merry goes round/なずな




 光が筋になって、流れていく。窓の外でいくつものそれがいっしんに暗闇に向かって消えていく。響は流れ星を見たことがなかったけれど、それはきっとこういうふうにはかないものなんだろうと思った。
 遠くに灯る無数の夜の明かりは残らず視界を横切って、はるか後方へ飛ばされていく。そうやって瞬く間に消えていく。夜景の潮流を見送るのを数えきれないほどくりかえして、もう物珍しくもなくなったそれを静かな目で見つめながら、響たちは光と同じ速さで運ばれていく。







 その日、空は驚くくらいに晴れていた。
 響と奏はモノレールと電車を継いで一時間半ほどの遊園地までふたりだけで行った。そして終電の早いために、ぎりぎりまで遊んで大急ぎで帰ってきたのだ。
 その間じゅうふわふわと胸を高鳴らせていた響は、けれどいまとなってはすっかり摩耗して、やっとのことでまぶたを薄く開けているばかりだった。
 喧騒はだだっ広く近代的なつくりの駅の隅から隅まで拡がっている。ついさっきまでふたりを囲んでいた、園内の期待に満ちたそれとはまるで異なった焦燥の渦だ。足早に行き交う人の波に揉まれながら二回目の乗り換えを終え、すがるようにつり革に掴まったとたん、とっぷりとした疲れがふたりを襲ってくる。

 発端は二枚のチケットだった。
 授業の合間のわずかな休み時間で、なんの脈絡もなく目前につきだされた細長い紙切れに、響は目を白黒させた。
 地模様の透けた水色の紙の上には、読む気も失せるような細やかな文字がぎっしりと並んでいる。ママが福引きで当ててくれたのよ、と響の前に笑って差し出されたそれには、奇しくも響がずっと昔に父親と行きそびれた遊園地の名前が記されていた。
「うちは四人家族だから二枚じゃ足りないもんね。お店もいそがしくてそんな機会ないし。だから、誘ってあげたの」
 そう言っていたずらっぽく笑う奏に、響は数秒の間をおいてから屈託ない笑顔を返した。ふしぎな縁もあるものだと思ったけれど、何よりもきっと適当な理由をつけて、休暇を過ごす相手に迷いもなく自分を選んでくれたであろうことが嬉しかった。それも知音が増えて賑やかに過ごすことが多い今、ふたりきりでだなんて。
 響は家に帰ってすぐ、机上のカレンダーに大きな文字できまったばかりの予定を書き込んだ。つい先週のことだった。

 指折りかぞえた約束の日曜まではあっという間だった。今朝こそは寝坊しないと心にきめた甲斐があってか、響の朝の支度は順調に捗った。いい気分になって突然やってきたエレンにバタートーストを振る舞った。広いテーブルに面して並べられた、普段は空いたままの椅子が、久しぶりの負荷に驚いたかのように軋んで、響をますます調子よくさせた。響にとって賑やかな食卓は、それだけで嬉しいものだったから。たのしみの前にたのしみが用意されている事自体が夢のようだと胸が浮きたった。ただエレンは猫舌だから、焼きたてをあげたのにわざわざ完全に冷ましてから食べていたのが面白かった。
 散歩にいくというハミィとエレンを見送って時計を見ると、待ち合わせの時間をすでに十五分過ぎていて、案の定それを奏にひどく叱られた。まったく笑えるくらい、いつもと変わらない朝になってしまった。

 そんなはじまりをした一日でも、過剰装飾のゲートを通った瞬間に、あっという間に非現実に引きこまれてしまうのだからおかしいと響は思った。あんなにぷりぷりしていたのに入るなり率先して園内を駆けまわり、終始にこにこしていた現金な奏もたいがいだ。歳相応にはしゃいでまわり、お土産を買いこんだり、絶叫マシンのどさくさに紛れてとんでもないことを叫んでは奏にはたかれたり、楽しみにしていたことはたいがいをこなした。
 けれど短すぎる旅行が現実味を感じさせないように、響にはその光景がどこか夢を視ているようにしか思えなかった。真昼だというのに目に飛び込んでくる数多のライトや極彩色の機械が、風景そのものをつくりものめかせている。ときたま奏がぐいぐいと腕を引いて、つぎはあれに乗りたいと先導するまでの間、響の心はここになかった。

「何ぼーっとしてるの。疲れたなら休憩する?」
「ちがうよ。喉がかわいただけ。クリームソーダ飲みたいな」
 それが表情に出ていたのか、奏は拗ねたふうにくちびるを突き出していた。その原因が自分にあるのだから、今更ながらほんとうにふたりきりなのだと自覚した。十分すぎるくらいに楽しんでおきながら、これが現実であると証明する手だてがないように思えてきて、日差しに火照った頭がにわかに混乱する。
 まとめて買ってきてあげるから席とっといて、と言い残して群衆に流れ込んでいくその後ろ姿すら、一瞬だけ奏のもののように思えなくなってしまい、響は自分に呆れた。





 急行のないローカル線は、一駅たどり着くたびに単調な作業のように乗客を吐き出していった。とぼとぼと歩いて散っていく彼らを気にも留めずに、車両はふたたび走り出して点と点を繋ぐように夜を駆ける。ふたりは今、けだるいまぶたを押し上げてくちぐちに一日の感想を述べあい、ときたまくすくす笑ったり、お腹を抱えて少しだけ高い声をあげたりしながら、鎮まる町へと運ばれていく。

「うう、のどがいたい。乾燥してるからかな」
「ずっと叫んでたからでしょ。響ったら、ほんっとにうるさかった」
 鈍くしがみつくような疲れをかかえた帰りの道程でさえ、時々思い出したようにたたく軽口はあいも変わらない。
 ジェットコースターで叫ぶ人々を見るなり腰をぬかして。こんなのとメロディが同一人物なんて信じられない、と奏は言った。響だって、駅に向かう道のりを走ったらすぐにばてるこの子がリズムだなんてとても思えない。そう言い返すと、ジェットコースターでつないでいた手から、降下の瞬間に噴き出すような汗をかいたことや、ミラーメイズで壁に衝突した拍子に思わず持っていたポップコーンをばらまいたことまでからかわれた。
 奏はなぜだか意外なくらい肝が座っていて、こういったものをまるで怖がらない。元々そうだったけれど、最近は磨きがかかったようだった。響はいまでも生身のときは滞空時の違和感に慣れてはいないし、内臓が浮き上がる感じがこわくてたまらない。だからそれ以上は何ひとつ言葉をかえせずに、この言いあいだけはあっさり白旗をあげた。気合いを入れるあまり新調したスニーカーで足はじくじくと痛むし、リュックの中はお土産に買ったお菓子でいっぱいに膨らんでずしりと重い。数時間前までのあかるさを嘘のようになくして、それきりふたりは黙りきっていた。
 車体ががたがたと体をゆするたびに金属のレールが鳴いている。いまはそれ以外、ここで声を発するものはなにひとつなかった。仕事に疲れて肩を丸めて眠る人々をよそ目に響はおおきなあくびをする。乗り換えにつかわれる比較的大きな駅では大量の人が掃けていく。
 ちょうど二つ空いた目の前の席に並んで腰かけると、流れる夜景は向かいの男性の肩に隠れて見えなくなってしまった。車内に篭るけだるい暖かさがひらいたドアから逃げていき、かわりにつめたい風が撫でるように膝をかすめた。

 途端に、ひどい眠気がおそってくる。
 負荷のなくなった両足がじわじわと安らいでいくのを感じて、身体じゅうがどろりとした重みに支配されていく。響はくずれていくようにゆっくり頭をもたげながら、ときたま抵抗しきれずに目を閉じてすぐにおし開いて、という動作を意味もなく繰り返す。それは奏も同じのようで、隣を見ると半目でうつらうつらとしている。それがおかしくて吹き出すと靴を思い切り蹴られた。
 意図せず閉じたまぶたの裏には、ぎらぎらした夜景が焼きついている。見慣れた美しい町並みすらさびしく見えるくらいに、それは刺激的な光景だった。マシンに揺られる感覚が残るからだにめまぐるしく回転する光のイメージがかぶって、揺られたままどこかへ飛ばされてしまいそうだった。




 ——奏が次にここにくるとき、となりには誰がいるのかな。
 長い花火ショーのあいだに、ふと響はこぼしてみた。そのときのことを思い出した。
 フライドポテトやたこ焼きといったスナックを、フードスタンドの側に置かれたひやりとした白いテーブルに広げ、ふたりで破裂音のけたたましい夜空を見上げていた。変なことを聞くね、と頬張っていたポテトを口に押し込みながら奏が言った。しょっぱいし、揚げすぎだわと文句をつけることも忘れずに。
 聞くつもりのないことだったのを、思いついた拍子にあまり考えもせずに口にしてしまっただけだったから、響自身、答えはあまり期待していなかった。確かに変な質問だよなぁと他人事のように思いながら、響も真似してポテトを口に運ぶ。
 空に咲いた光は瞬く間に流れ落ちていく。束にみえるそれは無数の光の粒で、そのどれもが違う軌道を描いて消えていく。そうやって何度でも光が弾けるたびにちかちかと視界が照り、遅れて小気味よい音が空を綻ばせる。
 ここを出て帰るまでの間、この幼なじみは響だけのものだ。けれど様相を愉しく変えていく空が、その時間の終わりが近づいていることを否応なしに知らせていた。終わりがあるということは、この日が夢ではなかったということだ。そんなちっぽけな材料で、この瞬間の幸福の実在性をたしかめてゆく。響はもどかしくなった。この日独り占めしていたささやかな悦は響の喉にはあまりにも大きすぎて、飲み込むことは難しい。奏は、楽しかったねのひとことですべてをよい思い出として包んでしまうのだろう。響もできればそうでありたかった。包もうにも、なにしろ掴めないのだ。はっきりと、見えないのだ。混乱する響をよそに、時間はみじんの迷いもなく歩み去っていく。夜空にきずをつけて消えていく光たちと瞬間のたのしみに、どんな違いがあるというのだろう。奏ならそれをわかるのだろうか。考えもしないだろうか。奏なら。奏なら?
 答えを聞く前に都合よく空に咲いた大輪の花火と申し訳程度の伴奏が、すべてを覆いかくしてしまった。奏がひときわあかるい声をあげる。その目に五色の光の粒が映り込んで、またたきのように一瞬、横顔を不自然な色に照らしだした。奏はすごいわ、すごいわ、とはしゃいで小さく手を叩いた。答える気があったのかなかったのか、それすらもうわからない。響は悔やむかわりに、この光の集合体が奏の目をどんな輝度で刺したのだろうと考えた。すべてが過ぎさってしまった空にはうずたかく煙がなびいている。それは響の胸にくすぶるものととてもよく似ていた。
 こんどこれを見る機会があったとしたら、自分は誰と来るのだろう。
 最後の一個のたこ焼きを断りもなく口に入れてからきれいだね、とつぶやいて、それきり響は何も言わなかった。





 退屈な移動は延々と続いている。行きの道程も同じだけの時間を過ごしていたはずなのに、いったいどうして会話を持たせたものだろう。脈とちょうど同じ速さのとうとうとした揺れがあらがいようのない睡魔を揺り起こす。

 できればこのまま知らない場所に流されて、奏とふたりきりで放り出されてしまいたかった。夜の帰路は響をそんな気分にさせる。それができないまでも、せめて今くらいはすべてを忘れていたかった。今週の木曜からまたテストが始まる、なんて?
 響は最後の抵抗のように開けていた目を、ゆっくりと閉じる。今日視たすべてのイメージが脳裏で不整然に並び、くるくると煌きながら駆け抜けていく。からだが浮いて流されていく錯覚を覚えながら、どこへも出ていくことなどできずに意識の内側へ弾きかえされてしまう。その幻燈のなか、世界は色を変えながら手の届かないところで流れ続ける。
 こんなふうに、奏がどこかへいってしまう日が来るのだろうかと思った。しっかりとその手をひいてつかまえていなければ、いつか、光の速さで、軌跡すら見えないくらい遠くにいってしまうのだろうか。目の前の景色の重みすら感じとれない響には、奏がどこにいるのか分からなかった。
 まぶたの裏にすっかり焼き付いた窓の向こうの光たちに、大輪の花火の絵がかぶる。こんな説明のつかない寂しさを、おなじように奏も隣で感じているだろうか。響の胸にくすぶる煙は今も、晴れない。





「ひびき」

 舌ったらずな声が呼んだ。奏の声だ。
 響ははっと目を開けてうつつに戻ってきた。ぼんやりと目に入ってきた窓の外の光は、都会から離れてきたためにこころなしか疎らになっている。
 なに、とからからの声で返しても、返事はなかった。重心をくずして座る奏は、目を閉じている。寝言だったかもしれないし、寝たふりをしているのかもしれない。どちらでもかまわない。響は、みずからのスカートの裾をかるく握る白い手に自分のそれを重ねた。それがそこにあることは火を視るよりあきらかなのに、そうしていなければ心もとなくて、指をもぐらせてきゅっとにぎりしめる。
 ぼやけた熱はあいかわらず車内のそこらじゅうに満ちている。その熱源はこの手の中にあると響は確信した。それから夜を駆けるこの列車もまた、夜景を裂いて流れていくひとつの光なのだと、火照ったままの頭でようやく気づいた。
 加音町まではまだ時間がある。窓の外の光は、ずいぶんとまばらになってきている。響は奏によりそうように体をあずけて、今度こそこんこんと眠りについた。
最終更新:2014年10月07日 23:20