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変わるもの 変わらないもの/maple




「大馬鹿野郎! 親の仕事の良さを理解出来ねえ娘がどこにいる!」
「だってれいかちゃんのおとうちゃんはもっとかっこいいおしごとしてるもん!」
「だってもヘチマもねえ! 頭冷やして反省して来い!」
「やーだーっ くらいのやーだーっ おかあちゃーん!」
「ピィピィ泣くんじゃねえ!」

角刈りの頭に捻り鉢巻き。
いかにも頑固そうな眉がつり上がり、逆八の字を描いている。
ひょいっと細い首根っこを掴んで、泣きわめく子供を納戸に放り込む。どんどんと中から木製の扉を叩く音が鈍く響いて、ぎゃぁぁぁぁぁっ、といっそう激しく子供の泣き声が轟いた。
しかしそれを猫の喧嘩でも聞き流すように無視すると、外側から突っ張り棒で戸を押さえてしまう。いつものことなのか、すぐに母親が飛んできて突っ張り棒を取り外す。

「おかあちゃーん! わ゛――――ん」
「泣かない、泣かない。ほら、もう怖くないでしょ。暗くないよ。明るいよ」
「くらいのやだのー おばけくるもんー ばああって くるもんー」

捩じり鉢巻きは、母親の胸に飛び込んでわあわあと泣いている娘を目を眇めながら見て、へっと唇の端で笑った。母親は、そんな旦那を見て目を吊り上げる。その表情は、先程まで捩じり鉢巻きがしていたのとそっくりに見える。
そんなに厳しい表情をしたのにはちゃんとわけがある。いつものことながら、今日はいっそうひどいように思われたからだ。

「あんた! なおが何したっての! 納得できる言い訳を言ってみな!」
「へん コイツが青木の家の親父のが良いってんで、ちと怒ってやったんだ。てめえの親父を比べるなんざ百万年早……」

言い終える前に、ごん、と鉄槌の下る音がした。直後、頭を抱えて踞る捻り鉢巻き。横には、娘――なおを片手で抱き上げながら、右手で拳を握っているエプロン姿の母親の姿。これにはさすがのなおも驚いたのだろう。元々大きな翡翠のような瞳をまんまるに見開いて、まだそこに涙の雫を残しながら口を閉じられずにいる。
とも子は、痛てぇぇぇぇっ、と叫ぶ旦那の胸ぐらを掴むと、すぅ……と息を肺いっぱいに吸い込んだ。なおは、それだけでこれから何が起こるか理解したのだろう。見開いていた目をぎゅぅっと閉じて、細い、錐のような指で両の耳の穴をきゅっとふさいだ。

「謝りなっせぇ! 良いじゃないさぁ、あんたと青木さんを比べたってぇ! あんたが怒ってるのはねぇ、青木さんに負けてんのを認めてるからだよっ」
「俺がいつあのひよっこに負けたってんでぇ! あんな萌やし野郎には負けてねぇ!」
「そうやって人様の悪口を言うとこさね! ほんに器のでっかい男はねぇ、回りなんか気にしないもんだよ!」

いつも通りと言えばいつも通りの、両親の怒鳴り合い。嬉しくはなかったが、なおは幼いながらもどこかではほっとしていた。男勝りな母と、生粋の江戸っ子である父。あまりに似たような性質の二人は、時々ひどく仲が悪い。
お互いに我が強いから、譲れないことがあるのだろう。何となくだが、見ていれば分かる。『まけずぎらいなんですねえ』と、幼なじみのれいかはかっこいい言葉を使っていたが、なおにはその言葉の意味など分からない。ただ、両親はお互いに『まけずぎらい』らしい。

「もう良い! 俺ぁ呑んで寝る! なお! おめぇも来い! ビール呑ましてやらぁ!」
「ほんと!」
「そんなことさせないよ! あんた幼稚園児に酒飲ますなんて正気かい!」
「おかあちゃん、なおもびぃるのみたいー」
「苦いからだめ!」
「えぇー」

のみたい、のみたいー、と、またいつもの頑固が始まった。誰に似たんだが、と嘆息しながらも、俺なんだろうなと捻り鉢巻き――緑川源次は笑った。やがて泣き疲れれば自然と声が聞こえなくなって、気付いた時には寝息に変わっているだろう。
なおが眠ってからは、夫婦で腹を割って話しながらの酒の酌み交わしだ。
特に酒に弱いわけでも強いわけでもない。が、毎朝毎晩、まるで薬のように少しずつ呑む。忘れたいことがあるからなのか、それとも何か別の所以なのかは分からない。ただ、呑みたいから呑んでいるのだ。

「ビール」
「はいはい」
「――いや、焼酎か」
「……なんかあったのかい? あんたが焼酎なんて……」

あった。
いや、あった、なんてものじゃない。
今日だって些細なことで――確かに腹が立ったのは事実だが――娘を……なおを叱りつけてしまったのは、これが原因だろう。そうあたりをつけて、缶の底に残るビールを泡まで啜り上げる。
尊敬していた畳師が死んだのだ。
ありとあらゆる床材が出てくる中で、頑ななまでに畳を打ち続けた人。



「本日は亡き義父のためにお集まりいただきありがとうございます」



赤茶けた艶々の髪を真ん中で分けた、いかにも生真面目そうな、つまらなさそうな男――年は源次と似たようなものだろうか――が祭壇の横にちんまりと立って頭を下げた。彼の横にはなおと同い年くらいの小さな娘と、ハンカチで顔を覆った彼の妻だろう女が座っている。
手持ち無沙汰なのか状況が飲み込めていないのか……あるいはその両方か、幼女は足をぷらぷら揺らしながら、しきりに「ねえねえ」と母親の喪服の袖を引っ張っていた。――なるほど、あの人の孫らしいやと源次は溜め息をつく。大きな緋色の瞳なんて、頑固そうなところまでそっくりだったから。
そうして、祭壇の真ん中……白い百合の花に囲まれた、一枚の遺影を見つめる。すっかり白くなってしまった髪の毛は、褐色の肌によく映えていた。厳しそうな顔ではあるが、優しげな笑みが口許に浮かんでいる。それから、辺りを見渡して、驚いた。
綺羅星のごとく大工界の著名人が参列していたから。ほとんどがあの人の住んでいた商店街の連中だったが、それだけでも、いかにあの人が大勢の人間に慕われていたかが分かった。
供花も華々しい。あの人が打った畳の納品先だろう。名の知れた屋敷の主人や源次自身も関わったことのある建築家の名前が、まるで道端のたんぽぽのようにあふれていた。
けれど、その死が報道されることは決してない。



縁の下の 力持ち



「―――……あんたもお世話になった人?」

すっかり湿気ってしまった豆菓子を口に放り込んだときにそう訊ねられ、何も言わずに頷いた。本当は、世話になったという言葉だけでは足りないくらいだ。だが、それを伝えるためにいて欲しいその人はもういない。
源次の頭の中には、今でも鮮明に残っている。自分の才能が認められないのは周りの見る目がないからだと決め付けていた、あの頃のこと。今回評価されなかったのは本気を出していなかったからだと言い訳していた、あの頃のこと。

「おい、若ぇの……お前、自分の仕事は 好きか」

それが、最初の言葉だった。
どこで出会ったのかどうしてそんな言葉を振られたのかは分からないが、とにかく、一人の老人と、知り合った。
藍染めのぱりっとした羽織に、すきっとした白い刺繍で桃の字の入った――桃園源吉に。

「何だ、突然……好きに決まってる。じゃなかったらやってねえよ」
「そうかぁ……とてもじゃねえがそうは見えなかったがなぁ」

公園のベンチに腰掛けてカップ酒を呑んでいるような親父に絡まれたって、そんなことで動じるような心を、源次は持ち合わせていなかった。短気なのも働いて、彼はその場から立ち去ろうと歩き出す。しかしカップ酒を片手にした老人――後に桃園源吉という名を知る訳だが――が、のらりくらりとついてくるのだ。

「おめぇ、駆け出しの大工だろぉ」
「……何で分かった」
「当たりか! そんな小せぇ肉刺(まめ)で大工なんざ聞いて呆れらぁ」

源次は、言われてから自分の掌を見た。確かに、カンナやノミがあたってかたくなっているべき箇所が、申し訳程度に膨らんでいるだけで、痛みもしなければ痒くもなかった。何だかそれが恥のように思えて、源吉から見えないように拳を握り込む。するとますます愉快そうに彼は笑うのだ。
無性に腹が立った源次は、じいさんの仕事は何だよ、と、仕返しのつもりで聞いてみる。もしもこれで定年退職してたら笑ってやる、と。

「なぁーにしがない畳屋だぁ。娘婿はサラリーマンになっちまうし跡継ぎもいねえ寂しいじじいよぅ」

畳屋 か
どおりで掌や節々がかたく厚くなっているはずだ。畳針を握る目の前の老人の姿が、ありありと脳裏に浮かんだ。どん、どん、と、畳を叩く音も聞こえる。
ああ良いなあ。やっぱりものを造る仕事は良い。源次は溜め息をついた。
何もないところに家が建つ。それがどんなに興奮することか。きっとこの人の義理の息子には分かるまい。

「若造、おれ達の仕事はよぅ、ホームランを打つことでも、ゴールネットを揺らすことでもねえよ……だけどよ、」

源次は、むっとした。自分が誇りを持っている仕事を貶された気がしたからだ。確かに派手ではない。だが、地味だとも思わない。人がいる所には家がある。家がある所には人が住む。
切っても切り離せない存在ならば、その必要性だって相当なものなのだから。

「ホームランを打つためにゃ……ゴールネットを揺らすためにゃぁ、バントをする奴も必要だろうし、パスを繋ぐ奴もいるだろうよ。―――……おれはこの仕事に誇り持ってんだ。縁の下の力持ち? 最高の誉め言葉じゃねえか。おめぇに与えられるいっちゃん良い勲章だよ」

カップ酒をゆらゆら揺らしながら、源吉はにっと笑った。源次ははっとしたように顔を上げ、背筋のしゃんとしている目の前の老人を見つめた。背こそ源次よりも低いものの、貫禄というか、威厳のようなものに溢れている彼は、とてつもなく大きな存在に見える。

「―――……俺だって 誇りに思ってらぁ」

減らず口を叩いた源次に向かって、源吉は「可愛くねえなぁ」と笑いながら肩を叩いてきた。頑張ろうやと聞こえた気がして、肉の薄い掌をぎゅぅっと握り込む。
「いつか」と源吉が背を向けて歩き出すのと同時に、源次は口を開いた。

「いつか俺の手がじいさんの手みたいになった時、……その時が俺の本気だ! 待ってろよ! 絶対越えてやらぁ!」

――源次の言葉など、あの人の義理の息子でありながら、あの仕事を継がない奴に分かる訳がないだろう。
だが仮にもここは祭壇の前だ。源吉の前で無様な姿は晒したくない。極力声を押さえて低めて、「喪うには惜しい人でした」と頭を下げる。その恰幅の良さや大工らしいごつごつとした手を見て確信したのだろう。男……桃園圭太郎は、かさりと黒いスーツの胸ポケットから何かを取り出す。源次はいぶかしげに眉をひそめた。

「生前は義父がよくお世話になっていたようで……彼が遺した手紙をお渡ししたかったんです」

何も知らないくせに。
子供のような屁理屈が、喉の真ん中まで出かかった。咄嗟にそれを飲み込んで、源次は恐る恐る手を伸ばす。



受け取って くださいますか



あまりに圭太郎の声が細かったものだから、不安になったのかもしれない。この中に、一体何が書いてあるのだろうと。
震える手で受け取ると、「色々な方に書いていたようです」と、今にも消えそうな幸の薄い笑みを浮かべられた。それもそうだろう。源次にとっては尊敬出来る人であっても、彼にとっては義理の父親なのだ。
遺された家族の気持ちなど、源次には分かるはずもなかった。
意外と几帳面に畳まれた便箋――というには物足りない簡素なメモ――を開くと、男らしいがさつな……しかし気持ちのこもった、源吉の言葉がそこにはあった。



【緑川 真っ直ぐな】



教え諭すように、宥めるように、たった一言。
喉の奥から張り出す声を堪えきれなくなって、源次は床に倒れ込むように膝をつき、うあああっと声を上げて泣いた。
変わるきっかけをくれた人が
初めて尊敬出来た人が
死んでしまった
いなくなってしまった
もう 会えない
何も 教えてもらえない
教えたいことが あった
教えてもらいたいことが

「……っくそじじい……っ!」

くしゃくしゃに丸まったメモからは、「真っ直ぐな」そのたった一言しか伝わってこなかった。
だが、源次の耳には、今確かに、「泣くな若造」と、あの低いしゃがれた声が聞こえた。たった一言。しかし大切な一言。

「緑川さん……」
「――あんた、良い親父を持ったな」
「―――……はい。僕は 誰より幸せですよ」

先ほど見せた幸の薄い顔はどこにいったのか、圭太郎は晴れ晴れとした笑顔を見せた。それが救いになって、源次はゆっくり立ち上がる。源吉が教えてくれた。
過去と他人は変えられねえが、未来と自分は変えられる。
……変えてやるよ。この手で。
今はもうあの頃と比べ物にもならない、この手で。



「……辛かったね」

連れ添って十数年、初めて向けられた女房の哀れみの目。源次は、よせやいと強がりながら涙を呑んだ。涙と一緒に飲み込んだ酒はひどくまずい。
隣の寝室ですやすやと眠っているなおの寝顔を見ながら、源次は薄く笑ってみせる。

「あの人の孫もよ、うちのちびと同じくらいだったな……」
「どんな子だった」
「ハッピーだかピースだか……おめでたい名前だったよ……真っ直ぐな目ぇした、良い面構えだった」
「じゃ、なおもそんな子になったら良いねぇ」

なるさ。
証拠はなかったが、源次ははっきりと言い切った。

「真っ直ぐな名前だ。そうなるに決まってらぁ」



いつか
この子が大きくなった頃
もしも あの 変わった名前の女の子と出会ったのなら
その出会いには、何と名前をつけてみようか



「なおちゃーん」
「ラブちゃん!」
「あのね、あたし、どうしても直したいぬいぐるみがあるの! お裁縫、教えてくれないかなー……?」
「お安いご用! もしよければわたしがやるよ?」
「ううん! それはいいの! この子は……ウサピョンは、あたしの大事な友達だから!」
「大事にしてるんだね、そのかわいいぬいぐるみ!」

……過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる。
これから出会う人も、ことも、楽なことや楽しいことばかりでは、ないかもしれないけど。
それだって受け止めて、愛して、包んで、生きていく。
ラブという名に込められた、
なおという名に込められた、
その、意味を、考えて。
最終更新:2014年04月02日 21:58