重い 軽い/maple
背の高さよりもはるか高く続く本棚。几帳面に並べられた本たちは、一冊一冊が大切に扱われていることが手に取るように分かった。帯でぴしりと締められて、本の近くに埃はない。
そんな、ちょっとすると息苦しくさえなってしまうような、本屋さんの一角で、一人の少女が立ちすくんでいる。色素の濃い髪に、白い肌。一際目を引くのは、その肌に象嵌された、紅玉のような双眸だ。物憂げにまばたきを繰り返す瞳には、本の背表紙が映っている。
手を伸ばしては、引っ込める。
もう一度伸ばして、やっぱり引っ込める。
「……」
「万引きならごめんだょ」
しわがれた、老婆の声がする。語尾が跳ね上がるような、しぼんでいるような、よくわからない、特徴的な声だ。だが、だからこそ、どこかで聞いたことがあるような、うすぼんやりとした記憶がある。少女は、ふと声のする方を見て、目を数度しばたかせた。
「駄菓子屋のおばあさま?」
「おねぃさんとお呼び。」
「おねえさん」
「……ふん」
老婆は、琥珀色の色眼鏡の奥に光る細い目を更に細めて、品定めするように少女を見つめた。角度を変えて眺めているから、そのたびに、癖のある、毒々しい紫色に染められた髪の毛が、ふわふわと揺れる。
「……会ったことあるかぃ」
「はい、一度」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……そりゃアンタ、あたしゃの姉だね」
「おねえさんの……おねえさん?」
老婆は、静かに頷いて、それから、「どっこらせ」と、通路に置いてあった椅子に腰掛ける。細い通路には、段ボールなど何もなくて、ただただ本棚を繋ぐ道があるのみだった。高い、高い本棚から本を取るための椅子。そこに彼女は座っている。
「双子なのさ。ま、あたしゃのがよっぽど素直だけどねぇ」
「そうですか」
「―――…アンタ、名前は」
素っ気無い、老婆の言葉を否定しようともしない少女の声に、言葉に、老婆は一瞬の間を置いて尋ねる。その少女は、平積みにされた本を舐めるように見つめていたけれど、その視線を老婆に戻して、「せつなです」と答えた。
「東、せつな です」
「小娘、アンタ、さっきから何してたんだぃ…盗みじゃないならとっとと買いな」
せつなに名前を聞いておきながら、老婆はその名を口にせず、顎で本棚をしゃくりながら尋ねた。しかし彼女は答えない。ただ、悩むような、考え込むような仕草ばかりを繰り返して、尚も本をじっと見ていた。
「―――…踊り、やってんのかぃ」
痺れを切らした老婆が、質問を変えて再度挑戦した。
せつなが立っていたのは、ダンスの指南書のコーナー。ジャズやヒップ、ガールズに、社交ダンスまで、ありとあらゆるパートの本が揃っていた。
「――…いえ、わたしは…」
「知り合いにやるのかぃ」
「……」
「―――…何だぃ、辛気臭いねぇ……買うならとっとと買って、買わないならとっとと出てっとくれ!他の客の迷惑だよぅ」
「……わたし以外にいません、お客さん。」
「…アンタ、なかなか言うじゃないか…」
老婆は、しわくちゃになった口許をぐにゃりと歪めて、嬉しそうに笑う。それはまるで、クリスマスプレゼントをもらった子供のような顔で。おもちゃを与えられた犬のようにも見えた。
「で、何かぃ、アンタは自分が読むんじゃない本をそんなに悩んで買うのかぃ」
「……」
「―――…何をそんなに悩んでいるのか知らんけどね、本なんて ふぃーりんぐ だょ。欲しいと思ったら買わなきゃならん。いらないと思ったら買っちゃならん。あたしゃはそう思うけどねぇ」
「――…でも、ここにある本たちはとっても丁寧に扱われています。……本当はそんなに大雑把に考えてはいないでしょう?」
「……」
それまで黙っていたせつなに代わって、今度は老婆が黙った。それから、口許と同じようにしわの寄った細い喉をくつりと鳴らして、愉快そうに笑う。
「アンタ、おかしな娘だねぇ。……そうさ、本はあたしゃの体の一部だょ。でもね、さっき言ったことは本当さ。体の一部なんだから、びびっとくるもんなのさ。――…アンタは、その本にびびっときたかぃ」
平積みされている本の一冊を指差して、老婆は尋ねる。への字に歪められた口は、怒っているように見える。しかし、せつなは、なぜかほっとしていた。そうして、「わたし」と口を開く。
「おともだちがダンスをしているんです。…わたしもやってみたいなって思っていて…でも…ずっと、くだらないって言い続けていたから……言えなくて」
「でも本を買おうとしたじゃぁないか」
「――…憧れては、いるんです。やりたいんです。みんなでひとつのものを作り上げること。踊るという楽しさ。……でも、だからこそ、わたしは……」
「わたしゃはわたしゃはってうるさいねぇ。アンタ、世界が自分を中心に回っているとでも思ってんのかぃ。誰もアンタが踊ろうが踊るまいが気にしないよ。喜ぶやつはいるかもしれないけどねぇ。アンタは迷ってるって言ったね。でもね、答えはもう出てるんだろぅ。じゃなきゃ本は買わないね。迷ってる時点で答えは決まってんのさ。」
「どっこらせ」と、座る時と同じ声を上げながら、老婆は床に足をつけて、せつなの見つめていた本を手渡した。ずい、と差し出しても彼女が受け取らないと、「ほら」と突き付けてくる。
服の生地越しに伝わってくる本の固い感触。せつなは、本に意識を集中させていたからか、その本が触れている胸に意識を集中させていたからか、やけに大きく鼓動を感じていた。どくん、どくん。
「……」
「誘ってくれてるやつらの仲間になりたいんだろぅ。ほら、とっととしな。あたしゃ最近肩の調子が悪いんだ。」
「……わたし、が…」
細い喉を震わせて、せつなは声を絞り出す。老婆の瞳が、不思議がるように、微笑むように細められた。
「……ダンスを始めて、もしも機会があったら、見に来て下さいね。」
「―――…まっぴらごめんだねぇ。そういう浮わついたもんは嫌いなんだ。」
本を受け取ると、老婆の手に触れてもいないのに、何だか指先がじわりと温かくなって、心までぽかぽかしてくる。それって、ああ、きっと、せつなの中で答えが見つかっていたからなのだけれど、まだ、これからだから。
言葉と裏腹に、柔らかな笑顔を浮かべる老婆にお金を手渡して、せつなは店を出ようとした。
「ああ、待ちな。…… ぶっくかばー をしてやるょ。アンタの中で心が決まったらこれを取って仲間に見せな。」
「…はい」
象牙色の紙に、四つ葉のクローバーがちりばめられた、ブックカバー。
(よつばの、クローバー…)
もしも、この葉の一枚になれたのなら。
まだまだ、時間はかかるかもしれないけれど。胸に抱いたこの本は、せつなの決意そのものだ。分厚くて重いこの重みは、せつなの意思そのものだ。
何だかそれが面映ゆくて、くすぐったい。
「頑張んなょ」
「ありがとう。……ありがとう、おねえさん。」
どんな顔をしているのか分からない。しかし、老婆の瞳には、確かに笑うせつなの顔が映っていた。緊張したような、張り詰めた表情ばかり見ていたから、驚いて、目が数倍に大きくなってしまう。
「……精一杯、頑張るわ!」
夏の、晴れた、空の下。
スニーカーでアスファルトを蹴る。何だか、体が軽い。ああ、これが……
(自由 なんだわ)
最終更新:2014年10月11日 23:29