者が多いせいか、重い楽器の荷物も少なくない。しかも、せっかく配達先に辿り着いたと思ったら在宅者不在で、重い荷物を載せたまま次の配達左記へと向かうなんてことも――そんな日がもう何日続いている事か。疲労困憊で指先は痺れ、ろくにギターのコードを押さえる事も出来ないどころか、ギターに触れる時間すら無い。心の栄養も失ったエレンは、今日もまた何処かへと荷物を配達している。悪魔の尻尾のようなマークの付いたダンボール箱を、山ほど載せたリアカーを牽いて……。

 しかし物語はここで終わりではない。ある日、何やら配達物の中からフレッシュな香りが漂ってくるのを感じた。空腹に我慢できなくなったエレンは、ついダンボール箱の封を開けてしまった。中には、生鮮食品が詰められていた。極限状態だったエレンは、無我夢中でそれらを貪った。一通り平らげて、正気に戻ったエレンは、自分は何て事をしてしまったんだろうと、往来でオイオイと声を上げて泣き始めた。何事だろうと一人、また一人と寄ってきて、あっという間に人だかりができた。そこを割って入って来たのが、響たちだった。事情を聞いてやった後、奏が代わりに人だかりを解散させ、結局皆で配達先に謝りに行った。幸い、話の通じる依頼主だったので、許してもらえたばかりでなく、皆に飴玉まで与えてくれた。そして営業所に戻ったエレンは、その日限りで解雇となった。

 久しぶりの風呂。熱いシャワーが、皮膚にまとわり付いた汚れやその他諸々を一気に洗い流してくれる。その間、響たちは栄養の付くものを、とキッチンでせっせと調理をしている。湯船にチャプンと浸かったエレンは、何やら聞こえてくる話し声と、おそらく炒め物をしているのであろう、ジュージューという音に耳を済ませている。奏の怒鳴り声が聞こえる。響が段取りを間違えたのかしら?それともハミィがつまみ食いをしたとか?久しぶりに心からちょっとだけ笑顔になって、軽くなった体を拭いていると、アコが入ってきた。「あなたもお風呂?」と訊くと、そうではなく奏が最近覚えたという歌に耐えられないとのことで、避難してきたらしい。
 リビングには豪勢な料理が並んでいた。景気付けにと、久方ぶりにギターを手に取ったエレンは、さっきの奏の歌に即興で伴奏を付けてやった。ギターの音色で中和させただけでは足りなかったのか、アコは両耳を塞いだままだった。口直しにと、エレンは自作の優しい歌を弾き語った。それにハミィも加わる。憶えやすいメロディーだったので、次第に響と奏、それにアコも加わって、食卓に音の彩りが添えられる。極めつけは、ハミィの言葉のトッピング。
「セイレーンは、心に歌を届ける天才ニャ!」
 そう、それは一瞬にして。


 ~終~
最終更新:2017年04月22日 10:03