第18話 罪の残滓




鏡の中の少女はゆったりと微笑んでいる。
少し下がった目尻に丸い頬。いかにも優しげな、おっとりとした雰囲気。
まるで邪気のない、無垢な天使の微笑み。



(でもね、わたしは知ってるの。)



あなたは決して天使なんかじゃない。無垢とは駆け離れた汚濁にまみれた存在だと言う事を。
欲しいものの為ならどんな卑怯な真似も出来る。
己の欲望の為なら親友を裏切る事すら厭わない。
それが誰よりも愛している筈の人をズタズタに切り裂く行為だとしても。



(笑いなさい、わたし。)



彼女の望む笑顔を。
それで今更せつなが安らげる訳ではない事は分かっている。
それでも他に出来る事など思い付かない。言われるままに偽りの微笑みで向き合うしかない。
悲しいくらいに無力な子供だ。逃げ出す勇気すら持てないのだから。



鏡を指でなぞる。どうと言う事はない、と言い聞かせる。
いつものお出掛け。待ち合わせして、四人で買い物。
お喋りして、お茶を飲んで、それぞれの家路につく。それだけだ。
何も起こりようがない。今までだってちゃんと出来た。
だから今回だって平気。近付き過ぎないように。かと言って、避けている様には見えないように。
大丈夫。またせつなに会える。話が出来る。それで充分幸せではないか。



(さあ、行きましょうか。)


鏡の中の少女が微笑み返してくれる。
この表情を忘れないで。これ以外の顔を見せては駄目。



(…分かってる。ちゃんとやれるから。)



時計は待ち合わせの10分前。ちょうどいい時間だ。


以前ならこんなにギリギリに出るなんてあり得なかった。人を待たせるのは嫌い。
時間に遅れるのは相手の時間を盗む事。
人を待たせるのは、自分の所為で無駄な時間を使わせる事。
そう両親から躾られて来た。
待つのは平気。本が一冊あればいくらでも待てる。
だから待ち合わせはいつも一番乗りだった。
自分の姿を見つけて、嬉しそうに手を振って駆けて来てくれる友達の姿を
見るのが待ち合わせの楽しみの一つだったから。



でも今は違う。



必ず最後に現れるようにしてる。
ゆっくり歩き、最後だけ少し小走りに。いかにも遅れそうだったので慌てている、と言う風に。
急に遅刻するようになった祈里を誰も、ラブも、美希も、せつなも咎めた事はなかった。
理由なんて聞くまでも無いのだから。



せつなと二人きりになる訳にはいかない。
ラブと三人でも駄目だ。美希が間にいてくれて、四人なら。
四人なら何とかなる。



歩きながら時計を見る。慎重に、不自然にならない程度に歩調の速さを調節しながら。



(………あ……。)



ドーナツカフェ、せつなが一人座っている。いつも側にいる筈のラブの姿は見えない。
少し隠れて様子を見た方がいい。そうした方がいいのは分かっていたけど…。



静かに本を読んでいるせつなの横顔。時々髪を耳に掛ける仕草。その白い指先。
姿勢良く、すっと伸びた背中。綺麗に揃えられた足。


目が、離せなくなった。
胸が締め付けられる。



ふと、せつなが顔を上げた。立ち尽くす祈里に気付いたのだ。
本を閉じ、柔らかく微笑む。小さく手を上げて祈里に振ってくれる。



涙が出そうになった。思わず、錯覚しそうになる。
「あの事」はせつなを求める余りの妄想だったのではないのか。
実る筈のない初恋。持て余す程の想いが見せた幻だったのではないのか。
そうでなければ……
せつなが、今でも微笑み掛けてくれる訳がないのではないか、と。



しかしそんな甘い幻想は一瞬で潰える。



「せーつなぁ!おっ待たせえぇぇ。」



ラブが駆け寄り、後ろからせつなに抱き付く。



「あ、ブッキーも来たんだ!おーい、やっほー!」



眩しいくらいの朗らかさで手招きするラブ。
でも笑顔の前に投げ掛ける瞬きにも満たない、色の無い視線。



勘違いしないで。
あなたがここにいるのは許されたからじゃない。
あなたはまだ何も償ってはいない。



(分かってるわ、ラブちゃん。)



その視線が残す、棘とも言えない程の小さな楔。
都合のいい幻に囚われそうになっていた祈里の中に深々と食い込む。



ごめんなさい、ちゃんと分かってます。
もう二度とあなたの恋人を傷付けたりしません。
指一本触れません。
笑顔を浮かべ、側に。それだけを守ります。



「美希ちゃんは?遅れるなんて珍しいね。」
「あれ?ブッキー連絡行ってない?」
「美希、出掛けにおば様と揉めたんですって。」



慌ててリンクルンを見る。時間に気を取られてメールに気付かなかった。


『ごめん!ちょっと遅れる!ママが絡んで来るんだもん。
ブッキー、良かったら先にうちに寄らない?
何ならラブとせつなには先に行って貰って後で合流してもいいし。』


メールを見ながら込み上げる思い。
美希に申し訳ない、と思う。こんなにも気を遣わせてる。
祈里がラブとせつなに近付き過ぎないように、離れ過ぎないように。



「あっ、美希たん来た。」



返信する前にラブの声で我に返った。息を乱して駆けて来る美希が見える。



「ごめんね、美希ちゃん。メール気付かなかった。」
「いいわよ、アタシも出したの時間ギリギリだったし。あ、ラブ、それちょっと頂戴。」


まだ整わない息を静める為か、ラブのジュースを横取りしている。


「あーん、あたしまだ飲んでないよぅ。」
「いーじゃない。後で奢るから!」
「美希、何かおば様に叱られたの?」


せつなの台詞に美希は少しムッとする。


「アタシが叱ってたの!まったく、ママったら!」
「美希は子供なのに?お母さんを叱るの?」


キョトンと首を傾げるせつなに、美希は大袈裟に眉をしかめて見せる。


「あのねぇ、せつな。一口に母親って言っても、みんながみんな
あゆみおばさんや尚子おばさんみたいなしっかり者の良妻賢母ばかりじゃないのよ…。」
「?でも、お母さんなんでしょ?」
「いや、だからね…。中学生の娘を一人置いて、『明日からハワイ行って来まぁす!』
って言える人って事で察してちょうだい…。」


皆まで言わせないで。
いかにも苦労人の風情で眉間を押さえる美希に、まだキョトンとしているせつな。
そんな二人をいかにも可笑しそうにケラケラ笑うラブ。



以前より美希は饒舌になった。まるで会話が途切れたら絆まで切れてしまう。そう恐れているかのように。
ラブは逆に余り喋らなくなった。美希とせつなが話しているのを面白そうに聞き、祈里と美希が
話している時は静かにせつなに寄り添っている。



せつなは自然に祈里にも話し掛けてくれる。
今読んでる本の話、手芸の話。祈里が一番話しやすく、そして当たり障りのない話題を。



他愛の無いお喋り、ウィンドウショッピング、甘い物を食べながらの休憩。
以前と何も変わらない。変わったのは、決してラブもせつなも祈里の隣にはならない事。
いつも美希が間に挟まってくれる。それだけだ。大した事じゃない。
ラブもせつなも祈里と目が合えば微笑みを返してくれる。
祈里から話し掛ければ当たり前に答えてくれる。


なのに何故だろう。こんなにも時間がゆっくりと進むのは。
まだ帰る時間にならない。ふとそんな事を考えてしまうのは。
せつなに会えた瞬間、乾いてひび割れていた心に潤いが染み込んでいくのを感じる。
それなのに、何故だろう。会って数時間。会う前よりも心がひりついている。


あんなにも会いたかったのに。
声が聞きたかった。顔が見たかった。同じ空間に立っていられるだけでいい。
そう思ってるのに。
不満なんてあるわけない。
まだせつなが、皆が笑顔を向けてくれる事すら奇跡と言っていいくらいなのに。勝手なものだ。
それなのに一緒の時間が終わってしまえは、また会いたくて会いたくて堪らなくなるのだから。
いつもそう。同じ事の繰り返し。




夕闇が迫り、そろそろ解散になっても自然な時間。
祈里はホッと息を洩らす。



(もう…帰るって言っても可笑しくないよね…。)



苦笑いが込み上げそうになる。
誰の所為でもない。居心地が悪いなんて。そんな事を自分が無意識にでも考えるのは不遜だろうに。
嫌ならさっさと逃げ出せばいい。誰も引き留めはしない。
他ならぬ、祈里の為に皆が色んな思いを飲み込んでいるのだから。



「あの……わたし、もうそろそろ…。」



帰る。そう声を掛けようとした時に、偶々目に付いた。



他意なんて無かった。



本当に、無意識の行動だった。せつなの肩に小さな虫が止まっていた。せつなは気付いていない。
毒がある。刺されたら腫れる。払わなきゃ。ただそれだけだった。



瞬間、祈里の手に走った痛み。



衝撃に半歩ほどよろけてしまった。
せつなの肩に指が触れる、その直前。気付いたせつなに凄い勢いで手が振り払われた。


せつな自身、自分の行動が信じられないのだろう。
色を無くした顔に瞬く間に驚きと罪悪感が広がる。



「……あ、ごめんなさい…。ちょっと…びっくりしちゃって…。」
「あ、うん。こっちこそごめんね。急に触られたらびっくりするよね。」


「………………。」
「………………。」



祈里は必死に顔全体で笑顔を作る。
気にしてない、何でもない。ちょっと驚かせてしまった。ごめんなさい。
せつなに、祈里がそう思ってる様に感じて貰えるように。
申し訳なさそうに俯くせつなに。




お願いだから気にしないで。
あなたが気に病む必要なんて何もない。
わたしが悪いの。どんな理由でも触れたりしてはいけなかった。
無意識だったんでしょう?
せつなちゃんはちょっと驚いちゃっただけ。
わたしは、何も気にしてない。わたしが悪いんだよ。



「せつなぁ~、美希たんがもうそろそろ帰ろうかってさー。」
「あ、うん。そうね…。ブッキーはどうする?」
「うん、わたしも帰ろうかな。ちょっと寄り道するからあっちから帰るね。」



そう。じゃ、またね。
そう言ってラブの元に駆け寄るせつなの背中に浮かび上がる安堵した空気。
何度も振り返り、手を振る三人に笑って応える。今日は楽しかった、と。



またね、バイバイ!
後で電話するから!
うん、わたしもメールするね。



口々に交わされる言葉。これもいつもの事。予定された別れの挨拶。



一人になった祈里は唇を噛み締める。
せつなに触れようとしてしまった手を血が止まるほど握り締めた。
せつなの青ざめた表情。夢で見たのと同じ顔だった。
そこにあるのは拒絶でも、忌避でも、嫌悪ですら無かった。



紛れもない、恐怖。ただそれだけ。



いつも強く、凛々しいせつな。
ピンと背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を見ていた彼女。
それを地面に引き倒し、泥にまみれさせたのは自分だ。



怯え、竦んだ子供のようなせつな。
自分がそうさせてしまった。



祈里は爪が食い込むほど拳を握り締める。
どうか、せつながこの事で心を患わせませんように。
どうか、祈里を傷付けてしまった…そんな風に思いませんように。



(せつなちゃん、ごめんなさい。……せつなちゃん。)



せつなは悪夢にうなされてはいないだろうか。
せつなにはラブが付いている。しかし、ラブも夢の中までは守る事は出来ない。
せつなの安らかな眠りを邪魔していないだろうか。



それだけが、気掛かりだった。
間違いなく、せつなは自分と同じ夢を見ている。そんな気がしていた。



第19話 薄闇へ続く
最終更新:2013年02月16日 04:02