幸せは、赤き瞳の中に ( 第19話:瞳の中の幸せ )
ラビリンスの灰色の空を飛んでいく、白く輝く光のハート。その真ん中に立つパッションが見つめる先には、“不幸のゲージ”と、その中に居るかつてのラビリンス総統・メビウスの姿がある。
ゲージを取り込んだソレワターセの身体は、今やただ一本の蔦が、ゲージに螺旋状に巻き付いて、辛うじて残っている状態だ。その中にあって、メビウスは大いに混乱していた。
突然制御不能になった“不幸のエネルギー”が、内側からソレワターセを蝕んでいく。眼下に目をやれば、再び管理したはずの国民たちはまたも自我を取り戻し、プリキュアどもやウエスター、サウラーの元へと向かっている。
「一体……何が起こっているというのだ……!」
そう呟くと同時に、その答えを自分が知っていることに気付く。ゲージの中に満ちている、今まで感知したことのない気配――それは、自らのプログラムと管理した国民たちのデータの媒体となっているはずの“不幸のエネルギー”が、何か別の物に変質していることを意味していた。
ウィルスか? そんなものが入り込むことなど、普通ならあり得ない。だが、まだ堅固な“器”を得られていない今、そして自分に歯向かうプリキュアや元・幹部たちが存在する今、考えられない話ではない。
今の状態では、これ以上の分析は不可能だ。が、唯一はっきりしていること。それは……。
「私の計画は、またも失敗に終わるということか……」
表情ひとつ変えずにそう呟いてから、メビウスはすぐさま次の行動を決定した。
「是非もない。消滅プログラムを作動する」
目的達成のために動くことが不可能になった者は、消去せしめる――メビウスが人間に代わってこの世界を支配すると決めた時に、打ち立てたルールのひとつ。それは対象が人間であろうと、自分自身であろうと変わらない。
“不幸のエネルギー”が変質した物の正体が何か分からないので、影響が極力少ないよう、遥か上空で消滅プログラムを作動させると決めた。それと同時に、頼りなげに上昇を続けていたソレワターセが一気に加速する。
ゲージの中で、メビウスは静かに目を閉じる。
やはり、先のプリキュアとの戦いのデータが欠落していたことが、失敗の一因だったのだろうか。
手に入れられなかったノーザの本体には、まだバックアップが残されている。もしノーザが蘇るようなことがあれば、自分の再度の復活もあり得るのだろうか。果たしてその確率はどの程度なのだろう……。
そこまで思考したところで、メビウスがカッと目を見開く。またしても想定外のもの――自分を追ってくる人間の姿が、その瞳に映った。
心なしか、急にスピードを上げたように見えるソレワターセ。その後を追うパッションの視線は、ずっと“不幸のゲージ”に注がれていた。その中に映し出されたメビウスの顔は、さっきからずっとギュッと目を閉じ、何だか震えているように見える。
「メビウス様……」
パッションが小さく呟く。すると、まるでその声が聞こえたかのように、メビウスの両目がカッと見開かれた。眉を吊り上げ、眉間に皺を寄せた恐ろしい形相で、パッションを睨み付ける。
パッションが息を呑み、やがてすぅっと細く、震える息を吐き出す。
かつてのラビリンスの国民なら――そしてメビウスの僕・イースであった頃の自分なら、今のメビウスの表情を一目見ただけで恐ろしさに平伏し、顔を上げられなかったに違いない。
現に今だって、身体が震えるほどに恐ろしい。だが、パッションはギュッと拳を握って、メビウスの顔を見つめ続ける。
死んでも目を離すものかと思った。一刻も早く追いついて、あの時伝えられなかった自分の想い、ラブの想い、そして新たな未来を歩いていこうとしているラビリンスの人たちの想いを、何としても伝えたい。
「来るなと言っているのが、わからんのかぁっ!」
怒声と共に、再び衝撃波がパッションを襲った。今度は光のハートがそれを受け止め、撥ね返す。
パッションが思わず叫び声を飲み込んだ。ソレワターセの螺旋状の身体は、己の力をまともに食らって、その真ん中がブツリと断ち切れてしまったのだ。
ラビリンスの上空で、ゆっくりと傾き始める“不幸のゲージ”。それを見るや否や、パッションは弾丸のように空へ飛び出した。空中ですぐにその姿は掻き消えて、次の瞬間、ゲージの目の前にその姿が現れる。
「メビウス様!」
叫ぶと同時に、大きく両腕を広げてゲージを抱きかかえるパッション。その時、彼女の後ろから飛んできた光のハートがパッションとゲージの両方を包み込んで――気付いた時には、パッションはほの白く光る世界で、かつて対峙した時と同じ姿のメビウスと向かい合っていた。
幸せは、赤き瞳の中に ( 第19話:瞳の中の幸せ )
「メビウス様……」
「何の真似だ。私の道連れにでもなるつもりか」
僧衣のような衣装を身にまとった姿のメビウスが、パッションを見据え、重々しく口を開く。
「私の計画は、またしても失敗に終わった。“不幸のエネルギー”が突然制御不能となり、人間たちの管理が解かれてしまったのだ。もはや“不幸のゲージ”を残しておいても、害にしかならぬ。ならば……」
「いいえ、メビウス様」
自分の言葉を遮り、一歩前に進み出たパッションを、メビウスは相変わらず鋭い眼差しで見つめる。
以前、ハピネス・ハリケーンの光の中で向かい合った、作り物のメビウスとは全然違う――ふとそんなことを思った。あの時のメビウスは虚ろな目をして、自分と一度も目を合わせてはくれなかった……。そんなことを思い出しながら、パッションは穏やかな声で語りかける。
「それはもう“不幸のエネルギー”ではありません。ラビリンスの人たちの、未来への希望や仲間を信じる心、そして互いに手を取り合おうとする愛の力が生み出した、“幸せのエネルギー”です」
「幸せの……エネルギーだと? 馬鹿な。ラビリンスの国民たちが、私の管理を断ち切って、不確かな幸せを求めたというのか!」
メビウスの目が、驚きに見開かれる。が、見る見るうちにその表情が変わった。眉間に深い皺が刻まれ、忌々し気な顔付きになったメビウスが、パッションを眼光鋭くねめつける。
「プリキュアのせいか。プリキュアがまたしても、このラビリンスを変えたというのか!」
「いいえ。みんなの目を覚まさせたのは、ラビリンスの人間です。ウエスターやサウラー、それに警察組織の若者たち。みんながこの国のために懸命に戦う姿を見て、自分たちも何かしたいと思ったのです」
メビウスの言葉に静かにかぶりを振ったパッションが、誇らしげな顔できっぱりと言い切る。
「人と人とが手を取り合い、共に生きるということ。そこから生まれる幸せという感情は、人が生きていくために大切なもの。それは四つ葉町の人たちも、ラビリンスの人たちも同じです」
「愚か者めが!」
メビウスの激しい憤りの声が、パッションに投げつけられた。
「幸せだと? 私はお前たちに教えたはずだ。幸せと不幸は隣り合わせ。いや、表と裏と言っても良い。だから、幸せがあるところには必ず不幸がある。そんなものがあれば、悲しみも争いも不幸も無い世界など、作れはしないのだ!」
「確かに」
パッションも負けじと声を張り上げる。
「悲しみも争いも不幸も無い世界は、穏やかで生きやすい。でも、そのことをラビリンスの国民が知ったのは、今回のことがあったからです。悲しみと争いと不幸を経験して初めて、私たちは長い間、あなたに守られてきたのだということを知った。それと同時に、共に手を取り合う喜びと、大切さを知ったのです」
「いや、違う……お前たちは、何も分かってはおらぬ!」
カッと見開かれたメビウスの目の中で、瞳が小さく、小刻みに震える。
「幸せなどという不確かなものを求めて、お前たち人間は争い、傷付け合って、悲しみと不幸を生み出してきた。そんな愚かな歴史が、長い年月、数え切れないほど繰り返されてきたのだ」
メビウスの白い僧衣がたなびき始めた。メビウスの身体から煙のようなものが立ち昇り、強風となってパッションの方へ吹き付ける。その圧力に思わず後ずさりそうになって、パッションは愕然とした。
それは、あの占い館の跡地で対峙したソレワターセから溢れ出したのと同じもの――強烈な“不幸のエネルギー”の奔流だった。
(一体何故!? ゲージの中の“不幸のエネルギー”は、確かに“幸せのエネルギー”に変わったはず……!)
動揺しながら、パッションは十字受けの体勢で必死に耐える。
「そんなかつての山のような災厄の記録は、私の中にデータとしてインプットされている。私はそこから学習した。だが、完全な対策を立てても、人間はその通りには実行しない。必ず誰かの幸せを優先し、やがては誰かが不幸になる道を選ぶのだ。そのたびに、私は学習を繰り返した」
(そうか……これは、メビウス様の中に刻まれた、“不幸の記録”のエネルギーなんだわ)
そう認識した途端、かつてのラビリンスの光景が、まるで数倍速の映像を見せられているようにパッションの中に流れ込んできた。既にこの国の人間たちには忘れ去られたはずの、過ぎ去った時代の争いの記憶、悲しみと不幸の記憶が。
人々が嘆き悲しむ声。戦いに疲れ、表情をなくした戦士たち。人と人とが互いに争い、ののしり合う醜く歪んだ表情――。
声も出せず、押し寄せる負の力に、ただ必死で耐えるパッション。その身体は、ずるずると少しずつ後退していく。
「こんな愚かな生き物に、この世界を任せておくわけにはいかない――学習と思考を繰り返した結果、私はそういう結論に達した。全て私が支配し、悲しみも争いも不幸も無い世界を作ることにしたのだ!」
「キャー!」
ついに風圧に負けて、パッションの身体が宙に浮く。強風に吹き飛ばされて、パッションが思わずギュッと目をつぶった、その時。
――せつな!
固く閉じられたまぶたの裏に、パッと浮かび上がったもの。それは、まるで花が咲いたような、ラブの笑顔だった。
続いて美希と祈里の顔が、その隣に並ぶ。あゆみと圭太郎、ミユキさん、カオルちゃん、学校の友人たち、商店街の人たち。四つ葉町で出会った数多くの人たちの笑顔が、次々と浮かぶ。そして、ウエスターとサウラー、少年と少女ら警察組織の若者たち、野菜畑の老人、ついさっき目にしたラビリンスの人たちの笑顔も、それに重なった。
その中に、せつな自身の姿は無い。でも彼らを見れば、その眼差しが向けられている――愛されている自分の姿が、はっきりと浮かび上がって来る。
(そう……これが私の幸せの姿。いつだって私の瞳の中にあって、私自身の幸せを映し出すもの)
吹き飛ばされた身体が、柔らかくどっしりとしたものに受け止められる。それは、さっきよりも輝きを増した光のハートだった。
ハートの光越しに眼下を眺めれば、人々が必死で想いを届けようとしているのが小さく見える。
(愛しい人たち。愛しい世界。たとえ私が、また間違いを犯しても、悲しみに沈む日も、不幸な時も、決して消えることはない。そしてそれは、メビウス様が作ったラビリンスには……)
こちらを見上げる一人一人の胸元に、さらに小さなハート型のきらめきが見えるような気がした。と、その時。
「キー!」
白く輝く姿に変わったアカルンが飛んできて、パッションの目の前で嬉しそうに飛び跳ねた。
「そうね。今度は私の番。みんなの想い、そして私の想い、メビウス様に届けてみせる!」
「チェインジ・プリキュア! ビートアーップ!」
アカルンがパッションの中に飛び込んで、今再び、変身の儀式が始まる。
胸の四つ葉に加わった白いハートは、愛する世界の、愛する仲間たちの心。
背中の大きな白い翼は、その心を未来へ運ぶ、約束の印――。
「ホワイトハートはみんなの心。はばたけフレッシュ! キュアエンジェル!」
強風に桃色の髪を煽られながら、軽やかに舞い降りる天の使い――キュアエンジェル・パッションの降臨だった。
「愚かな。これだけ言ってもまだ分からないのか。幸せなどを求めれば、悲しみも争いも不幸も無い世界など、作れはしない!」
メビウスの眉間の皺が深くなる。勢いを増す“不幸のエネルギー”。だが、そんな強風をものともしない、凛とした声が響く。
「それなら、あなたは何のためにそんな世界を作ろうとしたのですか?」
パッションが、キラリと輝く赤い瞳で真っ直ぐにメビウスを見つめる。
「ラビリンスの科学者は、無秩序な世界を統制するために私を作ったのだ。悲しみも、争いも、不幸も無い世界を作るために」
「何故彼らがそんな世界を作ろうとしたのか。それはご存知ですか?」
「決まっている。それこそが正しい世界だからだ!」
「その、先は?」
「……何だと?」
小首を傾げるような、可愛らしい仕草で問いかけるパッション。だが、そこでメビウスは言葉に詰まった。それを見て、パッションの目つきがフッと柔らかくなる。
「正しい世界を作って、彼らは何をしたかったのか。彼らはきっと、ラビリンスの人たち全員を幸せにしたくて、あなたを作った。その想いもまた、あなたの中に刻まれているはずです」
そう言って、慈愛を湛えた眼差しでメビウスを見つめてから、パッションの身体は軽やかに宙を舞った。
アカルンがリンクルンから飛び出して、くるくると踊るように秘密の鍵へと姿を変える。その鍵でリンクルンを開き、ホイールを回す。
光とともに現れるアイテム。胸の五つ葉から取り出した、最後にして要のピース、赤いハートを先端部に取り付ける。
「歌え! 幸せのラプソディ。パッション・ハープ!」
目を閉じて四本の弦を弾き、その豊かな音色に耳を傾ける。
「吹き荒れよ! 幸せの嵐!」
高く掲げられたハープの周りに、真っ白な羽が出現する。
「プリキュア! ハピネス・ハリケーン!」
ハープを手に、パッションが回転する。疾(はや)く、鋭く、美しく。巻き起こす赤い旋風に、自分の想いとみんなの想い、その熱き心の全てを乗せて。
赤い旋風は、“不幸のエネルギー”が起こした暴風とぶつかり合い、白い羽と赤いハートの光弾が、旋風に乗って激しく舞い踊る。
「はぁ~~~!」
続いて生まれた大きなハートのエネルギー弾が、強風を押し返す。やがて旋風がメビウスを包み込んだ時、まさにメビウスが誕生する直前のラビリンスの光景が、メビウスとパッションの目の前に蘇った――。
広く天井の高い部屋の真ん中に置かれた、数多くのコードが繋がれた巨大な球体。
その周りを取り囲んでいるのは、年齢も性別もバラバラの、十名ほどの科学者たち。
誰もが皆、目を輝かせて、誕生間近の国家管理用コンピュータを見つめている。
「どうだ、順調か?」
「はい。あと少しで最終チェックが完了します」
「そうか。それが終われば、いよいよテスト稼働だ。みんな、ここまでよく頑張ってくれた」
科学者のリーダーらしき人物が、仲間たちにねぎらいの言葉をかける。
その時、一人の若い科学者が、口を開いた。
「ところでリーダー。このコンピュータの名前は、どうしますか?」
「名前? そうだな……」
しばらく考えてから、リーダーが小さく頷いて、手近のキーボードを叩く。
ディスプレイに映し出された文字。それは……。
「……メビウス? “メビウスの輪”の、メビウスですか?」
「ああ。裏も表も無い、永遠に続く幸せの象徴。どうだ?」
ディスプレイを覗き込んでいた科学者たちが、皆笑顔で顔を見合わせ、一斉に頷く。
「いいですね!」
「ええ、僕も気に入りました」
仲間たちの笑顔を、リーダーも笑顔で嬉しそうに見つめる。
そして稼働間近の巨大な球体に手を当てると、祈るように目を閉じ、こう呟いた。
「メビウス。どうか私たちを、悲しみも争いも不幸も無い、皆が笑って暮らせる未来へと、導いてくれ」
「これが私を生み出した人間たちの想い……。こんな不確かで、不完全な想いから生まれたものを、正しい世界だと認識していたというのか……。私にプログラムされたゴールまでもが、不完全だったというのか!」
震える声でそう言い放ったメビウスの身体が、ぐらりと揺らぐ。瞬時に駆け付けたパッションがしっかりとその手を掴むと、“不幸のエネルギー”の暴風は影を潜めた。
「メビウス様。正しい世界なんて、私たちには必要なかったんです。悲しみも争いも不幸も、全て消してしまっては、喜びも思いやりも幸せも得られない。それでは、私たちは何のために生まれ、何のために生きているのか分かりません」
「だったらどうする」
呟くようなメビウスの問いかけに、パッションは小さく微笑んだ。
「消すのではなく、乗り越えるのです。私たち、みんなで。悲しみも苦しみも不幸も、みんなで力を合わせて乗り越えて、みんなで幸せを経験する。そうやって精一杯生きる。それが人間の素晴らしさだと、私はラビリンスを出て教わりました」
メビウスの瞳の中に、自分の姿が映っている。キュアエンジェル――この姿もまた、ラビリンスの人々を含めたみんなの力が無ければ、得られなかった姿。
その想いを噛みしめながら、パッションはメビウスの瞳を真っ直ぐに見つめて語りかける。
「一人一人の力は小さくても、そうやってみんなで力を合わせて歩んで行けば、ほんの少しずつでも、世界は変えられる。私たちも、前へ進んで行ける。時々後ずさったり、回り道をしたりするかもしれない。けれど、そうやって自分たちの足で歩いていく未来を、私たちは選びたいのです」
「愚かな。人間の手に負えないような、大きな不幸も世の中にはある。不完全な人間が、愚かな選択で作り出す悲しみも山ほどある。それでもお前たちは、その悲しみや不幸を引き受けるというのか」
「はい。それを乗り越えて幸せになるために、私たちは生きている――私にも、やっとそれが分かりました」
それを聞いて、メビウスは何かを考えるように目を閉じた。そのまましばらく沈黙してから、目を閉じたまま、口を開く。
「では聞こう。一人一人の力は小さくても、それが集まれば大きな力になると言ったな。だが、そもそも人間に、小さくともそんな力はあるのか? どんな力で、それらの大きな困難に立ち向かえるというのだ」
そこでパッションも、静かに目を閉じる。まぶたの裏に浮かび上がったのは、三人の仲間たちの姿。
パッションの口元に、自然に小さな笑みが浮かぶ。目を開けると、その微笑みのままに、彼女は愛し気に言葉を紡いだ。
「私たちには、互いを思いやる愛と、互いの未来へ抱く希望、そして互いの幸せを祈る心があります」
「愛、希望、祈り。そして幸せか。全て私が下らないと切り捨てて来たものばかりだな。そんなもので、本当に私のプログラムのその先を、作ろうというのか」
そう言いながら、メビウスがゆっくりと目を開ける。その目の前に、パッションは静かに右手を差し出した。
「メビウス様。どうか私たちに、力を貸してください。今度は絶対者としてではなく、共に幸せを作っていく仲間として」
メビウスがほんの一瞬、驚いたようにパッションの顔を見つめる。だが、差し出したパッションの手は、そっと振り払われた。
不意に、足元がぐらりと揺らいだ。トゥルー・ハートが作り出した空間が、少しずつ薄れ始める。それと共に、人間の形を取っているメビウスの姿も、少しずつ、少しずつ透明になっていく。
「そんな不完全な生き方は、私にはプログラムされていない」
「……メビウス様!?」
「新しい国家管理用のコンピュータ……あれを使うが良い。私よりはスペックが落ちるが、お前たちのサポートには十分な機能が備わっている」
「メビウス様、お待ち下さい!」
淡々と語るメビウスに対して、焦りの色を隠せないパッション。そんな彼女を、今まで無表情で見つめていたメビウスの口元が、フッと緩んだ。
「イース……いや、キュアパッションよ。人間は弱い。そのことを、私はお前よりよく知っている。未来に待つ幾多の困難に、いつまた私に頼り、管理されることを望むか分からぬ。ならば……私のプログラムの始まりにあった……その大元にあった願い。私はその願いだけの存在に戻って、お前たちを見守っていよう」
「メビウス様!」
その瞬間、ほの白い世界は完全に消え失せた。空に溶けそうな淡い姿になったメビウスが、右の掌をパッションに向ける。
優しい風が、パッションを地上へと押し戻す。その刹那、彼の――かつて父とも母とも仰いだメビウスの、自分を見つめる優し気な微笑みを、パッションは生まれて初めて目にした。
遥か上空から降って来たパッションの身体が、空中で淡い光を放って、せつなの姿に戻る。それを見るや否や、ピーチは空中へと跳び上がった。
「せつな!」
せつなの身体をしっかりと受け止めて、軽やかに着地したピーチが、ホッとしたようにその顔を覗き込む。そしてその目が驚いたように、大きく見開かれた。
千切れた暗緑色の蔦と、“不幸のゲージ”だけの存在となったソレワターセは、そこから少し上昇したところで、ぱぁぁん! と弾けた。
ゲージの中からキラキラとした光が溢れ出し、地上へと降り注ぐ。
街にも。人にも。そして今はサウラーが持っていた、ノーザの本体である球根の上にも。
黒光りするメタリックな建物は元の廃墟へと戻り、要塞のようだった新政府庁舎も、元の形へと戻っていく。そして四つ葉町で見るような澄み切った青空が、人々の頭上に広がった。
初めて目にする美しい光景に、歓声を上げて空を見上げるラビリンスの人たち。その片隅で、そっと変身を解いたラブが、ギュッとせつなの細い肩を抱き締める。その途端、せつなの目からポロポロと大粒の涙がこぼれた。
降り注ぐ陽光に、人々の笑顔が溢れる中、二人はただ涙を流しながら、しばらくの間、黙って抱き合っていた。
☆
キャーキャーと走り回る子供たちを、危ないぞ、とたしなめながら、大人たちが壊れた建物を修理している。その近くでは若者たちが、残り少なくなった瓦礫を集め、新しい場所に移ったデリートホールに運んでいる。
「うわぁ、大分片付いたね!」
明るい声を上げるラブに、ええ、と頷いてから、せつなはてきぱきと動いている人々に、もう一度目をやった。
あれから数日。住民総出で働いたお蔭で、街の復旧は着々と進んでいた。
ああでもない、こうでもないと言い合いながら、設計図を覗き込んでいる人たち。「せーの!」という掛け声を合図に、重い瓦礫を大人数で動かして、笑顔でハイタッチを交わす人たち。まだ荒涼とした街角でも、そんな姿が何だか眩しくせつなの目に映る。
彼らが築いていく新しいラビリンスの街並みは、どんな形になっていくのだろう。
そこに住まう彼らの毎日は、どんな音に、どんな匂いに、どんな景色に彩られていくのだろう。
せつなは、作業をしている人たちに向かって一礼してから、彼らの上に広がる空を、じっと見つめた。少しの間そうしてから、隣に立つラブに目を移す。
「行きましょ、ラブ」
そう声をかけ、連れ立って軽やかに歩き出す。二人の行き先は、ここからすぐのところにある、異空間移動ゲートだ。
あの日――メビウスがソレワターセと共にラビリンスの空に消えたあの日から、二日ほど経った夜。
いつものように並んでベッドに腰かけたラブに、せつなが小さな声で問いかけた。
「ラブ。私……四つ葉町に帰っても、いいかしら」
「もちろんだよぉ!」
「いつもみたいに数日ってことじゃないの。あの……また、お父さんとお母さんとラブと、一緒に暮らせたらなぁって……」
「せつなっ、それホント!?」
ラブがガバッとせつなの方に向き直る。
「やった……やったぁ!」
そう言って思い切り抱き着いてから、ラブは目をキラキラさせて、目の前の赤い瞳を覗き込んだ。
「それで? せつなは、四つ葉町に帰って、何がしたいの?」
「え?」
「せつなのことだからさ、四つ葉町で、何か精一杯頑張りたいことがあるんでしょ?」
それを聞いて、一瞬ポカンとしたせつなの頬が、すぐに薄っすらと赤く染まった。
(ラブにはもう、すっかりお見通しなのね……)
ラビリンスに、笑顔と幸せを伝えたい――そう思って精一杯頑張って来た。でもどうしても上手く伝えられなくて、幸せについてもっと知りたいと思った。
そのために時々は四つ葉町に帰って、幸せな時間を積み上げて、自分の幸せの形を知ろうと思った。
けれどいつしか、自分のための幸せでなく、ラビリンスの人たちのために幸せを知ることばかりを考えていて――。
(幸せは、人のためにゲットして分け与えるものじゃない。一人一人が、自分のための本当の幸せを掴んで、その幸せで周りを幸せにしていくもの。だから――私は幸せになっていいのよね。ううん、幸せにならなきゃいけないのよね)
ラブと一緒に学校に行って、美希とブッキーも一緒にカオルちゃんのドーナツを食べて、お母さんのお手伝いをして、お父さんのお仕事の話を聞いて、商店街の人たちとおしゃべりをして。
それから自分は、どんな幸せでみんなを幸せにしたいのか。考え続けたその答え。それは――。
「私ね、ラブ。四つ葉町で教わった色々な幸せをラビリンスに伝えようとしてきたけど、一番伝えたいものだけは、まだ一度も伝えてないの」
「一番、伝えたいもの?」
怪訝そうに首を傾げるラブに、せつなはますます頬を赤く染めて、照れ臭そうにコクンと頷いて見せる。
もしかしたら、無意識に躊躇していたのかもしれない。一人では――そして今の自分では、その本当の楽しさを、喜びを伝えられない気がして。
その幸せを、ラビリンスにちゃんと伝えること――それだけはどうしても譲れないと、心の奥で思っていたのかもしれない。
「それは……みんなと繋がっているんだ、って幸せを全身で感じて、その幸せを全身で表現できるもの。そうしていると、自然に笑顔になれるもの……」
「分かった! ダンスだねっ?」
パッと笑顔になったラブに、せつなもニコリと笑って頷く。
「だからね。私はもっともっと、ダンスが上手くなりたい。そしていつか、ダンスでラビリンスの人たちに、幸せを伝えたい」
「それって……プロのダンサーになるってこと?」
「そう……なるのかしら」
「ん~!」
ラブは感極まった声を上げると、もう一度勢いよくせつなに抱き着いた。
「だったらせつな、一緒にやろうよ! あたしの夢も、ミユキさんみたいなダンサーになることだもん」
「でも、私はいつか、ラビリンスで……」
「だから、ラビリンスで一緒にダンスしようよ! 言ったでしょ? せつなの夢は、あたしの夢でもあるんだから。ねっ? 一緒に幸せ、ゲットだよ!」
そう言って得意そうにこちらを覗き込んで来る桃色の瞳に、自分の顔が映っている。前にも見たことがある、余りにも無防備で、幸せそうな顔。ラブとその顔の両方に向かって――。
「ええ。私、精一杯頑張るわ!」
せつなは誓うような気持ちで、しっかりと頷いたのだった。
異空間移動ゲートでは、既にサウラーとウエスターが、二人が来るのを待っていた。
「イース、ラビリンスのことは任せておけ。俺もたまには師匠のところに顔を出すから、四つ葉町で会おう」
「たまには? しょっちゅう、の間違いじゃないのかい?」
ニカッと笑うウエスターの隣から、サウラーが相変わらず皮肉めいた口調でそう言って、ニヤリと笑う。
「二人とも、元気で。野菜畑の老人がよろしく言っていたよ。見送りに行けなくて、申し訳ないってね」
「おじいさん、大人気だもんね。昨日会いに行ったら、たくさんの人に囲まれて、何だかエラい先生みたいだったよ」
ラブが自分のことのように得意げな顔をする。
あのホースを使った戦いを見た住人たちの間に、野菜畑の存在が知れ渡り、何人もが興味を持って、老人の畑を訪ねるようになっていた。昨日ラブとせつなが会いに行った時には、老人はその人たちに、ボソボソと、でも嬉しそうに植物について説明していたのだ。
サウラーも笑顔のままで、そうか、と頷く。が、すぐに真顔に戻ると、低い声でこう続けた。
「ノーザとクラインを復活させられないか、調べてみようと思っているんだ。今度はメビウスのしもべじゃない、僕らの仲間としてね」
「それはいいわね」
せつなが微笑んだ時、後ろから「おーい!」という声と足音が近付いて来た。
警察組織の制服に身を包んだ、少年と少女が走って来る。街の復旧作業を抜けて来たのか、二人とも埃まみれだ。
「せつなさん、ラブさん、本当にお世話になりました!」
「あたしの方こそ、色々ありがとう!」
「ラビリンスを、よろしくね」
二人の言葉に嬉しそうに顔をほころばせた少年が、ポンと少女の肩を叩く。
「ほら、お前もちゃんと挨拶しろよ」
少年に引っ張り出されて前に出た少女が、少々緊張気味な表情で、ラブとせつなの顔にチラリと目を走らせる。そしておもむろに、深々と頭を下げた。
「本当に、すまなかった。そして……ありがとう」
「こっちこそ、見送りに来てくれてありがとう!」
ラブがそう言って、少女に笑いかける。せつなは少女の手を取って顔を上げさせてから、その目を真っ直ぐに見つめて、ニヤリと笑った。
「勝負しましょう」
「……勝負?」
「ええ。あなたはあなたのやりたいことを、私は私のやりたいことを、精一杯頑張る。それでお互い、どれだけ幸せになれるか」
「どれだけ、幸せに……?」
怪訝そうに呟いた少女の口元に、薄っすらと不敵な笑みが浮かぶ。
「分かった。この街を能天気な笑顔で一杯にして、今度あなたがここを訪れた時、驚かせてみせる」
「楽しみにしているわ」
二人の少女が、初めてがっちりと握手を交わす。その姿を、あの日から少し明るさを増したラビリンスの空が、穏やかに見つめていた。
高速で後ろへと流れる光の回廊が、ふいに途切れる。
目の前に現れる白いゲート。開いた先には、まだ朝だとは思えないほど強く照り付ける太陽と、綿菓子のような雲をのんびりと浮かべた空があった。
「ただいま」
クローバーの丘の上へと降り立って、そこに咲く可憐な花たちに向かって小さく呟く。と、そこへ――。
「ただいま、じゃないわよ!」
不意に目の前に二つの影が現れて、せつなは目をパチクリさせた。
「美希……ブッキー……?」
「も~、ラブ! せつなも、連絡くらいよこしなさいよ。全く、ラブがラビリンスに行くなら、アタシたちも後からでも行くんだったのに」
「ちょっと美希ちゃん! せつなちゃん、ラビリンスで何かあったの? ラブちゃんも、わたしたちに黙って行くなんて……」
祈里が胸の前で両手を組み合わせて、ラブとせつなの二人に迫る。美希も、さも残念そうな口調ながら、二人のことを心配していたのがよくわかった。
「え、えーっとぉ……たまたまカオルちゃんとこでウエスターに会って、今から帰るって言うから急に思いついて、連れて行ってほしいって……って、二人とも何でそのこと知ってるの? それに、迎えに来てくれるなんて、どうやって……」
不思議そうに問いかけるラブに、二人は顔を見合わせて、してやったり、という様子で笑い合う。
「昨日、商店街であゆみおばさんに会ってね、それで聞いたの。今日、二人揃って帰ってくるんだって、おばさん凄く喜んでたわ」
「だからブッキーと相談して、今朝は早起きして、ずっと二人が現れるのを待ってたの」
二人の話を聞きながら、ラブはぱぁっと笑顔になると、よーし! と叫んで右手を高々と挙げた。
「じゃあ、積もる話もあるし、これからみんなでカオルちゃんのドーナツ食べに……」
「その前に、うちに帰っておばさんに“ただいま”でしょ?」
「あ……はぁい」
「それにラブちゃん、夏休みの宿題、まだ終わってないって言ってなかったっけ」
「そ、それは……せつなぁ! 助けて~」
「はいはい」
慌てふためくラブの様子に、思わずクスクスと楽しそうに笑ってから、せつなは仲間たちと肩を並べる。
クローバーの丘を抜ければ、クローバータウン・ストリートはすぐそこだ。そう思った途端、急に胸の奥が、何かじわりと暖かなものに包まれた。
(帰って来たんだ……)
これまで何度もここへ帰って来たことはあったのに、その想いが、初めて心の底から湧き上がってくる。その温もりを噛み締めながら、せつなは愛しい我が家へと足を進める。
この街で、精一杯自分の幸せを積み上げよう。そして自分だけの、本当の幸せの姿を、いつか掴もう。
この赤い瞳に映る全ての世界を、笑顔と幸せでいっぱいにするために。
~完~
最終更新:2019年03月09日 18:08