【あたたかな冬の朝】/一六・夏希・恵千果




 冬。この季節になると管理国家ラビリンスを思い出す。そこには四季なんて無くて、常に身を切るほどに寒かった。
 もちろん、それは気温としての寒さではない。ぬくもりの感じられない機械化された国ならではの、冷たい肌触りを持つ空虚な寒さ。
 今のラビリンスは、かつてのような冷たい国ではなくなった。だからこそ忘れられない。ぬくもりを知ってしまったからこそ切実に感じる、厳しい寒さを。
 そう――この街の寒さは違った。
 あたたかなスープを口に運びながら、せつなはカーテンの隙間から、雪の舞う外の景色を覗き見る。
 四ツ葉町に住み始めて何度目かの、冬の訪れだった。

 さく、さく、さく。
 最近買ってもらったばかりのお気に入りの赤いブーティで新雪を踏みしめながら、せつなは一歩、また一歩と、足を進めていく。
 視界いっぱいに広がる、真っ白な世界。
 すっかり見慣れてしまったが、この光景を初めて見た時の衝撃は今でも忘れられない。穢れなき白雪に覆われた街は、幻想的なまでに美しかった。
 もちろん良い事ばかりではない。指先や頬は凍え、吐く息は白く、足元は積雪のせいで歩きにくい。気候や天候まで管理されたラビリンスに比べれば、まるで合理的じゃない世界。そんな不便さすらも、きっと大切なもの。
 ふと空を見上げると、鉛色の雲から、クルクルと円を描くように無数の雪が舞い降りてくる。
 せつなは、初めて雪を見た日のことを思い出した。

「雪って……素敵ね!」
「ふぅん。せつなって、雪が好きなんだ?」
「ええ。歩いても歩いてもちっとも進まないし、寒いでしょう? 全然思い通りにならなくて……そこがとても素敵」
「アタシも雪は嫌いじゃないけど、せつなの理由は変わってるわね」
「夏の砂浜で走るのが、楽しいみたいな感じかな?」
「ちょっと違うけど……それも好きよ」
「何だかわかるな、せつなちゃんの気持ち。わたしも初めて雪を見た時はきっと、ワクワクドキドキしたと思うもの」
「ありがと、ブッキー」
「うふ、どういたしまして」

 寒さで赤くなったせつなの頬がわずかに緩む。他愛もない仲間との会話は、一つ一つがそれぞれ違う。そのどれもが美しくて、まるで雪の結晶のようだった。
 こうして年月を重ねるごとに、キラキラと静かに降り積もって、ますます重みを増してゆく。
 指先や頬は凍えていても、心は温かさを失うことがない。
 あたたかいのに寒い、ラビリンスとの違い。寒いのにあたたかい、それが四ツ葉町の冬だった。
 ようやく東の空に太陽が顔を出したばかりの早すぎる朝の中、まだ誰にも踏まれたことのない雪を踏みしめながら、今の幸せを噛みしめながら、歩き続けた。

「お帰りなさい、せっちゃん」

 そう言ってせつなを出迎えてくれたのは、母親のあゆみだった。

「た、ただいまお母さん……でも、どうして?」

 ラブにも話さず、黙って出かけたはずだった。足音すら立てず、ドアも静かに開け閉めしたのに――。

「昨夜、窓からじっと外を眺めてたでしょ? せっちゃんが朝のお散歩に出かけるサインよね。さあ、寒かったでしょう。熱いお茶入れたから」

 ポカンと見つめるせつなの肩に、あゆみが後ろから手を回して、二人でリビングに入る。
 コートを脱ぎ、熱いお茶の入った湯呑みを両手で包むと、少し遅れて、かじかんだ指の先にジワリと熱が伝わってきた。

「ずいぶん積もったわねぇ。どこまで行ったの?」
「クローバーの丘まで行こうと思ったんだけど、歩くのに時間がかかっちゃって……。だから、商店街をぐるっと歩いてきたの。一面真っ白で、いつもの商店街じゃないみたいだった」
「そう。雪の日って、よく知っている景色でも何だか違って見えるわよね。全てが白くお化粧されたみたいで、静かで、そして……」

 あゆみがそう言いかけたとき。
 突然、部屋の灯りが消えて、辺りが真っ暗になった。

「えっ、何!?」
「あら、停電かしら」

 驚いて叫ぶような声を上げたせつなに向けて、あゆみがいつもと変わらない調子でつぶやく。

「……停電?」

 それは、せつなにとって初めての経験だった。
 さっきより目が慣れてきたとはいえ、まだ雨戸を閉めている部屋の中では、目の前に居るあゆみの姿すらおぼろげにしか見えない。
 穏やかで満ち足りた時間が、こんな風に突然闇に閉ざされてしまう。そんなことは、少なくともここ数年の日々の中では無かったことだった。
 だからだろうか? こんなこと、大したことではないと頭では分かっているのに、何だか足元の地面が急に無くなったような、不安な気持ちに囚われる。

「もしかしたら、雪の影響かも知れないわね」
「どれくらいで復旧するのかしら」

 普段通りおっとりと響くあゆみの声に比べて、いつもより硬くこわばっている自分の声。それに気付いてせつなが無理に笑顔を作ろうとしたとき、あゆみがスッと立ち上がった。

「ちょっと寒くなるけど……暗いよりいいから、雨戸開けちゃいましょう!」

 まるで楽しい提案か何かのようにそう宣言してから、あゆみが暗がりの中を窓の方へと移動する。ガタガタという重々しい音と共に、白い光が部屋の中に射し込んできた。
 薄明かりの中、あゆみがニコリと笑ってせつなに手招きする。立ち上がって窓から外を覗いたせつなは、思わず小さく歓声を上げた。
 そこには一面に、眩しいくらいの光を放つ白銀の世界があった。さっきより高く上った太陽に照らされて、全てのものが光り輝くベールを纏っている。
 冷たい雪に覆われて、シンと静まりかえっているのに、同時に明るくて、日の光のあたたかさまで感じさせる光景だった。

「きれい……」
「雪灯りというのよ。さっき言いかけたのはね、雪が降った後って、キラキラしていて何だか明るいってこと。たまにはこういう自然の灯りもいいわよね。電気代もかからないし」

 あゆみが茶目っ気たっぷりにそう言って、うふふ、と笑う。その顔を見て、せつなも今度こそ心からの笑顔になった。

「おーい、停電かぁ? ……ああ、これならロウソクは必要無いな」

 パジャマの上にガウンを羽織った姿の圭太郎が、何やら両手一杯に荷物を抱えて部屋に入って来た。
 テーブルの上に、大きな懐中電灯と非常用のロウソクを置く。そして、寝室から持ってきたらしい二枚の毛布を、よいしょと抱え直して、さっさとリビングへと歩いて行く。

「そこに居ちゃあ、寒いだろう。二人ともこっちにおいで」
「まあまあ。それなら、ちょっと待って」

 あゆみが圭太郎の意図を察し、心得た様子でキッチンに入っていった。二人のやりとりを不思議そうに見つめていたせつなが、再び促されてリビングへと向かう。
 圭太郎はソファの真ん中にせつなを座らせると、自分もその隣に腰をかけて、二人の身体を一枚の毛布でくるんだ。
 すぐにあゆみもやって来ると、湯気の立つお盆をサイドテーブルに置き、せつなの反対隣に座って、もう一枚の毛布で自分とせつなの身体をくるむ。

「わっ! 私、二階に行って自分の毛布、持ってくるわ」
「いいからいいから。何故だかね、二人で一枚の毛布にくるまった方が、あったかいんだよ。ほら、ちゃんとくるまるんだよ、せっちゃん。風邪引いちゃうからね」
「そうよ。こっちの毛布もちゃんと使ってね」

 真っ赤な顔で慌てるせつなに、両側から競うように掛けられるあたたかい毛布の感触と、もっとあたたかな二人の声。すぐにあゆみが、お茶を入れ替えた湯呑みを手渡してくれた。

「まずはこうやってゆっくりあたたまってから、朝ご飯にしようじゃないか。雪見酒ならぬ、雪見茶だな。ハハハ……」
「雪の日の停電はこの辺りじゃそう長くは続かないから、心配しなくていいわよ。寒くない? せっちゃん」
「ううん。凄く……あったかい」

 毛布でくるまれた腕が動かしにくくて、お茶を飲むのも一苦労だ。くっついて座っているせいで窮屈だし、おまけに薄暗くて、三人の話し声の他には何の音もしなくて……。
 そんな、全く合理的でない不自由な空間が、やっぱりとても嬉しかった。

「お父さん、お母さん」
「ん?」
「なんだい? せっちゃん」
「私、雪の日って好き。停電になっても……何だか素敵」

 せつなの照れ臭そうな小さな声に、圭太郎とあゆみが思わず笑顔になったとき。
 パチパチ、と瞬きをするようにして、部屋の灯りが点いた。

「あら」
「ハハハ……せっちゃんに褒められた途端に、停電が復旧しちゃったなぁ」

 明るく笑う圭太郎の肩の向こうで、まるで眠りから醒めたかのようにエアコンが温風を吹き出し始める。それを合図にしたかのように、リビングの入り口の扉がバタンと開いた。

「おはよ~。あれっ? この部屋やけに寒くない? えっ? みんな、そんなところで何やってんの?」

 寝ぼけ眼をこすりながら入って来たラブが、ソファに座る三人の姿に、目をパチクリさせる。
 突然の停電が招いた、あたたかで不思議な時間が終わった。それに少しだけ寂しさを感じて――せつなはちょっとしたイジワルを思いつく。
 隣の圭太郎とあゆみの顔をもう一度見やってから、いたずらっぽい笑顔でラブを振り返った。

「ナ・イ・ショ。三人だけの、とびっきり楽しい話をしてたのよ」
「え~っ! なになに? せつなだけズルいよぉ」
「ほらほら、まだ寒いから、ラブもこっちにいらっしゃい」

 今度はラブがあゆみと毛布を一緒に使って、四人でくっついて座る。
 窮屈というより、もはやギュウギュウ詰めのソファの上は、ラブがもぞもぞと動き回るせいで、少しも落ち着かない。
 それでも――。

「あれ? なにこれ……。あっ、こんなところにお母さんの手が!」
「ちょっと、ラブ! そんなに動き回ったらお茶がこぼれちゃうでしょ?」
「あーっ、いいなぁ。あたしもお茶飲みたい!」
「はい、ラブ。私の半分あげるわ」
「ありがとう、せつな! うーん、やっぱり寒い朝のお茶は美味しいねっ!」
「ワハハハ……一番のお寝坊さんの台詞じゃないよなぁ」

 家族みんなで笑い合って、その息遣いと、明るい笑顔を肌で感じて……。
 今朝もまた一つ、とっておきの美しい思い出が、雪の結晶のようにせつなの記憶に降り積もる。
 とても寒いのにあたたかい、四ツ葉町の冬のように――。



 了
最終更新:2014年02月15日 23:54