第23話『帰ってきたせっちゃん――ある日のせっちゃん。四つ葉中学体育祭(後編)――』




 爽やかな秋晴れの空。うろこ雲と呼ばれる、真っ白で影のない小さな雲片が無数に広がる。絶好の運動日和に恵まれた。
 四つ葉中学校の校庭に、千人近い生徒が整列する。父兄も加えると、動員数二千人を超す一大イベントだ。
 朝のうちは寒さが厳しく、生徒たちは半袖シャツとパンツの上にジャージを着込んでいた。

 運営本部の大きなテントの前には、計三十本にも及ぶ、大きなクラス団旗が連なる。
 風を受けてはためく姿は、見る者の心を鼓舞し、闘志を燃え上がらせる。

 校長先生の挨拶が終わり、三年生の選手代表が宣誓を行う。
 一人の少女が生徒の間を潜り抜け、校長に入れ替わって壇上に立つ。

 体重を感じさせない軽やかな身のこなし。踵から頭の先まで、芯が入っているかのような立ち姿。それだけで、相当に鍛え込んでいる生徒であるのがわかる。
 女子としては平均的な身長。肩に掛かる程度の長さの黒髪。遠目には、他にこれといった特徴のない、地味な印象の女の子。
 しかし、間近で見た者は息を呑むだろう。透き通るように白い肌。端正な顔立ち。小柄ながらも、頭身の高い理想的な体形。一般人とは異なる存在感と、清楚な雰囲気を持つ少女だった。


「宣誓! 我々、選手一同、九百二十五名。四つ葉中学校の生徒として、全力で競技に臨み、精一杯戦い抜くことを誓います! 選手代表、東せつな」


 少し低めの、強い意志を感じさせる、凛とした声が校庭に響き渡る。
 そんな話は聞いていないと、少女のクラスメイトと両親は目をパチクリさせる。

 盛大な拍手の中、体育祭は幕を開いた。







帰ってきたせっちゃん――ある日のせっちゃん。四つ葉中学体育祭(後編)――』







 駆け足で戻ってきたせつなの誘導で、クラスは待機場所のテントに向う。そこで質問責めにされるものの、軽くかわして全員に最初の競技の準備を促した。
 せつな自身も、ジャージの上着を脱いで柔軟運動を始める。「昨年の体育祭を見せてもらっておいて良かったわ」と、ラブに囁く。
 ラブは返事もせずに、ポカンとせつなを見つめたまま動かない。


「どうしたの? ラブ。ちゃんと準備運動をしないと、すぐに綱引きが始まるわよ」
「あ、うん、見惚れちゃって。おとうさん、ちゃんと撮っててくれたかなあ?」

「馬鹿なこと言ってないで、早く用意して行くわよ。一戦でも見落としたら、その分だけ不利になるわ」
「は~い、って、見落としたらどうして不利になるの?」


 今年の綱引きは、紅白ではなくクラス対抗のトーナメント戦だ。競技が長引くのを避けるために、学年ごとに三ヶ所に別れて同時進行する。
 せつなは各クラスの特徴を見抜いて、その対策を立てるつもりだった。

 綱の引き方には大きく三種類ある。開始と同時に全力を出す先行型。中腰でひたすら引っ張り続ける攻撃型。ホールドして相手の疲労を待つ守備型だ。
 先行型は攻撃型に強く、攻撃型は守備型に強く、守備型は先行型に強い。三すくみと呼ばれる関係だ。
 せつなのクラスは、その全てに対応できるように練習を積んでいた。
 どこと当たっても勝ち抜けるように、せつなはそれぞれのクラスの動きをじっくりと観戦した。


「せつな、なんだかとっても楽しそう。やっぱり勝負事は好きなんだね」
「フフッ、そうね。確かに嫌いじゃないけど、楽しいと思えるのはみんなが一緒だからよ」


 せつなたちのクラスの番が回ってくる。音楽と共に駆け足で入場して、速やかに左右に分かれてポジションを確保する。
 ロープはなるべく端から端までを平均的に使い、足は肩幅で水平に開き、左右の手をくっつけて綱を握る。
 そして、一糸乱れぬ直線で整列して待機する。
 その姿は、他のクラスと比べると、遠目からはっきりわかるほどに違っていた。

 ピィッ――! という笛の合図とともに、麻で編まれた太いロープが持ち上がる。『オーエス、オーエス』『ワッセ、ワッセ』の掛け声で、ロープが左右に引かれ合う。
 しかし、拮抗していたのは一瞬だった。開始直後に勝負を賭けていた相手チームは、力を温存していたせつなたちに対抗できなくなる。
 ロープ中央の赤いマーキングが四メートルを越えて、勝負ありのホイッスルが吹き鳴らされた。


「圧勝だったね! せつな」
「凄いじゃない、これなら優勝できるかも?」
「そうね。でも、もともと団体戦は落とすわけにはいかないのよ」


 そのままの勢いで、せつなたちのクラスは、特に苦戦もせずに綱引きで優勝した。
 幸先のいい出だしに、クラスメイトの士気も高まる。

 次はクラス選抜の短距離走だ。七人の代表選手が百メートルを走り抜ける。せつなたちは十クラス中で、一位に二人、二位に三人、三位と四位に一人づつだった。
 期待を遥かに上回る成果に、クラスから一斉に歓声が湧き上がる。喜び合う選手たちの姿にせつなの心も弾む。

 続いて、午前中の見せ場である、中距離の二百メートルと長距離の八百メートル走が行われる。
 これが苦しい結果となった。中距離では何とか半数が上位に食い込んだものの、長距離ではどうしても体力の差が響いてくる。
 短い練習期間では、フォームの矯正はできても、体力の向上は望めない。長距離は最下位となり、クラス順位を大きく下げてしまった。

 そして、全員参加の球入れ合戦。
 垂直に五メートルの高さに掲げられた籠に、百個のお手玉を投げ入れる種目。
 いくつか投げてことごとく外したラブは、拾ったお手玉をせつなに片っ端から渡す作戦に出た。
 せつなの投げたお手玉は、緩やかな弧を描いて籠に収まる。何人かがそれを真似て、特に練習しなかったにも関わらず二位の成績で終わった。

 その後の、借り物競争とパン食い競争は大活躍だった。ここで、本来の主役級の選手を投入しているのだ。
 お父さんと書かれた札を持って、父兄用のテント目指して高速で駆けるせつなの姿は、一時、会場中の話題をさらった。
 パンを取るのにもたついた陸上部のクラスメイトが、最下位からトップまでをごぼう抜きにして、一着でテープを切る姿は圧巻だった。


「現時点で、総合三位ね。ここで食らい付いておかないと、後半で追いつかなくなるわ」
「午後の種目は、二人三脚リレーからだね。絶対に勝とうね!」
「もちろんよ!」


 昼食の時間になった。みんな後半の競技に必勝を誓って、それぞれの家族の元に向った。







 ラブとせつなは、あゆみと圭太郎が待つテントへと向う。そこで合流して、お弁当は少し離れた場所でシートを引いて取ることにした。
 まるで学校の中でピクニックしてるみたいだって、せつなが嬉しそうに微笑んだ。


「間に合って良かったよ。おとうさんやおかあさんと一緒にお昼ご飯を食べられる体育祭は、中学で終わりなんだ」
「そうね、高校からはお昼も別々。なんだか味気なくなるわね」
「まあ色々問題もあるし、恥ずかしくなる年頃だからな」
「だったらその分、今日を精一杯楽しむわ!」

「その意気だ。しかし、せっちゃんは足が速いんだな。僕も自信はあったんだが……」
「おとうさん、せつなに引きずられてるみたいだったよ?」
「お父さんだけズルイわよね。わたしも一緒に走ってみたかったかも?」
「ええっ~~!!」


 借り物競争の札に書かれていたのは、お父さんかお母さん。どちらも来ていない場合は教師で許される。足には自信があると、圭太郎が買って出たのだった。
 ルール上、手を繋いで走らなければならない。真っ赤になったせつなが可愛いと、クラスメイトから冷やかされたりもした。

 楽しい休憩時間はあっという間に過ぎて、午後の競技を迎える。







 二人三脚のリレーは、バトンではなくタスキを掛けることでタッチを行う。アンカーのラブ・せつな組がそれを受け取った時には、既に他のチームの全員が先を走っていた。
 せつなのクラスの出場選手は、主に運動部に所属している者で固められている。足は速いのだが、部活動があって十分に練習できなかったことが災いした。
 差はたかだか十メートルちょっと。しかし、それが絶望的な開きでもあった。
 小回りの聞かない二人三脚は、前方の組を追い抜かして走るのが極めて難しい。スタートで抜き出た者たちが、そのまま勝者となる競技なのだ。
「誰だよ! 二人三脚でリレーしようなんて言いだしたのは?」などと応援席で野次が飛ぶが、それも後の祭りでしかない。


「せつな、あたしに考えがあるの。一か八か、本気で走って外側から追い越そう!」
「面白いわね、乗ったわ。ラブは全力で走って! 私が合わせてみる」

「行くよ、せつな! 3、2、1、GO!!」


 肩を組んでいた二人の手が、腰に下りて体操着を握る。上体を自由にして、肩を回転運動から上下運動に切り替える。前傾姿勢によるピッチ走法。それは、ソロの短距離走のモーションだった。
 最後尾のペアの走りが突然変わる。見たことも無いフォームで追い上げるペアの姿に、会場中から驚きの声が上がる。
 せつなは呼吸をラブに合わせて、全神経をラブの腰にかけた手に集中させる。
 そして――更なる加速。二人は息を止め、歯を食いしばって走る。有酸素運動から、無酸素運動への変化。
「イチ、ニイ。イチ、ニイ」「右、左。右、左」テンポよく声を出して走る前方の集団に、ラブとせつなは外側から大きく弧を描いて迫る。


「凄い……。ラブとせつな、声を出さずに走ってる?」
「どうやって合わせてるんだ? しかもあれ、二人三脚のスピードじゃないぞ!」


 この世界の体術に、相手の体に触れることによって次の行動を読み取る技術があるという。
 達人と呼ばれる者の中には、触れずとも察知してしまう者もいるのだとか。せつなの使った技術はそれに近かった。
 もちろん、せつなはそこまでの域に達しているわけではない。だけど、クローバーの四人なら、相手を見なくても複雑なダンスの動作すら一致させられる。
 ダンスと体術の融合。そして、技術だけでなく、心まで一つにして共に歩める信頼関係。それが限界を超えた同調を可能にする。


『ゴ――ル!!』


 ラブとせつなのペアが白いテープを切る。クラスの垣根を越えて、惜しみない拍手が二人を包んだ。







 次のプログラムは障害物競走。お遊びの要素の強い種目だが、本気で挑めば、ある意味最も過酷な競技かもしれない。
 麻の袋に入って、ピョンピョンと飛ぶ。マットの上ででんぐり返し。ハードルを一本目は飛び、二本目はくぐり、交互に三回繰り返す。最後の仕上げは網くぐり。
 これらの障害を、十数メートルのダッシュを繰り返しながら行うのだ。
 そして、この競争こそせつなのクラスの独断場だった。体力自慢の精鋭がエントリーする。一つ一つの障害に運動能力は関係なくても、後半の持久力が違う。
 圧倒的な差で一着をもぎ取った。

 そして、騎馬戦。男子と女子で一クラスにそれぞれ一組づつ出場する。花形競技の一つ。こちらも、出場したことのないメンバーで編成されていた。
 十分に練習は積んでいたものの、上位クラスのチームとしてマークされていたのか、男子の騎馬は開始早々に敗れてしまう。
 そして、迎える女子騎馬戦で――


「由美っ!!」
「いけない!!」


 騎上にいたクラスメイトの由美が落馬してしまう。すぐに救護班が呼ばれ、保健室に連れて行かれる。
 もちろん、せつなとラブも付き添った。


「由美、大丈夫? 痛む?」
「ごめんなさい、私の組み方が悪かったんだわ……」
「平気平気、たまたまドジ踏んじゃっただけだって。ゴメンね」


 外の喧騒に比べて、不気味なくらいに静かな校舎の中。保健室だけが多くの怪我人で賑わっていた。
 由美本人の申告通り、軽い捻挫で済んだらしい。
 とは言え――


「ゴメン、せつな。わたし、リレーに出なくちゃいけないのに……」
「気にしないで、ゆっくり休んでいて。今から代走を探すわ。無理をさせてごめんなさい」
「せつなは悪くないよ! こんなに頑張ってるじゃない!」

「ラブ。次の競技まで、まだ少し時間があるはずよ。みんなを集めるのを手伝ってほしいの」
「うん……。わかった」


 ラブは一足先に戻って行った。由美は簡単な手当ての後、校庭に戻ることを望んだ。
 もう競技に参加は出来なくても、みんなの戦いを見届けたいからと。
 せつなは由美に肩を貸して歩いた。
 頼りないほど軽い由美の体重が、今のせつなにはとても重く感じられた。

 クラスのテントに着いた時には、みんな集まってくれていた。由美の怪我が大したことはないと聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。


「みんなに謝りたいの。私が無理を通したばかりに、由美が怪我をしたわ。勝てたはずの競技を落として、楽しい体育祭を滅茶苦茶にしてしまった」
「せつなは悪くないよ!」
「そうよ! わたしが怪我をしたのはドジだからだし」

「二人は黙ってて! みんな――ごめんなさい!」


 せつなは深く頭を下げる。総合順位は再び三位、十クラスの中では悪い成績じゃない。でも、当初の出場選手で挑んでいたなら、十分に優勝が狙えたはずだった。
 それだけの練習をしてきたのに、みんな付き合ってくれたのに、それを活かすことができなかった。
 花形競技の大半で破れ、そこから外してしまった人たちの活躍で上位を維持している。せつなの思惑は全く外れてしまっていた。


「今さらだけど、みんなの意見を聞かせて。最後のリレーで一着を取れば、逆転優勝も可能よ。みんながそれを望むなら……」


 せつなは、今からでも登録を変更したいと告げる。この日のために練習に付き合ってくれたメンバーには、後からどんな形ででもお詫びをするからと。


「誰も――責めてないだろ?」
「えっ?」

「東がメンバー表を組み替えてなかったら、俺はパン食い競争に出る機会なんて一生なかったと思う」
「僕も、障害物競走だって面白かったよ。一着取れたしね」
「ある意味、昨年よりも目立てたよな」

「初めてちゃんとした競技に出れたわ。勝てるかも? って期待しながら走れた。練習も、本番も最高に楽しかったもの」
「まだ勝負は付いてないじゃない! ハンデを背負って勝つのが楽しいんでしょ。みんなで一丸となって」

「予定では、現時点で首位をキープしておくはずだったわ。次のリレーは一番不利な競技なのよ」


 みんなの気持ちに胸が一杯になりながらも、せつなの表情は晴れない。


「メンバーの変更は反対だな。今日まで頑張ってきたんじゃないか」
「繰上げなら、いいんじゃないかな?」
「そうかっ! わたしの代走が必要よね!」

「えっ? それって……」

「責任を感じているなら、いっそ、本当に責任を取ってみてはどうかな?」
「東さんがアンカーを走りなよ。アンカーは二百メートルだろ? 東さんなら挽回できるかもしれない」

「でも……私が……私だけ……」

「わたしも見てみたい。せつなの本気の走りを!」
「文化祭でわかっちゃったの。東さんて、まだ隠してる力があるのよね?」
「やるっきゃないね! せつな。あたしたちでバトンを繋ぐから、みんなの想いをゴールに届けて!」


「――わかったわ。全力で、精一杯頑張ってみる!」







『それでは、最終種目。クラス選抜リレーを開始します。出場選手は所定の位置に集まってください』


 最終競技を告げるアナウンスが鳴り響く。熱気に湧き上がっていた会場が、一瞬、シンと静まり返る。クラスメイトの表情も、緊張で固く引き締まる。
 それは、出場しない生徒たちも同じだった。これまでの練習の成果が、その結果が、この競技で決するのだ。


「行こう、せつな。あたしたちだけじゃない、クラスみんなで繋いだバトンで、幸せゲットだよ!」
「勝ってね、せつな。わたしも、気持ちは一緒に走ってるから!」
「精一杯――がんばるわ」


 せつなの返事が、声が、普段より低く、力強く響く。
 表情から穏やかさが消え、つり上がった瞳は、前方を鋭く見据える。
 身体はしなやかにリラックスしつつも、秘めたる爆発力を周囲の者に感じさせる。
 激しい闘志を全身に纏う。その姿は、狩りで獲物を前にした、肉食獣のように美しかった。
 一瞬、髪の色が銀色に輝いたようで、ラブは目をこすってもう一度せつなを見る。いつも通りの黒髪だった。

 でも――わかる。今のせつなは、普段のせつなとは違う。
 日常生活に適応するために、無意識に力を抑えた中での精一杯じゃない。
 生きていくために身に付けた、能力の限界に挑んでいる。東せつなの全てを込めた、全身全霊の精一杯なのだと。

 第一走者がスタートラインに一列に並ぶ。
 十名のクラス代表が一列に並ぶ。せつなのクラスはインコースから七番目。クラス順位によるハンデだった。
 両手の指を一杯に広げ、上体を低く沈め、効き足を前に、逆足を後ろに伸ばす形での構え。
 クラウチングスタート。本来は陸上部の選手しか使わない、本格的なスタート方法。彼は走りは練習せずに、ただその一点だけを磨いてきたのだ。


『パァ――ンッ!』


 銃声とともに、第一走者が駆ける。ここに、(あくまでリレーの出場者の中では、だが)一番速い選手を持ってきていた。
 楕円形のコースを走るリレーでは、スタートダッシュと、第一走者の順位が後半に大きく影響する。
 直線よりカーブが多いコースでは、前方の選手が障害となり、順位を入れ替えるのが難しいためだ。

 トップでスタートを切ったものの、本来は走ることを得意としない生徒でしかない。その後二人に抜かれて、三位でバトンを渡した。
「がんばって! がんばって!」と、せつなは心の中で声援を贈る。声は出なかった。言葉にはならなかった。既に、身体が臨戦態勢に入っているのだ。

 アンカーの手前、ラブが準備体勢に入る。バトンゾーンのギリギリ前から、タイミングを見計らって地面を蹴る。
 十メートルのゾーンを駆け抜けた時、ラブの走行速度はランナーの速度とぴったり同じとなる。
 相対速度がゼロとなった制止空間で、バトンの受け渡しが確実に行われる。その時点での順位は八位。健闘も及ばず、第一走者から大きく落ち込んでいた。

 大方の予想を裏切り、ラブは速かった。もともと運動の得意なタイプではない。しかし、プロダンサーという新たな目標を持ったことで、自主トレーニングを再開していた。
 一度ダンスで鍛えた肉体は、速やかに筋力を取り戻す。せつなと接する機会も多いため、一番、体育祭の練習に励んでいたのもラブだった。

 出番を間近に控えて、せつなの集中力が爆発的に高まる。
 自己暗示により、心理的ブレーキを解除する。本来の力を解き放つ。


(思い出せ! この身体は、戦うために作り上げてきたもの。疾走は、その基本のはず)


 己の肉体を管理し、コントロールする。心臓の鼓動。血液の流れ。細胞の一つ一つに至るまで。
 足の動きを司る、大腿四頭筋・下腿三頭筋・腸腰筋・腹直筋・脊柱起立筋。そして、上体の腕の振りに必要となる、小胸筋・小円筋・広背筋。
 それぞれに意識を飛ばし、働きかけ、活性化させる。使わない筋肉は脱力させ、全てのエネルギーを走ることのみに集束させる。
 トーン、トーン、と、せつなは小さく二回ジャンプする。それで全ての筋肉は繋がり、覚醒し、一つの目的の達成を誓う。

 ラブが地面を蹴るように力強く走る。コーナーで前の走者との距離を縮め、直線で一気に二人抜き去った。


「せつなぁ――ッ!!」


 ラブの声が聞こえたような気がした。実際には無酸素運動の真っ最中であり、声を出す余裕なんてあるはずがない。
 気迫のこもった視線が、想いが、心の声をせつなに届ける。

 ラブがバトンゾーンに差し掛かる。他の生徒のようなペース調整もなく、トップスピードのまま全力で走り抜ける。
 受け渡しなんて考えていない。距離が縮まらないせつなの背中を、ただひたすらに追いかけた。
 せつなもラブを一切見ない。背を向けて跳ぶように走り出す。まるで吸い込まれるように、ゾーンの中ほどでせつなの手にバトンが収まった。

 バトンゾーンの残りは加速に使用された。ラブが蹴るように走るなら、せつなは跳ぶように走る。
 足を地に付けて弾ませ、その反動で後ろ足を真っ直ぐに伸ばし、最後のランでリズムをつけて加速していく。
 手を大きく動かし、歩幅はもっと大きく動かし、地面を蹴るのではなく掴んで跳ぶ。それは、せつなの強靭なバネと脚力の成せる技だった。

 高速走行で視界の狭くなったせつなの目に、前方の走者の姿が映る。次の瞬間には、遥か後方に置き去りにした。
 各組最高の俊足を集めたクラスリレーのアンカーの中にあって、それすらも相手にならないとばかりに、次々とせつなは抜き去っていく。

 四人抜いて、トップのランナーと並ぶ。男子生徒であり、その綺麗なフォームはあきらかに素人ではなかった。
 最後の直線でせつなは併走する。流石に、中々抜かせてもらえない。
 その時、クラスのみんなからの声援が耳に飛び込んできた。


「せつなー! 頑張れ――!!」
「せつなー! 負けないで――!!」
「東さん、ファイトー!!」
「いっけぇぇ――!!」


 せつな自身、もう限界と思われた身体に、更なる力が宿る。声援に背中を押されるようにして、更に加速し――

 ――抜き去った。


「嘘だろ……。あいつ、男子短距離の全国大会選手なんだぞ……」
「それを遥か後方から抜き去るって、百メートル何秒で走ってるのよ……」


 二位のクラスから、信じられないといった声が上がる。そのつぶやきも、すぐに周囲の大声援にかき消される。

 せつなの身体が真っ白なテープを切って、一着でゴールインした。
 勢いを殺しきれずに、限界を超えていたせつなは転倒しそうになる。


「お疲れ様、せつな。おめでとう」


 バランスを崩して倒れそうになったせつなを、ラブが身体を張って受け止める。
 何か返事をしようと思ったが、呼吸が乱れて上手く声が出せなかった。
 クラスメイトの祝福と歓声に包まれて、せつなはしばらくの間、幸せな気持ちで目を閉じた。







 全てのプログラムを終えて、閉会式が行われる。体育祭の優勝トロフィーの授与。せつなはクラス代表として再び壇上に立つ。
 銀色に輝く杯の中央には、四つ葉のクローバーの意匠が刻印されている。左右の取っ手はハートの形になっていた。
 二千人の拍手に包まれて、せつなはトロフィーを受け取り、頭を下げる。
 そして、体育祭の成功の証を手に、クラスメイトの待つ場所に、
 ――大切な仲間たちの元に戻った。


「優勝できたのは、みんなのおかげよ。私――何にもわかってなかった」


 せつなは、今の心境を素直に話す。自分の気持ちを素直に伝える。それも、最近のせつなの大きな変化の一つだった。
 自分が体育祭の委員に選ばれたのだから、自分の力で成功させなければならないと思った。
 自分が頑張って、みんなを幸せにしたいと思った。


「でも、そうじゃなかった」


 みんなの幸せは、みんなで掴めばいいんだ。
 時には、選択を間違うこともある。正しくても、力が及ばないこともある。
 失敗しても、挫けても、落ち込んでもいいんだ。支え合うことができれば、人は何度でも立ち上がれるのだから。


「みんな、ありがとう。私――今日の、この日のことを一生忘れない」


 瞳を潤ませてお礼を言うせつなに、再びクラスメイトからあたたかい拍手が送られる。
 せつなの胴上げをしよう! ってラブが提案したけど、男子たちの目が嬉しそうに輝いたので見送られた。

 惜しそうな、情けない男子たちの表情に、思わずせつなが吹き出した。
 つられて、みんな一斉に笑い出す。

 また一つ、せつなを取り巻く幸せの輪が広がった。クラスの結束も、より確かなものとなっただろう。
 勝利と達成感の余韻の中、惜しみつつ解散する。みんな、それぞれ家族の元に戻っていく。
 せつなとラブもまた、あゆみと圭太郎と共に家路に着いた。


 大切な教えと、喜びを胸に抱いて――
最終更新:2013年02月17日 08:25