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『空』/Mitchell&Carroll




 右か?
 左か?
 正面か?
 上か?
 下か?

 ―――なおの蹴ったボールは、と言うより、なおの右脚はボールを蹴る直前に地面の天然芝をしこたまに抉(えぐ)り、それ以前に左足は外側にグネり、更にその前に右足も内側にグネっている。これではボールはまともに飛ぶ訳が無い。しかも、PKの開始を合図する審判の笛が鳴る前後に、なおのお腹の虫が試合会場全体にこだましている。それを観客席で聴いていたれいかは、直ぐさま「駄目だ」と直感した。

 最後のキッカーとしてのPKを外したなおは、その場に倒れこみ、相手チームとそのサポーターの歓声に負けない位のお腹の虫を響き渡らせている。れいかは、係員の制止を振り切ってなおの元へ駆け寄り、干し肉を口移しで与えてやった。おかげでなおは一命を取り留める事が出来たのだが、また直ぐにお腹の虫を連発した為、担架に乗せられて試合会場近くのファミリーレストランに運ばれて行った。

 そこでのれいかの説教は熾烈を極めた。
「いいですか?なお。サッカー選手たる者、サッカーの道を確実に会得し、その他の色々なスポーツを身に付け、サッカー選手として行なわねばならない道についても心得ぬところが無く、心に迷いが無く、日々刻々に怠ること無く、心と意の二つの心を研(みが)き、観と見の二つの眼を研ぎ澄ませ、少しも曇りなく、一切の迷いの雲が晴れ渡った状態こそ、正しい空であると言う事が出来るのです。この道理をよく弁(わきま)えて、真っ直ぐなところに則り、正しい心を道として、サッカーの道を世に広め、正しく、明らかに、大局をよく掴んで、一切の迷いが無くなった空こそがサッカーの究極であり、サッカーの道を朝鍛夕錬する事によって空の境地に到達できるのです。サッカーの智恵、サッカーの道理、サッカーの道が全て備わることにより、はじめて一切の妄念を滅し去った空の境地に到達することが出来るのです」
 れいかの言っている事を理解する為に、なおの脳はパフェ3人前分の糖分を要した。

 数日後、なおにリベンジの機会が訪れた。シチュエーションは、あの時と全く一緒だった。

 右か?
 左か?
 正面か?
 上か?
 下か?

 ―――なおは、足元の天然芝を一掴み、口に運んだ。ゆっくりと咀嚼して、相手ゴールキーパーを存分に焦(じ)らせた後に蹴り出されたボールは、見事に相手ゴールキーパーごとゴールネットを突き破った。以上が、20xx年○○五輪・女子サッカー3位決定戦での出来事である。
最終更新:2023年05月07日 08:04