光る砂/なずな
軽口を真にうけて、呆れられることは稀ではなかった。
この町にうつり住んでそこそこの時間が経ったけれど、わたしの胸のふかいところでわだかまるものは、いまだ溶けさってはいないのだと思う。
ざらりとしたそれには重さというものがないから、ほんのわずかな風にも巻き上げられてからだの内側を駆け心臓に触れる。実態をもたないはずのそれは、なぜだかするどさを持ち、胸の奥まできつく刺さるときがあった。それはわたしの、わたしへの戒めの声だ。ここにいてはいけない。やすらいではいけない。わたしはおのれのなかに充満した、ありもしない凶器におびえたり肩を震わせたりする。
やさしい笑い声や軽やかな親愛のことばや、そうしたからっぽの胸で受け止めきれないすべては、冷ややかにわたしをすり抜けていく。すかすかに空いたようなこころの中に、そうした傷を秘めておくことは楽だ。こんなふうにひとときの痛みをやり過ごすようにわすれることを覚えて以来、このあたらしい世界で生きていくことは、ずいぶんと楽になったと思う。
「ラブとせつなちゃんって一緒に住んでるんだって? だけど苗字は違うんだねぇ」
「親戚じゃないんでしょう。親御さんに何かあったの」
話したことのないクラスメイトたちがわたしに、にこにこと子どもじみた笑みを向ける。ふしぎと嫌味な感じはなかった。純粋に、わたしに興味を持ってくれているのだと思う。そう思わせるくらいには、西日の差し込むひるさがりの教室は明るかった。
わたしは曖昧な笑みをうかべて、掃除しなきゃいけないところがまだ残っているわと彼女たちを目で誘導する。事情を暈しながら説明するのが面倒なわけではなかったけれど、易しい説得にたり得ることばをを探しあてることができなかった。だから、やめた。
彼女らが東さんはふしぎな子ねえ、と笑って散っていくのを、なんの動揺もなく見送る。この子たちには失礼な事を言っている自覚はないのだと思う。わたしもそれを気に留めることはせずに、持っていた穂のひしゃげたほうきで手早く床を掃いてしまう。
穂先に絡んだ埃が雲のように形を成しているのを、指で摘みあげてごみ箱に捨てる。一度ラブに教えてもらって以来、それは決まってわたしの仕事になっていた。
クラスの誰に任されているでもなく、隔日の放課後、掃除の時間のたびにそればかりを続けている。掃いて集めた埃たちは、ちりとりを使わずとも絡みあってひとりでにまとまり、たくさんの砂やこまかな糸きれを巻き込んで灰色の靄をつくりあげる。かさばるくせに、握りつぶしてしまえばそれきり戻らない虚弱な簇。教室をきれいにすることよりその何ら価値のないかたまりに、わたしは執着していた。
生徒の様子を監視していた担任の先生は、みんなにも東さんの一生懸命さを見習ってほしいわ、と褒めてくださった。けれどそれはただの習慣だ。脅迫観念といっても、まちがいにはならないのかもしれない。命じられたことはやらなければ気がすまない。住む場所もその様式もすべてを変えてなお、これだけは直すことのできないただひとつの観念の名残だった。宿題をけして忘れないわたしは優秀な人間のように見えるらしい。傍目に評価していただけるのはありがたいことだけど、とくべつ嬉しいことではなかった。ただ何よりも、なにかを続けていないと、みんなが拓いてくれたわたしの許される場所は、瞬く間に閉じてしまうような気がしていた。それがこんなことを続ける一番の理由だった。身にあまるような幸福が、あのつまらない埃によって換えられるものではないことも、よく分かっていたけれど。
帰りは一緒だったのに、道中で口にするのはなんとなくためらわれて、家についてからラブに話してみた。クラスの子に言われたことについて。ほんとうに何の気もなく言っただけだから、そんな義憤に満ちた表情をされるだなんて思ってもみなかった。
「まって、そんなこと言われたの!?」
ラブは座っていたソファーに腕をついて身を乗り出してきた。誰に、と途轍もない剣幕で聞かれたけれど、わたしはその子たちの名前を答えなかった。誰に言われても同じだし、何も感じなかっただろうから。
「んー、無神経にもほどがあるよ! あのグループの子たちかな。噂好きだし、ちょっとだけそういうところがあるんだよね。ぜんぜん悪い子じゃないんだけど……ああ、でも……!」
「珍しいわね。ラブが、人のことそんなに言うなんて」
「だってぇ」
外の暑さから遮断されたリビングにはすずしい空気がたちこめていて居心地がいい。大きなソファーに並んで腰かけ、不服そうにお菓子に手を伸ばしながら表情をくるくると変えるラブを眺めている。こんなふうに、彼女の感情のうつろいを見つめているのは好きだった。快活にわらっているときはいかにも子どもらしいけれど、怒りをあらわにするとそれに輪をかけておさなく見えるときがある。なのに持ち前の懸命さで稚気を超越した気迫に、ふしぎなくらい圧されてしまうときだってある。どれほどその姿を追っていても飽きることはなかった。
ラブの色素のうすい瞳や、固くてくせのある髪や、大口をあけて笑いながら困ったように眉を下げる癖や、そういったところを共に暮らしている両親からも見つけた。こんなふうに愛を包含して渡された、ちいさなファクターたちでラブはかたちづくられているのだと思う。わたしとは、かけらほども似ていない。感情を発露させて目覚ましく表情や声色を変えても、ラブには確固としてかたちがある。それを今でも羨ましく思う。
ラブから零れおちる幸福の粒はわたしの目を焼いた。彼女の後に続いてふり撒かれるそれをかき集め、拾いあげるわたしの手も痛いくらいに焼いた。自分から話をふっておきながらまるで違うことを考えている無礼を胸で詫び、わたしは座って揃えていた足に目を落とす。この家には、掃いて捨てるほどの埃はなかった。
「ほんと、気にしないでいいんだよ。せつなはせつなで、もうあたしの家族だもん」
「気にしてなんかないわ」
「よかった。せつなのこと全部わかってあげられるわけじゃないから、嫌なことあったらちゃんと言うんだよ」
せつなをいじめるヤツがいたら許さないんだから、と拳を握りしめて大袈裟なポーズをとるラブが面白くて、小さく笑みが漏れる。ラブのこんなところが大好きだった。埃の舞って濁った胸がすっと透明になっていくような気がする。この相貌に手をあげたことがあるだなんて、嘘だったようにさえ思えてくる。ラブは先ほどと打ってかわって明朗に笑い、わたしの人工的な冷気にひえた肩があたたかくなる。これを見つめながら、わたしはわたしを再形成させているところなのだ。
「でもあとで、わたしの名前をほめてくれたのよ」
照れくさいから、小さな声でつけ加えた。ラブは嬉しそうに、きれいな響きだもんねと笑ってくれた。公園でよく目にする、親にみたものやふれたものの逐一をはなす子どもはこんな心持ちなんだろうと思った。理解してもらえることは、わたしが形を持つのと同一だった。それは嬉しいことだった。本来ほんとうの名前ではなかったそれについて、ラブが興味を持ってくれた。それはとても、嬉しいことだった。
「ね、聞いてもいいかな。せつなって名前にはどんな意味があるの?」
ラブはまたやわらかい微笑みをうかべる。わたしのいちばん好きな表情を。けれど途端に、わたしは弱った。その由来を他人に尋ねたことも、増してやかんがえたこともなかったのだから。純真な興味をこめて投げかけられたやわらかい目線が、そのままかたちのままならないわたしを通りぬけていく気がした。
ほら、こんな小さな期待すら受け止められない。空虚なはずの胸の奥が、ぎしりとひずむのを感じた。
俤とは積み上げられた埃のように、簡単にすがたをかえてしまう脆いものだ。そのかけらひとつひとつには何の価値もない。数多の空虚でできた靄のなかに、みんなが優しい手でかき集めてくれた砂金のような愛をはらんで、やっとかたちを持ってここにあるだけだ。
そう、無為なからだは誰かの愛に支えられているだけで、わたしが自らをわたしたらしめる理由など知っているはずもなかった。その事実を、今更に突きつけられて。わたしの表情がにわかに曇ったのに気づいてか、ラブは小さな声で謝ってくれた。
「いいのよ。わたしは話せることは話したいの」
首を振って笑いかけて、彼女はやっと安堵してくれたようだった。どんな表情も見ていたいけれど、できることならずっと笑っていてくれればいい。
「じゃあ、質問を変えるね。誰が考えてくれたか覚えている?」
「わたしを産んだお母さんやお父さんじゃないのは、確かね」
名前だってメビウス直属の国民管理部署が受け持っていたから。誰かが考えたのかもしれないし無作為抽出だったのかもしれないわね。わたしは丸暗記した文句のようにすらすらと話す。けれど『せつな』について教えられることは何もないように思えた。
わたしは産みの両親の顔を知らないわけではない。ふたりの顔はデータベースに添えられた、死人のような様相で納められた写真で見たことがあった。名前も、知っている。ただ直接会った記憶はわずかばかりもない。
両親は命じられたとおりにわたしを手放して、きっとこれまでとかわらない生活を送っていたのだと思う。だからわたしは、彼らを知らないも同然だった。もっと言ってしまえばいま生きているのかもわからない。彼らの居場所を調べる方法は、ラビリンスを抜けでる前にはあったのかもしれない。けれどわたしはそれをしなかった。しもべの姿をもった自分を誇っていたし、興味がなかったからだ。そしてイースを死に、何でもなくなった今となっては、ふたりに会うことは完全にかなわないものになってしまった。
自分でも不思議になるほどたった今まで、この名前について考えたこともなかったのだ。名前だけではない。知り得るすべての情報があたえられただけのもので、そこにわたしが欲求して得た知識はなにひとつなかった。だからわたしはつくりものだった。誰の思うままにもならなかったものは誕生日や性別や容姿や、そういったものばかりだ。目的を果たせば、このからだは役目を終える。このいのちは役目を終える。そんなふうに糸を引かれていたものだった。
ラビリンスの空気は清浄で完璧な空白だったのに、今思えば視界は粉塵を巻き上げたように濁っていた気がした。その灰色の空を思いだした。わたしの世界は、そのものがうすよごれた靄だった。群衆に同化して実態をもたない。その機械のような足並みに巻きあげられた砂に同じく、かたちも意味もなかったのかもしれない。
わたしを見て。わたしを見て。
空に伸ばした手が、虚を掴む感覚を覚えている。あるべきでない全てが排除された世界で、その手は埃すらとらえることはできなかった。あまた散る砂のひとつだったわたしは、わたしとして在ることをみとめてほしかったのだ。その価値などないというのに。刹那のあわれみすら、わたしは知らなかったというのに。
胸に、痛い風が吹きすさぶ。実態がないのに認められたくてたまらないだなんて、わらえるくらい矛盾でしかなかった。矛盾こそがわたしだった。そのありざますら失った今、わたしは何だというのだろう? そこまでを逡巡して、限りなく真実らしいものを見つけてしまった。
「――もしかしたら、使い捨てられるための名前だったのかも」
なるべく自然にと思ってぎこちなく釣り上げた唇が、そのまま自分を嘲笑した。いっときの使命を追って、切望すら果たせないままにほうり投げられた靄の簇。その呼び名。ほら、捨て駒にはぴったりだ。
あれほど実体をあらわさなかった痛みが瞬時にかたちを結び、がらんどうのはずのこころを貫いた。刃物で指を切ってしまったときのように、傷つくときはさっくりと瞬間的で、傷口はあとからじくじくと痛みだす。考えれば考えるほど、せつなという名前は自分にはまっているような気がした。
わたしはすでに無い。いちどいのちを手放してから、どれほどの愛を注がれても受けとめる器官がなくなってしまったように感じていた。かわりにあるのは、あさましい信仰をなくしたがらんどうの場所だ。みんなが支え押し固めた愛の砂が、ここに寄せ集められて積もっているだけだった。
わたしはしらぬ間に奥歯に力を入れていた。じりりと砂を噛むように苦い味がするような気がした。その緊張をゆるめたら、わたしを作っていたものがついに零れ落ちていってしまうと思った。軽口を真にうけて、呆れられることは稀ではなかった。それは自分のことばだって同じようで、他人のどんな悪態よりも自身の空虚さに打ち拉がれていた。わたしはわたしのために、いとも簡単に失望できた。わたしに、かたちはないのだ。
「そんなこといわないでよ!」
真っ向から飛ぶ気迫に、思わず肩をふるわせた。
ラブの、さきほどの表情よりもっときつく熱誠なものがわたしに向けられていた。けれどその眼は冷めていてかなしみの色を浮かべている。わたしをそんな目で見たのはあの日きりだった。雨と閃光とやわらかなクローバーの床のなかでわたしがわたしのありざまを手放した、あの日きりだった。それだけの価値はわたしにあるのだ。わたしはあさましいことに、恐れるより悲しむより、ただそれだけを実感した。
「……ね、そんなふうには、思ってほしくないの」
あたしの勝手かもしれないけど。ラブは躊躇いがちにつぶやいて、膝に置いた手を迷わせる。わたしは逸らすことも向きあうこともできずに、かたく握られたその手がほどけるまでをいっしんに見つめていた。
「名前って自分で決めることができない、ごくわずかなうちのもののひとつだよね。すがたやうまれたところも。それでもゲームじゃ手元のカードで戦うしかないように、目に見えるだけの幸せをかき集めて生きていくしかないのかもしれないね。ひとりじゃ、手が届かないこともあるのかもしれない。なにかが揃っていなかったとしても。それを埋めてあげられるように、あたしたち出会ったんだと思うんだ」
この世界でいちばんに雄弁で、それでいてどこか稚気をはらんだような声がわたしに寄り添ってくる。静かにその目を見上げると、声色そのままのまっすぐな視線がわたしを捉えた。
――あたしたちが出会ってからのせつなの強さを、あたしは見ていたよ。せつなが苦しいときには、あたしたちにもできることがあるの。一緒においしいもの食べたり。おなじテレビでわらったり。いつもみたいに笑顔になったら、気持ちをまぎらわせてあげられるかもしれない。だけどそれだけじゃきっと、補えないものもあるよね。それをせつなはもう全部持ってるんだよ。どうかみつけてあげて。自分で気づくしかないんだよ。そうだよ、最後には。
「……せつなが、せつなを認めてあげるんだよ」
膝のうえのやさしい手がひらかれて、わたしのそれをぎゅっと掴んだ。
わたしは、すわ目をみひらいた。視界が炸裂するように晴れわたったと、確かにそう思ったのだ。
わたしがふたたびうまれたあの瞬間に、行く末を覆う曇天はひるがえっていた。どこまでも晴れていた。愛を知るための材料をととのえておきながら、この手を伸ばすことさえ諦めてはいなかったろうか。ためらう度にきしむ胸からたまらなく染みでてくる涙を、何度でも拭ってくれるひとは目の前にいるというのに。
「怒鳴っちゃってごめんね。あたしはせつなって名前が大好きだし、もちろんせつなのこと、大好き」
ひりつく頬を繕うようで、その意味のただしさをどこまでも信じている。そうしたラブの言葉で、わたしはここに抱えきれないほどの愛を詰められた。埃のなかにたくわえられた、砂粒のような愛。その光をつないでやっとかたちを持てたような気がした。その外形がどんな靄だったとしても、内包する愛の価値にかわりがあるはずがなかった。積みあげてきた瞬間に、それらに、何の価値もないだなんて。失礼なのはわたしに他ならなかったのだとひどく恥ずかしくなった。
今やっと、実感をもって言える。自分の価値を拾いあげるのは自分なのだ。どんな愛や悪意や、そうした声すべても、受け止める場所をわたしは持っていた。それは失意の塵に埋もれてしまっていただけで、見つけだすのに時間がかかってしまっただけで、確かに存在していたのだ。
「もう二度と自分をおとしめたりしないでよ。せつなの場所はここ。ここなんだから」
わたしは、瞬きのあいだに抱きよせられていた。これはラブの癖のひとつだ。嫌な気持ちはしない。こうした瞬間の価値は、わたしの全てを清算してもあり余る。ラブの腕に囲われたところだけ、わたしは形を持てる気がした。きつく押さえてくれた。涙が出た。雫にしめった砂を押し固めるように、わたしはラブの手に依って姿をあらわしていた。
「……そうね」
あたたかい首筋にしなだれるようにして、小さく頷いた。それはわたしなりのお礼のつもりだった。紡いだことばはやっぱりぎこちなくて、どこから出ているのかはまだわからなくて。けれどすきまを感じていた胸に、あたたかいものがじわじわと満ちてくる。視界を覆うように絡んでいた靄が晴れていく気がする。こんなやわらかな幸せですら――この身に感じられるものはすべて、ほんのわずかなときだ。その一瞬がわたしを揺りうごかしてきた。突き進むその一歩たちがわたしをここへ押し上げたのだ。とまどうことなど無かった。
これまでのように毎日すこしずつ、こぼれるほど蓄えればいい。この子の隣で、ここで暮らしていれば、それはたいしてむずかしいことではないように思えた。わたしが愛しいひとにそう望むように、おし抱えた胸で暴れるしあわせたちを受け入れていいのだと。
愛の砂は世界の至るところにあふれだしていた。さまざまな色をもって、数多のかたちをあらわした幸福の粒。触れることに誰のゆるしもいらないのだ。目を凝らして受けとめようと思った。残さず、受けとめようと思った。この手に積もりかたまった愛こそが、わたしのかたちとなり色となる。
わたしは、せつなは、きっとそれに気づくためにここにきたのだ。
最終更新:2014年09月12日 23:56