ロールプレイヤー/なずな




 手にしていたシャーペンを机に投げ出した。時計は九時を過ぎていた。
 使いすぎた頭はぼうっと行き場のない熱をはらんで、夜の涼しい気配と対している。日課である予習にすっかりのめり込んでしまっていたのだ。あたしは家での勉強には時間を決めずに取り組んでいる。静かな家だから、この習慣を邪魔されることはほぼなかった。
 けれど今日だけは、思うような成果をあげることができない。ただの逃避だったからだ。他のことに打ち込んでいるあいだだけは忘れられることもあるのだと、あたしは仄かに安堵した。テストは先日終わったばかりで焦りはないから、今日はもう止めにしようと思った。からからと軽い音を立てて転げたペンは机の脇に積んでいた参考書にふれて止まる。薄いグリップが芯の粉で黒ずんでいた。そろそろあたらしいのを買い足さなくてはいけないと思った。

 あたしは短いため息をつく。今日まのあたりにした冗談のようなできごとが、いまだ整理しきれずに体じゅうでくすぶっている。あの子から打ちあけられたことは、とうてい信じられるものではなかった。
 マナは物語の登場人物のように完璧な存在に映る。彼女を例える言葉は、あたしにはいくらでも見つけることができた。たとえばあの子は、何もない路端でガラス片をあつめて嬉々としている子どものようだ。あたしにはとうてい見つけられないものを、目にもとまらない速さで手にしてしまう。その手に傷を負っていたとしても誰にもそれを打ちあけなかった。
 けれど今度の凶器は、ガラスよりはるかに恐ろしいものだったと一目でわかった。それは目の前で砕け散ってあたしにも片鱗を投げた。マナが滅法に振りまく愛がとうとう人智のおよばないところまで届いてしまったのかと、正直呆れた。あたしはそれでも、マナの絶対の味方でいる。ごく薄らだけれど覚悟はできていた。今度こそは、首を突っ込むまえには戻れないような気がしている。そんな自分にも、陶酔している自覚はあった。

 ジークフリートとオデット。リーマとアベル。シャハラザードとシャフリヤール。幸せの王子と――
 胸に棲むいくつもの名前があたしの脳裏に浮かんだ。会話のなかで得意げにその名前を持ち出すたびに、マナは一時だけぽかんとした顔であたしを見る。あたしはそれをいいことに目の前にひとりよがりな寸劇をつきつけて、言葉を遊ぶ。ひどい悪ふざけだと思う。けれどそれでいい。あたしの煮え凝った執着に、いまは気づいてほしくなどなかった。
 あたしはマナを美化しすぎているのかもしれない。あるいは無意に見下げていて、いつかすっかりすりきれてしまうに違いないと決めつけているのかもしれない。それはどちらにせよ同じことだった。あたしの胸で衣装を着て踊る彼女はどちらもほんとうのマナでないのだから、同じことだった。

 十年のあいだ寄り添って歩いてきたあたしたちの轍は、振り返らずともはっきりと感じとれた。あんな秘密を見せてもなお、なんでもないようにからからと笑うマナはあたしを信じきっていた。あたしは髪を手繰るわかりやすい癖やすぐに顔に出る慈意の軋みを見つけては、妙な満足を感じていた。その実、彼女を信じきれていないのかもしれない。
 いつの間にか、あたしたちの視野はずいぶんとそのおおきさを異にしていたように思う。マナが手をひろげればひろげるほどに、あたしの目線はひとすじの矢となって彼女に注がれた。あたしは恐れた。このままでは、あたしたちはシュリンクスとパンになってしまうのではないか。怖くなると、あたしはこの部屋の読み古した本たちのページの中によく身をひそめる。教科書や参考書を納めてもなおすかすかに空いた本棚には、角のすりきれたハードカバーをいっしょくたにしていた。余計なものを一切置かないために寂しい空気ではちきれそうなこの部屋で、それはやかましい愛の物語へのとばりだ。そこに収まっている童話や神話や、ありとあらゆるフィクションはあたしの気に入りだった。そこに登場するどんな役もあたしとマナであって、同時に何者でもなかった。
 そういった紙の束のなかでだけ、あたしは魔法を持っている。あたしはときに王妃になり、姫になり、召使になりよき友人となった。マナは得てしてあたしの英雄だった。この現実のように、ときに言えないままの声を胸で焼いて、しずかに泣き叫ぶことだってなかった。あたしは燕になって、暖かな国にまちうけている未来をあきらめ、王子の心臓とともに生き絶えることだってできた。すべてのメッキを剥がされた王子の、さいごにのこされた愛はどんな色をしているのだろうか。滑稽なことを考えているのは、自分でもわかっていたつもりだ。けれどあたしの思想はページから染みわたり、ついに今日、動揺した隙に己の口をこじあけて、惨烈に漏れだすのを止められなくなってしまった。

 何気なく右手で熱をはかるように額をつつんだ。頭はあいかわらず熱をもっているのに、手はぞっとするほどひやりとしている。テスト期間中の放課後、あたしたちがきまってするように側で勉強をしていたら、マナは飲み物でも持ってきてくれるだろうか。ふっと口元が緩む。優しい子だと思う。マナの世界で、あたしはどんな姿を持っているだろうか。そればかりは、どれほど考えても浮かんでこなかった。
 その世界でこそ、あたしはマナの永遠の伴侶でなければならなかった。彼女のもっているすべての愛がばら撒かれて何も残らなかったとしても、さいごに王子の目をえぐりとってしまうのはあたしでなければならない。その企みに気づいてしまうとき、マナもあたしに呆れるだろうか。あたしは、とっくに自分に呆れかえっているというのに。

 とうとうくだらない笑みが漏れた。あの子は、あたしのこうしたひとりあそびを知らない。そこまで考えると胸はどきどきとはやがねを打った。そんな勇気などないくせに、今度はなぜだかはやく知らせたくてたまらなくなった。すべてを打ちあけてくれた幸せの王子に。あの子の広い手が、誰でもないただひとりの脇役に差し伸べられてしまう前に。けれどもうすこしだけ、あたしはあたしの冷ややかな芝居のなかで遊んでいようと思った。取り返しのつかなくなるまでは、この想いは芝居じみた台詞のなかに、隠しておこうと思った。

 その心臓とともに燃えつきるのが、あたしのただひとつの幸いなのだと。
最終更新:2014年11月01日 18:06