第31話 その、想いの名前
美希の家を出た時は、まだ星が瞬いていた。
深夜と早朝の間、生まれたての空気で肺を満たす。
夜明け前の空気は透明で、どこか硬い。
紺と言うほど濃くは無く、青と言うほど淡くは無い群青の空。
同じ太陽が隠れた空なのに、夕空は包み込む様な温かさと、一人で置き去りに
された様な心細さを感じる。
なのに夜明け前の空は冷たく澄んだ硬い色なのに、胸の中に何かが芽吹く様な温かさを感じる。
何故だろう。空が赤いか青いかなんて、ただ大気中の塵の量の違いなのに夕空とは全く違う。
ふと、ラビリンスを出て独りさ迷っていた時の事を思い出した。
茜色に染まる街並みにはまだ人が溢れていた。
買い物帰りの親子連れ、遊びに行った帰りらしい若者、夕飯までの一時を
散歩でもしているらしい老人。
すべてが自分とは違う生き物だと思っていた。
皆それぞれ帰る場所があり、待っている人がいる。
どれほど多くの人とすれ違っても、気紛れに声を掛けてくる人がいても、
自分には関わり合いの欠片すら無い異世界の人々だった。
胸が押し潰されそうな寄る辺無さに、太陽が沈んだら夜空が落ちて来て
自分を飲み込んでしまっても不思議でない。そんな事を考えた。
それでもいい。そのまま暗闇に塗り込められてしまえばいい。
どうせ虫けらの様に誰にも気付かれる事無く朽ちていくだけなのだから、と。
沈みかけた赤と青が混じる空の下、自分を探していてくれた人がいるなんて知るはずも無かったから。
しんと静まりかえった商店街に、まだ動く人の影は無い。
それでも、大半が寝静まっているだろう、この時間にも、そこに息づく沢山の人の気配を感じる。
人っ子独りいないのに、微塵も孤独を感じない。
待っている人がいる。おかえり、と言って貰える。
おまけに、と、せつなは指で唇を撫で、ふわりと微笑む。
今は、またね、と見送ってくれる人までいるのだから。
美希の涙はとても綺麗で、小さな子供の様に泣きじゃくる美希もとても可愛い。
泣き濡れた顔で、ようやく笑ってくれた時は胸がいっぱいになった。
でも、美しいのはそこまで。
止めどなく涙の流れた頬は、あっと言う間に乾いてカサカサになり、
濡れた睫毛のキラキラした瞳は、瞬く間に容赦無く腫れ上がった瞼に塞がれてしまった。
思わず笑ってしまったせつなに恨みがましい視線を送り、こんなんじゃ
外にも出られないとブツブツ言っていた。
どうせもう眠れないだろうから、さっさとラブの所に帰れと家を追い出されてしまった。
きっと今頃は必死に顔を洗ったり瞼を冷やしたりしている事だろう。
美希の感触の残る唇。
疚しい気持ちが微塵も湧いて来ないのが不思議だった。
美希とキスしちゃった、と誰にでも、ラブにも笑いながら話せてしまいそうだ。
キスより先には進まなかった、と言うだけではない。
もっと何か、根本的なものが違う。
以前外国の映画で見た、親子や兄弟でするキスはこんな感じなんだろうか。
美希とのキスは素敵だった。
いつも良い香りのする美希の唇は柔らかくて、少し冷たくて。
涙でしょっぱいなんて言ったけど、本当は少し甘い気すらした。
一生懸命緊張を抑えているのが分かって、お陰でせつなも
微かに震えていたのは気付かれていなかっただろう。
同じ涙の味の口付けなのに、どうしてこんなにも違うのだろう。
唇に触れていた指を握り、拳を口許に押し当てる。
胸の中にじわりと苦味が広がる。
祈里との口付けがどんな味だったのか、今はほとんど思い出せない。
涙の味しかしなかった気もするし、血の様に鉄臭かった様な気もする。
ただ、苦しくて痛かった事は覚えている。
瞳を閉じ、記憶と心の奥を探る。
済んだ事だ、と思える。
憎しみも、嫌悪も無い。
あるのは後悔と、ほんの少しの後ろめたさ。それと、湿った様な冷たい哀しみ。
そして、自分が今抱いている様な気持ちは、祈里の欲しがっているものではないと言う事。
自分は傲慢なのだろうか。
傷つけられ、裏切られたのは自分だと言う自覚もあるのに。
祈里の望むものを自分は持っている、それを誰に与えるか、その権利はせつなにしかない。
そして、それは既にすべてラブの所にある。
結局どれほど祈里がせつなを支配しようとしても、常に優位にあったのはせつなの方だった。
決して手に入らない物を求めて足掻く祈里を見て、憐れんでいなかったとは言えるだろうか。
せつな自身すら自覚の無い内に、それが状況をエスカレートさせてしまったのかも知れない。
もし自分が二人いたなら、などと埒もない事を考えたりもした。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
仮にそんな奇跡が起きたとしても、全く同じ自分なら、その分身もまたラブを求めるに決まっているのに。
そして祈里も、ラブを心に住まわせていないせつなに想いを寄せるとは思えない。
だって、祈里が愛し、狂おしい程に求めたのは、ラブを愛し、ラブに愛されたせつなに他ならないのだから。
「…ラブ………」
ラブに会いたかった。
ラブに会いさえすれば、この胸の軋みも耐えられる。
これでいいのだと思える。
ラブへの想いだけが、この世でただ一つの、他の誰かを傷付けてでも手放せないものなのだから。
祈里に底の見えない深淵を覗く様な思いを味わわせても、美希を幼い子供の様に泣かせてしまっても。
それだけが、決して揺るがないと誓えるものだから。
(……え?………ラブ…?)
寝静まっているはずの商店街に、ふと人の気配を感じ、視線を巡らせた先にラブがいた。
一瞬ラブの事を考えすぎて幻でも見てしまったのかと思った。
まだ閉まっている店をウィンドウショッピングでもする様に行きつ戻りつしながら、
今はパン屋の店先に佇んでいる。
せつなの胸に、ふわりと暖かな空気が満ちる。
今ラブは何を考えているのだろう。
暖かく、微笑んでいる。幸せそうな表情。
見ているこちらまで幸せな空気に包まれる様な、せつなの大好きな顔だった。
そっと距離を詰めてゆく。ラブはまだ気が付かない。
せつなの姿を認めたら、どんな顔をするのだろう。
ラブの視線が動く。
一瞬、自分と同じく信じられないものを見たような、ハッとした表情。
唇が微かに動く。せつな、と動いた様に見えた。
少し、泣きそうな顔をしている。
気の所為だろうか。あの表情をどこかで見た覚えがある。
懐かしくて、胸の奥をぎゅっと掴まれたような甘い痛み。
どうして?たった一晩離れていただけなのに、何故こんなにも既視感を覚えるのだろう。
「……せつな…」
「…ラブ、こんな時間にどうしたの?」
ラブは何も言わずにただ見つめて来る。
何かあったのだろうか。
思わず、頬に触れる。
ラブが手を握って、自分の頬に押し当てくれた。
瞳が潤んでいる。
やっと見つけた探し物を確かめる様に、せつなの指をしっかりと握り締めてきた。
ああ、そうだ。あの時の表情に似ている。
夕暮れの中、せつなを探してくれていた。
せつなは行く宛も無くただふらりと訪れただけの商店街のゲートの下。
ラブと、美希と、祈里。三人が自分を迎えてくれた。
「せつな」と呼び掛けてくれたラブの声。
人は探していたものを見つけた時、泣きそうな顔で笑うのだと初めて知った。
あの時の自分は、どんな顔をしていたのだろう。
あの時、ラブの目には自分はどう映っていたのだろう。
「あの……お帰り、なさい」
胸の深い部分で、ぱちんと何かが弾けた。
そこから溢れ、身体中に満ちてゆく想いに何と名付ければいいのだろう。
冷たい涙の味も、苦い口付けの味も包み込んで溶かしてしまう様な想いに。
ラブ。あなたは、どうしていつも一番欲しい言葉をくれるのだろう。
「……ただいま、ラブ」
愛しい。
後悔も、懺悔もいらない。
この想い一つがあれば、どんな痛みもいつか思い出に変えられると信じられた。
最終更新:2013年02月23日 23:57