【ピアニシモ】/れいん
(ごめん……ね)
胸の奥がギュッと締め付けられるように苦しいけれど、今の自分にはこうすることしかできない。
待ち人が、来るはずもない桜の木の下で、奏は一人、ひらひらと舞うように降りてくる淡いピンクのそれを見つめた。
(ひとりぼっちにして、ごめんね)
きっと、桜を見上げているだろう。
きっと、不安に思っているだろう……。
本当なら今すぐに、もう一つの門の、三本目の桜の木の下まで駆けて行きたい。
(寂しい想いをさせて、ごめんね……)
でも、そうはできない。
だって、自分はわざと約束を破ったのだから。
彼女はあちらの門の桜並木しか知らないと、知っていたのだから。
ウソをついて、ごめんね響――――。
【ピアニシモ】
バニラオイルを一滴たらす。
甘い、お菓子独特の香りが家庭科室に漂って、一瞬にしてその場所は、女の子色の強いティールームに姿を変えた。
「わぁ、美味しそう! さすがは奏ね!」
自作のケーキが称賛を浴びて、満足を得る。
今日のケーキは自信作……響の好きなイチゴの乗ったケーキだ。
(もっと、凝ったつくりのケーキだってあるのにね……)
いつも、真っ先にシンプルなものを選んで、美味しそうに口に運ぶ。
作り甲斐がないけれど、好みも性格も全くブレのないところが響らしい。
(もうすぐ……来るわね)
そう考えながらチラリと時計を見た。
今日は、「サッカー部の助っ人」だと、西嶋和音に話しているのを聞いたので、グラウンド利用終了時間をチェックしておいた。
自分は窓際の席に座り、自作のケーキはテーブルの反対側、盗み食いしやすい所に置く。
スイーツ部のみんなは、各々のお菓子の話に夢中で、部屋の扉が静かに開いたことに気づいていない様子だった。
やがて、そろりと長い指がテーブルの上のケーキに忍び寄る。
(綺麗な……指)
もう、ピアノは弾かないの?
そう胸の中で問いかけても、返事などあるはずもない。
響が取りやすいようにと、切り分けておいた大き目のピースを、その指は躊躇なく選びコッソリと奪い去った。
しばらくは、気づかないフリをする。
だって、まだ食べ終わっていないだろう……。
大きく口を開いて、あのくらいの大きさだと、響ならだいたい三口くらいで食べられるだろうか?
もぐもぐと豪快に咀嚼をして、きっと口の周りは白いクリームでヒゲがはえたようになっているに違いない。
そろそろ、次に手が伸びるころだろう。そう思って机の端に視線をやると、やはり指が次のケーキを探っている。
今度は部長である、聖歌先輩の作ったケーキを狙っているらしい。
「響っ!」
奏は、響の指がそのケーキに届く前に、ストップをかけた。
「やばいっ! みつかった!!」
その声を合図に、響はスクッと立ち上がり、脱兎のごとく逃げ去った。
そのやり取りを見て、スイーツ部のみんなはクスクスと笑う。
「北条さんって、忍者みたいね」
聖歌先輩がおっとりとした口調で言った。まるで、奏をなだめるように。
別に怒ってなどはいないのだけれど、周りにそう思われるように仕向けたのは自分なので、奏は頬を膨らませ、憤っているように手を腰に当てた。
「毎日こりないんだからっ! もう、本当にばかね!!」
言葉は交わしたり、交わさなかったり。
話したとしても、それは大抵の場合口喧嘩だ。
それでも、毎日このときだけは、盗み食いを口実に、自分に会いに来てくれているのではないかと、錯覚を起こしてしまう。
(ばか……なのは、私か)
本当は、口喧嘩ではなくて、普通に話がしたい。だけど、それをできなくしたのは自分だ。
(おかしいのは、私……)
家庭科室を片付けて、換気のために窓を開けた。
「後はやっておくから」と、ほかの部員を見送ってから、奏は再び窓辺へ歩み寄る。
その場所からは木は見えないけれど、桜の花弁が舞うようにして数枚、飛んでいるのが見えた。
“あの時”の桜の花は、もうとっくに散ってしまって、今はもう、次の桜が咲いてしまった。
(響……)
心の中で、呼びかけるだけで胸が疼く。
もっと、簡単な事だと思っていた。離れ離れになれば、この気持ちが薄れるのだと思っていた。
けれど、実際は辛くなるばかり。
これでは、何のために“最も近くに居られる”権利を放棄したのか分からない。
風が、ふわっとピンク色の花びらを攫って、手の平にヒラリと落ちてきた。
奏はそれを、ギュッと握りしめて、その場にしゃがみ込む。
(どうして、手放してしまったの?)
大切な、場所だったのに……。
今更後悔しても、もう遅い。
「すきよ……」
小さく吐き出すように呟いた。
本当は、大好き。
でもそれは、響が自分に感じてくれていた“好き”と、意味が違う。
「苦しいよ……、助けてよ、響……」
涙と共にこぼれ落ちたその声は、自分の耳にも届かない程小さくて。
到底、響の元まで届くとことはないように思われた。
最終更新:2014年12月03日 22:17