第31話『帰ってきたせっちゃん――ある日のせっちゃん。ひな祭りの雛人形――』
トントントンと、控えめな足音を立てながらせつなが階段を降りる。居間を通ってダイニングキッチンに入ると、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
食器棚から取り出した赤いマグカップにたっぷりと注いで、目盛りを合わせて電子レンジにかける。
ホクホクと湯気を立てたホットミルクを口に運ぶと、ほっと一息ついた。
しばらくすると、あゆみがソロソロとダイニングに入ってきた。赤いパジャマの上から、ピンク色のカーディガンを羽織っている。
物音を立てて起こしてしまったのかもしれない。申し訳なく思って、せめて出迎えに立ち上がろうとするせつなを、あゆみは首を振って制した。
「お疲れさま、せっちゃん。ラブはもう休んだの?」
「うん。『明日は早いから、今夜はもう寝るね。おやすみ~』ですって」
せつなはラブの口調を真似て話すと、深いため息を付いた。自分は心配で寝付けないのに、いい気なものだと思う。
初めて見るせつなのモノマネが可笑しかったのか、困った彼女の表情がツボにはまったのか、思わずあゆみは吹き出してしまう。
「おかあさん、笑いごとじゃないわ」
「ごめんなさい。でも、ラブのために一生懸命になってくれて、ありがとう」
「お礼なんて……私だって、ラブと同じ高校に入りたいもの」
「どうしてもダメなら、二人で一緒に私立高に通ってもいいのよ?」
ラブとせつなは現在中学三年生。来月には高校受験を控えていた。
何度か行われてきた進路面談において、担任の教師はラブに私立高校との併願を勧めて来た。学年トップのせつなと違って、ラブの学力は公立高校の安全圏には無いと。
「そんなっ、ダメよ。学費だって余計にかかるし、それに――」
「ええ。学費はともかく、そうやって妥協していくと次の進学にも影響するわよね。二人とも大学に入れてあげたいし」
そこで、せつなの表情がさらに曇る。ラブの学力はもともとは平均ど真ん中程度で、特に悪いわけではなかったらしい。
それが、ある日を境にみるみる低下していったのだ。
それは、ラビリンスの侵攻が始まった日。プリキュア、キュアピーチが誕生した日だった。
ダンスだけなら、学業との両立も可能だったかもしれない。だけどその上に、“戦い”という負担が重く圧しかかった。
メビウスとの決着の後、せつなはラビリンスに戻った。それだってラブに孤独と悲しみをもたらして、学業に良くない影響を与えることになった。
「また、何か悪いことを考えているんじゃない? せっちゃんに非は無いのよ。ラブがちゃんと勉強しないだけなんだから」
「おかあさん。どうしてこの世界にも、受験なんてものがあるの?」
せつなは、まるで責めるようにあゆみに問いかける。彼女にとって、“競争”はラブたちよりずっと馴染みの深いものだ。
より優れた能力を示した者が、結果を残せた者だけが、生き残れる。“競争”はラビリンスの国民にとっては、“生きる”ことと同義と言ってもいいくらいだった。
だけどこの世界は違うはずだった。競い合って他人を蹴落とすよりも、助け合って他人と手を取り合う世界のはずだった。
「受験なんて無くたって、望むなら全員が通えるようにするべきよ。それじゃみんなが勉強しなくなるというのなら、別にプログラムを組んで――」
「――せっちゃん」
熱くなって語るせつなにストップと言うかのように、あゆみがそっと自分の口に人差し指を当てて見せる。
既に深夜と呼べる時間であることを思い出して、せつなは赤くなった。
「もう遅いわ。続きは、明日にしましょう」
「でも、明日はやることがあるって、ラブが……」
「その後でいいわ。おやすみなさい、せっちゃん」
「はい……。おやすみなさい、おかあさん」
あゆみはせつなを見送ると、自分もホットミルクを飲むことにした。
話を引き伸ばしたのは、何も時間が遅いからではない。彼女がこの問題を、ラブの受験以外の意味を重ねて捉えていると感じたからだ。
だったら、よくよく考えて答えなくてはならないだろう。明日の仕事が休みでよかったと思う。今度は、自分が眠れなくなりそうだった。
『帰ってきたせっちゃん――ある日のせっちゃん。ひな祭りの雛人形――』
翌朝、せつなはラブに連れられて、一階の屋根裏部屋に来ていた。
圭太郎とあゆみも一緒だ。その日は休日であり、また、四人の休みが重なる日でもあった。
「こんなところに部屋があったのね」
「部屋といっても物置なんだけどね」
ラブは物置と表現したが、六畳ほどもある十分に立派な部屋だった。少し埃っぽいが掃除も行き届いていて、手を入れたら十分に生活空間になるだろう。
もっとも部屋のスペースの大半は、ダンボール箱等に詰められた荷物で占領されていた。
その中のいくつかは、せつなにも見覚えがあった。彼女の部屋を作るまで、そこに置かれていた家具だった。
「納戸といってね、普段は使わない物を収納しておくための部屋なの」
「よし、出て来たぞ。これがそうだよ」
あゆみが部屋について説明している間に、圭太郎が荷物の山の中から引っ張り出したのは、三段重ねの大きな桐の箱だった。
いったい何が入っているのかと、せつなも好奇心が抑えきれずに覗き込む。
得意そうにラブが蓋を外して、中から出てきたのは――
「これは……みんな人形なの?」
箱にはビッシリと和風の人形が詰め込まれていた。一体一体が同じ方向を向いていて、薄葉紙に丁寧に包まれている。
顔だけ更に顔紙と呼ばれる専用の紙で覆われていて、箱には隙間なく綿の緩衝材が敷き詰められている。
人形はどれも触れるのが恐いほどに繊細で、ため息が出るほどに美しかった。
これがどんな意味を持つ物か知らないせつなですら、とても大切な物だということは、十分に伝わってくるのだった。
「あかりをつけましょ、ぼんぼりに~。お花をあげましょ、桃の花~♪」
ラブが楽しそうに歌いながら箱から人形を取り出していく。両手には白い布の手袋をはめている。人形を汚さないための配慮らしかった。
そのままチラリと目配せする。一緒に歌おうと誘われているのだと気付いて、せつなは顔を赤らめた。
それでもちょっとだけ口ずさんで、恥ずかしくなってうつむいてしまう。そんな様子を、圭太郎とあゆみは微笑ましそうに見守っていた。
「大き過ぎて飾り付けが大変なの。ラブはこういったことが好きで助かるわ。今年は特に乗り気のようだけど」
「早くせっちゃんに見せたくて、はりきってるんだな?」
「うん……。せつなのためっていうか、せつなが一緒だと楽しいもの」
せつなはラブを見つめて、視線だけで感謝の気持ちを伝えた。
桃園家では、行事を特に大切にしている。家訓でもあるだろうし、ラブがお祭り好きだからでもある。
だけど何より、幼少時代にそういった経験が出来なかったせつなのためであることは、本人も十分にわかっているのだった。
人形と小道具を全て桐の箱から出し終えると、次に飾り付けに入る。
桃園家の雛人形は、七段飾りと呼ばれる一番豪華な物らしい。上の段から順に並べていく。
一団目は『お内裏さま』、天皇様と皇后様のことで、娘が「このような理想の夫婦になれますように」との願いが込められている。
二段目は『三人官女』、「家の中心になる方を助け、支えあっていく姿を学んで欲しい」という意味らしい。
三段目は『五人囃子』、打楽器を手にした楽団で、太鼓、大鼓、小鼓、笛、謡と、音の大きな順で並ぶ。「人を楽しませる気持ち」という意味なんだとか。
四段目は『隋臣』、右大臣(若者)と左大臣(老人)で、若者の力と老人の経験を表していて、「文武両道の大切さを説く」と共に、「助け合う姿勢」を学ぶ意味がある。
五段目が『仕丁』、衛士のことであり、天皇様と皇后様の出かける際の従者を勤める。笑い上戸、怒り上戸、泣き上戸の三人の顔があり、「人間の感情の豊かさ」を教えてくれる。
六段目は、箪笥、鋏箱,長持、鏡台、針箱、火鉢、茶の湯道具。
七段目は、御駕籠、重箱、御所車。
「よーし、これで完成! すっごく綺麗でしょ? せつな」
「え、ええ……とても素敵ね」
「どうかしたの? せっちゃん」
「これって、上から順に偉い人なのよね? 身分の差が段差なのかしら」
「そうね。特にお内裏さまはこの国の象徴なの。ひな祭りが生まれた当時は、一番偉い人だったと言えるわね」
「まあ、雛人形は公家社会をあらわしたものだからなあ……」
“一番偉い人”と聞いて、せつなの表情が一瞬だけ曇った。
この世界だって、ラビリンスと同じように縦関係で社会は作られている。管理する側があって、される側がある。
せつなだって十分に理解していたつもりだが、それが何百年も前から続いていたのかと思うと、複雑な気持ちになるのだった。
「そうじゃないのよ、せっちゃん。よーく人形の表情を見てごらんなさい。雛人形は顔が命と言われているの」
「表情って、『仕丁』のこと? 笑い顔と、怒り顔と、泣き顔よね?」
「それだけじゃないわ。よく見たら、全員の表情がまちまちでしょう。それでいて、みんな幸せそうだと思わない?」
「言われてみれば、一人一人の表情が全部違うのね。それに、上から下まで衣装も華やかで、確かにみんな幸せそう」
「それぞれ役割は違うけど、助けあって支えあって、一つの社会を作り上げているの。十五体あるけど、全部で一つの雛人形ってことね。一緒に生きることの大切さを教えてくれるの」
「ええ。私、雛人形が好きになれそう」
自分が一番好きな色、あたたかな赤を基調に、鮮やかな色と模様で作られた衣装。花嫁道具を意味する調度品の数々。祝いの象徴である桃の花。
ぬくもりを感じさせる華やかな雛人形は、せつなの知っている冷たい管理国家のイメージからはほど遠いものだった。
「雛人形は他にも意味があるのよ。子供の身代わりとなって、事故や病気から守ってくれると伝えられているの」
「いずれにしても、子供の健やかで幸せな成長を祝うために飾るものなんだ」
「今日は準備の日だけど、本番の三月三日が楽しみだよ。美希たんとブッキーも誘って、パーティーしようね!」
「ええ、楽しみにしてるわ。でも、その前に――」
四人で手分けしたこともあって、作業は二時間ほどで終わった。
ひな祭りの本番はまだ一ヶ月も先だし、片付けも終わって他にこれ以上することもない。
「わかってるよ、せつな。これで息抜きできたし、今からちゃんとやるから」
「そう言って、昨夜もすぐに寝ちゃったじゃない。今日は逃がさないわよ~」
「世話をかけるなあ……せっちゃん」
「家のことはわたしがやるから、しっかり勉強するのよ」
「たはは……お手柔らかにオネガイシマス……」
そう言って、ラブとせつなは二階の部屋に上がって行ったのだった。
それから数時間後。黄色くなった陽が傾き、短い日中は終わりを迎えようとしていた。
そろそろ夕ご飯の支度を手伝う時間なのだが、ここしばらくはラブとせつなはずっと机に向かっていた。
「これも間違ってる。どうしたの? 昨日やったばかりじゃない」
「ごめーん、なんか集中できなくって。ちょっと休憩にしようよ」
「ダメよっ! どうして間違ったのか? どこがわからないのか? それを確かめて、おさらいするのが先よ」
「だから、今朝からずっとやってるじゃない……。ガミガミ言う、せつななんて嫌いだよっ!」
何かがおかしくなっていた。こんな些細なことがキッカケで喧嘩になるなんて、普段の二人なら考えられないことだった。
勉強が進まなくて、焦っているのはラブも一緒だった。付き合ってくれている、せつなにも悪いと思っていて。だからこそ、いっぱいいっぱいで――
ラブは気まずくなって、「ごめん……お茶だけ淹れたらすぐに戻るから」と言って部屋を後にした。
せつなは返事をせず、唇をかみ締めながら、じっとその場に立ち尽くすのだった。
ラブはキッチンで調理するあゆみに気付かれないように、こっそりとカウンターに向かう。
ポットのお湯で紅茶を淹れて、棚にしまっておいたドーナツを引っ張り出して、お盆に載せると逃げるように二階に上がっていった。
その足音が聞こえなくなってから、あゆみは苦笑して、包丁を置いてキッチンを後にした。
「せつなー、さっきはゴメンね。ドーナツ持って来たの。また頑張るから、一緒に食べよう?」
自分の部屋に入るだけなのに恐る恐るといった感じで、ラブがドアの隙間から声をかける。
返事が無いので、仕方なく部屋の中にそ~っと足を踏み入れた。
「あれっ? せつな、どこに行っちゃったの? 怒って自分の部屋に帰っちゃったのかな……」
部屋の中は空っぽで、机の上もそのままになっていて、特に書き置きらしき物もなかった。
ラブは後ろめたさから、すぐにせつなの部屋を訪ねる気にもなれなくて、ため息を付きながら一口だけお茶を啜った。
それは来客用の上質の紅茶で、しかも、かなり濃い目に淹れたにも関わらず、大していい香りもせず、味もまるでしないのだった。
せつなは一階の客間の大きな和室に来ていた。昨夜の約束を思い出してあゆみに会いに来たのだが、ふと雛人形を見たくなったのだ。
薄緑色の畳の上に、雛壇の赤い毛氈がよく似合っていた。座布団の上で膝を折って、じっと雛人形を見つめる。
なんとなく、人形に話を聞いてもらえるような気がしたのかもしれない。
ラブが一生懸命やってるのはわかってた。だけど、ただ精一杯頑張るだけではダメだと思った。努力には常に成果が求められる。それを競うのがコンテストであり、試験なのだから。
ラビリンスに生まれ、英才教育を施されてきた自分と、ラブを比べるのが間違いなのはわかる。だけど――
何がなんでも合格したいって、そう願っているのはラブ自身のはずだった。それで、ついつい厳しくなってしまう……。
せつなはじっと雛人形を見つめる。公家社会から生まれた飾り物。それは上下社会でもあったはずだ。
この世界は不思議だと思う。手を取り合い、共に助け合うことを美徳としながら、同時に互いに競って、足りない枠を奪い合う。
能力の向上と効率を求め、無駄を省く社会構造を目指しながらも、ひな祭りのような行事を大切にして、無駄の中に幸せを求めようともする。
(この美しい雛人形も、同じなのかもしれない……)
お内裏様を頂点とした効率的な縦社会。逆らうことの許されない上下関係と役割分担。いずれも生産性を高めるためのもの。それなのに――
まるでファッションを楽しむかのように、みんなで華やかな衣装を纏って、楽器で音楽を奏で、桃の花や調度品で飾りつけ、笑顔で宴を開く。
効率と無駄の調和。それは単なる緩急――日々の勤めと息抜きなどではなくて、もっと重要な、なにか大切な意味を持つものにも感じられた。
「どうして、この世界はこんなにも行事が多いのかしら……」
「せっちゃんは、どうしてだと思うの?」
せつなが振り向くと、すぐ後ろにあゆみが立っていた。彼女もまた、せつなの問いに答えるべく機会をうかがっていたのだ。
あゆみもすぐ隣に腰を下ろし、優しい表情でせつなに微笑みかける。
「一見、無駄に思えても、それが幸せなんだってことはわかるわ。だから、私はこの世界がこんなにも好きになったんだもの。だったら、どうして――」
「そうね、コンテストも受験も同じ。その後に控えている、お仕事だって似たようなものよ。何をするにしても成果が求められるし、それを競うこともあるわよね」
「片方で競っておきながら、片方でこうやって非生産的なことをするのは、おかしいわ……」
「それで、ひな祭りのような行事を不思議に思ったのね?」
あゆみの言葉に、コクリと、せつなは小さく頷いた。
「本当に大切なことは何かなんて、もうわかってるんでしょ?」
「えっ?」
あゆみの瞳が、深い愛情を讃えて真っ直ぐにせつなを捉える。せつなの事情なんて、その胸の奥に抱えてる想いなんて、半分も話せてないのに……。
彼女はまるで何もかもを、見通しているかのようだった。
「昨夜の質問から先に答えるわね。『どうして受験なんてものがあるのか』だったわよね?」
「うん――聞かせて!」
せつなの表情が真剣みを帯びて、瞬きもせずに、あゆみを見つめる。
あゆみは一呼吸置いてから、自分の考えを慎重に言葉にしていった。
「私たちが成果を競ったり、効率を求めたりするのは、幸せを奪い合ってるわけじゃないわ。みんなで幸せになるために、強くない人の分まで強くなるために、頑張っているのよ」
「みんなの――ために?」
「そうよ。人は手を取れば支え合える。競えばより大きな力が出せる。親は子を支えて、社会は弱い人を支えるの。そのために、競い合って力を高めていくの」
「支えるための力……。雛壇の人形はみんな楽しそうで、幸せそう。人の心のぬくもりが感じられない、かつてのラビリンスとは違うわ」
せつなの口から“ラビリンス”の名前が出て、「やっぱり」とあゆみの表情がわずかに翳る。単に、ラブの勉強が原因の喧嘩ではないだろうと思っていた。
こんなに小さな子が、こんなに小さな身体一つで、背負っているものが、どれだけ大きいことか――
あゆみはせつなの考えがまとまるのを待ってから、さらに話を続ける。
「二つ目の質問に移るわね。『どうしてこの世界にはこんなに行事が多いのか』よね?」
「うん……」
「足を止めて、周りを見るためじゃないかしら。走ってばかりいたら見落とすものもあるわ。今のせっちゃんやラブのように」
「私たちが、見落としている?」
「ええ。せっちゃんはどうしてダンスをやろうと思ったの? コンテストに合格して、ダンサーになりたかったからかしら?」
「それは違うわ……。最初はただ、ラブたちと一緒にダンスをするのが楽しかったから。って――あっ!」
せつなはハッとなって口元に手を当てる。そして大きな目で、何かを訴えかけるようにあゆみを見た。
「気が付いたみたいね。勉強も同じよ。高校に入るためにするわけじゃないでしょ? 知らないことを学ぶのが楽しいって気持ち、大事よね?」
「そうだった、前にラブが言ってたわ。『あたしは勉強も好きだよ。ただ覚えるのが苦手なのと、他に興味のあることが多いだけ』だって……」
いかにもラブらしい言葉だと思って、あゆみの頬が緩む。「あたしはニンジン嫌いじゃないもん。ただ、味が苦手なだけなのっ!」って、そんな、小さい頃のラブの言葉が蘇る。
それをせつなに伝えたら、彼女もクスクスと笑い出した。
ニンジンはともかく、勉強は本当に嫌いなわけではないはずだった。あれだけ好奇心の強い子が、“知る”ことを嫌うはずがない。
「今は忙しい時だから……。今は大変な時だから……。そうやって自分を追い込んでいったら、何のために頑張っているのかが、見えなくなってしまうことがあるでしょ?
だから、必ずやってくる季節に合わせた行事で足を止めるの。その時だけでも家族や大切な人と一緒に過ごして、自分を取り巻く全てに感謝して、本当の幸せを見つめ直すためにね」
せつなはしばらく考え込んでから、迷いを吹っ切った目であゆみに向き合う。
「私は……結果を急ぐばかりに、手段と目的が入れ替わってしまっていたのね」
「わかったら、ラブと仲直り、できるわね?」
「はいっ!」
せつなが明るくそう返事したとき、ラブが駆けて来る足音が聞こえた。
「せつな、ここに居たんだね! あのね、さっきは」
「私もラブに会いにいくところだったの。さっきは」
「「ごめんなさい!!」」
二人の声が見事にハモる。頭を上げると、バツの悪そうな互いの顔が目に入り、やっぱり同時に吹き出した。
そんな様子を、側に居たあゆみと、後ろからそっと様子を伺っていた圭太郎が、微笑みながら見守っていた。
それから、いつも以上に和気藹々と夕ご飯を取って、雛人形を鑑賞しながらドーナツをみんなで頬張った。
本番は、ちらし寿司やケーキなんかも食べるんだよって、楽しそうにラブが説明する。
せつなはそんなラブの話を聞きながら、雛人形をじっと見つめる。
せつなが、さっき、あゆみに伝えたこと。
「手段と目的が入れ替わっていた」って言葉の真意は、彼女にとって深い後悔と反省を伴うものだった。
(私は今日と同じ間違いを、ラビリンスでもやっていた。幸せな世界を築くために、幸せな毎日を犠牲にしていた。本当は、この世界での日常が大切だったからこそ、同じような世界を目指したはずなのに……)
今度こそ、ひな祭りのような行事を大切に守り続けた、この家のみんなや、この世界の人々のあたたかな心を学ぼう。
時には立ち止まって、足元に目を向けよう。本当の幸せを見失わないように、一つ一つやり直そう。
それを目指して精一杯頑張ろう。そのために、自分は帰ってきたのだから――
「さあ、ラブ。食べ終わったらまた勉強よ!」
「えーっ、もうちょっとゆっくりしようよ~」
「ラブは、私と一緒に勉強するのが楽しくないの?」
「えっ? ……もっちろん、すっごく楽しいよ!」
「なら、決まりね!」
「ええーっ、だから、もうちょっとだけ!」
「ダーメ。早く行きましょ!」
「たはは、いってきます~!」
ラブとせつなの中学生生活が終わる。
春の訪れ、新たなる旅路の門出を祝って、雛人形は優しく二人を見守っていた。
最終更新:2014年02月26日 22:30