葬/そらまめ
その日、私は東せつなとして初めて死に触れた。
その猫と出会ったのは、一か月ほど前だったと思う。学校からの帰り、ラブのいない一人の下校はつまらないから、いつもとは違う事をしたくて遠回りしたその道の途中で、塀の上から私を見ている視線に気づいた。視線の先には座った状態で顔だけこちらを向いている猫が一匹。全身黒のその猫がじっとこちらを見るものだから、私も立ち止まって負けじと見つめ返す。それがどのくらい続いたのか分からなかったが、そのうちふっと黒猫の方が目を逸らした。「勝った!」と訳のわからない充実感に浸っていると、立ち上がり塀から降りたその猫は、足元まできて私の顔を見上げながら「にゃー」と鳴いた。
それが初めての出会い。
それからはよくその猫に会いに行った。最初に会って以来あの場所に行くといつもいるその猫は、ラブも知らない私の小さな友人で、なんとなく体を撫でたり、そこらへんに生えていた雑草を抜き取っては猫じゃらしみたいに揺らして遊んでいた。抱きあげても、体を触っても逃げないことに、少しの驚きとそれ以上に嬉しくて、人とはまた違った癒しと温かさをくれるその猫は、私の心の中に確かにいたと思う。
台風なんじゃないかと思うほどの豪雨が部屋の窓を叩く。「今日はせっかくの日曜日なのに天気悪いからどこにもいけないねー」なんてラブがため息交じりにそう言うのを、一緒に外の景色を見ながら「そうね」と呟いた。しばらくの間外を見ながら、本当に何の前触れもなく、突然あの黒猫のことを思い出した。いつもあの場所にいるけれど、さすがに今日みたいな日はどこかで雨宿りしているんだろうな。そう思った。…そう思ったけど、心臓が意味も分からずドキドキしだして、胸騒ぎがした。
差していた傘も途中から意味がなくなるくらいの横風が吹いて、全身がびしょ濡れになった。なんでこんな日に外を出歩いているのか自分でも分からなかったが、それでも足は止まらない。
いつもの塀の上にその姿はなかった。
その代わりさほど遠くない道端で、倒れている黒猫を見つけた。
雨に打たれ続けているのに一向に動く気配がなく、降りやまない雨が周囲の赤い何かを体から洗い流していく。
昼間だというのに薄暗い今日の天気と、前が見えづらいくらい勢いの強い雨、そして黒い体から流れるその液体と、そのすぐそばにはタイヤの跡。
こういうのをこの世界では虫の知らせというのだろうか。
動かなくなった黒猫を抱き上げた。いつもより重い体からは、なんの温もりも感じられなかった。
―――――――――
今日のような特別な天気の日には、それだけ特別な事が起こる。昔からのそんな経験則は当たっていたようで、体調が悪くなった動物がいると朝早く知らせが届いた。こんな日に病気の動物を動かすのははばかられたので自宅に赴き診察を行う。祈里も今日はそれについて行った。
その診察からの帰り、父が運転する車から何気なく外の景色を見ていた祈里は、その視界の端に見覚えのある傘を見つけた。こんな日に誰かが出歩いていることにも驚きだし、一つしか確認できない傘の数、そしてそれが知っている人かもしれないと思うと気になった。
車を止めてもらい、気休め程度に傘を開いてそこまで走った。途中、ひどく強い風が吹き見覚えのある傘が空へと飛んでいく。それでもそこにいる人は少しも動きはしなかった。
傘がなくなったことで後ろ姿が見えて、そのひとはやっぱり知っている人だったと確証に変わる。
「せつな…ちゃん?」
雨が降り続ける中動かない彼女に声を掛けた。
ワンテンポ遅れてゆっくりと振り返った彼女の顔は、なんの感情もうつさない無表情だった。
その顔に一瞬動きを止めてしまったが、目の前で雨に濡れていく彼女にはっとして差していた傘を傾ける。
「どうしたの?こんなところで。すごい濡れてる。風邪ひいちゃうよ?……あ…その子…」
呼びかけても何の反応もしないせつなに違和感を持ったが、彼女が胸に何かを抱きかかえているのに気付いて、その正体がわかった瞬間思わず声のトーンが下がった。
「ここで倒れていたの。車に轢かれたみたいで、もう動かない」
抑揚のない声音でそう言ったせつなに、祈里はひどく虚無感を覚えた。
動かないと言ったきり何も言わなくなったせつなを、このままここに居させるわけにもいかなかったのでひとまず父の車に誘導し、自宅の山吹病院まで連れて行くことにした。
父は連れてきたせつなとその猫を見ると、「早く乗りなさい」とだけ言って車を発進させた。家に着くまでの間、せつなは一言もしゃべらなかった。
「やっぱりあの猫はもう…」
せつなから猫を預かった父が診察室から出てきてそう言った。車かなにかにぶつかった時に体を強く打ったことが原因だった。
祈里はそれを聞いて、部屋に招いたせつなのところに行く。部屋の扉を開けると、着替えにも手を付けていないせつなが、部屋の隅で小さく体操座りをしていた。
「着替えないと…風邪、ひいちゃうよ…?」
祈里はゆっくりと近寄ると、傍にあるバスタオルを広げてふわりと頭にかけた。そのまま、撫でる様な優しい手つきでせつなの髪をふいていく。
「あの猫さんと、お知り合いだったの?」
「うん」
バスタオルで表情が見えなかったが、小さくそう返事をした彼女の声からは先ほどと同じように抑揚がなかった。
「野良猫さんみたいだから、うちで引き取ろうと思うんだけど、会ってあげてくれない?」
「…わかった」
最後のお別れを。とは直接言わなかったが、そのニュアンスはせつなに伝わったようだった。
「会いに行く前に、まずは着替えよう?…立てる?」
ちょっとだけ力を入れてせつなに立ってもらう。このままでは本当に体調を崩す。せつなも素直にそれに従って立ち上がる。祈里が頭の上のバスタオルをとるとせつなと目があった。その目からは感情が抜け落ちていた。
「ブッキー、私今悲しそうな顔してないでしょ?」
静かにせつなが聞いてきた。
「うん…」
確かに悲しそうな表情ではないけど…
「癖なの。こういう時はなんの感情も出さないようにするのが当たり前になってたから。ラビリンスでは誰かがいなくなることにいちいち気持ちを揺らしてなんていられなかった。そんなことしょっちゅうだったし、いない人のことを考えて感傷に浸っても仕事に集中できないだけだから効率悪くなるし、そんな事をしていたら今度は自分自身が危うくなってしまうから。その習慣が抜けないから、今日だって涙もでなかったし今だってなにも感じない。あの猫は、私にとって確かに大切な存在だったはずなのに」
淡々とそんな暗い過去の話をするせつなの姿に、祈里の方が泣きたくなった。でも、この場面で自分が泣くというのは何か違う気がしたのでぐっと堪える。最近仲良くなったばかりだから、せつなのことをまだよく解っていなかったが、その片鱗に触れた気がした。ラビリンスを抜けてラブや美希や自分と仲間になった彼女だけど、心にはまだ暗い部分があって、自分の気持ちに蓋をして偽っている。そんな暗い部分が彼女の中からまだ消えずに残っているのなら、わたしはその心を癒してあげたいと思った。
目の前のせつなをそっと抱きしめ、ゆっくりと語りかけた。
「わたしね、自分の家が動物病院だったこともあって小さい頃からたくさんの動物と触れ合ってきたの。いっぱいの動物さんと出会えてとても楽しかったけど、それと同じくらいお別れもしてきた。助けることができなかった子たちを見る度にいつも大泣きして、病院中に響くくらい大きな声だったから、きっとそこにいた人たちにも聞こえてたと思う。
しょっちゅう泣いてた時から少し大きくなって、自分の引っ込み思案で弱い性格とか、周りのことを考えるような歳になった頃、とても懐いてくれてた子が亡くなったの。わたしはすごく悲しかったけど、泣いたらいけない気がして、自分がますます弱くなる気がして我慢してた。そうしたら、お母さんがこうして抱きしめて言ってくれたの」
「悲しい時や泣きたい時は、うんと泣いていいんだよ。我慢なんてしなくていいの。また笑えるようになるためには必要なことだから。泣くことは弱いことじゃなくて、むしろ心を強くするためには大切なことなんだから」
「そういってくれた。だからね…
…せつなちゃん、もういいんだよ。もう大丈夫。泣くことを、悲しむことを咎める人はここにはいない。今まで一人で頑張ってきて偉かったね。これからは、悲しいと思うだけうんと泣いていいんだよ。それは弱さじゃないから。たくさん泣いて、あの猫さんを送ってあげよう?野良猫さんだったけど、こんなに想ってくれる人がいたんだもん、せつなちゃんと過ごした時間、きっとその子は幸せだったと思うよ」
抱きしめていたから顔は見えなかったけど、肩に雨とは違う滴が落ちてきて、背中にまわされた腕の力がきつくなったから、わたしもぎゅっと抱きしめた。この想いが心まで伝わって癒せるように。
嗚咽も漏らさず、静かに涙だけ流し続けるせつなの泣き方は、なんだかとても彼女らしいと思った。
青い空がどこまでも続く中、一筋の白い煙が上へと登っていく。
その雲を見上げるせつなの隣に、祈里はそっと並んだ。
「不思議。泣くだけでこんなに気持ちがスッとするなんて」
「うん」
「あの黒猫、私が触るの喜んでくれてたのかな…?」
「きっと。猫さんは自分の認めた人にしか体を触らせない子達だから」
「そっか…よかった…」
雲が空に溶けていくのを、二人でいつまでも見上げていた。
最終更新:2014年01月16日 22:55