イエローハートの証明 ( 第5話:小さな手がかり(前編) )
久しぶりに使われる大きめの寸胴鍋から、あたたかそうな湯気が上がる。
その隣りでは、フライパンがジュージューと楽しげな音を響かせる。
テーブルに並べられた四枚のお皿。出窓に飾られた、スズランの切り花。
その全てを、嬉しそうに、懐かしそうに、愛おしそうに見つめる少女――。
あゆみは、その姿を微笑みながら目で追いかけ、時折そっと目をしばたいていた。
せつなが帰って来る――パート先のスーパーにラブから電話がかかって来たのは、昼過ぎのことだった。そこからはもう仕事が全く手に付かず、食材を山のように買い込んでスーパーを早退。連休で家に居た圭太郎と一緒に、何はともあれ、ご馳走の準備に取りかかったのだ。
もっとも、せつながここに居られるのは、せいぜい数日のことらしい。それにラブの口ぶりから察すると、どうやらただ家族や友達に会うために帰って来たというわけでもなさそうだった。
おそらく、話せないこともあるのだろう。それでも、涙を浮かべて駆け寄って来た娘を抱き締められただけで、彼女の元気な顔を見て、声が聞けただけで、あゆみは十分に嬉しかった。
「お母さん、ごめんなさい。全然お手伝いしないで・・・。」
料理の皿を運びながら申し訳なさそうな顔をするせつなに、あゆみは笑ってかぶりを振る。
「そんなこと気にしないのよ、せっちゃん。じゃあ次は、スープ皿を出しておいてくれる?」
それを聞いて、せつなが嬉しそうに目を輝かせる。
「お母さんのスープ、凄く楽しみ。」
「そぉお?久しぶりに作ったから、美味しく出来てるといいんだけど・・・。」
そう言いながら、スープを小皿に取ってひと口啜ったあゆみが、もう一度スープを取って、今度はそれをせつなに差し出した。
「え・・・私?」
「ええ。味見してくれる?」
あゆみにそう言われて、真剣な面持ちで小皿に口を付けたせつなが、ゆっくりと笑顔になる。
「美味しい。」
「良かった。塩加減、ちょうどいいかしら。」
「うん・・・お母さんの、味だわ。」
言うなり照れ臭そうに真っ赤になったせつなの顔を覗き込んで、あゆみもうっすらと頬を染めた。
せつなが持って来たスープ皿に、あゆみがスープを注ぎ分けていく。その手元を見つめていたせつなが、呟くような声で言った。
「私も最近、お母さんやラブに教わった料理、作ってるの。」
「まあ、何を作ったの?」
「ハンバーグと、野菜スープとサラダ。まだ、それだけなんだけど。」
「そう。」
せつなの声に少し陰りがあるような気がして、あゆみがもう一度、その顔を覗き込む。
(何か、上手くいかないことでもあるのかしら。)
だったら相談してくれれば・・・そう言おうとした時、せつなはパッと顔を上げて、ニコリと笑った。
「料理を教えてもらっていて、良かったわ。ありがとう、お母さん。」
「どういたしまして。料理のことなら任せなさい。何でも聞いてね、せっちゃん。」
あゆみは、せつなの目を真っ直ぐに見つめてそう答えてから、悪戯っぽく、パチリとウィンクをしてみせたのだった。
イエローハートの証明 ( 第5話:小さな手がかり(前編) )
次の日の朝、一人でカオルちゃんのドーナツ・カフェを訪れたせつなは、開店準備をしている人物を見て、あ、と小さく声を上げた。
隼人が、片手に三脚ずつ、合計六脚の椅子を軽々と持ち上げて、カフェのセッティングをしている。そして、くるりとこちらを振り返ると同時に、笑顔で声を張り上げた。
「いらっしゃいませ!もうすぐ開店・・・って、なんだ、イースか。」
「なんだ、は無いでしょう?私だってドーナツ買いに来たんだから。それに、この町でその名前で呼ぶのは止めてって、何度も言ってるでしょ!」
隼人を軽く睨みながら、せつなが小声で文句を言う。
昨日の夕方、さぁ帰ろう、というときになって、隼人の宿泊先が問題になった。
ラブは、是非一緒に家に来て欲しいと誘ったのだが、公園のベンチで寝られれば十分だと、隼人は頑固に言い張った。それを見ていたカオルちゃんが、いつもの軽~い調子で隼人の肩を叩いたのだ。
「なぁ兄弟。せっかくだから、今夜は再会を祝して、男同士で一杯やろうや。そんでもってさ、ついでにこの車に泊まって、仕込みと開店準備、手伝ってくれない?」
驚いたことに、カオルちゃんのワゴンは内部に巧妙に折り畳まれたベッドを隠し持っていて、キャンピング・カーにもなる代物らしい。
大好きなドーナツ・ワゴンに泊まれるとあって、隼人はさっきまでの頑固さが嘘のように、目をキラキラさせてカオルちゃんの提案を受け入れたのだった。
そして、せつなの方は、これから祈里のお見舞いに行くところだった。ドーナツは、その手土産だ。
本当は三人で行きたいところだけれど、ナケワメーケの謎の手がかりも急いで探さなくてはならない。
そこで、お見舞いには一人が行こうということになったのだが、それならせつなが行くべきだ、せつなと久しぶりに会えたら、祈里は大喜びで具合も良くなるに決まってるからと、ラブと美希が強く主張した。
祈里のことが気になって仕方がないのは、三人とも一緒だろう。それを、一刻も早くせつなを祈里に会わせようという心遣いが嬉しくて、せつなは有り難く、二人の申し出を受けることにしたのだ。
不満そうに口を尖らせていたせつなが、改めて隼人の姿を見て、クスリと笑った。
「どうした。何か俺、おかしいか?」
「ううん。その格好、なかなか似合ってると思って。」
「ああ、これか!カオルちゃんが、予備を貸してくれたんだ。」
嬉しそうに胸を張る隼人が身に着けているのは、カオルちゃんがいつも着けているのと同じ、ドーナツが大きくプリントされたクリーム色のエプロンだ。と言っても隼人が身に着けると、何だか妙にエプロンが小さく見えてしまうのだが・・・。
「服装なんて、今まで気に留めたことなど無かったが、これを着けただけで、何だかいっぱしのドーナツ屋になった気がするから、不思議なもんだな。」
「良かったわね。四つ葉町で一番好きな場所で、お手伝い出来て。」
隼人の言葉に、せつなが少ししみじみとした口調になる。
「手伝いだけじゃないぞ。開店前の時間を使って、何とドーナツの作り方を教えてもらえることになったんだ!そうだ、イ・・・いや、せつな。さっき作った俺のドーナツ、試食するか?」
隼人が目を輝かせ、得意そうに身を乗り出したとき、ワゴンの中から、いつもの能天気な声が聞こえてきた。
「やめときな、お兄ちゃん。ま~だまだ、人様に食べて頂くようなレベルじゃないよ~ん。」
「あ・・・カオルちゃん、いや、師匠!すまん、つい・・・」
隼人が慌ててワゴンの方を振り返ってから、バツが悪そうに頭を掻く。そんな隼人にひとつ頷いて、カオルちゃんはニカッと笑った。
「開店準備までって約束だから、今日はもういいよ、ありがと。お嬢ちゃんは、ドーナツ買いに来たんだろ?何にするの?」
いつもと同じ、のほほんとしたカオルちゃんの顔。が、せつなには一瞬、それがダンスをしているときのミユキの顔に重なって見えたような気がした。
☆
カオルちゃんに詰めてもらったドーナツの袋を抱えて、せつなは一人、クローバータウン・ストリートを歩く。
時折、顔見知りの商店街の人たちが、親しげに声をかけてくる。それに笑顔で答えながら、せつなは降り注ぐ春の日差しに、眩しげに目を細めた。
一年前――まだイースだった頃は、人々の笑顔が胸に痛くて、これは絶対者を持たない弱い人間たちが、ただ馴れ合って生きていくための仮面に過ぎないのだと、自分に言い聞かせていた。いや半分は、実際にそう思っていた。
でも、この町で暮らすようになって、少しずつ分かってきた。
この町の人たちは、互いを思いやり、支え合って生きている。それは単に馴れ合うことでなく、一緒に生きていく仲間として――喜びや悲しみを経験し、時には困難や不幸を乗り越えながら生きていく仲間として、互いに想いを届けるということ。その想いが嬉しくて、楽しくて、あったかいから、幸せを感じ、笑顔になれるのだということを。
(そのことを――これまでお互いに関心の無かったラビリンスの人たちに、どうやって伝えればいいのかしら・・・。)
いつしか考え込みながら歩いていたせつなは、
「あら、せつなちゃんじゃない!」
聞き覚えのある柔らかな声に、驚いて顔を上げた。
目の前に立っていたのは、茶色のロングヘアに優しそうな目をした女性――。山吹尚子。祈里のお母さんだ。
「久しぶりね~。こっちに帰って来るって、美希ちゃんから聞いたわ。元気そうで良かった。」
「尚子おば様!今、ちょうどお宅に伺おうとしていたんです。あの、ブッキー、いえ、祈里さんは・・・。」
心配そうなせつなの言葉に、ブッキーでいいわよ、と微笑んで、尚子はそっと目を伏せた。
「一昨日から、熱を出しちゃってね。それはすぐに下がったんだけど、その後、部屋に籠ったきりなの。具合はもうそれほど悪くはないはずよ。だから、そろそろ出て来て欲しいんだけど。」
「部屋に籠ったきりって・・・何かあったんですか?」
尚子は小さく溜息を付くと、近くにあった喫茶店を指差して、ちょっとお茶していかない?と、せつなを誘った。
「犬に噛まれた?」
相変わらず穏やかに微笑みながら話される、ちっとも穏やかではない話に、せつなが目を見開く。
「それで、怪我は?大丈夫なんですか?」
「ええ、怪我は大したことないの。ただ、祈里には初めてと言っていい経験だったし、自分がよそ見をしていたせいだったってこともあって、よっぽどショックだったみたいね。その後、入院患者のケージにも近寄ろうとしなくなっちゃって・・・。あの子は小さい頃から動物と仲が良かったから、余計に落ち込んでいるのかもしれないけど。」
「そうですね。私は動物のことはよく分かりませんけど、ブッキーが犬に噛まれるなんて、想像できません。」
心配そうな面持ちのせつなに小さく微笑んで、尚子が紅茶をひと口啜る。
「でもね。実際、動物に噛まれることは、獣医にはよくあることなの。動物は言葉を喋れないから、自分の気持ちを説明したり、誤解を解いたりなんて出来ない。だから、獣医は動物たちとたくさん触れ合って、いろんな経験をしていく中で、彼らとの付き合い方を――寄り添い方を、学んでいくしかないの。
まあ、噛まれて成長する、なんてことは言わないけど、だからこんな失敗も、大切な経験。決して無駄とは言えないのよ。」
静かな語り口ながら、はっきりとした物言い。物腰の柔らかい、大人しい人だとばかり思っていた尚子の意外な一面を見た気がして、せつなは何だか新鮮な気持ちで、祈里によく似た大きな瞳を見つめる。
その目元には、うっすらとしたクマがあった。獣医の立場から冷静に語ってはいるけれど、やっぱり祈里のことが心配で、尚子自身も消耗しているのだろう。
せつなのそんな視線には気付かず、尚子は相変わらず穏やかな口調で話を続ける。
「人間だってそうよね。言葉は喋れても、自分の気持ちが上手く伝えられなくて、喧嘩したり、言い争ったり。でも、そうすることで近付けることだってあるでしょう?私にも、覚えがあるわ。」
「おば様が?おば様は、誰かと争うことなんて無さそうに見えるのに。」
せつなの言葉に、尚子がニコリと笑う。
「それこそ誤解よ。せつなちゃんこそ、誰かと喧嘩なんか、したことないんじゃない?」
「そっちの方こそ、大きな誤解です。」
大真面目に答えるせつなに、尚子が小さくふき出す。それをきっかけに、二人は顔を見合わせて、クスクスと笑った。
「祈里には、早く立ち直ってほしいんだけど・・・でも、「よくあること」だなんて、あの子には言えなくてね。獣医が患畜に噛まれること自体はよくあることでも、ひとつひとつの経験はみんな違うから、それを大事にしてほしいし。」
「経験は・・・みんな違う?」
自分に言い聞かせるような口調で語る尚子に、せつなが小首を傾げて問いかける。
「ええ。噛まれた状況も、動物の種類や性格や状態も、それから噛まれた本人の状態もね。
何でもそうだと思うけど、経験って、同じものなんてひとつも無いんじゃないかしら。だから、前回はこうだったから、なんて、簡単には言えないのよ。」
「じゃあ、例えばおば様や正先生のようにたくさん経験を積んだ人でも、ブッキーが経験したことの全ては分からないってことですか?」
思わず叫ぶようにそう言ってから、せつなはハッと我に返った。
「・・・ごめんなさい。私、凄く失礼なことを・・・」
「いいえ、そんなことないわ。」
尚子が優しくかぶりを振って、せつなの目を覗き込むように見つめる。
何かを真剣に伝えようとするときの、祈里の表情とそっくり――そう思った時、祈里よりもきびきびとした、でも同じくらい柔らかな声が、せつなの耳に届いた。
「確かに、私たちは獣医として多くの経験を積んでいるけれど、祈里が経験したこと、全てが分かるわけじゃないわ。私たちに出来るのは、自分の経験や、反省や、そこから学んだことを大事にして、出来るだけ正確に伝えること。その中から、自分の経験に合ったヒントを見つけるのは、祈里自身なのよ。」
尚子はそう言って、フッと小さく笑う。
「ごめんなさい。祈里に言いたいことを、あなたに聞いてもらったみたいで・・・。偉そうに言ってるけど、今言ったことは、私が最近、自分に言い聞かせていることなの。私は、あゆみさんやレミさんに比べて、どうも娘に甘いところがあってね・・・。でも、祈里は真剣に獣医の道を目指しているし、それに、もう小さな子供じゃないんだし、ってね。」
さっきと違う、少し照れ臭そうな笑顔で紅茶を飲む尚子を、せつなもさっきとは違う、少し潤んだ瞳で見つめる。
娘の友人である自分――この世界ではまだ子供の部類に入る自分を、一人前の大人のように扱って、心を開いて真剣に話をしてくれた――。その喜びが、せつなの胸を満たしている。そして、その話の中から、とても大切なことを教えられた気がした。
自分は、祈里のヒントになるようなものなんて、何も持ってはいない。でも、そんな自分にもできることがあるということは、祈里も含めた仲間たちに教わって知っている。
「ありがとうございます、おば様。私もブッキーのこと、精一杯応援します。」
明るくそう言い放つ少女に、尚子はにっこりと笑って、ありがとう、と頭を下げたのだった。
☆
買い物に行く途中だったという尚子と別れ、せつなは山吹動物病院に向かった。さっき尚子から聞いていた通り、今日は病院は休みで、シャッターが閉まったままだ。
病院の横手にある、病院の通用口 兼 母屋の玄関に向かおうとした時、病院の周りをうろうろしている一人と一匹に気付いて、せつなは足を止めた。
「タケシ君!ラッキー!」
「あっ、せつなおねえちゃん!帰って来たんだね!」
タケシ少年がそう叫ぶより早く、ラッキーが喜び勇んでせつなに飛びついた。
「それで、どうしてこんなところに居るの?タケシ君。」
ひとしきり再会を喜んだ後、せつなが、せわしなく尻尾を振るラッキーの首筋を撫でながら、不思議そうに問いかける。
タケシ少年は、うん・・・と小さく頷いてから、二日前に祈里と会った時のことを、せつなに話した。
「僕、なんで祈里おねえちゃんが僕たちから逃げたりしたのか、気になっちゃって。それで、ラッキーと昨日も病院に来たんだ。でも、昨日も今日も病院がお休みで・・・。
ねえ、せつなおねえちゃんは、祈里おねえちゃんに会った?祈里おねえちゃんが一体どうしちゃったのか、知ってる?」
途中から真剣な顔つきで何かを考えていたせつなは、今にも泣きそうな顔になったタケシ少年と、慌てて目を合わせた。
「私も本人とは会ってないけど、ブッキー、具合が悪いらしいの。」
「具合が悪いって、病気?」
「詳しいことは分からないわ。でも、一昨日熱が出たっておば様が言ってたから、タケシ君と会った時も、そうだったのかもしれないわね。」
「そっか・・・じゃあ祈里おねえちゃん、もしかしたら僕たちに病気を伝染したらいけないと思って、それで「来ないで」って言ったのかな。」
心配そうな、悲しそうな、それでいて少し嬉しそうな、何とも複雑な少年の顔。それをじっと見つめてから、せつなは悪戯っぽくニヤリと笑って、二階の一角を指差した。
「ねぇ、タケシ君。ブッキーの部屋は、あそこなの。ここから叫べば聞こえると思うから、三人で呼びかけてみない?」
「え・・・でも、あの部屋はカーテンが閉まってるし、祈里おねえちゃん、寝てるかもしれないよ?」
せつなは少し考えてから、目を閉じてじっと耳を澄ませる。やがて、せつなの鋭い聴覚が、一階を歩いているらしい、かすかな足音をとらえた。
「ああ、祈里。何か飲むか?」
ギシッと椅子が軋む音に続いて、正の声が聞こえる。それに対する祈里の返事は聞こえなかったが、その直後に、階段を上がっていく足音が確かに聞こえた。
やがて、二階の扉がバタンと閉まる。そこからきっかり三秒数えて、せつなは大きく息を吸い込んだ。
☆
階段を上りながら、祈里はため息をついていた。
昨日は結局、家から一歩も出ないばかりか、部屋からもほとんど出ずに過ごしてしまった。しかも、隣町の牧場へ行っていた両親の帰りが、父の予想に反して深夜になってしまったので、大半を独りで過ごしたと言ってもいい一日だった。
こんなことは、もしかしたら生まれて初めてのことかもしれない。今回のように両親が家を空けることは幼い頃からよくあったが、今までは、幼馴染のラブや美希、それに何より動物たちがいつも一緒だったのだから。
何をするでもなく、何かをする気も起きず、ただベッドの中で膝を抱えて、昨日からの悪夢をグルグルと頭の中で繰り返す――。
が、そんな祈里の目を覚まさせるようなニュースが、今朝になって飛び込んできた。
せつなが帰って来たというのだ。昨日、母の出がけに美希が知らせに来てくれたのだという。母は、急いで祈里に知らせようとしたのだが、彼女が眠っているようだったので、そのまま出かけてしまったらしい。
昨日、リンクルンに何度も着信があったのは、このためだったのだ。ひょっとしたら、せつなと連絡が取れたのかも・・・という程度にしか考えていなかったのだが、まさか本人が帰って来るだなんて。
ごめんね、と謝る母に、ううん、と首を横に振りながら、祈里は久しぶりに、心の奥からやる気が湧いてくるのを感じた。
(せつなちゃんに会いたい!)
リンクルンに連絡することは、最初から頭に浮かばなかった。
会って顔が見たい。声が聞きたい。話がしたい。
そのためには――何とかこの状況から抜け出さなくては!
あれから一日以上経っているし、シャワーも浴びてあんなに丁寧に洗ったのだから、もう大丈夫――それを確かめるために、まずは患畜のケージの前まで行ってみることにした。
だが、現実は・・・。
(やっぱり、また動物さんたちに嫌われるかと思ったら、わたし・・・。)
ケージがあるスペースへと続く母屋の扉を、どうしても開けることができない。動物たちの怯えた目を、威嚇する声を思い出すと、足が前に進まないのだ。
しばらく扉の前に立ち尽くしてから、祈里はまたのろのろと、自分の部屋へと歩き出した。
「ああ、祈里。何か飲むか?」
久しぶりの休みで新聞を読んでいた父が、そう声をかけてくる。祈里は何とか笑顔を作ると、小さくかぶりを振って、部屋を出た。
階段を上りながら、思わずため息が出る。
(ダメね、こんなんじゃ・・・。)
このまま自分の部屋に閉じ籠っていても何も始まらないのは、昨日一日でよく分かっている。
ならば、何か自分に出来ることから――そうだ、まずはリンクルンのメールをちゃんと確認しよう。そう思いながら、自分の部屋に戻って扉を閉め、机に歩み寄ろうとした、その時。
「ブッキー!」
窓の外から聞こえてきた声に、祈里は大きく目を見開いた。
聞き間違えるはずがない。この声は――。
「せつな・・・ちゃん?」
気が付いたら窓を開けていた。見下ろすと、病院の夜間通用口の前に、懐かしい親友の姿がある。
「せつなちゃん!」
窓から身を乗り出してそう叫んだ時、彼女の隣にいる人物に気付いて、祈里の動きはそこで止まった。
「タケシ君・・・。ラッキー・・・。」
一瞬、祈里の脳裏に、一昨日の光景が蘇る。タケシ君の戸惑った顔。そして、そんな飼い主を庇うように立ちはだかり、歯をむき出して唸り声を上げていたラッキーの姿が。
だが。
――ワン!ワン!ワン!
高らかな犬の吠え声が、祈里の悪夢を吹き飛ばした。ハッハッとせわしない息を吐きながら、ラッキーがこちらを見上げて、その尾を千切れんばかりに振っている。
キルンがいなくても、ラッキーが自分の顔を見て喜んでくれていることがひと目で分かる。そしてその隣で、タケシ少年も笑顔で手を振っていた。
「祈里おねえちゃーん!もう、熱は下がったの?早く元気になって、また遊ぼうね~!」
「タケシ君、ラッキー・・・ありがとう!」
涙声で、ようやくそれだけ言えた。元気よく手を振って去っていく一人と一匹を見送ってから、せつなが優しい眼差しを祈里に向ける。
「ブッキー、お見舞いに来たわ。でも、まずは先客の二人に会わせなきゃと思って。お邪魔してもいい?」
「もちろん!」
祈里は、久しぶりに満面の笑顔で頷くと、さっきとは違って軽快に階段を駆け下りた。
「じゃあ、動物さんたちがわたしに怯えていたのも、そのダイヤの力のせいかもしれないってこと?」
驚いたような顔で問いかける祈里に、せつなは伏し目がちに、ええ、と答える。
タケシ少年の話を聞いて、少し違和感は覚えたものの、まさかそんなことになっているなんて思ってもいなかった。祈里の苦しみを想像すると、胸がギュッと締め付けられるような気がする。
「ごめんなさい。ブッキーが熱を出したのも、もしかしたら・・・」
「なんでせつなちゃんが謝るのよ。どっちかって言うと、お礼を言わなきゃいけないのは、わたしの方だよ?」
祈里は、少しおどけた調子でせつなの言葉を遮ると、右手をそっと、せつなの肩に置いた。
せつながお見舞いに持って来たドーナツを真ん中に、二人は祈里の部屋で向かい合っていた。と言っても、二人とも真剣に話し込んでいて、ドーナツにはまるで手を付けてはいなかったが。
「その、ナケワメーケの元になった瓶に、コアの力が残っていたのかもしれないわ。ブッキー、それに触ったのは、あの工事現場なのよね?」
せつなの問いに、今度は祈里がコクリと頷く。
「でも、私たちが行ったときには、もうその瓶は無かった・・・。現場も片付けられていたようだから、誰かが捨ててしまったのかもしれないけど・・・。」
「もし、誰か持って行った人がいるのなら、その人が事件の関係者ってことよね。」
祈里がそう呟いて、じっと考え込む。
「どうしたの?ブッキー。」
「あ、ううん。あの香水瓶に、小さな模様が付いていたんだけど、わたし、それをどこかで見たことがある気がして・・・。」
「模様?」
「うん。えっと、こんなの・・・かな。」
祈里が紙を取り出して、記憶を頼りにそれを描いてみせる。だが、その模様はせつなには見覚えが無いものだった。
気を取り直して、せつなが祈里に、昨日現場で起こったことを詳しく話す。その途中で、祈里が、あ、と声を上げた。
「もしかして・・・。」
飛びつくように勉強机に駆け寄り、そこに立っている手紙の束を手に取って、何やらごそごそと探し始める。やがて目的のものを探し当てたらしい祈里が、やっぱり・・・と呟いた時、ふいにせつなのリンクルンが鳴り出した。
「ラブからだわ。」
電話に出たせつなの表情が、一層真剣なものに変わる。短い受け答えの後に電話を切ったせつなは、その真剣な表情のままで、祈里の顔を見つめた。
「サウラーが、ナケワメーケの画像の中に何か新しい手がかりを見つけたらしいの。今こちらに向かってるから、みんなで四つ葉町公園に集合しようって。」
「わかった。行くわ。」
いつになくきっぱりとした祈里の声に、せつなが少し驚いたように、目をパチパチさせる。
「もう・・・大丈夫なの?」
「わからない。でも、わたしももう、こうしているのはイヤなの。
せつなちゃん、先に下りてて。すぐ支度するわ。」
「わかった。」
やがて、山吹動物病院の通用口から、二人の少女が飛び出した。腰にお揃いの白い携帯電話のケースを付け、肩を並べて一目散に走っていく。
悪戯な春の風が土埃を巻き上げて、二人の後を追いかけてくる。少女たちの瞳はしっかりと前を見据えて、何かに挑むように、そして心なしか嬉しそうに、キラキラと輝いていた。
~第5話・終~
最終更新:2013年12月24日 19:41