absolute ego/なずな
ふいにがらりと響いた音に、わたしは顔をあげた。
ベランダに続く大きな窓を開けて、見知った姿がそこに立っている。こぎれいなカーテンがゆるくはためいてわたしの部屋の境界をぼかす。湿った空気と外のにおいがやわい夜風に乗って、それをもたらしたひとよりも先にわたしのもとへ滑り込んできた。見れば空は知らぬ間にすっかり鈍く深いベールを降ろしていた。
「ずいぶん長いこと、外にいたようだけど」
何をしていたのと聞くと、なんとなくね、と笑ってラブは後ろ手に窓を閉める。意外に思ってその眼を見遣ると、のんびりしすぎて蚊に刺されちゃったかも、なんておどけてくれただけだった。
わたしたちの部屋をつなぐゆったりとしたベランダは、実質ふたりだけの場所でもある。廊下を経由せずにお互いの部屋を行き来するときには、何か決まって目的があった。
この家の誰もが寝静まった頃、ささやかな秘密を話したり夜更かしをしたりする。深夜に人通りのない道路を眺めながらラブとここで話していると、ふしぎと気分が高揚していくのがわかる。なまぬるい宵の空気は冷静さを絆す。夜遊びが楽しいわけだよねぇ、といつだったかいたずらめかせて笑ったラブに、わたしは頷いたと思う。
ここではほとんどどんなことでも話せた。同じ家に住んで、同じクラスで、学校の行き帰りもたいがいは一緒で。そんなふたりだけれど、毎日は視点を異にして切り取られていく。それを重ねあわせながら、こうしてわたしたちが隣りあえる日々を祝福する。
ラブはわたしの腰掛けるベッドに並んで座った。その衣服から染み出る冷たい空気が霞めるように肌を撫でる。わたしはといえば彼女の物思いと同じだけの時間、ここに閉じこもっているばかりだ。
膝の上でひろげたくたびれた本。右手で繰ったページたちの厚みに、そこそこの時間が経っていたことを知らされる。時計を気にしていなかったのはつまりこれのせいだった。ラブが興味を示したから、角のけずれたハードカバーを閉じた。この本にのめり込んでいるあいだに、世界はすっかりその色を移ろえていたのだ。
緑の館。――土と灰のにおいのする旅路と、かわいそうな愛の物語。
この本を読むのは、実のところ二回目だった。森に棲む美しい娘をばかげた迷信から焼いてしまう部族。彼女に実らぬ恋をして、その遺骨にすがる男。
先月に学校の図書室を利用しはじめてからというもの、わたしはフィクションを読むのがすっかり好きになっていた。そうしたお話に熱中するあいだ、わたしはここに在るわたしを手放す。想像はこの足ではたどり着けないところをたやすく飛び回り、愛を探して遊ぶ。永遠に手の届かない世界の物語は、とても眩しかった。
「怖い話?」
「少しだけね。でも、つくり話だから」
怪訝な顔をするラブに、わたしは笑った。つくり話。そうは言いつつも、その濃い退廃の空気にこころ奪われてしまう自分を。
この世界で生きていくなかで、翻弄されることはとても多い。あたらしくうまれていく感情や時々に刻まれる想いをつくりものとして片付けることは、まだ得意ではなかった。こうして見ている世界から離れた場所で、じっとうずくまって考える時間が必要になる。たとえばラブたちを知らない世界で、あるいはずっと遠いところで、この温もりを知らずに生きていたらどうだったろうと、思う。このベッドから動けないまま、わたしはよく迷子になる。
「『君なくして神も我もなし』」
「?」
「そんなお話を読んだの」
本を足下に寝かせて、ラブにもたれるように頭を寄せる。いっさいの戸惑いもなく、わたしはその腕に絡めとられる。今ではこんなにもこころやすく預ける体温さえ彼女はこうして受け止めてくれる。目を閉じて、ぐっと鼻先を寄せた。くすりともれだすような笑い声が聞こえた。距離をつめて気づいた、外気がもたらした微かな町のにおい。穏やかな部屋の中に窓の外のやわい風が呼び起こされてくるように思った。鼓動は、環境音楽のようだった。わたしの心音もラブには感じられるのだろうか。肌でさわるどこまでも優しい現実を思いながら、わたしが今ここにあることを確かめる。
「よくわかんない……」
「ラブが来てくれてよかったってことよ」
ちょっぴり戸惑うラブをよそに独りよがりな確認をすませて、わたしはくつくつと笑う。彼女は髪を結いていなくて、こまやかに散った毛先がわたしをくすぐる。
「本を読むのは好きよ。物語をひとりで追っていくことも、知らない世界を覗いているようで愉しいけれど……こうしていると何より安心するわ。長い旅をしてきたような気持ちになる」
――長い旅。何気なくこぼした言葉が、どこかに引っかかったような感触を覚えた。浅紅の色の瞳が微かに曇ったように見えたのは、都合のいい勘違いかもしれない。でもね、もう大丈夫。あなたの腕に帰ってきたのだから。
安堵の息が、滑り出るようにこぼれる。ここにある静かな幸福をなにもかも噛みしめられるように感じた。ラブがこんなにも近い。中途半端な明るさの照明が、いっそ煩わしいと思う。
「おかえり、って言えばいいのかな」
ラブの手はわたしの肩に伸びる。髪を掻き分けて、うなじの辺りを包むようにふれる。確かな熱は何よりもわたしを安心させてくれた。そうして自覚していたよりもずっと、あのつくりものの世界に牢乎にとらわれていたのだと知る。そんなときには、引き戻してくれる手が必要だった。強い力で呼びあう戯が。
「ラブ。……ただいま」
頭をもたげて、くちびるに縋るようにふれあわせた。夜気は遠くなり、時がとまる。それからすべては、心音の波立ちと同時に舞い戻ってくる。
「せつな……?」
顔を離したときに見据えた瞳が声色とは裏腹に、思いのほか揺らいでいなかったことに驚いた。それをあと押すように胸ばかりが高鳴る。きっとこのままでは眠れやしないのだ。わたしは読み聞かせをねだる子どものように愛をせがむ。この浅はかな姿が、どこまで許されるだろうと思う。
「今だけは、一人になりたくないの」
いやにものわかりのいいラブは、こんな時たまらなくなるほどやさしい。おでこを擦りよせてくれて、身体ごときゅっと引き寄せられる。甘やかな情念の足音が聴こえる気がして、少し泣きそうになる。
「今だけなんて」
あたしがせつなを置いていくわけないじゃない。諭すような声が低くおだやかな調子にかわると、わたしはずぐずぐに溶けていくような心地がする。仔猫をあやすような所作で襟もとに忍び込むふりをする指。そうされてしまうとわたしの胸はふるえる。期待に絆されて、ゆっくりと分からなくなっていく。
薄明かりにした照明と月の青い光で、視界は混沌としていた。わたしを解くのはお菓子の包みをやぶくような期待に満ちた手つき。ラブとふれあうことは、いつでもお腹を満たすよりもおおきな幸福をくれる。だからきっと、それは間違った例えではないのだ。執拗にくちびるを押しつけあって、たどたどしい仕草で暴かれながら、わたしはぼんやりとそんなことを考えていた。
わたしたちは腰から上をほとんど取りさってしまうと、とろりと視線を絡めた。ラブはわたしを抱き寄せる。彼女には似合わないくらい慎重に、遠慮がちに伸びる腕。それがかすかに震えているのは背中にまわされたって分かった。そうだ。こうして満たされていく。うすらに濃い熱のにおいを、肌じゅうで受け止める。
「今更訊くことじゃないかもしれないけど……せつなはこういうの嫌じゃない、よね」
ラブの声がからだに吹き込まれるように響いた。高鳴る血液が胸にあまく巡っていく。こんな秘密は初めてではないけれど、怖くないといえば嘘になる。手をとって漕ぎ出していく夜には、得てして果てがみえなかった。
「このまま何もないほうが悲しかったかも」
現実は物語のようにページを数えられない。宙に足を浮かせたままで駆けだして、わたしたちは終着点があるともしらない場所へ向かう。それでもラブと肌をあわせる夜は、どんな不安もうまく乗り越えていけるような気がしていた。肯定を示す言葉は少しだけ掠れた。けれど、やわらかく笑えた。軽く両肩を押されるのに任せて、愛欲は身体を横たえてしまう。
おずおずと顔をあげると、細められた目はどこかしどけない光をたたえていた。空気の濃さに、息がきゅっと詰まる。小さく肩を竦ませながら、心ごとおしひらかれていくのを待つのだ。
ラブはわたしにさわる前にみずから下着をくつろげる。あんなにつよい力でわたしを包みとってしまうその身体の、本当はあまりに華奢なことに、わたしはいつでも驚いてしまう。
――いつでも。見とれているあいだにすっかりあばかれた肌が、期待にさざめく。
寝そべったままのわたしを包むようにして、ラブは乳房を添わせるようにすりつけて甘える。熱い重みが全身を覆って、粟立つ意識はいっせいにふらちなほうへ傾く。吸いよせられるようにくちづけて、わたしたちは手を取りあうように舌を伸ばす。
「うん……っ………」
くちびるの奥をゆったりと撫ぜてまさぐりあった。垂れた髪がもつれこんでおとがいを撫でる。とくんと喉を鳴らす感覚が伝わる。このまま影をなくして、わたしたちは溶けあっていけると思った。
ふいに切り落とされるように離したくちびるを名残り惜しむ暇もなく、身体じゅうは気ままに啄ばまれていく。隙間のない愛撫。縋るように背中に回した両腕をあっけなくすり抜けて、ラブはわたしを降りていく。首から鎖骨へむきだしの胸へ、火を灯しながら。触れられた場所が灼けるようで、たまらずに身をよじる。それでもさわってほしくて、あさましく腕を伸ばすことすら、もう躊躇いはしない。
のたうつように踊らされて、最後に何もかもくすぐられてしまう。わたしのからだはどこでもないところに放り投げられて、階段を踏み抜いたときのように、がくんと落ちていく心地に苛まれる。わたしは声をだした。引き寄せられながら追いつめられて、止まらない憂懼にましろの夢を見る。
息をととのえながらのろのろと目をひらくと、ラブは前髪をかきわけてくれた。ぼやけた視界の向こうでラブは微笑む。愛しいひと。様子を伺うようで、なぜだかちょっぴり誇らしそうな表情。知らないところへと攻めたてられることをおそろしく思いさえするのに。どうしようもなく温かい波にさらわれることを覚えてしまえば、その先に怖がっていたものは何もない。甘くなだらかな道のりへ手を引いてくれるのは、大好きなラブであることにかわりがないのだ。静かな波が引いてから、わたしはこうしていつでも安堵する。
ラブ。わたしは魘されながら、あなたの名前を呼んだかな。まだ熱のくすぶる頭では思い出すことができないけれど。
赦されれば赦されるほど、こうして身もこころも制御がきかなくなっていく。それだけはまだ本当に怖い。どこまでこの想いをあけひろげていいのだろうと思う。だって目を閉じる暇さえ惜しいのだ。こんなにもわたしを追いつめるときですら、ラブの瞳は慈しむように優しい光をたたえていることを知っている。愛には手ざわりがあるのだ。わたしはそれを思い知った。この目に映せなかったまばたきの瞬間すら、彼女の姿を抱きとめていたくなる。
——笑われてしまうだろうか。これがわたしの、何より強烈に像を結んでいる自我だった。
薄闇を割ってのばされた手は、しっかりと温かい。わたしはラブの手を借りて起きあがってから、もう一度だけくちびるを合わせた。
「もっとラブのこと見ていられたらいいんだけどね。ちょっと勿体ない気分」
「えっ!? ……もっ、もしかしてよくなかった?」
「違うわ」
頓狂な表情のラブを軽やかに笑いながら、わたしは彼女にのし掛かるようにして体勢を変える。ラブが今度こそ驚いたのも無理はなかったのだと思う。覚えがないのだ。こんなにも貪欲に彼女を欲したことなんて。喉がかわいて仕方ない夏の日のように、満たされても満たされても空洞に吸い込まれていくようで潤う気配がなかった。
おしひろげたからだは穏やかにおののく。いまだ意味を掴みかねているラブにあえて応えず、わたしはそのまま肢体に手をつけた。シーツの上に跳ねちらかる髪がふいに揺れて香った。仔犬のようなラブの、お腹の薄い皮膚にくちびるをすべらせる。
「んふふ、やわらかい…………!」
畳まれてゆるく暴れる太腿にわざと胸をふれるようにして、這うようにラブに被さる。こそばゆくするとすぐに笑い出してしまうのがラブの悪い癖だった。諌めるようにしてまぶたと頬にくちづけをおとし、催促されたくちびるにももういちど触れる。けれどこのときだけは、その癖も理解してあげられると思う。いつだって慣れられない幸福なくすぐったさに、どちらからともなく笑いあってしまうから。
てのひらで触れて、くちびるに含んで、ふくらみの色づきをしびれるくらいにあじわう。はしばしを吸いあげて周りみちをしながら降りていく。擦りあう肌のなめらかさに身をゆだねれば、どうしてこんなにも気持ちがいいのだろう。
「ラブ。こういうの……すき……?」
汗で貼りつく髪を鬱陶しく思いながら、脚のあいだに潜り込んで蜜をすする。わたしの英雄はこんなにもなよやかな声をあげて泣く。髪をふりみだして、うなずいているとも首をふっているともつかない仕草。愛おしいと思う。できるならずっとその肌の内側でうずくまっていたいとさえ思う。熱い花片。いっしんに貪った。こころからがらに伸ばされて、わたしの髪をぎこちなく梳き絡めるラブの手がそこからわたしを離そうとしない。いまは優位でありながら囲い込まれているようでたまらなく高揚した。
わたしはその手を絡めとると、あえかな腰をいっそう深くおしひらいた。引きつったように震えるからだに弾かれるようにして、強く握りかえされる指をひたすらに感じていた。わたしが受け取った花束のような愛を、ラブにもみせてあげられたらいいと思った。わたしの舌はそればかりのために動いた。飢えた猫のように、夢中で、夢中で貪った。きわの声を、ききとどけるまで。
わたしは寄り添うかたちでからだを横たえて、吐息のかかる距離に顔を寄せる。とけちゃいそう、としきりに繰り返していた舌が、今度は素直に笑ってくれた。震えるばかりのまぶたをなだめるように、おでこにくちびるを寄せる。
ここがわたしの場所。安らう巣を見つけた。しがらみも、きっともう用意されてはいないのだ。余韻の波がじわじわと胸をあたためていく。ちょっとだけ舌がだるくて、ラブのおしゃべりにはほとんど頷くだけで応じる。指をからめあったりお腹をなぞられたり、ほのあかく滲んだ瞳をじっと見つめたりしていた。呼気は溶け出して、宙へ吸い込まれていくようだった。
「せつなにしてもらうの、なんかふわふわしてね。すごく気持ちがいいの……。毎日でもこうしてたいな」
「はずかしいこと言わないでちょうだい」
さすがに居た堪れなくなってラブの胸に顔を隠すと、背中をあやすように叩いてくれた。まだ落ち着ききらない鼓動が鼓膜を満たして、ふさがった視界のなかで意識ごと震わされてしまう。
「あたしきっと、せつながいないとだめになっちゃうね」
「もう」
声をあげて笑った。笑いあった。そのあとに、短い沈黙が訪れる。夜気はこんなときばかり身を潜めるから、わたしの意識のすべては彼女に向けられていた。肩に落ちるくしゃくしゃの髪。その輪郭を映して肌に落とす影。
――あのね。
直後につづいた弱々しいひびきに身構えたのは、けして思いすごしではなかったのだ。
「時々考えちゃうんだ。せつなと、いつまでこうしてられるかな、って」
その言葉に虚を突かれて、冷たい血がさっと全身をめぐった。
「さっきは、そんなこと考えてたのね?」
「うん。あとせつなにさわりたいなって……ちょっと思ってた」
取り繕うような言葉は、どうしてこうもつくりものめいてしまうのだろう。冗談めかして笑うその相貌にどことなく影をみとめたのが、間違いであればよかったのに。その目をみすえたまま、わたしはシーツの上を探り当てるようにしてラブの手を握った。ちいさく、震えていた。
「あたしたちきっと……このままじゃだめなんだよね」
「ラブ、どうしてそんなこと——」
「離ればなれになったら、いつかそんなことがあったら、あたしたちどうなっちゃうんだろう」
投げ出される言葉たちは、おそらく彼女自身に向けられているのだろう。答えが必要なのではない。子どもが時に気に入りのおもちゃを放り投げてしまうように、わたしを抱き込んだ自暴自棄だ。ラブが稀に見せるようになった不安定さは、つまりわたしたちが、それほどまでに近くなってしまったことへの当てつけのようだった。
「……せつなは平気かな。しっかりしてるもんね。……笑われちゃうかな。あたしほんとうはいつだって怖いの。せつなが大好きだよ。今がとっても幸せ。でももう昔に戻れないんじゃないかって。怖くなっちゃった。タルトもシフォンも、ときどきはせつなの部屋で寝るでしょう。あたしひとりのときはね、怖い夢ばっかり視るの。絶対耐えられないよ。もしも。もしもね、せつなが、もう一度……いなくなっちゃったりしたら」
「ラブ」
張りあげた声は予想をうらぎるほどに響いて、彼女をだまらせるにはあまりに事足りた。
わたしを失意の森から引き上げてくれたラブに、言い尽くせないほどの思慕を抱えている。生かされたよろこびを湛えながら、わたしは彼女との毎日のなかで感謝を愛情として昇華していった。ラブの腕のなかは心地いい。かけがえのない友達として手をとりあったわたしたちを決定的に結びつけてしまったのは、その実互いへのやすらかな甘えだったのかもしれない。迎え入れてくれた両親にさえ言えない関係。かわりのない親友にすら——自分の愛するひとたちを、裏切るような心地がしただろう。
ラブは強くてやさしい。隠し事のできない子だ。けれど弱音もはけない子だ。わたしをまっすぐに愛してくれるいっぽうで、そのこころを蝕む不安を逃すすべを、ほんとうは何一つ持っていなかったはずなのに。心臓がしめつけられるような心地がする。こうしてあなたの側にいるほかに、わたしには一体なにができたのだろう。
「大人になったせつなも、あたしは見てたいよ」
二の句を継げないでいるわたしの首に腕をすきまわして、ラブは静かに頭を引き寄せる。
「ずっと一緒にいたい」
凍てついた空気が、肌の隙間から染み入るように刺さった。張りつめた声に寧静をうばわれて息を飲む。
肌をふれあうのが好きだ。たとえ一時しのぎだって、彼女の痛む胸をまぎらわせることができるのなら。きっとそれでも、愚かにも、このままでいることを望んだ。
「……わたしもよ」
生々しくのさばる言葉たちを堰き止めるようにくちびるを押しつけた。握ったままだった手のひらは、重ねるようにして自らの耳に押し当てた。聞きたくなかった。聞きたくなかった。だってこんなにも不安は伝達してしまうものなのだ。舌をすきいれて、感じるのはぺたぺたと薄汚いばかりの水音。息がはらむ切ない声だけが一切を追いやってひびいていた。彼女の唾液を下して、追いやりきれない思考を噛み殺したまま顔を離して見つめあう。ごうごうと遠く聞こえる血潮ばかりが皮膚の向こうから鼓膜を満たしている。ほんとうは羈束したいのかも、されたいのかもわからなかった。確かめるべきものが、何なのかさえ。
結局は怖いのだ。どれほど愛しても伝えきれない思いがはらの底でくすぶって、泥のように鈍く溜まっていく。どうにももどかしかった。ここにある愛がどれほど屈強であたたかいものなのか。身体にさわることで伝えきれるものではないのだと、わたしより先に気づいていたのはラブだったと思う。わたしより、ほんとうはずっとこころの弱いラブに、何をしてあげられるだろうと……思い悩むたびに、この肌はうらはらに彼女を引きずり込んでしまうのに。
「もうなにも、言わないで……」
ラブの身体を慎重に抱き起こして、こわごわと腕で包んだ。ひやりと触れた肌がすべらかで、こわくて仕方なくて、凝固されてしまったような夜の空気が不意にのどの奥までこみ上げる。ていねいに肩を愛撫して引きよせれば、ラブはゆっくりと身体をあずけてくれる。顎を添えあてた首筋のむこうには、いまだどこまでも染み落ちていく暗闇の気配があった。そればかりが広がっていた。
さするように胸に触れて、腰の骨の隆起をたしかめようと指を這わせる。そこにある情愛の意味は、すでにかすれていたのかもしれない。わたしはきっと手繰っただけだ。それでも耳許で高まっていく作為の呼吸を。醜くも止まらない渇望のあかしを。頬の輪郭をなぞるように舐めて、そっと噛んで、呼び込むように抱えられる腰にもなだらかな疼きを溜めていく。
かわりに止められなかった涙を見られたくなくて、わたしは顔を離すがはやいかラブの後ろに周り込んだ。うろたえさせてしまう前に――しがみついて、はなびらに指を這わせて、ゆるしを乞うための愛撫はもがいているのと同一だった。わたしは息を潜めた。心音の通じる距離で息を潜めた。彼女のくちびるからこぼれるのは意味のないことばばかりで、それが今のわたしには、何よりも適格に思いを伝えてくれるものだった。
「……っ、ひゃあっ……」
背骨を愛撫したゆびさきで、流れおちるように内側に滑り込む。両の手を遣って胸の張りをなぞりながら腰の浅い部分を撫ぜると、ラブは弱々しく腰を揺らした。それを見つめながら、自分を包んでいた彼女が、その実どれほどかぼそかったのかをあらためて思い知らされる。どうか、どうか、考えないようにしていたのに。
自ら手をひいておきながら、その深淵で立ちすくんでしまう。そんな身勝手にもひだまりのように笑いながら、ほんとうはすり切れてしまいそうな胸で抱きとめてくれていたのだ。——わたしはラブに伝えられないのかしら。自らの熱誠さに傷つくあなたが、どんなにこの心に影をおとしているか。これほどまでにわたしたちはひとつなのに、すべてを分かち合うことはできないのかもしれない。
はじめてなのだ。こんなにも、こんなにも胸を掻き毟られるのは。
いとしさは際限もなくふくれていく。このままでは永遠を望む傲慢さが、きっと彼女をきずつけてしまう。そうなる前に、少しだけ距離をつくれたらいいと思う。思うのに。
やさしいラブ――そうしたら、この肌を引きはがさなければならないの?
抉るように潜り込んだからだは、灼けるような熱さをたたえていた。そこだけが燃えつきて溶けてしまったかのように引きずりこまれて。うわずる吐息。引き絞るようななきごえにあえかな熱を感じすぎて、今は苦しくて仕方がなかった。拙く愛しあった歓びをゆびさきで強く強く刻みこみながら、いつかこんな時間さえ些細な思い出になってしまう日が、くるのだろうかと思った。
もういいの。だけど、もっともっとほしい。
十分なのに、苦しむあなたを見たくなんかないのに。渇いてしかたなくて、このままではわたし自身すら引きちぎれてしまいそうで。そんなわたしは自分にすら克てないまま、身体を遣ってけんめいに愛をつむぐ。
「せつ…な……?」
迷いは噤んだ口からだって伝わってしまうものだ。からからの声が不意にひびいて、わたしはどうしようもなくなる。
——そのままでいて。大丈夫だから。振り向こうとするラブをやっぱり震えてしまう言葉で制して、背中にくちづけを落とした。お腹に空いた腕をしっかりとまわして、すがりつくようにして追い詰めていく。うずめたままの指で鈍いふくらみを掻くと、かき抱いていた身体がふいに大きく震えた。ラブの影がしなやかに弾んで、そのときわたしは、きゅっと視界を閉ざした。
くずおれるラブの姿がぼやけていたから、自分がとうとう泣いているのだと気づいた。
今度こそ誤魔化せなくなってしまった震えをどうすることもできずに、今は弱々しく丸められた背中に、重ねるように額を預けた。あれほど堪えていた泣き声ばかりがじくじく漏れだしていく。
「ね、あたしせつなのこと怒らせちゃったかな……」
涙はとどまることなくあふれでて、なだらかな背をよごした。
違う。違うのに。言い訳すら憚られて、わたしは口を噤んだままでいた。今は言葉なんて何一ついらなかった。心を揺さぶられたらきっとまた迷ってしまう。その擦り切れそうなやさしい胸に迎えられるまま、わたしは縋りついてしまう。導いてくれるはずの手を離して背中を押すくらいなら、どこへでも連れていって欲しかった。毎日を交わしていた言葉がその実なんの効力ももたないことに、ただただ愕然としているだけだった。
「ずっと、夜だったらいいのにね」
滑り落ちるような安寧の声に、見合う言葉を見つけられなかった。
どうして笑ってくれるのだ。気づけなかったわたしに。きっと離さないでいてほしかったのはラブのほうだったのに。それでもあなたを求めてやまない、狡猾なわたしを。
「うれしいことには、終わりがあるものなのかな」
ぐしゃぐしゃの視界に一瞬揺らいだ像が、どうか都合のいい勘違いであってほしかった。見たことのない、嘘じみた笑顔。わたしは首を振った。腕を伸ばして、背中に縋りつくようにして全身を預けた。見たいのはこんな笑顔じゃないのに。やっと掴めた愛しい感情が、今度はわたしを持て余しているのだ。
ラブが好きで、大切で。精一杯の愛をささげながら、変わらず愛してくれている。
たったそれだけのことに周章するわたしたちは、今をやり過ごすように身も世もなく甘える。肩を寄せあい、にわかにまどろみながら、まだ少し遠い夜明けを待ちくたびれているだけだった。
「ラブ。……もう部屋に戻らないと。朝になってしまうわ」
——どれほどの時間が経ったのかは、はっきりとはわからない。いつの間に眠ってしまっていたのかもしれない。それとも目を閉じて思考を放棄した、ほんの一瞬のあいだだったのだろうか。
ずっと握りしめていた手はあまりにも簡単にほどけた。身体じゅうの渇いた肌と、ただひとつ湿った手のひら。長い眠りのあとのようにしわがれた声でわたしは言った。のろのろと窓辺に立って戸をひらけば、あたらしい空気が部屋の中へ潜り込んでくる。
ベランダから抜け出してくる夜風はあいかわらずぬるいままで、このままどこにでも飛び発てるのではないかと錯覚させる。わたしは振り返る。けれど遠く感じるのは、その穏やかな瞳だった。――そうだね。夜が明けちゃうよ。夜が明けてしまう。しっかりと指を絡めたまま、どこへも行けなかったわたしたちを置き去りにして。
ベッドに戻って隣に腰掛け、すべらかな腕を撫でる。少し前までのわたしたちと同じ姿勢で、見おろせばさっきの場所には、やっぱり薄黄ばんだ本が転がっている。ラブはわたしを呼ぶ。出会ったばかりの頃には不思議に感じた神妙な表情が、いまは当たり前のようにこの胸を覆って締め付けて、そんなことすら今更意識した自分がおかしかった。
「おやすみ。また明日ね」
何かを言おうとした、その隙をついてラブはキスをくれた。こめかみのあたりに宥めるようにふれたくちびるが、胸までを貫いて焦がしていく。ラブは床に脱ぎすてた上着を羽織って、それからわたしの肩にもかけてくれた。わたしはどうすることもできないままで、ぬくまる肩を自らおし抱える。
——大丈夫。時間は覚悟を育ててくれる。いつかその時が来たら、わたしたちはこんなふうに、きっとこの手を離すことができるでしょう。
紡いだそばからこんなふうに揺らいで滲んでいく想いに気づかないふりを、いつまで続けられるだろう。動けないままのわたしはふいに強烈な焦燥感にかられて、去っていく後ろ姿を追いすがるように見つめた。
「大好きよ」
息吹のように細く吐き出されたさいごの声がラブに届いたのかはわからない。それは瞬きのあいだに空気をふるわせたかと思うと、風に乗って彼女の肩を追い越して、どこか遠いところへ吸い込まれていってしまったのだと思う。わたしが短い後悔をおぼえたのと同じくらいに、振り向きざまラブのくちびるは微かに動いた。逆光を背負った影からはさいごの表情を伺い知ることは出来なかった。それが何かを識る前に、窓はぱたりと閉められる。そうして夜風は、遮断される。再び密室に戻った部屋で一人途方に暮れながら、脳裏をよぎるのはあの我侭なつくりばなしだった。
最終更新:2014年09月20日 23:04