世界でいちばんちいさな海と/なずな




 響の家までハミィを迎えに行った。朝いちばんに行った。

 窓の外から名前を呼ぶと、顔を出したハミィは眠そうな目をぐりぐりこすって、すぐに笑顔を浮かべてくれた。なにしろ約束をしていたわけではない。うんと早くに目が覚めて、あけひらいた窓からこぼれた空気があまりにきれいで、いてもたってもいられずに飛び出した勢いで会いに行っただけだ。
 奏と出かける用事があるという響はハミィも連れていこうと思ったけどちょうどよかったねと笑い、ついでに家に招いてトーストをご馳走してくれた。フェアリートーンたちと並んで食卓に座り、厚切りのほどよく焦げたバタートーストを冷ましてからかじる。それからエレンはハミィと散歩にでかけた。

 行きの足どりは弾むように軽やかだったけれど、今もたいがいにうれしかった。
 ハミィは腕のなかでぬくぬくと日差しをうけている。ふくふくとした頬をなでて、その瞳をのぞきこむ。白くみじかい毛並みに囲まれた、くろぐろとしたガラス玉が無垢な光をなげかえす。それをいとしく思いながら、エレンは猫が鼻をすりつけるように頬を寄せた。ハミィはくすぐったいニャア、と笑いながら、ごろごろ喉を鳴らす。こんなとき意思とは関係なしに振れてしまう尻尾を恥ずかしく思ったけれど、もう尻尾なんて残っていないのだとエレンはすぐに思いだした。
 ヒトの姿になったことで、気づくことは増えたと思う。それと同時に失ったものもあるように思う。ただひとつ言えるのは、ハミィをこうして抱いて歩くことができるようになれたということだった。
 その喜びをかみしめれど、さすがに肩に猫を乗せて町中を歩けば否応なく視線を集めてしまう。けれど芸術家気質の人ばかりの加音町では変わり者はたいがいに多かったから、誰もがにっこりと微笑みかけたり、たいして興味もなさそうにしたりしてすぐに目を逸らしてしまうだけだった。めでたいくらいの暖かさが、最高にいい気分の自分たちを自慢したいような気にすらさせていたから、あまり目立っていないのが残念に思った。だれかを惹きつけるには常人離れしたオーラが必要だと思った。
 ——音吉さんみたいに?
 エレンはときたまひとりで吹き出して、ハミィにそれを笑われる。

 あいかわらず気持ちのいい快晴で、気持ちのいいあたたかさ。町中が身体いっぱいに日差しをあびているようだ。賑やかな商店街を抜けると広場で、それも抜けてしまうと人気もまばらな田園沿いの道路に出る。
 歩道に吹きぬけるぬるい風を遮ぎる建物はここにはない。それがあまりに気持ちよくて、エレンが我慢しきれずに小さな声で歌いだすとハミィがそれに合わせてくれた。
 歌いだしてもしばらくの間、それが何の曲なのか思いだすことができなかった。ワンフレーズを歌い終わるか終わらないかのところで、それは奏の音楽プレーヤーに入っていた、少し前に流行ったポップスだったと気づいた。歌詞の意味はあまりよく分からない。けれどエレンはこの旋律が好きだった。誰の耳にも馴染むような大衆向けのアレンジが妙に気に入っていた。
 ハミィがかぶせてくる即興の対旋律が耳をふるわせ、心地よく胸を高鳴らせる。遮るもののないうたごえがゆっくりとした風に乗って、ふたりが歩むより速く道路を駆け抜けていく。それは記憶媒体に焼かれてばら撒かれ、町中で投げかけられる原曲そのものよりずっと上等な音楽だと思った。
 こんな晴れた日にこの歌をふたりでうたうことができるのがしあわせでたまらなかった。エレンは軽やかな昂揚感のなかで、どこまででも行けるような気がした。




 気がつけば遠く歩いてきてしまった。日はすっかり落ちて、視界によこたわる空は蒼とオレンジの入り混じった色に染め上げられていた。世界が急激にひらけてエレンは息をのむ。道をはっきりと覚えてはいなかったのだけれど、ここは確かに以前響や奏と来た場所だった。思わず早足になるエレンを、地におりたハミィがとことこと追いかけて走る。
 崖のぎりぎりで立ち止まって、それからエレンはまっすぐ前を見据えたまま動けなくなってしまった。圧倒的にひろがる海と夕陽とを目の前にしながら、鮮烈に蘇るものがあったのだ。

 ハミィを助けたいと願って、信じられないようなことがこの身に起きた日。吐き捨てた言葉たちや、掻き乱した季節たちを思ってゆるしを乞うた日。
 いま崖に立ってハミィと一緒に臨んだ海は、あの日にも負けないくらいにまぶしいオレンジで照らされていて、それだけで涙がでそうになった。
「きれいねえ。ほらハミィ、見える?」
 船も島も、飾るもののなにもない一面の広袤。それに圧されて呼吸すら忘れてしまいそうだった。こんなふうに景色に感動することを思いださせてくれたのは他でもないハミィだ。けれどそのハミィはしんとしずまったまま、足下でちいさく身じろぎをした。
「なんにも見えないニャー」
 消えいるような声にはっとして見下ろすと、悲しく眉を下げたハミィと目があった。周囲には背のたかい雑草が生い茂っている。それでハミィの視界は遮られているに違いない。さっきみたいに甘えてくれればいいのにと苦笑いしたところで、エレンははっとした。
 ふたつの足で歩くようになったエレンとハミィのからだにはあまりにも差があった。この世界のすべては、二度と同じ目線で見ることはできないのだと思いしらされて、なぜだかそれだけのことが悲しくてたまらずにエレンの胸はきりりと鳴った。
「おいで」
 ハミィの胴を両手で掴んで抱き上げ、そのまま頭の上にもちあげた。白い毛並みのすべてがオレンジの光を受け止めてきらめく。ハミィがにゃあと歓声をあげる。なにが解決したわけでなくても、これなら見えるでしょう、と誇らしげにとびだしかけた言葉を、それで止めてしまった。
 メイジャーランドにもマイナーランドにも海は存在しなかった。こんなに広く深く果てしなくて、こころを揺さぶるような景色は存在しなかった。それをハミィと共にみている。ふたりきりで、臨む景色すべてを独占して、身体中であじわっている。それはどうしようもなく嬉しいことで、エレンの胸はかっとあつくなった。

「セイレーンは、ほんとうに涙もろいのニャア」
「え……?」
 見下ろすハミィが優しく目を細める。エレンは腕をおろして、そっとハミィを抱きかかえる。それからやわい風にゆれる髪をかきわけて自分の頬を手の甲でなでた。それはぬぐい取った雫できらきらと濡れそぼって、夕陽を吸い込んで光を投げていた。まるで海のかけらを宿したように同じ色を投影している。
「それに、泣いてるって自分ではぜったい気づかないのニャア」
 わたしのことをよく見てくれるのねと目をあわせると、腕のなかの生き物はふくふくと鳴いて、ハミィとセイレーンがちょっとだけすれちがっていたときから、ずっとずっとそうだったニャーと言った。だれでもわかるニャ。セイレーンは、とっても素直だからニャ。
 ふわりと笑うハミィに、やかましいわと笑いかえしてやるつもりだった。けれどそれはとうとう発音できずに、かわりにひとしずくのなみだになって海に融けていった。ひどく自然に、そうあるように流れ出た涙だった。いつかとまるで同じじゃないかと思った。けれどそうではないのだ。あの頃は漠然としか見えていなかったものを、いまは確かに確かに抱いているのだから。
 響や奏に手をひかれてこの海に投げつけた言葉たちは、深く吸い込まれ手の届かないところへ流されて行ったと思った。冷たい海を拓いていくように、なるがままにしかならないのだと。けれどそのすべてはエレンの胸元に、知らぬあいだに投げ返されていた。どうあがいてももう独りではなかった。そのことがこれ以上ないくらいにエレンを勇気づけた。

「——帰ろっか」
 ともすればいつまででもここにいてしまう自分をふりきるように、エレンは小さな声で言った。気がつけば沈みかけの陽はおおきく傾いている。響たちの帰りがいつなのかもそういえば聞いていなかった。引き止まる目をひきはがして名残りおしく背を向けると、ハミィが髪をぐいぐい引っ張って笑った。
「セイレーン、まだここにいるニャ。陽がおちるのを全部見届けるまで、帰りたくないニャ」

 セイレーンとせっかくふたりきりになれて。ハミィはうれしかったニャ。しあわせだったニャー。ごはんをたべて、お散歩して、いっしょに歌って。あったかくて、きれいで、すてきないちにちだったニャ。ハミィはこの日をずーっと、忘れにゃい。それくらいうれしかったんだニャ。セイレーンもうれしかったら、ハミィはもっともーっとシアワセニャア。

 ハミィがそんなやわらかい声で笑うから、せっかく止んだ涙がまたぽとりとこぼれてしまった。
 エレンは、ヒトの姿になって失ってしまったいちばん大きなものに気づいた。それはつまり、ハミィのあたたかさにふれつづけて、胸の奥やまぶたの裏で冷たく巣食っていたなにかが決定的にこわれてしまっていたのだと思う。けれど残された隙間には、いつでもひややかな風が吹き抜けていた。そのがらんどうになった部分にあふれるほどの愛をつめてくれたのは、腕のなかのちいさな、ちいさな猫。それはあふれてやまない感情を投影した夕陽よりも、ずっと暖かでおおきな存在だと気づくことができた。

 今日はうれしいことがあまりにも多すぎた。あまりにも多すぎたから、この陽がおちたら今度こそ帰らなければいけない、ただそれだけのことが急に悲しくなる。明日からどうしていいのだろうと不安にすらなって、エレンはいよいよ声を洩らした。抱きとめきれないほどにふくらんだ思いがあふれて、あふれて、靴のうえや草むらのすき間や、ましろの毛並みのうえにも海をつくっていく。
 同じ目線で景色をみるだなんて、はじめから不可能なことだったのだ。だってハミィは、同じ夕陽をみていたはずのハミィは、こんなにあたたかい。この子でなければ、誰がエレンの冷ややかな世界を照らしてくれるのだろう。
 胸のなかのハミィをたぐるようにきゅっと抱きよせると、温もりが心地よく指にしみた。なぐさめているのか遊んでいるのかわからないけれど、こめかみにはぺたぺた触れる柔らかい肉球を感じる。

 そのくすぐったさに笑いながら、泣きながら、エレンはこの海をのぞむ全てのなかでいちばんに幸せものだと思う。
最終更新:2014年09月22日 23:22