ハンドクリーム/maple
「マジョさん、新しいお茶菓子、おいしいですか」
「フン ま、まあまあだわさ」
「そうですか 良かった」
ぽかぽかと秋日和の昼下がり、いつものように小さな交番の箱の中には、マジョリーナとおまわりさんの姿。彼は悪態をつくマジョリーナをものともせずに、にこりと微笑んで自分も湯飲みの中の緑茶をすすった。
勤務時間のこの一時が、最近は待ち遠しかった。なかなかマジョさんが来なければ心配になるし、物をなくしていないのなら良いんだ、と安心もする。街角の小さな交番にだって、毎日のように小さな事件は舞い込むのだから、暇ではなかった。だからこそ、こういうゆったりした時間が愛しいのだろう。
「アンタ……本当に変わり者だわさ」
「そうですか? 僕はただ マジョさんといると心が安らぐだけですよ」
「そ そそそそういうことを簡単に言うんじゃないだわさ!」
「ははは 痛いですよ、マジョさん」
ぽかぽかと小さな拳で体を叩かれ、彼はにこにこと笑顔を増した。なぜだか彼女と過ごす時間は貴重なものに思えて、それは少なからず田舎に残してきた老母のことがあるからだろうと彼は考えていた。
都会とは程遠い、栗の木や柿の木ばかりに囲まれた田舎で育った彼は正義感だけで上京し、親の仕送りで高卒のまま警察官という仕事に就いたのだ。当時はそれでも許されたが、最近は就職氷河期だかなんだかで新卒生が苦労しているという話をよく耳にする。本当に自分は運が良かったと思った。
ただ、そんな状況だから、新たに警察官になるのは某有名大学卒業でラグビー部の主将でした、みたいな猛者ばかりだ。つまり彼よりも警察官に相応しいような人たちばかり。だからこういう小さな町のすみっこに追いやられたのだろう。要するに左遷だ。けれど彼はそれに感謝していた。この左遷がなければこの素敵な町に出会えることはなかったし、マジョさんにも巡り会えなかっただろうから。
「―――……おかあさん か」
「なんか言っただわさ?」
「いえ、なにも」
ふっと翳った彼の顔は、どこか寂しげで、マジョリーナはつまらなさそうにフンと鼻を鳴らした。人のバッドエナジーは良いものでも、今のはマジョリーナがさせた顔ではない。自分がさせた顔でなくては意味がない。
◆◇◆
それから数日して、彼は上層部に暇をもらうと田舎の老母の元へと帰省した。マジョリーナは木枯らしの吹く寒空の下、いつもと違うでっぷりと太った中年の警察官にそのようなことを聞いたから、またつまらなさそうにフンと鼻を鳴らして、小さな足でどすどすとコンクリートを踏みつけながら帰っていく。
彼がいない交番は、確かにいつもの場所であるのに、寒々としていて、面白くない。でぶの警官は、あれがいつも来るっていうおばあさんか……としばらくマジョリーナを目で見送っていた。彼は同僚が楽しそうに彼女の話をするのが好きだった。いつも、おかあさんを思い出すんだ、と言いながら、淋しそうに笑っていた彼。
彼は今頃どうしているだろう。もう田舎には着いたのだろうか。
「おかあさん」
「あらあら、めずらしい お帰り、どうしたの」
「――久しぶりに 星が見たくなったんだ」
はにかむように笑いながら、彼は玄関に荷物を下ろした。年老いて視力の落ちた母親は、しわくちゃな顔の真ん中に目を埋めて、にこにこ笑っている。よほど息子が帰ってきたのが嬉しいのだろう。いそいそと台所へ向かっていく後ろ姿は、背中が丸まっていて、やはり、マジョさんにそっくりだ。
「お茶、いれようかねえ。おいしーい干し柿や干し芋があるんだよ」
「うん ……いただきます」
子供の頃に好きだったのを、覚えてくれていたのだろうか。最近では自分がのむ薬すら忘れてしまうと聞いていたが……そういった老いは全く感じさせず、彼女はくるくると立ち回った。
彼は、昔彼の父親がそうしていたように、ただちゃぶ台の前にどっかりと腰を据えて座っていた。何をするでもなく、ぼうっと老いた母の姿を目線で追うのだ。
「―――……なにか 変わったことは あった?」
先に沈黙に耐えられなくなったのはあちらの方らしい。以前よりもゆっくりと、言葉の意味を確かめるみたいにしながら彼女は言葉を紡ぐ。シュンシュンとストーブの上でやかんが鳴る中で、細いしゃがれた声がした。彼は驚いたように目を見張ったが、すぐに嬉しそうに言葉を紡ぐ。
よくある落とし物の話、迷子の子供と、そのお姉さんの話。そのお姉さんと仲の良い4人の女の子の話。そして、
「最近、とてもすてきな人に出会ったんだ」
「まあ、どんなかた?」
「小柄な人でね、どこかおかあさんに似ているんです。最初は落とし物を探しにいらしただけなんですけどね、最近ではお茶しにきてくれるようになったんですよ。町の人から気軽に立ち寄ってもらえる交番なんてすてきじゃありませんか」
誇らしそうにそう言うと、母親は「あらあら、良かったわねえ」とにこにこした。彼は堰を切ったように話してしまったのが気恥ずかしくなって、おかあさんのほうはお変わりありませんかとどこかよそよそしく尋ねた。彼女は水を与えられた魚のようにせっせと動き回っていたのに、ぴたりとその手が止まってしまう。
どこかふと淋しげな顔をしたのを、彼は見逃さなかった。
「……わたしはなんも変わらんよ。ただね、みんながね、」
「みんな?」
彼女の視線が動くままに、彼は縁側から庭までを舐めるように見つめてみた。
ああ、なるほど。景色が見違えてしまっている。縁側から見えていたはずの大きな栗の木は今頃どこかの家の床材だろうし、中学生三人が座ってもたゆまなかった金木犀の木は枯れてしまった。
彼の母親も、今や年輪を重ねた大木のようになってしまった。
皆が老い、枯れて、なくなっていく。
儚くて、切なかった。
「おかあさん、ハンドクリーム、ありますか」
「ええ、あるわよ。どうしたの、痛いの」
「いえ。たまの帰省ですから、親孝行をしたいんですよ」
臙脂色の蓋を開けると、オロナインの独特な匂いが畳の匂いに混じりながら鼻孔をくすぐった。母親は、まるで結婚式で指輪を交換する花嫁のように顔を赤らめながら手を差し出している。彼はゆっくりその手をとって、慈しむように、愛しむように撫でるようにクリームをすりこんでいく。枯れ枝のようになってしまった母親の手を、彼はきゅぅっと力を込めて握り込んだ。
「僕とお姉さんを育てるために、昼は町工場、夜は居酒屋で働いてくれましたね。……まさに寝る間も惜しんで働き続けた中、ごはんは手作り、旅行にも連れて行ってくれました。――僕には八つ当たりされた記憶もないんですよ。一体どうやって時間をやりくりしていたんです」
彼女の手があまりにもあたたかくて、素直な言葉が次々と口から飛び出してくる。本当はずっと気になっていたんだ。親孝行もせずに田舎を飛び出して以来、どこか後ろめたくて帰省も満足に出来なかった。たまの手紙も手短に近況報告をするばかりで、彼女を気遣えなかった。
が、母親の老いた口許は半月のように柔らかな弧を描きながら微笑みをつくりだし、その口からは驚くような一言が漏れる。
「時間ってあんがい、やーらかいものよ。――だからあなたも、大事にね」
町とのであいを。
人とのめぐりあいを。
そう付け足して、彼女は息子の顔を見上げるような仕草をした。なぜだか涙が止まらなくなって、いつもの癖で帽子を目深にかぶるような仕草をしてしまい、慌てて目許を拭った。
彼女は優しい目のまま、息子の肩を優しく叩く。
彼は母親の手を自分の肩から取り上げると、ぎゅっと握り込んだ。そうしてそのまま涙を流し、はい……はい……おかあさん……と、小さく、小さく、呟いた。
◇◇◇
「―――……あ、マジョさん お久しぶりです」
「アンタ、帰ってきたんだわさ?」
「ええ しばらく実家に残るよう言われたのですが、マジョさんやこの町が恋しくて……母には無理を言ってしまいました」
照れたように笑う彼は、また近い内に帰りますよとマジョリーナに報告した。なぜだか彼女が母親の鏡に見えたからだ。
自分が帰っただけで生き甲斐を得たようにくるくると立ち働く母親の姿。昔から忙しそうにしていた母だったが、それは今も健在だったようだ。
「フン あ、あたしは別にお前さんがいなくたって寂しくはなかっただわさ」
「――僕が淋しかったんですよ、マジョさん」
彼はカラカラと机の引き出しを開けて、白と臙脂色のコントラストが眩しい器を取り出した。マジョリーナが我が物顔で椅子を引き寄せてその上にちょこんと腰かけたのを見ると、にこりと笑って蓋を開ける。つんとした独特の匂いに、マジョリーナは顔をしかめた。しかし彼は黙ったままマジョリーナの手を取り、その小さなしわくちゃの手にクリームを優しく塗り込んでいく。
乙女の手に勝手に触るなんてどんな教育を受けてるんだわさ! と声を荒げたマジョリーナはしかし、彼の温もりに酔うように、やがて静かになってただぼうっとしていた。
「……マジョさん、これからもここを第二の家だと思って きてくださいね。お待ちしていますから」
外は木枯らしが吹きすさび、落ち葉ははらはらと散っていく。しかしこの小さな箱の中には温もりと優しさと少しの愛情が溢れていて、マジョリーナは居心地悪そうにもぞりと動いた。拗ねたように尖らせられた唇からは、「……気が向いたらきてやっても良いだわさ」と悪態めいた言葉が飛び出す。
しかしそれに気を悪くするでもなく、若い警察官はぷはっと苦笑し、優しく彼女の手を撫で続けていた。
了とする。
最終更新:2014年05月08日 21:10