「まなびのじかん」4
「ふぅ…終わったあ…」
ミユキは宿題のノートを閉じ、うーん、と伸びをする。もちろん、見直しもきっちりやった。
今日の撮影は長丁場になると言っていたのもあり、宿題はかなり軽めの内容だった。
まあそれでも免除にはならず、しっかり出すあたりが、さすがせつな先生だ。
ミユキはふと思い付いて、以前学校の授業で使っていたノートを引っ張り出す。
「うわぁ…ヒドイな…」
教科書もノートも新品同様にほとんど真っ白だ。
問題の式と答えだけが申し訳程度にちょろっと書いてあるだけ。
途中経過や疑問点、解き方のコツなどの書き込みも一切無し。
授業内容に関係無い落書きの方が多いくらいだ。
これじゃあ、何も理解出来るはずがない。
そもそも理解しよう、と言う、やる気が全く感じられない。
ちらりとせつなと一緒に使った参考書や問題集を見る。
付箋だらけで厚みが倍くらいになっている。
ほんの短期間しか使ってないのに、何度も何度も読み返してヨレヨレだ。
ノートも書き込みだらけで真っ黒になっている。
やるせない気分が込み上げて来た。
二つのノートのあまりの違いに、自分が今までどれほど無為な時間を過ごしていたかを思い知らされた。
自分はダンサーだ、学校の勉強なんて出来なくてもいい。そんな気持ちが少なからずあった。
授業に出ながらその時間をぼんやり過ごす事の方が遥かに無駄な時間だと言う事に気付いていなかった。
少なくとも授業中にしっかり聞き、集中していれば、ここまで数学に苦手意識を持たずに済んだはずだ。
それに先生達だって、ミユキが自分から質問すれば、せつなと同じくらい真剣に教えてくれただろう。
教える側にしたら、全くやる気の無い生徒に教えるくらい虚しいものは無い。
今のミユキにはそれが分かる。
(……2時か。ちょっと、遅いかな…)
普通なら友人同士であってもそんな時間の電話なんて非常識だ。
しかしせつなとの勉強が始まってすぐの頃は、2時3時までの電話は当たり前だった。
時には明け方までかかった事もある。
泣き言や愚痴も随分言った。
せつなは勉強に関する愚痴や泣き言には嫌な顔一つせずに、いくらでも付き合ってくれた。
しかし、ミユキがやる気の無い態度を見せたり、手を抜こうとする事に関しては非常に厳しかった。
せつなの声が耳に蘇る。
(ミユキさん、分からない事ならいくらでも教えます。だから、まず自分で考えるんです…)
最初に叱られたのは、勉強を始めて三日程経った時の事だ。
ある例題を、この問題を解いてみて下さい、そう言われた。
ミユキはいつものようにノートを広げてせつなの説明を待っていた。
せつなはいつに無く厳しい顔で、でも少し悲しげな声で言った。
「ミユキさん、どうして一行も書こうとしないんですか?」
「………?」
「これは昨日やった問題と同じパターンです。数値が違うだけで後はほぼ同じです。
それは分かりますよね?」
「……はい」
「だったら、同じ説明をしなくても解けるはずです」
「………」
せつなは真っ直ぐにミユキを見つめて言葉を続ける。
ミユキはせつなの視線を受け止めかねて、思わず俯いてしまう。
「考えても解らないなら何度でも説明します。でもミユキさん、考えようともしてません」
「…………」
「そうやってノートを前に座ってれば私が勝手に説明して、その通りにすればいいと思ってる。
それじゃ、解答を見ながら問題を解いて、分かったつもりになっていた頃と何が違うんですか?」
「……ごめんなさい……」
「謝らなくてもいいです。じゃあ、これ、解けますね?私は何も言いません」
「………」
「この一問だけで構いません。自力で解いて下さい」
ミユキは改めて問題を見る。
確かに昨日やった問題と文章の書き方と数字が違うだけだ。
それに今気が付いた。つまり、言われるまで碌に問題文すら読んでいなかった、と言う事だ。
ペンを持ち、せつなの視線を気にしながら昨日言われた事を必死に思い出す。
同じやり方ならこれでいいはず、そう思いながらも不安で何度も計算し直す。
そうしてたった一問に随分時間を掛けて、おずおずとノートを差し出した。
「……正解です」
「ーーー!」
「大丈夫、完璧です」
花が綻ぶ様な笑顔を見せてくれたせつなに、ミユキは全身の力が抜けて行くのを感じた。
「ほら、ちゃんと解ってますよ、ミユキさん。勉強なんてこれの繰り返しなんです」
「……?」
「一つやり方を覚える。そのやり方で解ける様になる。また一つ覚える。これからずっとこの繰り返しです」
「………」
「ミユキさん、一度やった事はちゃんと覚えてるんです。現に出来たじゃないですか」
「……うん」
「ほら、大丈夫です。ちゃんと他の問題だって自分で解ける様になりますよ」
甘い笑顔で誉めてくれるせつなに、単純にも、そっか出来るんだ、とあっさり陥落した自分がいた。
思えばこの時に完全に力関係が決定したのだろう。
厳しく注意した後にしっかり誉める、と言うパターンがミユキには有効なのだと。
この後も同じパターンで完璧に飴と鞭を使い分けられて躾られてしまったのだから。
(…やっぱり電話しよ)
最近では常に発信履歴のトップを独占中のせつなの番号を押す。
相変わらず一コール鳴るか鳴らないかの内にせつなの声がする。
『はい、せつなです。どうしました?』
いつ掛けてもせつなの寝惚けた声と言うのを聞いた事がない。
眠っていないのか、それとも一瞬で覚醒出来るのか。たぶん、後者だろうが。
「ミユキです。あー、ごめんね遅くに。その、質問って訳じゃ無いんだけど…」
『……』
「何だか、一度は電話しないと落ち着かなくて…」
電話の向こうでせつながくすくす笑っている。
「その、ありかとう。勉強、ここまで付き合ってくれて…」
『ミユキさん、気が早いです。まだ追試は終わってませんよ?』
「そりゃそうなんだけどさ。あんまり落ちる気がしない。調子乗りすぎかも知れないけど…」
『当然です。私はそんなにぬるい指導はしてません』
「あはは…確かに…」
確かに目茶苦茶恐かった。
でも、だから頑張れた。
『……ミユキさん、明日からは復習と得意な方面を伸ばそうかと思ってたんですけど…』
「…うん?」
『ちょっと、方針変更しましょうか』
「……?」
『試験対策、ミユキさんが自分で立てて見て下さい』
「試験、対策…?」
そうです、とせつなは続ける。
『今回の家庭教師の最大の目的は、数学への苦手意識の克服と、出来ない、と言う思い込みの払拭です。
それは達成されたと見なしていいと思います』
「うん…そう思う。落ちる気がしない…なんて前のあたしなら考えられないもん」
『ミユキさんは本当に頑張りました。それなら、目に見える成果が欲しいはずです』
「…えーと、どう言うこと?」
『良い点数、取りたくないですか?』
せつなは続ける。
今のミユキなら、現時点で試験を受けても、まず落ちる事は無い。
しかし、三年間で習う内容を基礎をみっちり叩き込んだとは言え、短期間での駆け足には違いない。
当然、単元によってばらつきがあるし、理解度も斑がある。
もう問題を前にどこから手を着けていいか分からない様な事はないが、少し複雑な
応用になると歯が立たないのも事実だ。
しかし、今回の追試は入試の様な『落とす為の試験』ではない。
高校を卒業させるに足るかの理解度を計るのが目的と言っていい。
それなら、難解な応用ではなく、基礎力重視の内容になるはずだ。
ならば、実際に学校に通い、授業を受けてきたミユキ自身が対策を立てられる。
『つまり、みんなが普通に試験前にやってる勉強をするんです』
「………」
『先生がどの範囲をどのくらいのボリュームで出すか。どこを重視してて、どこを軽めに済ませるか…』
「………」
『自分で傾向と対策を練って、勉強するんです。ミユキさんが』
「あたし一人で…?」
『もちろん、協力はします。復習してたら絶対にまた解らない箇所が出てきますから、
質問の頻度は今までと変わらないと思いますよ?』
「そう言うもの…?」
『そう言うものなんです』
一人で、と言うのに途端に不安を煽られたミユキだったが、今までと同じく電話も質問も受け付けて
くれるらしい事にかなりホッとした。
「スタジオには……」
『行きますよ。追試が終わるまでは私は先生なんですから』
「じゃ、今までとあんまり変わらない?」
『生活は変わりません。内容が変わるだけです。ミユキさんの学校がどんな風なのか
私は知らないんですから、そこをミユキさんが頑張って作戦を立てるんです』
「……あのさ。ひょっとして、もっと大変になるの?」
『それはミユキさん次第です』
過去問題もミユキの手元にある。
それと照らし合わせれば、どの程度のレベルの問題がどれくらいの分量ででるのかも予測出来る。
ペース配分も大切だ。今までは正確さ重視で問題を解くのに時間の制限はかけていなかった。
しかし本番は50分間と決まっている。
同じ調子で時間を使って、結局半分しか出来なかった、なんて事も有り得るのだ。
「あの、せつな先生に模擬テストを作って頂く、と言う訳には…」
『最初に言いましたよ。予想問題は作らないって』
「…でしたね…」
『私の仕事は解らない部分を理解させる事です。理解した事をどう点数に反映させるかは、
ミユキさんの仕事です』
「………」
『無理強いするつもりはありません。そこそこでいい、と思うなら今日で勉強を
やめても構いません。でも、いい機会ですよ、試験って』
どんな分野でも努力に見合った結果が必ずしも得られる訳では無い。
その点、学業と言うのは費やした労力と質に伴い、非常にに素直に成果が出てくれる分野と言える。
その上、試験での点数と言う、これ以上無いほど分かりやすい評価を下してくれるのだ。
この先、ミユキの人生に数学が関わる事なんて無いかも知れない。
しかし、限られた時間の中で精一杯の努力をし、その結果を目に見える形で掴める。
その経験は決して無駄な努力の結果などではない、かけがえの無い物になるはずなのだ。
「……いい点取れたら、学校の先生も喜んでくれるかな…?」
『当たり前です。教え子が頑張るのが嬉しくない先生なんていません』
白いノートに、ほとんど開きもしなかった教科書。
ぼんやり他人事の様に眺めているだけだった授業。
最後くらい、ちゃんとしたところを見せられるだろうか。
「うん。あたし、やってみる。出来るよね?」
『出来ます。当然です』
言い切るせつなに、ミユキは思わず笑いそうになる。
せつな先生はどれだけ自分の教え子に自信があるんだろう。
やってみよう。最後は自分の力で乗り越える。
きっとそこまでが、授業の一環なんだから。
最終更新:2014年03月15日 01:57