My Name/こゆき
はーっ、と白い息を吐き出す。二月も、もうじき終わり。暦の上ではもう春だって国語の時間に習ったけど……外はまだ、こんなにも寒い。
リビングの壁に掛けられたカレンダーには、“如月”とも書いてあった。“二月”で十分なのに、どうして別の名前があるんだろう。
カレンダーの隅には、『今月の季語』なんてコーナーもあった。晩冬、残寒、寒明け。それは、冬の終わりを告げる呼び名。解氷や春寒なんて表現もあった。春の訪れを予感させる、きっと移ろいの月なんだろう。もっとも、感心してラブに話したら、ラブは季語なんてほとんど知らなかったから、必ずしも必要なものではないのかもしれない。
それでも――この世界の全てのものには名前がある。“二月”なんて、こんなにたくさんの。
「よっ、せつなちゃん、おはよう。今日はひとりかい?」
「おや、せつなちゃん、ひとりでおつかい? 珍しいわねー」
「おはよう、せつなちゃん。今日はラブちゃんは一緒じゃないのかい?」
商店街を少し歩いただけで、あちこちのお店から声をかけられるようになった。ほとんどはラブのことを聞かれただけだけど……それにしたってずいぶん馴染めたものだと思う。
「午前中は用事があるんです」「実は学校の補修授業が……」なんて、相手によって言葉を選びながら、ラブが一緒じゃない事情を話す。
たった半日、一人で過ごすだけなのに、こんなに関心を集めるなんて……いつもはどれだけラブにべったりなのかって、そう考えたら気恥ずかしくなる。
みんなが心配するほど寂しいとは感じてなくて、むしろ一人で歩くと、普段なら見えないものが目に入って、新しい発見があったりして、なんだか新鮮で楽しかった。
それは道端の小さな草花であったり、店員さんのエプロンの隅に小さく書かれた「ありがとう」って文字だったり、販促ポップの誤字だったり。
といっても、特に用事もなくブラブラしていただけなので、小一時間もした頃には、一人で散歩しているのにも飽きてしまった。そんな時、買い物の帰りらしいブッキーとばったり出会った。
「あっ、せつなちゃん、おはよう。ラブちゃんは一緒じゃないの?」
「もう! その質問、今朝から十四回目よ」
言葉の意味がわからず、キョトンとして首をかしげるブッキーに事情を説明する。
「うふっ、そうだったの。だったらせつなちゃん、今から家に遊びに来ない?」
「いいの? 動物病院のお手伝いがあるんじゃ……」
「今日は予約が少なかったし、そんなに忙しくないはずよ。呼ばれたら少しだけ抜けるかもしれないけど」
「それなら私、診察を見てみたい。構わないかしら?」
「うん。わたしだって立場上は見学と変わらないんだもの、平気だと思うよ」
「ありがとう。邪魔しないように気をつけるわ」
それは、ほんの好奇心からだった。クローバタウンストリートのお店は、大抵は自由に出入りできる。気軽に商品を手に取って眺めたりできる。
だけど動物病院は別だ。まだしも人間の病院の方が気軽に中を覗ける。あそこは動物を連れていないと、ドアをくぐる機会すら得られないのだから。
正先生と尚子おばさまは、快く見学を許してくれた。危ないから離れて見ていること、というのが条件だったけど、私にはそれで十分だった。
「こらっ、小太郎! じっとしてないとダメじゃないか」
「チロルちゃん、痛くないから我慢してねー」
「みるくー、よかったな。お腹壊しただけだってさ」
「チャッピー、チェリー、コロン、今日は健康診断だから緊張しなくて平気だよ」
診察室には、実にさまざまな動物が入れ替わり立ち代わり診察を受けに来ていた。これでもまだ空いてる方だというのだから、ずいぶんと評判のいい病院なんだろう。
イヌにネコ、ウサギにサルに、インコやブンチョウ、トカゲにヘビまでいた。
特徴的なのは、みんな種別名とは別に“名前”を付けてもらっていて、それを飼い主に呼ばれていることだった。イヌやネコはまあ当然として、ヘビに名前なんて必要なのかと疑問に思う。
そして、そんな自分と同じ考えを持つ飼い主がやってきた。
「先生! コイツを診てやってください。最近、元気がないんです」
「ほう、ハリネズミだね。どれどれ……」
「どうですか、先生」
「うむ、どうやら冬眠しかけているようだ。ハリネズミは、室温が二十度を下回ると代謝が落ちるんだ。少し温かくなって、部屋の暖房を切ったのが原因だろうね」
「じゃ、あったかくしたらコイツは良くなるんですか?」
「ああ、そうだよ。えーっと、この子の名前は……ふむ。君は、この子に名前をつけてあげてないのかい?」
「あ、はい。ハリネズミは一匹で飼わなきゃならないって聞いたから、他のヤツと区別する必要ないし、名前を覚えられる知能もないみたいだから」
カルテを見ながら問いかける正先生に、「意味がないと思ったんです」と飼い主の少年は続けた。
確かにそうだと私も思う。名前とは、個体差の少ないもの同士を区別するために必要なものだ。自分の名前を識別する知恵のない生き物を、それも一匹だけで飼うには必要ない。花に名前を付けるのと同じくらいに無駄なことだと思えた。
ところが、その少年のひとことが、この後小さな事件を巻き起こすことになった。正先生の隣でカルテの整理をしていたブッキーが、猛然とその少年に詰め寄ったのだ。
「あなたは、この子のことを愛してないの?」
ブッキーにしては珍しい、飼い主の子を非難するような口調。少年の方も、そんな言い方をされてムッとしたのか、突き放すように答える。
「愛する? そりゃあ、大事だから診せにきたんだよ。だけど、必要も無いのに名前をつけるほど夢中になっちゃいないよ」
「そんな言い方って、ないと思う!」
売り言葉に買い言葉。キツイ口調になったブッキーを正先生が叱る。尚子おばさまは、少年に詫びた。でも二人だって、少年がハリネズミに名前をつけていないことを、よく思ってはいないように感じられた。
患者さんの飼い主に対して感情的になったブッキーに、正先生は診察室から出て行くように命じた。少し頭を冷やしておいで、と言って。それで、私も一緒に彼女の部屋に行くことになった。
「迷惑かけちゃってごめんね、せつなちゃん」
少ししょんぼりしたブッキーが、紅茶とクッキーを用意しながら、そう謝ってきた。
「もう十分に見せてもらったし、謝ることなんてないわ。だけど、どうして急に怒ったりしたの?」
普段はにこやかで大人しいブッキーが、あんな風に感情をむき出しにすることは滅多にない。それで理由を聞いてみたくなった。
「うん。ハリネズミを飼う時は室温に気をつけなければならないことは、飼う前に教わる大事なことなの。それなのに、気をつけてあげなかったから。それと、もう一つは……」
「名前をつけて、あげなかったことね?」
「うん……そうなの」
それは見ていてすぐに気がついた。私にわからなかったのは、どうしてハリネズミのような知能の低い動物にまで、それほど名前を重要視するのか、ということだ。
「必要があるからとか、愛しているから名前をつけるんじゃないの。その反対で、愛するために名前が必要なのよ。名前をつけない間は、“その動物と住んでる”ってだけなの。名前をつけることによって、はじめて“家族と住んでる”ことになるのよ」
「何かと区別したり呼び寄せたりするためじゃなくて、相手を“個”として認めるためってことね?」
「うん。名前がなくても愛することはできるけど、あればもっと深く愛せるから。名前をつけることは、その子を“特別な存在”として認めて、つき合いを深めることなのよ」
それに……とブッキーは続ける。「名前には、他にも大切な意味があるの」って。
「赤ちゃんにとって名前とは、親から授かった“最初の贈り物”で、そして、“一番大切な贈り物”でもあるの」
「最初の贈り物っていうのはわかるけど、本当に一番大切なものなの? 親はそれこそ、一生の間にたくさんの贈り物をするはずよ。名前が一番大切なんて信じられないわ」
「ううん、わたしは一番大切だと思う。名前は、その子の“個性”とか“性格”とか“夢”とか、その子の一生に深く関わっていくものだと思う。親は子供に、強い“願い”と“祈り”を込めて名前をつけるのよ。その思いは、その子の“生き方”すら変えてしまうことがあるの」
それは、飼い主がペットに付ける名前も同じだって、まるで身を乗り出すように力強くブッキーは語った。
私は、なんだかそれを認めたくなくて……強い口調で聞き返した。
「そうかしら。ブッキーの名前もそうなの? 強い願いと祈りが込められていて、自分の生き方にすら影響を与えているの? その名前があるから、特別な存在と認められていて、深く愛してもらっているの?」
「ええ、そうよ。わたしの名前の“祈里”はね、天の恵みに感謝して、全ての命の祝福を願える子になりなさいって。その祈りが、千里を超えてみんなに届きますようにって、そんな願いを込めてつけて貰ったの。だから、少しでもそんな人になれるように、生きていこうって思っているの」
そこで、やっと認めたくなかった気持ちの正体に気がついた。私は……うらやましかったんだって。
「……ごめんなさい。そろそろラブが帰ってくる時間だから、私、帰るわ」
「えっ? あ、そうなんだ。引きとめちゃってごめんね」
「いいのよ、ごちそうさま」
その時の私は、いったいどんな表情をしていたんだろう……。少なくとも、声はいつもと同じじゃなくて、硬くて暗いものだったはずだ。落ち込んで沈み込んで、不機嫌に見える表情も、ロクに隠せていなかったと思う。
ブッキーに悪気が無かったってことくらいはわかってる。私もちゃんと話したことはなかったから……。
“東せつな”って名前は、親からつけてもらった名前じゃない。瞬や隼人と同じように、この世界に入る際に、自分で適当につけたものだ、っていうことを。
それは、ただの地位を示す官職名である“イース”だって同じこと。しいて言えば、国民番号であるES4039781だけが、誰かにつけてもらった自分だけの呼び名だ。しかし、それは名前とは呼べないだろう。
(私には、親につけて貰った名前がない。だから、誰からも特別な存在になれないし、自分の一生を変えていけるような意味だってないのよ。せつなとは、刹那。短く、儚く、一瞬で物事を終えてしまう言葉。いい意味なんてない。仕方ないじゃない、意味なんて考えたこともなかったんだから……)
こんな顔を誰にも見せたくなくて、しばらく公園で時間を潰した。寒さにも負けず、友達と元気で遊んでいる子供たちを眺めていたけれど、それも何だか辛くなって、人気のない花壇のそばのベンチに座る。
冬枯れの芝が、申し訳程度に固い土を覆っている。見るからに寒々とした寂しい花壇……まるで、私の心みたいに。
寒さなんて感じないふりをして、一人で何もない花壇を眺める。が、夕方になるにつれて、さすがに寒くてずっと座っていることはできなくなった。
家に帰ったら、まだラブは帰っていなかった。大方、補習仲間と意気投合して一緒に遊んでいるんだろう。玄関で少し笑顔の練習をしてから、リビングに向かう。扉を開けると、お母さんが一人で夕ご飯の支度をしているのが見えた。
「ただいま」
「お帰りなさい、せっちゃん」
良かった、今度はいつも通りの声が出せた。でも……ホッとしたのも束の間、お母さんの優しい笑顔を見たら、声を聞いたら、諦めたと思っていたものが一気に心の中から溢れ出るのを感じた。
私は、キッチンに立つお母さんのすぐ後までいって、震える声で話しかけた。
「お母さん、お願いがあるの……」
「あら、せっちゃんからお願いなんて珍しいわね。なあに?」
「あのね……。私に、名前をつけて欲しいの……」
「えっ? 名前って?」
「ブッキーから教わったわ。名前は、親から子に授ける、一番大切な贈り物だって。私の、せつなって名前は、本当は……」
そこから先は、声が震えて言葉にならなかった。それ以上口にすると、涙があふれてしまいそうだったから……。
何度も深呼吸をして、たっぷり時間をかけて、自分の名前が親からもらったものではないことを伝えた。
「そうだったの……。でも大丈夫よ。せっちゃんには、ちゃんと名前があるんだから」
「えっ? 名前って、だから、せつなは……」
「せつなじゃなくて、せっちゃん、でしょ? ずっとそう呼んでるのはどうしてだと思う? わたしとお父さんの二人からの、大切な贈り物なのよ」
「え、そんな、それって……」
「せつなって名前も、ラブたちが愛情を込めて呼んでいる、今となっては大切な名前でしょ? だから、その“せつな”を生かしつつ、子供の頃の“思い出”と“幸せ”を一緒に取り戻してほしいって願いを込めて、“せっちゃん”って名付けたのよ。いい名前でしょ?」
しばらくは、言葉が出て来なかった。今度は別の涙があふれて来てしまったから。でも、早くこの気持ちをお母さんに伝えたくて、涙声のまま、必死で言葉を絞り出した。
「うん……。私には、ちゃんと親からつけてもらった名前があったのね。ありがとう、お母さん、お父さん……」
全く別の名前をつけてもよかったのだけど……とお母さんは続けた。出会った時には、もう“東せつな”は、ラブたちにとって特別な名前だったから、変えられなかったんだって。
だから、愛称って形で新しい名前を贈ることにしたんだって、そう話してくれた。家族がいないことはラブが話したから、名前のことも察してくれていたんだろう。
「さあ、せっちゃんも笑顔になったことだし、夕ご飯の支度を手伝ってもらおうかしら?」
「はい!」
私は元気よく答えて、にっこりと明るく笑った。まるで私の胸の中にだけ、一足先に春が来たような、明るくて優しいぬくもりに満たされる。
もうじきラブがお腹を空かせて帰ってくるだろう。それまでに、腕によりをかけてご馳走を作っておかなくちゃ。
そして、いつも可愛らしく笑っていよう。たまには年相応に、ワガママだって言ってみよう。時々はラブに負けないくらい、元気にはしゃいだりもしてみよう。
“せっちゃん”っていう大切な名前に相応しい、可愛らしい女性になるために。
「お母さん! 私、せいいっぱい頑張るわ」
そんな、小さな誓いを胸に――
fin
最終更新:2014年02月15日 16:01