ふたりの今がわんだふる! 変身、キュアワンディ!/りとるぶたー





 ――弱々しく小さな息遣いが聞こえる。
 泣き声が聞こえる。悲しそうな笑い声も、聞こえる。
 あぁ、私はこの声を知っている。この光景を知っている。だって、何度も見てきたんだから。聞いてきたんだから……。

 犬飼いろはの家は、動物病院だ。
 小さい頃から沢山の人間や動物と触れあって――そして沢山の、命のお別れも目にしてきた。
 飼い主さんが慈しみの表情でペットを優しく撫でながら、「よく頑張ったね」「偉いね」と声をかける。「可愛いよ、可愛いよ」「ありがとう」と声をかける。
 大好きだよ、って声をかける。
 こんなに悲しい「大好き」があるだろうかと、いろははその度に思った。

「――あはは、こむぎ、くすぐったいよー!」
「ワン、ワンワン!」
 秋の中頃、肌寒くなってきた頃。
 小学生のいろはと拾ったばかりの飼い犬であるこむぎが、家のリビングでじゃれあっていた。
 リビングのテレビでは、感動系のドキュメンタリー番組が流れている。
 いろははこむぎをわしゃわしゃと撫で回しながら、ふとテレビに目を遣った。
 番組の内容は、長年連れ添った愛犬を看取るというものだった。
 いろはの心臓が、ドキリと嫌な鳴り方をする。
 こわごわとこむぎに視線を戻したその時、こむぎの姿が、これまでここの病院で看取られてきた数多くの動物たちと重なった――


「――はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
 朝の柔らかな光が窓から差し込んでいる。
 いろはの自室が、そして壁に掛けた中学の制服が光を受けて淡く煌めいている。
 そうだ、夢だ。確かにあれは全部、過去に起こったこと。だけど今見たものは全部夢なんだ――
 混濁した頭で、いろはは自分に言い聞かせるように確認する。私は犬飼いろは。中学2年生になったばかり。ペットのこむぎも今日もちゃんと元気で……。
 と心の中で呟きながら、いろははこむぎを探す。
「……え?」
 いつもならいろはよりも先に起きているはずのこむぎが、今日はまだいろはのベッドの上で丸くなっていた。
「こむぎ、こむぎっ!」
 さっきの夢のこともあって、いろはは顔を青くしてこむぎの様子を確認する。
 撫でてみると体は暖かく、心臓の拍動も感じられて寝息まで聞こえた。
「……良かった。ぐっすり寝てるだけだぁ……」
 いろははベッドの上でへなへなとへたり込んだ。
「ん? いろは、どうしたワン?」
「あ、こむぎ、起こしちゃった? おはよー。なんでもないよ」
(絶対絶対、嘘ワン!)
 こむぎはいろはをじとーっと見つめながらそう確信した。
 凄まじい寝汗、少し荒い息遣い、明らかに元気とハリのない声。
 何年一緒にいると思っているのだろうか。絶対何かあった。だとすれば何があったのだろうか。
 起きてすぐのときにあんまり元気がない――こむぎはいろはのその状態を見て、ピンと閃いた。
「わかった! いろは、きっと悪い夢を見たワン!」
「えっ、う……ソンナコトナイヨー?」
 わかりやすくしどろもどろになって目を泳がせるいろは。
 やっぱり当たってた。だけどどうしてそんなに気まずそうな顔をしているのだろう。
(よくわからないけど……)
 こむぎはいろはを元気づけようと、周りを駆け回る。
「元気がないなら、一緒に朝のお散歩して元気になるワン!」
 こむぎの気遣いに、いろはは気を取り直して笑顔で応えた。
「そうだね、行こう!」

 まだ人の声が聞こえない、心地よくて静かな朝の町。
 しかし動物たちはもう活動を始めていて、辺りにとりどりの声音を響かせている。
 公園の一面の原っぱで輝く朝露の一粒一粒がダイヤのようで、こむぎといろはが駆け回るたびにその宝石はキラキラと舞い上がった。
 いつのまにかいろはの中にあった離別の悲しみは春の空の彼方へ吹っ飛んでしまっていて、いつもと変わらない平和な日常が戻ろうとしていた。
「……ワン?」
 突然、こむぎの隣で一緒に駆けていた足音が消える。
「いろは? あれ? いろは、いろはー!?」
 このだだっ広い公園に、たった1匹。飼い主の息遣いも気配も消えたこの場所に、こむぎはぽつんと取り残された。

「――ここ、は……?」
 先程までとはまた違う、居心地の悪い静けさがいろはを包む。
 周りは明けることのない夜のような見渡す限りの闇色で、おどろおどろしく物悲しい淀んだ空気が辺りを取り巻いていた。
「何ここ……。こむぎの気配もしないし……こむぎ、こむぎー!」
「あなたのペットは、ここに連れてきてないわよ」
「誰!」
 いろはが声のした方を向くと、そこには緑色の喪服を着た若い女性が静かに立っていた。
「あなたがいけないのよ。折角夢を見せて警告してあげたのに、早速夢のことを忘れちゃうんだから」
 女性はそう言う。
 不思議な雰囲気を纏った人だ、といろはは思った。
 一見悲しそうな喋り方をしてないのに、端々から深い悲しさを感じさせるお姉さんだ、と。
「今朝の、動物たちが亡くなったときの記憶を夢で見せたのはあなたってこと? どうして……。というか、あなたは誰なの? はじめましてだよね?」
「ええそうよ、はじめまして犬飼いろはさん。私の名前はトラオアー」
 トラオアーは淀んだ瞳でいろはをじっと見つめる。
「その希望に満ち溢れた様子……まだ私の意図に気付いていないのね。いろはさん、あなたに教えてあげるわ」
「え?」
 彼女がそう言うなり、いろはの足元に、この闇の中でもわかるような暗い暗い漆黒の穴があく。
「わ、え、わぁ~~~~~っ!?」
 いろはは穴に吸い込まれるかのように、深く深く落下していった……。

「――はっ!?」
 朝の柔らかな光が窓から差し込んでいる。
 いろはの自室が、そして壁に掛けた中学の制服が光を受けて淡く煌めいている。
 そうだ、あれは夢だ。今見たものは全部夢なんだ――
 混濁した頭で、いろはは自分に言い聞かせるように確認する。私は今起きたばかり。トラオアーなんてお姉さんは、ただの夢の中の存在――
 ふと、いろははベッドの上で丸くなっているこむぎに目を遣る。
「……あれ、こむぎ?」
 すやすやと寝ているだけのはずなのに、なんだか様子がおかしい。まるで、ただのぬいぐるみのような……。
「こむぎ」
 いろはは、そのひんやりと無機質な体に触れた。
「こむぎ、ねぇ。こむぎ……」
 鼓動を感じない。吐息を感じない。
 嘘。ねぇ、やだよ。起きて。こむぎ、こむぎ、こむぎ、こむぎ、こむぎ!!
「こむぎーーーーーーーーーっ!!」

「――あっ……」
 朝の柔らかな光が窓から差し込んでいる。
 いろはの自室が、そして壁に掛けた中学の制服が光を受けて淡く煌めいている。
 そうだ、あれは夢だ。すっごくすっごく嫌な、ただの夢。
 混濁した頭で、いろはは自分に言い聞かせるように確認する。
「おはよう、いろは! お散歩行こうワン!」
「あっ、はいはい、こむぎ。すぐに準備しようねー」
 バクバクと跳ねる心臓をなだめながら、いろははいつも通りを装ってお散歩の準備をする。
「いってきまーす!」
 いろはは玄関を出る。
「早く公園行こうワン、いろは!」
「こむぎ、ちょっと待って。靴紐ほどけちゃってた」
 いろははこむぎのハーネスから一時的に手を離し、玄関前で靴ひもを結び直す。
 辺りはすっかり春めいていて、満開のつつじの周りを小さな蝶がひらひらと飛び回っていた。
「わぁ~! ちょうちょワン!」
「あっ、こむぎ、勝手に外に出ちゃダメだよ!」
 言葉が通じるから、何かあっても言葉で制止が効く――そういう慢心が、いろはにあったのだろう。
「こむぎ、ダメだってば!!」
 すぐそこに、自動車が迫っている。だけどこむぎは蝶に夢中で、周りが見えていない。このままだと、こむぎが自動車にぶつかる――!
 ――ドンッ、という鈍い衝突音が響いた。
「キャーン……」
 か細い悲鳴を宙に残して、こむぎの小さな体が舞った。

「――こむぎっ……!」
 朝の柔らかな光が窓から差し込んでいる。
 いろはの自室が、そして壁に掛けた中学の制服が光を受けて淡く煌めいている。
 本当に嫌な夢を見た。最悪の目覚めだ。なんでこんな夢を見てしまったのだろう。
「あーっ、いろは、やっと起きたワン! ガルガルが出たみたいだから一緒に行くワン!」
「……うん、そうだね」
「いろは? なんだか元気ないワン」
「ううん、なんでもないん、だけど……手を繋いでいこう、こむぎ。絶対に離さないでね」
「やったー! いろはと手をつなぐの大好きワン!」
 こむぎといろははしっかりと手を繋いで、現場に向かう。
「みんな大好き 素敵な世界! キュアワンダフル!」
「みんなを笑顔で彩る世界! キュアフレンディ!」
 わんだふるぷりきゅあ! と、ふたりでポーズを決める。
「ねぇ、ワンダフル……このガルガル、いつものより凄く大きくない?」
「それだけたくさんガルガル~って気持ちにさせられちゃってるのかも。ガルガル、おうちから凄く遠いところにいたのにそれでもガルガルがいるって私分かったもん」
「きっとそうだよ。早く助けてあげなくちゃ!」
 ワンダフルとフレンディは、禍々しいオーラを放つ超巨大ガルガルに立ち向かった――
「――ワンダフル、ねぇ、ワンダフル……!」
 そのガルガルはあまりにも強すぎた。
 傷と泥にまみれたフレンディが、同じくボロボロのワンダフルの元へ這って向かう。
 まだ辛うじて動けるフレンディと違って、ワンダフルはぴくりとも動かない。
「ワンダフル……」
 フレンディがワンダフルの頬にそっと触れると、ワンダフルの変身はひとりでにパチンと解け、犬飼こむぎの姿に戻った。更に、こむぎの体を光が包んで犬の姿に戻す。
「こむぎっ!? なんで、どうして、やだ……!」
 いつの間にか振り始めた雨が、ふたりの体を濡らす。
 ついた無数の傷が、雨で沁みてずきずきと痛む。
「嘘だよこんなの……夢だって言ってよ! うぁああああああああ! こむぎぃーーーーーっ!!」

「……」
 朝の柔らかな光が窓から差し込んでいる。
 いろはの自室が、そして壁に掛けた会社の制服が光を受けて淡く煌めいている。
 混濁した頭で、いろはは自分に言い聞かせるように確認する。
 私は犬飼いろは。社会人になってから12年も経った。私は立派な成人で、もう小学生でも中学生でもない。
「いーろーはっ、どうしたの?」
「……こむぎ」
 同じくすっかり大人になったこむぎの胸に、いろははそっと顔をうずめる。
「いろは?」
「こむぎ、良かった。生きてる……」
「いろは、大丈夫? 嫌な夢見ちゃった?」
「うん……。夢の中で、こむぎが何度も何度もいなくなっちゃって……!」
 こんなに大人になっても、嫌なことがあれば涙が出るらしい。
「大丈夫だよいろは。夢は夢だよ。こむぎはちゃんと、ここにいる」
 こむぎはそう言った。
 ……だけど。その日にこむぎは事故で結局亡くなってしまった。
 焼け落ちた家と、見つけだされたこむぎの亡骸の前で、いろはは涙をはらはらと落としながら膝から崩れ落ちた――

 ――朝の柔らかな光が窓から差し込んでいる。
 いろはの自室が、そして壁に掛けた中学の制服が光を受けて淡く煌めいている。
 ペット泥棒に盗まれてこむぎはいなくなった。

 朝の柔らかな光が窓から差し込んでいる。
 いろはの自室が、そして壁に掛けた中学の制服が光を受けて淡く煌めいている。
 こむぎは間違って犬の姿でチョコを食べて、中毒で息を引き取ってしまった。

 朝の柔らかな光が窓から差し込んでいる。
 いろはの自室が、そして壁に掛けた高校の制服が曇り空の鈍い光を反射している。
 この日、アニマルタウンを大雨と洪水が襲った。
 避難途中でこむぎは誤って側溝に落ち、一生を終えてしまった。

 朝の柔らかな光が窓から差し込んでいる。
 いろはの自室が、そして壁に掛けたバイトの制服が光を受けて淡く煌めいている。
 老犬になったこむぎは、その日の夕方に多臓器不全で天寿を全うした。

 朝の柔らかな光が窓から差し込んでいる。
 いろはの自室が、そして壁に掛けた中学の制服が光を受けて淡く煌めいている……。


「――うわああああああああああああああああっ!!」

 いろはは、見覚えのある居心地の悪い闇の中で目を覚ました。
 いや、本当に目は覚めているのだろうか。
 夢も現実もわからなくなって、いろはは汗ばんだ額を拭いながらはぁはぁと息を切らす。
 心臓が、恐怖に追い立てられるようにバクバクと体中を打ち鳴らしている。
「現実へおかえり。いろはさん」
「あなたは、確か……」
「トラオアーよ」
 彼女はふふ、とかすかに笑った。
「ここは今度こそ本当の本当に現実だから、安心してね」
 でもね、とトラオアーはまだ息が落ち着かないいろはにグッと顔を近づける。
「でもね、いろはさん。私が今まであなたに見せ続けた幻覚は、未来で起こりうる可能性のひとつひとつなのよ」
「え……」
「あなたが飼っている、こむぎちゃん。可愛いワンちゃんね。でも、原因が何であれあの子もいつか必ず天に召されるわ。それを意識しておかないと、あなたはきっとあの子を愛した分、その死別に打ちのめされる」
 トラオアーは、いろはの耳元でそう囁く。
「死を忘れちゃいけない。いつか訪れる別れを忘れて、流れていく時間の中でただぼんやりと楽しく生きるなんて愚か者のすることよ。私はね――いろはちゃん、あなたのような、生き物を飼う人たちに愚かな人間になってほしくないの」
 いつもなら、いろははきっとすぐに反論できた。トラオアーの歪んだやり方に負けることなんてなかった。
 しかしいくつもの酷い幻覚に心をいたぶられて、今のいろはは打ちのめされてしまっていた。
 何も言えないまま、いろはは口をわなわなと震わせながら項垂れた。
「――いろはーっ!!」
「……え?」
 ふと、声が聞こえた気がした。大好きなあの子の声が。驚いて、震える唇から声がこぼれる。
 でもここにあの子がいるはずがない。だから最初は幻聴かと思った。あるいはトラオアーがまた幻覚を見せ始めたか。
 しかし、もう一度、今度ははっきりと、自分を呼ぶ声が、この空間に響いた。
「いーろーはーーーーーっ!!」
 ピシリと、いろはの背後の空間にひびが入る。
 小さなひびはピシピシと広がって、パリーンとガラスが割れるような音を立てて遂に一人の少女がこの場に乱入してきた。
 腕をクロスして、自身を空間の破片から守るように少女は割れ目から飛び出し、しなやかかつ力強い動きでいろはのすぐ隣に着地する。
「いろは、いろは大丈夫!?」
「……こむぎ」
 いろはは疲れ切った泣きそうな目で、ゆっくりと顔を上げてこむぎを見つめる。その尋常ではない様子に、こむぎは目を吊り上げてトラオアーに向かって抗議をした。
「あなた、誰!? いろはに何をしたの!」
「うふふ。はじめまして、こむぎちゃん。私はトラオアー。それにしてもあなた、どうやってこの異空間に?」
「いろはが急にいなくなっちゃったから、においで見つけたの!」
 こむぎは、沈んだ表情のいろはをギュッと抱きしめる。
「いろはをこんなになるまでいじめたのは、トラオアーでしょ! 意地悪は、絶対絶対メッ! ちゃんと、ごめんなさいって謝らないとダメなんだよ!」
「……ふふ。嫌よ、私は謝ったりなんかしない」
「え?」
「だって、大事なことを教えてあげただけなんだもの。私はいろはさんに、なーんにも悪いことしてないわ」
 トラオアーは平然と言ってのけた。
「なんにも悪いことしてなかったら、いろはがこんなにつらそうな顔するはずないよっ! だよね、いろは?」
 そう問うこむぎに、いろははしばらく視線を泳がせたあと小さく口を開いた。
「確かにあの人のやりかたは結構強引だったと思う。でも、あの人が間違ってるとは言えない気がする……」
「え、いろは?」
 戸惑うこむぎを強く抱きしめ返し、いろはは不安そうに涙を目に溜め、か細い悲鳴のような声をあげる。
「いつかは私たち、離れ離れになっちゃうんだ。突然、こむぎが永遠にいなくなっちゃう。そんなの私、耐えられないよ。こむぎ……!」
「なにそれ!」
 こむぎはガシッといろはの両肩を掴む。
「こむぎが、大好きないろはのそばからいなくなるわけないでしょ!」
「……それは違うよ」
「いろは?」
「どんなに大好きでも、いつかはみんないなくなるの! 逃れられない、怖い未来なんだよ」
 涙をこぼしながら訴えかけるいろはに、こむぎは「うーん」と唇を尖らせながら考える。
「じゃあ、いろははずっと、こむぎとのお別れを怖いって思うんだよね?」
「……きっと、そうだと思う。あの人のせいで怖くなったんじゃなくて、元から時々怖いなって思ってたし。それなら、いつも心の準備をしてた方が良いんじゃないかな」
「ふーん。じゃあ、いろははこむぎが面白いことしても、絶対笑っちゃダメだからね!」
「えっ?」
「ずーっと睨めっこしてなきゃだめだよ。何があっても絶対に笑っちゃダメだからね?」
 呆気にとられるいろはに、こむぎは「だってそういうことでしょ?」と澄まして言う。
「楽しいことがあっても、嬉しいことがあっても、いろははずーっとお別れが怖いよって思い続けるの?」
「それは……」
「こむぎだってお別れは怖いよ。お注射も怖いし、あとねあとね、雷も怖~い! じゃあいろはは、こむぎがずっとずーっと怖いよって言ってるの、見たい?」
 いろはは少し言葉に詰まったあと、今までより少し大きい声ではっきりと否定した。
「……見たくない。そんなの絶対、見たくない」
「でしょ? 世界は素敵にわんだふるだって、いろはもわかってるよね。だったら、いつかどこかでやってくるお別れとかお注射とか雷をずっと怖がってるよりも、楽しくてわんだふるな今を、幸せ~って思う方がずーっとずーっといいよ!」
「そうか――」
 いろははハッと目覚めたように、開いた目にきらりと光を灯す。
「そうだね、そうだよ、こむぎ! どうせなら今を楽しまなきゃ、すっごくもったいないよね!」
 いろはは力強く立ち上がり、トラオアーに向かって宣言した。
「だから私は、いつかあるお別れを今から怖がったりなんかしない! だって私の周りには今、大好きな人たちがいて、ワンダフルなことが沢山あるから!」
「やったー、いつものいろはに戻ったよ~!」
「えへへ、ただいまこむぎー! ありがとうー!」
 きゃいきゃいとはしゃぐふたりに、トラオアーは怒りに身を震わせる。
「……そう。あなたも結局は愚かな人間にすぎないのね」
「愚かなんかじゃないよ。大切なことだよ」
 そんな彼女に、いろはは今度は毅然と言い返す。
 それを聞いたトラオアーは鬼のような形相で、叫ぶように言い張った。
「いいえ! 楽しさで誤魔化すなんて愚か者のやることよ! 大切なパートナーを突然喪うショックを味わうくらいなら、前もって怯えているくらいがちょうどいいの! それが正しいの! だから私は今まで、沢山の人間に恐怖を植え付けてきたのよ!」
 トラオアーのあまりに必死な様子に、こむぎといろはは頷きあって彼女に聞く。
「ねぇトラオアー。あなたはどうしていろはたちにこんなことをしはじめたの?」
「私たちでいいなら、あなたのことを聞かせて」
「……いいわよ。そうすればきっと、あなたたちも思い直してくれるはずだもの」

 トラオアーもかつては、普通の人間の女の子として平和に暮らしていた。
 経済的にも豊かでそれなりに整った顔を持って生まれた彼女は、客観的に見ればかなり恵まれた方だったのだろう。
 しかし、彼女は一つの大きな悩みを抱えていた。それは、友達ができないこと。
 両親が共働きで転校も多い彼女は、元来の内気な性格も手伝って、仲のいい友人が一人もできなかった。
 愛に飢えた彼女は、10歳の誕生日にペットをねだった。
 親との協議の末、彼女は生後1か月のサザナミインコのオスを家族として迎え入れた。
 彼女はサザナミインコに、ゆらゆらの波の『らーゆちゃん』と名づけ、それはそれは可愛がった。
 学校で上手く行かなかったとき、親の帰りが遅くて寂しいとき。そんな日頃の悩みを、全てらーゆちゃんへの愛に変えて一身に注いだ。
 サザナミインコはお喋りが得意ではないインコだが、そんな彼女の愛に応え、らーゆちゃんも彼女がよく発する「らーゆちゃん、おいで」「大好き」などの言葉をいくつか覚え、話すようになった。
 彼女とらーゆちゃんは、彼女が大きくなっても互いに寄り添い続けた。親に「ペット依存だ」と呆れられるくらいには、彼女は漫画にもゲームにもスポーツにも興味を向けずにインコにぞっこんだった。
 彼女は大学進学を機に親元から離れ、一人暮らしを――いや、らーゆちゃんとの二人暮らしを始めた。
 そして、彼女が20歳になったころだった。
 成人式を間近に控えたある真冬の日に、彼女が暮らす一帯を教科書に刻まれるほどの大きな地震が襲った。
 彼女の暮らす耐震構造のアパートが大きくたわみ、教科書が落ち、食器が割れ、窓は歪みに耐え切れずに砕け散った。彼女が動けなくなってうずくまっている内に、先程まで手の上で遊ばせていたらーゆちゃんは驚いて、割れた窓から寒空の下に逃げてしまった。
 アパートの倒壊だけは辛うじて免れた。彼女は自身の危険も顧みずにアパートの階段を駆け下り、らーゆちゃんを探しに出かけた。
 防災無線が、津波警報発令による避難を呼びかける。沢山の人が避難所や高台に逃げていく。彼女はその人の流れに逆らって愛するパートナーを探し続けた。
 この寒さだ。はやく見つけてあげないと、あの小さな体は凍死してしまう。あるいは、津波や二次災害に巻き込まれてしまう。
 その時、逆流して一心不乱に走り続ける彼女の腕を誰かが力強く引いた。
「上へ逃げんか! 死ぬぞ!」
「離してください、私のインコが!」
「あんたが死んでは元も子もないだろう!」
 初老の男性が嫌がる彼女をぴしゃりと叱り、非常事態だからと無理やり彼の車に乗せて、渋滞が起きないうちに近くの高台へ連れていった。
 結果的に彼女の地域では、津波の被害は軽微に終わった。
 そして翌日警報が解除され、アパートの周辺へ戻ったときにようやく彼女の大切なパートナーを見つけることができた。
 らーゆちゃんは冷たくなった姿で縮こまり、地面に転がっていた。
 彼女はもはや泣く気力もなく、助けてくれたあの初老の男性を責めることもできず、ただ自責の念でいっぱいになってとぼとぼとアパートの階段を上った。
 度重なる余震で手すりが崩れ落ちており、段差やアパート自体もいつ崩れるかわからないが、それでも彼女は自分の部屋へ向かった。
 愛するペットの死が彼女の判断能力を鈍らせたのかもしれない。
 しかしその時の彼女はどうしても、せめてらーゆちゃんが慣れ親しんだ場所で弔ってあげたかった。
「あっ……」
 突然、彼女の足元がぐらりと揺れた。
 強い余震によって、彼女の体は崩落した手すりをすり抜けてインコの亡骸ごとポーンと空中に放り出される。
 そして彼女は頭を強く地面に打ち付け――

 ――何も見えない。何も聞こえない。瓦礫もなければ、寒風が吹きつける音もしない。辺りをただ、重い闇が渦巻き、満たしている。
 ごめんなさい、らーゆちゃん。私が咄嗟にあなたを抱え込まなかったから、死んでしまったんだね。
 ごめんなさい。あるいは私が普段から気を付けて放鳥を控えめにしていたら、こんなことにならなかったのかもしれない。
 ごめんなさい。私のせいで……。
 こんな悲しみを、他の誰かに味わってほしくない。
 伝えなきゃ。いつか必ず訪れる死を、その様々な可能性を、忘れちゃいけないんだって。知らなきゃいけないんだって――

「うふふ。わかったかしら、こむぎちゃん、いろはさん。いろはさんに見せたこむぎちゃんとのお別れの仕方は色々あったけど、大抵は未然に防げるものだったでしょう。大好きな大好きなパートナーの死に備え、常に憂慮し、可能性をつぶし続ける……これこそが正しい生き方なのよ」
 彼女は、トラオアーとなってからいったいどれほどの年月を過ごしたのだろう。
 気が狂ったような笑みを顔に浮かべ、強迫観念的にふたりに訴えかける。
 そしてトラオアーの必死な様子を見てもなお、こむぎといろはは彼女の意見を肯定しない。
「それでもこむぎは、笑顔でいたいよ」
「私もそうだよ。あなたの事情はわかったし、すっごく悲しいと思う。だけど――」
「――あははははははははは!! もういい、もういいわ!!」
 トラオアーは喪服のベールを振り乱しながら発狂したような声をあげる。
 いや、彼女の魂は大きすぎる悲しみや苦しみに耐えきれずに壊れ、本当に発狂してしまったのだろう。
「ああ、あなたたちに私の記憶を話して思い出したわ、私の原点を。そうよ、みんなみんな悲しみに沈めばいいの! そうするのが絶対的に正しいの。まずはお前たちから、力ずくでもわからせてあげるっ!!」
 声と一緒に吐き出したかのように、彼女の体からおどろおどろしい感情が溢れかえる。
 その蓄積した悲しみは、苦しみは、目に見えるほど余りにも濃い。
「うふふ、うふふふふふふふふふふふ、あははははははははは!!」
 その感情の淀みがぶわりと広がり、彼女の全身を包んだ。
 それと同時に、こむぎといろはを拒絶するかのように、トラオアーの周りが鳥かごのようなドーム型の鉄柵で覆われていく。
「トラオアー!」
 こむぎが咄嗟に鳥かごに手を伸ばすが、かごはバチッと放電してこむぎを跳ね返す。
「わぁっ!」
 尻もちをついたこむぎに、いろはが駆け寄る。
「こむぎ!」
「平気だよ、あんまり痛くなかったし。だけど……」
 大きな鳥かごの中で、トラオアーの体は変形しながらぐんぐんと巨大化していく。
 そしてふたりの背後には、こむぎがあけた穴がそのままになっている。
 このまま彼女を放って帰ることもできるかもしれない。だが、そんな選択肢はハナからふたりの中にはなかった。
「うん、こむぎ。あの人をあのまま放っておけないよね。この鳥かごの向こうに、本当に行けないのかな……」
 いろはが何とはなしに鳥かごに向かって手を伸ばす。すると、いろはの手はすんなりとかごをすり抜けた。
「あれっ!?」
「なんで、いろはは通れるの!?」
「どうして……。もしかして、動物の飼い主さん同士だからなのかな……」
 そう結論付けたいろはは、なおも巨大化を続けるトラオアーを見遣りながら、こむぎに静かに話しかける。ひとりきりで、向こうに行くつもりで。
「……ねぇ、こむぎ。私、あの人の――トラオアーさんのこと、助けたいよ」
 いろはがそう言ってこむぎの方を見ると、こむぎは一点の曇りもない笑顔と決意にあふれた顔で応える。
「うん、こむぎも同じ気持ちだよ。だからね、何回この鳥かごに弾かれたって、こむぎもいろはと一緒にトラオアーを助けに行きたい」
 だって、とこむぎは続ける。
「トラオアーはきっと、ガルガルと一緒なんだ。ガルガル~ってした気持ちに呑まれちゃって、本当は苦しいの嫌なのに、苦しがって周りも傷つけちゃってるんだよ」
 かわいそうだよ、ほっとけないよ。と、こむぎはいろはに訴えかける。
「だから、こむぎも向こうに行って助けたい。大好きないろはと一緒に、ガルガルした気持ちをとんでけーってしたい!」
 再びふたりでトラオアーだったものを見遣ると、彼女はインコの形をした巨大な怪物に変化してしまっていた。
 いろははその様子に胸を痛めながら、こむぎに向き直る。
「そうだね、私たちはいつも一緒だった。こむぎが人間に変身できるようになってからは、学校でも一緒で、一緒にお喋りできて……」
「でしょ。だから苦しいときにだって、たとえ何があってもこむぎはいろはと一緒にいたいの」
 大丈夫! と、こむぎは不安そうないろはに胸を張る。
「思いが――心が一緒なんだから、きっとなんとかして通れるはずだよ!」
「……ふたり一緒でも、ど~うしてもダメだったら?」
「そのときはこむきが犬に戻って、いろはの服の中に隠れて、一人だよ~って言い張ればいいんじゃないかな?」
「あはは、さすがに無理じゃないかな~。いっそ体も一つになれたらいいのにね」
「それだ! 人間にだってなれたんだから、やってみようよ」
 いろはが笑ってそう言うと、ふたりの腰に提げていたワンダフルパクトが光を発し、ふたりの目の前に浮かぶ。
「いろは、これって……!」
「うん、こむぎ。なっちゃおうか、ひとつに!」


「――ワンダフルパクト!」
 ふたりで声を揃えて、パクトを開く。
 そして手をギュッと繋ぐと、パクトを持っている方の手を前に突き出して、新たな呪文を高らかに詠唱した。
「プリキュア・デュアル・エボリューション!」
 互いのパクトをくるくると回し、溢れる聖なる光に身をゆだねる。
「スリーッ!」
「ツーッ!」
「ワン――ッ!」

 ふわり、と優しく解きほぐすように、こむぎといろはの体が光の粒子に分解されていく。
 痛みも不快感も無く、まるでゆりかごに揺られているかのような心地よさがふたりを包んだ。
 こむぎの遺伝子の二重らせんと、いろはの遺伝子の二重らせんが合わさって、組み変わって、新たな『個』へと合成されていく。
 ふたりの髪の毛。
 ふたりのお洋服。
 ふたりの目。
 ふたりの心。
 ふたりの言葉。
 だけどふたりは、ふたりでひとり。
 私はこむぎ。私はいろは。どちらも私。
 この常闇の地に降り立つ、聖なる戦乙女。
 新たに生まれ落ちた少女の名は――

「ふたり一緒に聞こえる世界! キュアワンディ!」

 少女、キュアワンディは、心の底から楽しそうに幸せそうに宣言する。

「あなたの笑顔が大好き!」


 ワンディは目の前にそびえるかごを見据えると、両手をかごへとそっと伸ばす。
 かごはワンディを弾くことなく、すんなり中へと通した。
「やった、入れた! これで助けにいけるよ!」
「――グゥォォォァァァァァァァアアアアア!!」
 喜ぶ間もなく、インコ型怪獣へと化したトラオアーが咆哮をあげる。
「トラオアーッ!」
 ワンディは、トラオアーが飛ばす羽型カッターを軽い身のこなしで避けながら、トラオアーに迫る。
「つらかったよね。私たちにはわからないくらいの大きなつらさを抱えて、あなたが正しいって思うことをしてきたんだよね」
 大きな翼による風圧を身を低くすることでかわしながら、ワンディはトラオアーの巨大な体に抱きついた。
 少し触れるだけで、大きな悲しみを肌で感じられる。
「でも、たとえ正しいことなんだとしても、あなたはとってもつらそうだよ。悲しそうだよ。苦しそうだよ」
 ワンディは、トラオアーが発する感情の一端を全身で感じ取りながら、祈るように目を瞑った。
「トラオアーさん、どうか私を信じて。私はあなたを助けたい。きっと、助け出してみせるから!」
 ワンディは、その手にフレンドリータクトを召喚する!

「メモリアルを、あなたに!」
 ワンディが発した言葉、メモリアル。かつての記憶を振り返り、追悼を示すという意の、その言葉。
「お空の上に、とんでけー!」
 その言葉に則ってワンディは、トラオアーを浄化して天に導くための天使へと二段進化する。
 ワンディがフレンドリータクトでハートを描くと、そのハートは1対の巨大な純白の翼に形を変えてワンディの背中を飾る。

「プリキュア・メモリアニマリベラーレッ!!」

 ゼロ距離で放たれたその浄化の光は、トラオアーの巨躯を羽のように優しく包み込んだ。
 光は、彼女を遥か遠いどこかへ導いていく――

「――オイデー、ラーユチャン、オイデー」
 懐かしい、くぐもった声。
 あぁ、思い出した。これは、らーゆちゃんの声……。
 まねっこがあまりうまくない種類だけど、彼女にとってはこの声が最高に愛おしかった。
 あまりにも久々に穏やかな気持ちに包まれながら、彼女は光の中を進む。
「ダイスキー、オイデー、ラーユチャン、ダイスキー」
 その声を聞いた途端、彼女の中に、らーゆちゃんと過ごした10年間の思い出の数々が蘇る。
「どうして……あぁ、とっくに忘れてしまったと思っていたのに……」
 決して悲しい思い出だけではない。むしろ、楽しくて幸せな思い出の方が圧倒的に多かった。
 笑顔で過ごした思い出の方が、ずっとずっと多かった。
 それらを振り返ることがこんなに幸福なことだなんて、知らなかった。あるいは、それすらも忘れていたのだろうか。
「こむぎちゃん、いろはちゃん、あなたたちの力なの? あるいは――」
 彼女は涙をこらえて、懐かしい声のする方を見遣る。
「らーゆちゃん、ずっと待っててくれたのね。ごめんね、ありがとう……」
 涙をこぼしながら、しかし晴れ晴れとした顔で、彼女は声のする方へ手を伸ばす。
 意識が、魂が、空高くへ導かれていく――

「――ふぅ。一件落着だね」
 変身を解いて分離したこむぎが、大きく伸びをする。
 鳥かごも闇の空間も崩壊し、頭上には朝の清々しい空が朗らかに広がっていた。
「うん。それに、なんだか……」
「どうしたの。いろは」
「さっきあんなに悲しい幻覚を見せられたのに、その時の苦しい気持ちがきれいさっぱり消えちゃった」
「へー、良かったね、いろは! これもキュアワンディの力なのかな?」
「もしかしたら、トラオアーさんが『ごめんなさい』って最後にプレゼントしてくれたのかもね。なんにしても、他に悲しい気持ちを植え付けられた人たちもそうなってるといいなぁ」
 いろはもこむぎと一緒に伸びをしながら、そう思いをはせた。
「えへへ。ねぇ、いろは。こむぎ、お腹すいちゃった!」
「そういえば私もだー! おうちに帰ろう、こむぎ!」
「うん、いろは! 折角だから走って帰ろ。おいかけっこだ~、あははっ」
 幸せそうに駆けだすふたりの後ろ姿を、真新しい太陽が優しく照らしていた。
 春の陽気の下、きっと今日も楽しい一日になるだろう。


(画:りとるぶたー)
最終更新:2024年04月21日 10:47