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くもがくれ/maple




東京都近郊にある、七色が丘。
その面積の半分はしめているのではないかとまことしやかに噂される、青木邸。
その一角、母屋と離れを繋ぐ廊下沿いには、この家の長女・青木れいかの自室がある。
いつもならば、墨をするような微かな音と、それが醸し出す生き物の生きたにおいしかしないような部屋だが、今日はほんの少し勝手が違う。
少女の話し声と、部屋に持ち込まれたスナック菓子のにおい。それらがなんともいえない割合で混ざり、新鮮な音とにおいをふりまいている。

「れいか~ わたしね、国語だけは得意だと思ってたんだよ?」
「そうね。なおは昔から絵本が大好きだったし、ごきょうだいに読み聞かせもしていたもの」
「でもね、今回のテスト勉強、ぜんっぜんわかんないの! どうしよう、れいか! これはもしかしたらのろいかもしれないよ!」
「一体何の呪いなの」
「助けてよぅ~」
「よし、よし。よい子だから泣かないでくださいね」

正座したれいかの胸に飛び込むようにして、なおは珍しく動揺したように泣きじゃくる。……ふりをする。
れいかもなおの扱いには慣れたもので、いつもはなおがきょうだいたちにそうしているように、彼女の形のよい頭蓋骨のかたちを確かめるように、なでてやる。するとなおはそれが心地よかったのか、すぐに猫のようにじゃれついてきた。
――なおは、昔からこう。
父の源次は厳しい人だったし、母のとも子も甘やかし下手だったから、なおは人に甘えることが苦手で、そうこうしている内に次々ときょうだいたちが生まれてしまった。だから今は甘やかす側で、やっぱり彼女が甘えることはできない。
それがわかっているから、れいかも彼女がたまに見せる弱さ――甘えるような仕草を、慈しむようになった。それが、幼なじみである2人の不文律、というか、暗黙の了解みたいなものだ。
れいかなら甘えてもいい。
なおがそう思っているから、れいかは思い切り彼女をかわいがれる。
なおなら、甘やかしてあげたい。
れいかがそう思っているから、なおは思う存分、彼女に甘えられる。

「――なおは、歴史の苦手は直せましたか?」
「う、ん……れいかが言ってくれたとおり、弟たちにサッカーの歴史とか教えてたら、いつのまにか暗記がつらくなくなったよ」
「それでは、国語にも歴史があるのはご存知ですか?」

国語に歴史? と、なおはあほみたいにおうむ返しした。しかしれいかはそれを予見していたかのように、ふっと笑って説明する。

「そうです。古文、現代文と、ちゃんとわかれているんですよ。今回のわたしたちのテストに出る『源氏物語』は、どちらだと思いますか?」
「えっと……大昔に書かれたけど、今まで残ってたから現代文?」
「それではすべてのお話が現代文になってしまうわ」

れいかがくすくす笑いながら言うと、なおはほんのちょっぴり気分を害したように、くちびるを尖らせた。拗ねたときや甘えているときの癖だ。れいかはそれすらも愛おしいと思いながら、彼女の癖のない髪の毛に触れる。

「現代まで残っているか否かに関わらず、昔書かれたものは古文と呼んでよいのよ。だから、『源氏物語』も古文なの」
「へえ……」
「この物語は、眉目麗しい一人の貴公子・光源氏と、彼の周りに侍った数々の女性のお話で……」
「す、ストップ! ストーップ! ……れいか、ごめん、もうちょっとだけ簡単に……」

なおはちんぷんかんぷんだとでも言いたげな顔で、れいかに手を合わせた。申し訳なさそうに片目をつむっているのが、ウインクしているようにも見える。
仕方ないですねえとは言ってみるものの、本当のところはそんなこと、かけらも思っていない。誰かになにかを教えるのは楽しいし、相手がなおであるならよりいっそうその気持ちが強くなる。

「つまり、イケメンでプレイボーイなヒカルくんと、その方のガールフレンドたちのお話です」
「ああ! それならわかるよ! ……え、でもガールフレンドたち、ってことはたくさんいたの?」
「ええ。昔はこの国も一夫多妻制でしたから。……つまり、一人の男性に何人もの奥さんがいたのよ。ちゃんとわからないところは説明するからそんな顔をしないで、ね?」

れいかは、まるでこの世の終わりみたいな顔をしているなおにくすりと笑いかけながら確かめるように彼女の顔を覗き込んだ。なおは、こくんとうなずいて先を促す。

「テストに出るのは源氏物語だけれど、今日は作者である紫式部が、このお話でなにを書こうとしたのかについてお話しましょうか」
「自分の理想の男の人を書きたかったって聞いたことがあるけど」
「それも、そうですね。でも 本当にそれだけだと思う?」

含みを持たせたれいかの言い方に、なおはぱちぱちと目をしばたかせた。そうして、ゆっくり首を横に振る。
れいかは、我が意を得たりという顔をして、得意気に口を開いた。人目にはいつもと何ら変わらないけれど、彼女が「つん」と顎を上げて目を閉じているのは、得意になっている証拠なのだ。なおは、そういう、みんなは知らないれいかを自分だけが知っているのが嬉しかった。

「これは、紫式部本人のお話にも関係しているの。彼女の本当の名前は『香子』といって、幼い頃には『藤子』という名の親友がいたそうよ」
「それって、わたしたちみたいな?」

れいかは、何も言わなかったけれど、ふっと顔をいつもの角度に戻して、にっこり微笑んだ、そこには「その通りよ」という気持ちや「ちょっと違うのよ」という気持ちがぐちゃぐちゃに入り交じっている。
なおは、その表情の真意をつかみかねて、話の先を促した。

「ふたりは本当に仲がよかったけれど、その性格は真反対でした。香子は、漢詩文もかな文字も学んでいて、本当に賢い女性だったようです。でも、藤子はおてんばで、殿方とけんかばかりしていたのだとか」
「ふふ ほんとにわたしたちみたいじゃない?」
「そうね。――そうかもしれないわね」

二度、噛み締めるように言いながら、れいかは虚空を見つめた。なおには、まだその本意がわからない。どうしてだか、れいかは自分たちと香子たちを重ねたがっていない気がした。
れいかの話は続く。

「香子はね、お父さまから勉強をやめるよう言われていて、たびたび藤子に相談していたみたい」
「ええ? それってどういうこと? 『もっと勉強しろ!』なら、わたしもよくお父ちゃんから言われてるけど、やめろ、なんて言われたことないよ」
「――当時、女性に決定権なんて存在しなかったのよ。結婚はもっぱら愛のない政略結婚。勉強は男性のすることで、女性はただその場にあるだけでいい――今のわたくしたちには信じられませんが、それが当たり前だったんです。男性にとって女性は守ってあげるべき庇護の対象。弱い生き物。藤子も香子も、そんな風潮に首を傾げながらも従わざるを得なかったのでしょう」



つらい 世でした



まるで、れいかは自分がその時代を生きたかのような苦しそうな口調でそう言った。そういえば、れいかの髪型や物腰は、昔のお姫さまによく似ているかもしれない。
時代劇をやったときにも、よく似合っていた。
なおはふとそんなことを思いながら耳を傾ける。

「けれど藤子は香子とは違いました。彼女は、突拍子もない提案をしたんですよ。――『私は腕っぷしで男どもに勝ってみせるから、香子、あなたは頭のよさで男どもを蹴散らしなさい!』と」

れいかは楽しそうに笑いながらそう言って、なおの顔色をうかがう。なおも「そんな時代にそういうこと言えちゃうなんてすごいね!」と手を叩いて喜んだ。
それから、れいかはこうも付け加える。
実の父親からもやめろと言われた物書きを、親友である藤子だけが誉めてくれたこと。
香子には才能があるよと言ってくれたこと。
香子は、そんな藤子が大好きで、彼女には幸せになってほしいと思ったこと。
――それらを一通り聞いてから、なおは「本当に仲良しだったんだ」と改めて言った。れいかは軽く顎を引いて、物語を続ける。

「ですが、ある日、藤子には結婚の話がきてしまうのです。昔の女性は、結婚すると自由はほぼなくなり、旦那さまとなった方の言いなりでしたから、それまで藤子が目指していた『宮仕え』というお仕事はできなくなります。心配する香子に、藤子は言いました。『宮仕えの夢もあきらめたわけじゃないのよ。約束したでしょう? あなたは頭脳、私は腕っぷしって』」
「藤子さんの、そういう前向きで直球勝負なところ、好きだな。よくわかる」
「ええ でも、香子――すでに宮仕えを始めて紫式部という名前に変わっていた彼女が源氏物語を著し始めた頃、式部を驚愕させる出来事があったんです」

れいかは言っていいものか迷うように、人差し指の指先で軽く鼻頭をこすった。これもれいかの癖。迷ったり、困ったりしたときの。
もっとも、彼女が迷ったり困ったりすることはあまりなかったから、すごく、めずらしいことではあるけれど。

「――源氏物語の執筆に行き詰まっていた式部の元に、旦那さまのお仕事の都合で、藤子さまがお近くにいらっしゃいますよというお話がきたのです」
「それってうれしいことなんでしょ? 結婚しちゃってからはべつべつっぽかったし、紫式部がちゃんと働いてたってことはすっごく久しぶりだったんじゃない?」
「それは そうなんですが――」

れいかの、言いにくそうな顔。なおは、聞いてもいいのか一瞬迷う。だって、こんなにも困った顔をしたれいかが目の前にいるんだから。

「藤子さんはね、紫式部が彼女の前に現れても、無視、したんです」
「え なにそれひどくない? なんでせっかく会えたのに……そんなの、筋が通ってないよね?」
「ええ、でも、そうするしか、なかったんだと思います」

れいかの困った顔に加えて、なおの不思議そうな顔。ふたりはしばし見つめあってから、諦めたようにれいかが吐息混じりに口を開いた。

「藤子さんは、旦那さまの言いなりになった、男性に対して何も言えなくなった自分が、許せなかったのでしょう。だから、親友である――男性には負けないと誓い合った紫式部に弱さを見せたくなかったのでしょう」
「……」
「けれど式部にはそんな事情はわからない。――結局、お手紙を書いてそれを藤子さんにお渡しになりました」
「手紙?」
「手紙といっても、和歌だけしか書かなかったようですけれど」

れいかは黙って頷いて、なおの目を見つめながら和歌を詠む。なんだか視線をはずしてはいけないような気がして、なおも負けじと見返した。



『めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな』
――あれは本当にあなただったのかな……?
曇る夜空の、月みたいな人
見えたと思ったらまたかくれる



せつないね。と、なおは呟く。
こくん、とれいかは頷いた。
どれだけの長い時間、互いを想っていたって、時代が、周りが、その気持ちを変えてしまう。……気持ちは変わらなくても、行動を、そうせざるをえなくなってしまう。それってすごく悲しいし、くやしいことだね。なおはそう言った。

「――紫式部は、藤子とのやりとりを通して、時代に負けない女性の強さを描きたかったようですよ。……だから、源氏物語には数多の女性が登場するのでしょう。 時には恋がうまくいかなくったって、旦那さまに身限られたって、呪われてしまったって、病にかかってしまったって、それでも日々を生きた、素敵な女性たちがいたということを、せめてわたしたちは覚えていましょうね」
「―――……うん」

なおの頷きから少し遅れて、ぴょこん、とポニーテールが揺れ動く。れいかはそれを見つめながら、にっこり微笑んだ。
『わたしたちみたいだね!』
……なおのあの言葉が、頭から離れない。もしも、なおが、この物語の顛末を知っていたとしたら、あんなことを言うだろうか? それとも、言わなかった?
知っていても、言ったでしょうね。
れいかは尊敬と呆れと若干の期待を込めた目でなおを見やり、それから薄く笑う。

「れいか?」
「――なお。 わたしたちは、ずっと一緒よ」
最終更新:2014年04月07日 20:28