星へ続く階段 ~赤き瞳が目指すのは~/一六◆6/pMjwqUTk




 訓練場の重い扉を開けて中に入ると、その明るさに一瞬目が眩んだ。それぞれの訓練に打ち込む子供たちの間を、奥に向かって足早に歩く。
 ここ軍事養成施設・E棟は、このラビリンスに三カ所存在する、幹部とそれに続く戦士を育成する場所のひとつだ。広大な敷地内には、訓練生たちの居住区の他、教育施設や複数の訓練場、それに実戦訓練のための裏山まで完備されている。
 この訓練場は基礎訓練生専用なので、実戦訓練を担当する私には、普段は縁の無い場所だ。ただ唯一の例外が、この時期に集中して行われる、昇格試験の立会人としての任務だった。

 目当ての対戦訓練スペースの周囲には、基礎訓練生の中での最上級クラスの若者たちが集まっていた。基礎訓練コースの教官が、私の方をちらりと見てから、すぐに訓練生の方へ視線を戻す。

「ES-4039781、前へ」
 そう言われて、一人の少女が進み出る。最上級クラスでは最年少で、周りの訓練生と比べると、一回りも二回りも華奢な体格の少女。つい数日前に、このクラスに昇級したと聞いている子だ。
 既に配置について相手を待っていた大柄な少年が、彼女の姿を見て、ふん、と鼻で笑った。
 なんで俺がこんな新入りと――その顔にはありありとそんな表情が浮かんでいる。が、少女が配置につくと、少年はすぐに表情を引き締め、構えを取った。



   星へ続く階段 ~赤き瞳が目指すのは~



「始め!」

「はぁぁぁっ!」
「どぉりゃぁぁぁっ!」

 一直線に飛び出した少女が、豪快なパンチで吹っ飛ばされる。軽やかに着地すると同時に、また走り出す少女。
 今度は体格差に物を言わせ、真っ向から蹴り飛ばされる。壁に激突するかと思われた瞬間、少女は素早く身を翻し、壁を蹴って弾丸のように飛び出した。

 何度跳ね返されようとも、少女は倒れない。止まらない。諦めない。
 瞬時に体勢を立て直し、何度でも挑みかかる。

 そんなことが十数回……いや、そんなには続かなかっただろうか。
 何度目かの少年の蹴りが、少女の脇腹を掠めた。少女の顔が苦痛に歪み、少年の口元が微かに緩む。それを見た瞬間、私は勝負の行方を確信する。
 並みの相手ならば、そろそろ体力も限界に近い。おそらく次の一撃で決まる――少年はそう思ったのだろう。
 そう――並みの相手ならば。その力量が、そして今の攻防の意味が、見極められずに勝利などあろうはずがない。

 再び唸りを上げる剛腕。だがそのストレートが初めて空を切る。次の瞬間、高速で打ち込まれた二発のジャブに、少年が僅かにたたらを踏む――これが皮切りだった。

「うおぉぉっ!」
「たぁぁぁっ!」
 上から押し潰すような重いパンチが、ブレの無い威力のある蹴りが、今度はことごとくかわされる。これまでの数手の手合せの間に、少女が少年の動きを見切ったのだ。
 そしてすかさず攻勢に転じる。丸太のような腕を掻い潜り、高速で伸びる足を飛び退って避け、一発には二発、一蹴りには二蹴りと、威力よりも数で勝る鋭い攻撃を仕掛けていく。

 やがて飛び離れた二人が睨み合った時には、さっきまで余裕で少女を圧倒していたかに見えた少年が、荒い息をついていた。
 どうしても止めを刺せないばかりか、いつの間にか捉えることすら出来なくなった相手を、焦りと苛立ちに満ちた目でねめつける。
 少女の方も必死で息を整えながら、ラビリンス人には珍しい赤い瞳で少年を睨む。

 再び同時に飛び出す二人。今度は少年の動きが変化する。回し蹴りからの鋭い突き。だが、少女はその動きをも読んでいた。
 わざと少年の前に身体を晒すようにしてから、ギリギリで突きを避ける。それと同時に身体を沈めると、少年の鳩尾に渾身の一撃を叩き込む。
 たまらず前かがみになる少年。少女は流れるような動きで背後を取ると、首筋を手刀で軽く突く。
 次の瞬間、少年は前のめりにバタリと倒れた。

「そこまで」
 はあはあと荒い息を吐き、全身を震わせてすぐには動けない少女を、教官がちらりと一瞥し、冷ややかな声で告げる。
「ES-4039781。ただいまの試合で、お前の昇格が決まった。来期からは基礎訓練でなく、実戦訓練に移行せよ」
「……了解した」
 掠れた声で返事をすると、少女はくるりと踵を返した。

 任務を終えた私も、その場を後にする。訓練場の外に出ると、そこには戦闘服を解除した、さっきの少女の姿があった。
 長い廊下の壁にもたれ、窓の外をじっと見つめている。このE棟から見えるのは、どこへ行っても建物をぐるりと囲む、灰色の長い塀だけだ。それなのに、一体何を見ているのか――そう疑問に思いかけて、私は小さく首を横に振る。
 彼女の表情からは何も窺い知ることは出来ないが、同じE棟出身である私自身の経験から、何となく分かること……。

(これでようやくもう一段上った――そう思っているんでしょう?)

 幹部になるための育成カリキュラムは、基礎訓練コースと実戦訓練コースの二つに分けられ、さらにそれぞれのコースの中に、何十もの細かな段階が存在する。訓練生たちは、それをひとつひとつクリアしながら技や知恵を磨き、ひとつひとつ先へ進んでいくのだ。
 さながら遥か高みへと続く階段を、一歩一歩踏みしめながら上っていくかのように。
 そうやって上って行けば、いつかあの塀を超え、光り輝く星――栄光の“イース”の座に辿り着けると、誰もが固く信じながら。

(それがいかに狭く険しい階段か……今のお前には、まだ半分も分かるまい)

 そのまま彼女に背を向けて、長い廊下を歩き出す。
 建物の外に出ると、より一層存在感を増す高い塀の上には、今日も塀より少し薄い色合いの、灰色の空が広がっていた。


   ☆


 再び彼女と出会ったのは、数日後に行われた私の担当教科・サバイバル訓練の時だった。初めて裏山に足を踏み入れた、今期昇格したばかりの訓練生たちの中に、あの赤い瞳を見つけたのだ。
 訓練用に作られたこの裏山は、ラビリンスでは極めて珍しい、うっそうと草木が生い茂った薄暗い場所だ。初めて見る光景に、少々気味悪そうに辺りを見回している彼らに向かって、私はいつも通りの注意事項を告げる。

「この訓練は、三人一組の小隊で行う。任務を遂行し、その上で三人全員で戻らなければ、訓練は失敗したと見なす。だからせいぜい助け合って乗り切るんだな」
 私の言葉にざわめく訓練生たち。メンバーは違えど、この反応は毎年似たようなものだ。
 彼らはこれまで、自分ひとりが生き延びることで精一杯だったはず。それ以外の者を助けるなど、考えたこともないだろう。ましてや、互いに助け合って任務を遂行するなどということは。
 ラビリンスの中だけでの任務なら、それでもいいのかもしれない。だが、異世界などのより困難な、どんな敵を相手にし、どんな局面が訪れるか全く分からない任務では、意外にもこのスキルが役に立つというデータがある。

「よく聞け。これまでのお前たちの乏しい経験や、学んできた初級者向けの戦闘理論など、実戦では何の役にも立たない。そんなもの、これからお前たちが相対する敵には通用しないからだ」
 ざわめきが収まり、今度は得も言われぬ緊張感が、その場を支配する。
「実戦に大切なものは理屈ではない、感覚だ。五感を研ぎ澄ませ! 感じろ! この瞬間に何が起ころうとしているかを。そして考えろ! この瞬間、自分はどうすべきかを。その判断が、任務の成否を分ける鍵となる。お前たちには、それをこれから身につけてもらう」

 不安そうな、あるいは不満そうな視線が私に集中する。これもまた、いつものことだ。しかしそんな中でただひとつ、不安の影も不満の色も見せず、ただ燃えるような目でこちらを見つめる眼差しがあった。

――やってやる。

 少女のギラギラと光る赤い瞳が、そう語っている。

――あの星に手が届くためなら――何だってやってやる!

 ほんの一瞬、胸の中を何か熱いものが走り抜けた気がした。
 赤い色が、炎を連想させたのか――そう思いながら、私はそっと少女の顔から眼を逸らし、訓練の開始を宣言する。

 実戦という意味では初心者同然の彼らに与える最初の訓練は、実にスタンダードなものだ。渡された地図に従い、制限時間内にゴールまで行きついて、そこに書いてある指示を遂行すること。だがゴールまでの道筋には、まだ彼らが出会ったことのない敵が潜んでいる。

 一組目は、スタートして幾らも行かないうちに一人が敵に掴まったが、先を急いでいた残りの二人がそれに気付かず、失敗した。
 二組目は、やはり一人が敵に掴まり、慌てて助けようとしたもう一人も掴まって、なす術もなくタイムアウトとなった。

 監視塔の上から様子を眺めている私に、訓練生たちが物言いたげな視線をチラチラと投げてくる。私からの指示が全く無いことに、戸惑いと焦りを感じているのだろう。
 これもまた、常に指示を受けてその通りに動いて来た彼らの常識を超える、この訓練ならではの試練だ。実戦では、誰も詳細な指示など出せないのだから。
 こうして、まだ誰もミッションをクリア出来ないまま、あの少女たちの組の番になった。

 組み合わせは、二人の少年と一人の少女。最年長の少年が小隊長を務め、三人の中で最も年下で小柄な少女が、隊の真ん中に配置される。
 見通しの利かない、うっそうと茂った薄暗い森の中。そのうち、しんがりを歩いていた少年が消えたことに、少女が気付いた。
 元来た道を戻ろうとすると、ガサガサと揺れる木の葉。見ると、居なくなった少年が木の枝に首元を締め上げられ、必死でもがいている。

「馬鹿め……何をしている!」
 無造作に近寄ろうとするもう一人。その時、少女が鋭い一言を発した。
「危ない!」
 叫ぶと同時に、先頭を歩いていた少年を突き飛ばす少女。その途端、鋭い枝が矢のように地面に突き刺さる。その枝をしっかりと掴んで、少女は声を上げる。
「手伝え。もたもたするな!」
 二人がかりで枝を手繰り寄せ、捕まっていた少年を助け出したところで、枝だと思っていたものがムクムクと動き出した。

「ナケワメーケ!」
「な……何だ、これは!」

 三人の隣に立っていた木の幹に、突然吊り上がった二つの目が現れ、巨大な怪物となって立ちはだかる。
 ナケワメーケと呼ばれるその怪物は、本来ならば幹部が召喚する、異世界侵攻の切り札だ。もっとも、この裏山に居るのは訓練用に戦力を弱めているものだが、それでも到底一人でどうにか出来る代物ではない。

 突然の怪物の出現に、流石の少女も、そして少年たちも、声も出せない。だがそこで、少女の表情が変わった。
 鋭い眼差しで怪物を睨み付け、ぐっと奥歯を噛みしめる。そしてその目を二人の少年に移すと、よく通る声で言った。

「いいか。三人で一斉に攻撃する!」
「一斉に……だと?」
「そうだ。お前はヤツの右腕の付け根を、お前は左腕を狙え。同時にだ」
「それで、お前は?」
 一人の少年の問いかけに、少女が不敵にニヤリと笑う。
「私は……足だ」

「はぁぁぁっ!!」
 二人の少年が一斉に飛び上がって、怪物の左右の肩口を蹴り付ける。
「たぁっ!」
 怪物がよろめいたところで、少女が渾身の足払い。
 地響きを立てて、仰向けに倒れ込む怪物。すると少女は、そこに生えている蔦をナイフで切り、少年たちにそれぞれ放った。

「これでヤツの腕を、隣の木に縛り付けろ!」
 そう言うが早いか、自分は怪物の両足を蔦で縛り上げ、二人と共に再びゴール目指して走り出す。
 自由を奪われたナケワメーケは、じたばたと暴れた末に、縛り付けられた木を引き抜いて立ち上がったが、その頃にはもう三人はゴールに辿り着き、指示通り転送ゲートにパスワードを入力して、本日最初の成功者となった。

「ふん、初めてにしてはまあまあだ」
 ナケワメーケを元のダイヤに戻し、監視台から降りてそう声をかける。すると少女が勢いよく私に詰め寄ってきた。

「質問がある」
「何だ?」
「何故三人で戦わなければならないのだ」
 赤々と燃える瞳が、正面から私を見据える。

「私たちは、将来メビウス様のしもべとしてお仕えするために、自分の力を磨かなくてはならない。それなのに、何故三人で共闘しなければならない? これでは二人の足手まといのせいで、自分の鍛錬にはならない!」
「何だとぉ!?」
 少女の吐き捨てるような言い草に、色めき立つ少年たち。
「愚か者め!」
 間髪入れず、私は少女を怒鳴りつける。

 こういう発言をする訓練生を、過去に何人か見て来た。
 果たして今の彼女にこの訓練の意味を説明したところで、それが理解できるのか。
 いずれ分かる時が来るのかもしれないし、分からなければそれまでのこと。そこは私には関係ないが、最初にこれを説明しておくのは、私の任務だ。

「勘違いするな、ES-4039781。メビウス様のお役に立つということは、あらゆる場面で最大限の力を発揮するということだ。だから、お前が持っているちっぽけな力のみを磨いても、何の役にも立たない。大切なのは、最大限の力を発揮するために、使えるものは全て最大限に利用することだ。自分の力、味方の力、敵の弱点、その場の状況。全てを味方に付け、自分以上の力を出す。そのための訓練だ」

 この説明に、彼女は何と答えるだろう。意味が分からないと吠えるだろうか。それとも、そんな下らない味方など要らないと撥ねつけるだろうか――。
 だが、彼女の反応は予想外のものだった。私の言葉を黙って聞いていた彼女の目が、キラリと小さく輝いたのだ。

「そうすれば出せるのか? 自分以上の力が。訓練をすれば、より大きな力を手に入れられて――メビウス様のお傍に、もっと近付けるのか?」

 頭の隅で、小さく警鐘が鳴った。
 もしかしたらこの少女は、このラビリンスでは持ってはならない危険な考えを――メビウス様のしもべとしてお役に立つだけでなく、メビウス様に自ら近付いて認めて頂きたいという願いを、心のどこかで持っているのではないか?
 彼女が目指す階段の先にある星は、幹部の一角であるイースではなく、ひょっとしたら――恐れ多くも、メビウス様のお姿なのではないか……?
 だが、これはただの直感だ。軽々しく口にできるほどの根拠はない。
 私は努めて平静を装って、ただ用意していた答えを、彼女にぶつける。

「そもそも力とは、自分一人のものではないということだ。それも知らずに最初から訓練にケチをつけるとは、思い上がりも甚だしい。そんなことでは、今日の成功にも何の意味もない!」
 半ば当てつけのような私の罵倒の言葉に、不満そうな二人の少年と、まだ瞳を輝かせている一人の少女。それを見て、私の警鐘がまた少し大きくなる。
 だが、それだけだった。それからしばらくの間、私は彼女に対して懸念らしい懸念を感じることはなく、彼女もその後、実に熱心に訓練に取り組んだのだ。

 それから一年の間に、初級コースの訓練内容も次第に難易度が上がっていった。訓練生たちは文字通りの死闘を余儀なくされ、中には一度もクリア出来ないままに、E棟を去る者も現れる。だが、そもそもこれしきの訓練がこなせない者が、実戦でやっていけるはずがない。
 そんな中、あの赤い瞳の少女はさらに実力をつけ、いつしかどんな組分けになっても、常に小隊長を任されるまでになっていた。
 やがて順調にクリアポイントを積み上げた彼女は、あと一ポイント獲得すれば中級コースに昇級出来るという、また階段を一段上る、運命の日を迎えた。



 その日は雨が降っていた。
 ラビリンスの天候は完全にコントロールされており、雨を降らす日は前もって知らされている。だから訓練の予定を組み直すことは出来たのだが、私はそれをしなかった。雨天での戦いは、異世界ではしばしばあり得ることだったからだ。

 小隊長の少女が先頭を行き、少年二人がそれに続く。雨のせいでさらに視界の悪い森の中、鮮やかな連係プレーで二体のナケワメーケを撃退し、ゴール近くまで彼らがやってきた時には、遠くでゴロゴロと雷鳴が聞こえていた。

「目標発見! 確認する!」
 少年の一人が叫ぶ。どうやら転送ゲートを発見したらしい。雨音の激しさと、次第に間隔が狭まって来た雷鳴のせいで、監視塔に聞こえる声は途切れ途切れだ。
 雨の中を飛ぶような速さで走る少年。だがその時、彼の行く手にもう一体のモンスターが立ちはだかった。

「ナケワメーケ!」
「クソッ……今日は三体か。二人とも、散れっ!」
 少女が二人に指示を飛ばし、転送ゲートから少し離れたところまでナケワメーケを誘導しようとする。

 その時だった。耳をつんざくような轟音と、眩い光が辺りを襲ったのは。
 巨大な木の姿をしたナケワメーケのてっぺんに、雷が落ちたのだ。

 あまりの衝撃に、ナケワメーケのみならず、訓練生の三人ともがその場に立ち尽くしたまま動けない。
 次の瞬間。ミシッ、という不気味な音が響き、私はハッとして監視塔から身を乗り出した。
 落雷で黒焦げになったナケワメーケに亀裂が入り、見る見るうちに縦に真っ二つに裂け始めたのだ。その片方が、音も無く少女の方へと――。

 まるでフラッシュバックのように少女の赤の眼差しが蘇り、気付いた時には身体が勝手に動いていた。
 すぐさま監視塔から飛び降り、少女の元へと駆け付けると、その両手を渾身の力を込めて引く。
 彼女の身体が、つんのめるように大きく動く。それを見届けると同時に、ドーンという衝撃音と共に身体が投げ出され、両足に焼けるような痛みを覚えて――そして何も分からなくなった。



 目を覚ますと、そこはE棟の救護室だった。どうやら私は、両足がナケワメーケの下敷きになったらしい。
 戦闘服を着ていたお蔭で骨に損傷はなかったが、重度の怪我と広範囲の火傷を負った。そうでなくても、悪天候にも関わらず訓練を断行して、あんな事故を引き起こしたのだ。これ以上、私がE棟に居られないのは確かだろう。

 治療を終えて救護室を出ると、見慣れた顔が――いや、姿が私を出迎えた。赤い瞳はすっかり俯いてしまった銀髪に隠れ、今は見えない。
 負傷した者を、こんなところまで来て出迎えるなんて、全くどうかしている。
「そこで何をしている」
 そう声をかけると、少女は弾かれたように顔を上げた。

「何故……何故、私を助けた! そんなことをしたら、こうなることは分かっていたはずだ!」

 そうだ。私は――私は何故、彼女を助けたのだろう。

 私を睨み付ける赤い瞳が小刻みに震え、その目の縁も、薄っすらと赤くなっている。
 そんな彼女の顔を見ていたら、ひとつの答えが――言うべき答えが、ぼんやりと形になってきた。

「全てのものは、メビウス様のために存在するからだ。だから助けた。お前のためではない」
「全てのものは……メビウス様のために……?」
「そうだ」
 短くそう言い捨てて、私は使い慣れない杖に力を込める。

「分かったらもう行け。不慮の事故によるものなので、今日の失敗はカウントされない。明日からは、別の教官がお前たちの訓練を担当する」
 それだけ言ってゆっくりと歩き出すと、後ろで少女が、ばたりと膝をつく音がした。それには気付かない振りをして、ただ歩くことに集中する。

 私のために泣いているというのか? いや、彼女がそんなことをするはずがない。
 顔を上げれば、今日も目の前には灰色の塀が続いている。
 その塀の上へと伸びる階段は、確かに狭く、険しく、そして脆い。だが――。

(それでも進め! 次の高みへ。そしてまた、次の高みへ。そうしていけば、あるいは――お前なら――)

 もう教官ではなくなった私は、その言葉を口には出さず、一歩、また一歩、遅々とした歩みを重ねる。
 あんなに激しかった雷雨は、いつしかきれいに上がっていた。



   ☆

   ☆

   ☆



 あれから数年――。
 四つ葉町郊外の森の中にある占いの館に、ラビリンスの統治者・メビウスがその姿を現した。
 姿と言っても、それは本国から送られた影のようなもの。それでも紛れもない主の姿に、イースは恭しく臣下の礼を取る。

「“不幸のゲージ”は辛うじて増えている。だが増え方が遅い。伝説の戦士プリキュア――あの者たちが現れてから計画が狂いだした。我が野望を阻む力が、あの者たちにあるというのか!」
「あの者たちは、元は無力な人間です。優れているのはただ一点のみ。それは、プリキュアであること。プリキュアに変身できなければ、倒すことは造作もありません」
 そこでイースは、誇らしげに胸を張った。
「私にお任せください。全ては、メビウス様のために」

 イースの計画――プリキュアの変身アイテムである、リンクルンを奪うということ。これは同じく四つ葉町にやって来ている二人の幹部・ウエスターとサウラーとは別に、イースが独自に立案した、大切な任務だ。

「使えるものは最大限に利用する。東せつなの姿も、奴らの力も、そして敵の心ですらも。そう――全ては、メビウス様のために」
 主の影があっけなく消え失せた部屋の隅で、小さく呟いて立ち上がり、イースは部屋の外に出る。
 館が森の中にあるためか、窓の外にはこの世界にしては薄暗い、少し灰色がかった空が広がっている。その空へと続く階段は、今でもまだ、イースの遥か高みへと伸びている。
「私はこの異世界で必ずメビウス様のお望みを叶え、光り輝くあの場所に、きっと辿り着いて見せる!」
 その時、不意に雨の音が聞こえた気がして、イースはギュッと拳を握った。


~終~
最終更新:2020年02月22日 11:06