クラインブルー/なずな




 首を絞められる夢を視た。それも響に。
 嫌だとは、思わなかった。

 寝起きでずくずくにふやけた頭でも、その感触ははっきりと思いだせた。
 色も温度も匂いもなにひとつない場所でまろぶ身体の上には、くるおしいほどの熱がかたちをもって覆いかぶさっている。重さは感じないのに、圧しかける気配があまりに甘やかで身動きがとれない。ふかい水の底にいるようだった。宙を飛んでいるようでもあった。どこかに寝そべっているはずなのに浮遊感から逃れることは出来ず、自由を奪われているのに縋るものだって無い。ただ明確にかんじとれるのはひたひたとした優しい感触で、それは身体をなぞるように這いまわり、もてあそぶように踊り、しまいには首すじに蔦のようにしがみつく。短すぎるくらいに切りそろえられた爪や細くかたいゆびさきが、おのれの皮膚にぐっと沈んでいくのだけを感じていた。
 響の、ゆび。
 それが現実でないとわかっていながらも、奏は逃れることをあきらめた。

 目の前に砂嵐が吹き荒れ、ちかちかと世界が眩んでいく。はげしく噎せころげながら、耳許でささやく声にくすぐられるようで、おぞましい高揚感に身をよじった。
 苦しい。甘い。怖い。なぜだかそれがはじめてでないように錯覚し、異様さすら忘れて奏は甘い声でわめいた。額やこめかみやほおに降るくちびるのやわらかさに触れながら引き絞るようにわめいた。青黒く暗転する世界のなかで、ふたりは熱そのものになったようだった。
 奏は、それを嫌だとは、思わなかった。







 じっとりとためこめた空気が素肌を撫でるように張り付く。かたく閉じられた窓は外のやわい風を遮断して、ここには――響の部屋には、春のおとずれに取り残されたような肌寒さだけが犇々とたちこめていた。

 奏はベッドのうえで仰向いたまま、アイボリーの天井をみつめて瞬きをする。それはもう何度も見ているはずの光景なのに、奏の目には初めてみたもののように映っていた。
 広がり一面に、細かく刻みつけたような模様が薄く視認できる。ほかに見覚えがある、と奏は思った。かつて通っていた小学校の教室の天井に、それはとてもよく似ていた。窓の外の真昼の曇り空のために、空気は靄をとおして灰色に染めあげられ、そこに平たく張り付いた照明器具の輪郭さえ白くぼやけている。
 模様はまっさらな平面をナイフで執拗に、執拗に刻みつけたように見えた。奏はそのイメージに引きずられるように、自身のむき出しの肌が思うままに刻みつけられていく情景を思い描いた。狂気だ、と思った。景色そのものも、それを想起しながら怯えもしない自分も。
 収拾のつかなくなっている思考を曇り空のせいにしてしまいたかった。奏は灰味に満ちた部屋で、ひとりきりでないのにさみしさを募らせる。いつから通っているかわからないこの部屋で、初めて見たわけでもない天井を異質に感じている。ほんとうに、響にしか興味がなかったのだとおかしいような気持ちになった。

 こんな想いをいつからかかえていたのか、奏は思いだすことができない。ふたりの間によどむ熱はかたちや温度を変えながら、絶えずそこにありつづけた。
 幼い頃は並んで遊んで。中学生のときには向かいあって笑って。奏は予感に粟立つ肌じゅうで、昨晩のまじわりを苦しいほど思いだした。
 ふたりはあの頃のような澄んだ目をしているだろうか。指をからめるだけで、みつめあうだけで。同じはやさで高鳴りあう胸を、奏と響は確かに持っていたのだ。どこでこんがらせてしまったのだろう。美しい親友のありかたをつづけていく方法はあったのだろうか。
 ああ、今は。今は。
 明かりの灯されていない蛍光灯に何気なく目を遣ると、からだを投げ出していたベッドがふいに沈む。視線がかちあい、素肌をさらした響が何も言わないまま肩を噛んだ。





 視界に色素のうすい髪がまとわりついて天井を覆いかくすままになっていたら、幼いころにふたりでここに寝転んで、いっしょに見上げたのを思いだした。それは記憶の底にしまいこまれていただけで、視認したことのある景色なのだった。けれど無意味な了得は、甘やかな刺激のまえに簡単に眩んでしまう。響が餌をついばむ鳥のようにくちびるを動かすと、ぞわりと立ち昇るくすぐったい悦楽のなかでもうひとつ蘇るものがあった。
 響の触れかたはいつでも優しくて、自由で。顎を押さえていた手が首すじにふれると、全身が呼応するようにぞわぞわと粟立った。思わず目を閉じると、窓の外のほのかな明るみが瞼の裏にこびりついていた。青だ。灰色の世界のなかで、窓から射すわずかな陽の、その残像だけが切り抜かれたように青いかたちを結んでいた。

 あごから耳にかけてを這うように舌で撫であげられて、奏は呼応するようにからだを浮かせる。欲情した響に、今もまた削りとられていく。胸の高鳴りを抑えられないいっぽうで、育っていた純真な夢がゆっくりと醒めていくのを感じていた。
 あたたかな想いは冷えて青暗いいろの殻をつくり、みにくい情愛へと羽化していく。その様相から、もう目を逸らすことはできなかった。子どもでなくなってしまうための甘やかな儀式だ。恍惚とした。奏はゆびを震わせながら弱った動物のような声をだした。
 引きずりこまれるような愉悦に浸っていると、ふと響が顔を離した。奏が寝そべっていた半身を起こすと、視線がふたたびかちあう。今度もことばはなかった。ゆっくりと、両手が奏の首にふれる。

 身体中が、ひどく緊張した。

 奏は思わず目をかたくつむった。与えられるわけのないものを待ちわびてぞくりと震える肩を、響は気に留めるでもなく撫であげて通りすぎる。ただしい道すじを辿ってそのまますべりおちてしまうしなやかな手を、奏は絶望的に思った。やさしく乱暴なゆびさきで胸をまさぐられながら、これでは足りないと頭の奥で喚きたてるものがあった。
 今朝みた夢を思いだした。これ以上ありえないほどの悪夢を。
 苦しくして欲しかった。もっと、もっと、苦しく。だけどもう、こんなにも苦しいのだ。

 奏は響の頭を絡めとると、噛み付くように口づけた。驚きで見開かれた目は、かえって歓ぶようにほそめられる。舌先をふれあわせるたびにひりりと鳴く電気が頬を伝って、いやな熱が腰にも心臓のまわりにもくすぶっていく。視界はゆっくりと境界をうしないはじめる。密室の中なのに、つめたい霧が頭の奥まですべり込んでくるようだった。からだの外側だけが火照って色づいていく。それでも足りなくて、後頭部を掴んで押し付けるようにくちびるを食む。息継ぎをする暇すらあたえずに、貪りつくすように。

 もっと苦しくしてほしい。奏はみずからの切望におののいた。それは、この強欲を罰してほしかったのだと思った。けれど本当はそれすらもの欲しくてたまらないだけだった。すべてを投げ出して溺れた。ふたりのくぐもった呼吸が夢魔のそれのように耳を震わせてやまない。それ以外何も感じない。
 わたしの欲望とはこんなものだったと、からだと反対に冷えていくばかりの胸で奏は思った。心の底に淀んだいちばんけがらわしいものを引きずりだされてしまったようで、心臓がひどくしめつけられた。
 それはけして比喩ではなく、だんだんと苦しくなっていく呼吸のために、酸素をもとめる心臓はのたうち回るように動いている。それでも止まらない舌をどうすることもできずに、響とからだを合わせていながら、自分だけが遠くへと引き剥がされていくと思った。深い海の底で淀む闇のように、あるいは空高い場所の虚無の靄のように、奏の想いだけが色を濁らせていく。

 響はうめきながら、掴んだ肩に爪を立てた。追い詰めるかのようにその唇をとらえると、響は苦痛から逃れようとからだをくねらせて暴れる。歯がぶつかる感覚に痛みすら感じながらも決して顔を離さない。
 酸素も得られないこの状で、奏はおのれにくすぶっていた靄が、底しれない青だったことに気づいた。宙を飛んでいると思った。青黒い空を泳いで、呼吸のおよばない場所へ流れついてしまったと思った。
 とうとう意識が引きちぎれそうになった頃、両手で胸を強く押しのけられて、力ない奏のからだはあまりにも簡単にシーツに倒れこんだ。

 響は唾液をぬぐいながら涙目で奏を覗き込む。奏より遥かに肺活量のあるはずの響は、肩でおおきく息をしている。倒れこんだ奏のからだだって酸素をもとめて震えていた。酔ったように視界が回転し、ベッドの底深く沈みこんで、そのまま響のいないどこか別の場所へ落ちていってしまいそうな気すらした。
「どうしたの。いったいどうしたのよ」
 響の震えた声はあまりにも力なくて、まるで他人のもののようだ。理解できないという顔で捨てられた犬のような目をして見下ろしてくる。けれど奏にだって、わからない。その目のやわらかい光が届かないくらい、深い靄にとらわれたままなのだ。済まないような想いを詫びることばさえ、やはり探すことはできなかった。
 響の、苦しみから漏れ出ただけの熱のない涙が奏のくちびるに落ちて、するりと飲み込まれていく。それは何の味もなかった。突かれた胸を上下させながら、奏はその衝撃で何かが決定的に砕けてしまったのを感じていた。上気して噎せ返るような赤みをたたえていた頬が、こんなにも冷たい。

 酸欠でひび割れるように痛む頭のどこかで、まだ足りないともがく自分の姿をみつけて奏は怯えた。いまも視界がゆがんで響のことが見えない。響にさわろうと上に伸ばした手は力が入らずに、届かないままくたりと落ちてしまった。視界が灰色の光に溺れて滲んで、すべてが急速に遠のいていく。

 響が好きで、好きで、絶望的に苦しい。
最終更新:2014年12月13日 00:38