したたかな/maple
弓道―――…
それは、武士の身に付けるべき道。
きゅう-じゅつ【弓術】
弓で矢を射る術。古代より射芸として行われ、中世には逸見(へんみ)流・小笠原流・日置(へき)流・吉田流などの流派が出現。明治以後は武道の一種として「弓道」の名で普及。射術。
――――広辞苑より
弓道は、精神のスポーツだ。
的前に立つと、誰もが恐れおののく。
まるで心の内を見透かされているかのように。
清い心を全身に立ち上らせるようにしながら、一人の少女は正座する。目を閉じ、外界からの刺激を一切感じ取らずに。ただ、世界は彼女と、彼女を取り巻く空気しかないかのような、そんな状態。すぅ……と息を深く吸えば、どくどくと苦しんでいた肺に酸素が行き届く。
さわさわと揺れる枝葉。それと同時に少女は立ち上がる。微塵の迷いもなく。ただ真っ直ぐに的を射る瞳。浅いようで深い瞳の色が、何だか強情そうにも見える。
弓を張り詰めると、弦がきりきりと緊張した音を立て、瞬間、ひょ、と風を切って……文字通り、空気を切り裂きながら……弓から放たれた矢は的に一直線に向かう。迷いも、焦りも感じさせない。氷の刃のように。突き刺さる。
「……」
「すごーい! すごい、すごーい! れいかちゃん、かっこいい~~!」
「あ、こら! やよい! 声出さないって約束だったでしょ!?」
「せやで、やよい~? オカンに怒られるからやめとき~」
「……あーかーねー……誰がおかんだって~~~?」
「あ、あかねちゃん、なおちゃん! けんかはやめようよ! う、ウルトラアンハッピーになっちゃうよ!?」
「みゆきは黙ってて!」「みゆきは黙っとき!」
「わたし悪くないのにぃ~~」
「み、皆さんおそろいでどうなさったんですか……?」
突然の来客に驚いたように、少女・青木れいかは声を上ずらせた。先ほどまでまとっていた氷のような空気感はすでにない。弓を体の横に携えたまま、入り口付近から中を覗いていた四人に歩を進める。
手を顔の前で組んで瞳を輝かせる少女が一人・黄瀬やよい。
元々吊り目がちな瞳を更に吊り上げている少女が一人・日野あかね。
彼女の売り言葉に買い言葉の少女が一人・緑川なお。
そして二人から同時に黙れとの命令を賜った少女が一人・星空みゆき。
ちなみに、彼女のふっくらとした血色のよい頬は、不満げにぷくりと膨らませられている。
「はっぷっぷ~~……あのね、わたしたち、れいかちゃんの練習しているところが見たいねーって話してて……」
「それでね、来てみたの! そしたらちょうどれいかちゃんが矢を放った時で……! すっごくかっこよかった! まるでスーパーヒーロー!」
「それは言わんでええわ!」
なおと言い合っていたはずなのに、しっかりやよいに突っ込みを入れて、あかねは満足そうに腕を組む。きっと彼女には何かこだわりがあるのだろう。
「……ちょうど良かったです。わたくしから、皆さんにお話したいことがあったので。どうぞお上がりになって」
「なんなん? 話って…」
「とりあえずれいかに従おう」
「おじゃましまーす!」
「おじゃましまぁす」
れいかの手が指し示すままに、あかね、なお、みゆき、やよいの順で道場の中に入る。年季の入った、玉ねぎをよぅく煮詰めた飴色の床板が、きしりきしりと妙な甲高い悲鳴を上げている。
れいかを前にして四人が横一列に並ぶと、彼女はどこからか数本の矢を取り出した。どれも使い込まれていて、ところどころには傷すらある。四人が、一体なんなのだろうと目を丸くしていると、突然れいかはやよいに矢を渡す。数本ある内の一本を。
「折って下さい」
「ええっ?! だ、だめだよね、れいかちゃん……? だって……どうして……え……? え……?」
「申し訳ありません、説明が足りませんでしたね」
うるうると潤んだ瞳のやよいに深々と頭を下げてから、れいかはにこやかに微笑んで見せる。やよいは、今にも琥珀の瞳から零れていまいそうな涙を堪えて、矢を握りしめていた。なおやあかねはそれを見て、まるで小さい赤ちゃんみたいだ、と思ったものの、これを言おうものならどれだけ泣かれるかわからないから、お互いとりあえず黙っておくことにした。
れいかの丁寧な口調で、今やよいの手の中にある一本と、彼女自身が持っている数本は、すべて捨てるものなのだと言う。「本当は美術部さんに引き取っていただく予定でしたが、別の題材を見つけただとかで、お断りされてしまったんです」と付け加えて。
「ですから、どうぞ。折って下さい」
「……お、折れるかな……がんばってみるね! ……う、ん……ん~~~~~っ」
顔を真っ赤にしながら思いきり力をこめた割りに、ぽきん、と心地好い音を立てて、いとも容易く折れてしまう。やよいは、まさか折れるとは思っていなかったのか、それとも別の理由があるのか、嬉しそうに表情を緩ませた。
「わたしってもしかしてスーパーヒ……」
「はいはい、もうそのくだりはいらんで! んで、れいかが急にこんなん始めたの、なんでなん?」
あかねに遮られたやよいは、不機嫌さからなのか遮られたことが悲しかったのか、再び瞳を潤ませる。なおは、困ったように苦笑いしながら彼女の頭を撫でた。
「それをお伝えするのは、もう少し後にしましょう。……みゆきさん、あなたは2本をいっぺんに折ってみてください」
「わ、わたし!? できるかな~……き、気合いダ気合いダ気合いダ気合い気合いダ……っ……」
ふぬー、と顔を赤くして、どうやら両手に気合いを注入し終えたらしいみゆきは、「てやぁっ」と大声を上げて弓矢をしならせる。先ほどやよいが手折ったものよりは長く持ったものの、やがてそれらも、ぽき、と情けない音を立ててしまう。
「やった~~~!」と、それぞれ手に折れた矢を掲げて仁王立ちすると、足元からじとりとした視線を感じた。
「自分、ちょぉ喜びすぎちゃうか? ……ウチかて折れんで」
「あたしも」
「なぜか冷たい視線~~~」
せっかく折ったのに……と力なく床板に腰を下ろすと、ちょんちょん、と背中をつつかれる。ふと刺激の与えられた方を見ると、にこにこと満面の笑みを浮かべたやよいがいた。
「温かい目!」
「みゆきちゃんかっこいい~~~!」
「やよいちゃんも~~~!」
「「ねー!」」
「なんや……この二人の空気……うっとーしーっちゅーか……暑苦しいっちゅーか……」
「あかねがそれ言うか……?」
「聞き捨てならんな、オカン! 誰が暑苦しいて? 自分が風やからってバカにせんといて!」
「誰がおかんだ、誰が!」
きゃっきゃと手に手を取り合って喜ぶみゆきとやよい。そして、違う意味で手に手を取って(握りあって、額と額を突き合わせ)睨み合うあかねとなお。れいかは、少し楽しげに微苦笑を浮かべながら、ただじっとその様子を見ていたが、どうやらこのざわめきは終着点がないらしいと気付くと、「あかねさん」といつものごとく、氷のように真っ直ぐで、水のようにたおやかな声で彼女の名を呼んだ。
「なんやぁ? 今度はウチの番かいな」
「3本の矢……さ、どうぞ」
なおは、れいかの静かな声に何か気づいたのか思い出したのか、はっとしたように顔を上げる。ばちりと交わった視線に、くすりと喉が鳴った。
あかねはそれをどう勘違いしたのかはわからないが、「ウチにはこんなん朝飯前やで」と胸を張って矢に力をこめる。
しかし、めりめりと鈍い音はするものの、全くと言っていいほど矢に変化はない。徐々にあかねの顔が茜色に染まってくる。
「なんやぁ、これぇ?!」
「さすがのあかねも折れないか~」
頓狂な声を上げたあかねにくすくす笑いを寄越して、なおは矢を取り上げた。まるでおもちゃを取り上げられた子供のようにあかねの視線が矢を追い、しかしすぐにはっとして、照れたように、怒るように眉が寄せられる。「ほんなら自分は折れんねやんな?」と、挑発でもするかのようなあかね。しかしなおはそれに取り合わない。
「れいか、うちの弟たちにも同じこと話してくれたよね。あたし、この話好きなんだ。家族のキズナって言うのかな? そういうのが感じられて」
「ふふ……覚えてくれていたのですね」
「あったりまえ!」
「なんなん、さっきから二人して……なんや腹立つわぁ」
言葉とは裏腹に、呆れたように、自嘲するようにあかねは笑う。矢を折れなかったことが相当悔しかったのだろう。未だに、なおの手に握られたそれを見ていた。
「皆さんは、毛利元就という武将さまをご存知ですか?」
「社会の時間に聞いたような聞いてないような~……やよいちゃん、わかる?」
「武将ってことは、戦国時代のスーパーヒーロー!」
「やよい、自分、それしか言うことないんか……?」
れいかの問いかけに、みゆきは首を傾げ、やよいは目を輝かせる。あかねの突っ込みももっともだと、なおは大きく頷いた。けれど三人そろっても答えは出ないらしい。
なおがれいかに目配せすると、彼女は軽く顎を引いて、それから、「現在の広島県を治めていた領主さまですよ」と答えの一部を口にする。
「彼は、他の武将さまと手を結び、中国地方を支配する大名になったのです。……彼は一族の団結を強調して、三人の息子さんに、ある教訓状を遺しました。」
「3人の息子?」
「れいかの話によると、みんな武術やらなんやらにたけてたんだって。お兄さんは体が弱かったみたいだけどね」
みゆきが口を挟むと、なおが解説でもするかのように付け足した。れいかは、はい、と小さく呟いてから、なおの手に握られていた折れていない矢をそっと引き抜く。
「『三本の矢の教訓』です。『一本の矢はたやすく折ることができるが、三本を束にすれば折ることはできない』というたとえ話ですよ」
「んで、三人の息子たちは、オトンの言うことよう聞いて、仲良うしたっちゅーことか……」
「はい」
「すてきな物語だね~! なんかウルトラハッピー♪ってかんじ!」
「お父さん、スーパーヒーローだね!」
「自分ら、他の言葉いらんやろ……もうええわ。ツッコむ気にもならへん……」
あかねがげっそりとした様子で言うと、みゆきとやよいは、「どうしたの、あかねちゃん?」と、なんの原因もわかっていないように顔を見合わせていた。
れいかは、ずっと浮かべていた微笑を深くして、ですから、と言葉を続ける。
「わたくしたちも、いつも、この矢のように、束なっていましょうね」
「3人でも強いのに、5人そろったら無敵じゃない?」
「……せやな。向かうところ敵なし! っちゅーんも、かっこええ!」
「本物のスーパーヒーローみた~い!」
「うんうん、ほんとう! ウルトラハッピー!」
みゆきが、両脇に並んで座っていたあかねとやよいの腕に自分のそれを絡めると、「なにすんねん!」と驚いたように声を上げながらも、あかねは左隣のなおの腕を絡めとる。なおは、斜め前にいたれいかの手をきゅっと握る。みゆきに引き寄せられるように、五人の頭が突き付けられ、ごつ、と、少し鈍い音がした。
「みゆきちゃん、痛いよ~」
「わ、わたしも痛い~!」
「自分、計画性なさすぎやん!」
「あかねもあたしらのこと巻き込んでるけどね」
「ふふ……喜びも、痛みも、皆さんで共有できるなんて、すてきなことです」
じんじん痛む額や頭を手で押さえて、五人はそれぞれ笑っていた。痛みの元凶・みゆきは照れたように、へへ……と情けない声を上げる。それに、また、みんなの笑いが返される。
突然なおに手を引かれて、前のめる形になったれいかの白い手から矢が離れ、飴色の床板に散る。矢羽にひっかかり留まるもの、ころころと転がるもの……たとえ、一つひとつの動きが違ったとしても、これが束になれば、容易に手折ることは敵わない。
みゆきも、あかねも、やよいも、なおも、れいかも、思考も趣味も性質も違う。けれど、……
「これからもずっとみんなでいっしょにウルトラハッピーになろうね♪」
四人は、みゆきの言葉に、強かに頷きを返す。
最終更新:2014年05月23日 23:54