秀吉は明の征服を目的としていたようですが
実際の所、明を相手に勝てる見込みはあったんですか?(487:104)
秀吉の朝鮮出兵について質問。
秀吉は明の征服を目的としていたようですが
実際の所、明を相手に勝てる見込みはあったんですか?
この時代だとまだまだ中国は強大というイメージなのですが
(明はそろそろ落ち目とはいえ)
当然見込みがあると踏んだから仕掛けたのだと思うんですが
その際の明の戦力の見積もりや戦争計画と言ったものは
どの程度のものだったんでしょう?
日本は統一したから次は明、程度の認識だった訳じゃ無いですよね?
あと、秀吉が死んで朝鮮から撤兵という流れになった訳ですが
戦い続けていても泥沼で敗色濃厚という状況だったのですか?
撤兵という選択がなされたということは無理が出てきていたのだとは思うのですが。
たしか専用スレがあったのでそれを読んでみたら?
出兵動機についてはまさに「日本統一をしたから次は明」ってだけ
何でそう考えたのかってのはいろんな説があるけど最近は誇大妄想など精神疾患に求めるのが流行してる
だから勝つ戦略も何もあったもんじゃない
徳間から戦前の日本陸軍の朝鮮出兵の分析が文庫で出ているので読むといい
最近の研究では統一後に分配する土地が無くなった為という説や
(出兵を喜んだ大名も居たから)
秀吉一人の発想ではなく、信長から引き継いだものであるという説が有る。
明に勝てる見込みは日本側が主観的に持っていただけ。
日本側が得ていた情報としては明・万暦帝治下での政治の混乱でしょうね。
実際、モンゴル人や貴州の反乱が日本の朝鮮侵攻と同じ年に発生している。
財政もかなり悪化していた。
日本側の事情としては、各大名を外征させ征服地を恩賞として与え、
不満を削ぎつつ強大な戦力を外に向けさせる事が豊臣政権の安定に必要と考えられた。
戦国の間に戦力を蓄えた大名達による反乱は恐ろしい。
また明を征服する事によって明に対する朝貢以外は公式にはできなかった、日本と中国の間の交易を
完全に掌握して莫大な利を得る事も大きな目的であっただろう。
「日本を統一したから次は明」というのは豊臣政権としては相手が弱っていると判断すれば、
飛びつきたいチャンスではあったのだ。見通しは甘いけれど。
日本の戦争計画は、極めて主観的だったとは言えると思う。
朝鮮を軍事力で威圧し服属させ、補給路を安全にした後に直隷をめざして侵攻するといった所。
ただ朝鮮は服属せず、王室は逃亡し、民衆もまた日本に服さなかった。
朝鮮から撤兵せずに戦い続ければ、ただでさえ破綻が見えていた補給は断絶し、
(豊臣秀吉が死んだ後に補給に携わっていた商人や大名が協力するとは限らない
、対価を取り損ねる可能性があるので)
弱りきった日本軍に明・朝鮮軍と現地住民が襲いかかってせん滅する可能性すら考えられる。
今の武器はモデル16やら何やらってありますが
そういう風に細かくわけられるようになったのは何時頃からでしょうか?(485:890)
昔の武器ってハルバートやらダガーやらって呼び名はあっても
あんまりモデルほにゃららとかってついてませんよね?
今の武器はアサルトライフルならアサルトライフルでモデル16やら何やらってありますが
そういう風に細かくわけられるようになったのは何時頃からでしょうか?
近世、銃が主力になってからだと思う。
というか、工業が進んで製品に均質さを求められる時代になってからか。
それ以前は工房ごと、武器製造・鍛冶師ごとに違う形状のものを作ったり改良したりしてたんで、
統一されたモデルってものが存在しなかった。
同じ武器でも一つ一つが違うモデルって言ってもいいくらいバラ付きがある。
(もちろん、大量生産品は製造工程の手間を省くためになるべく同じように作るんだが…)
設計図どおりに、全製品を全く同じように作れるには製造に使う機械類の発展もあったからこそなんで。
19世紀中盤の前装式マスケットから後装式ライフルへの過渡期あたり。
たとえば英陸軍はこのころ通称「ブラウン・ベス」というマスケットから「P1853エンフィールド」前装式ライフルに切り替わってる。
この頃からスムースボアからライフルへ、フリント式から雷管方式へ、前装式から後装式へ、球状弾から円錐弾へと銃の技術革新が進み、頻繁にモデルチェンジが行われるようになった。
それに伴い銃の名称も「メーカー名+制式年」のような形式が使われるようになっている。
要するに19世紀中盤くらいの産業革命の進展と技術の革新で規格化された銃が大量に生産され、頻繁に更新されるようになった頃。
そうなるとどの銃がどこにどのくらいあり、弾薬をどう手当てするかなどの管理の必要性から、たとえば「どこのメーカーで何年に開発された銃」という形で名づけるのがベターということ。
何で、「馬に乗って戦うと強い」のでしょうか?(485:744)
近代迄は、馬を使用した軍隊が多かったわけです。
馬を使うと早く移動できるというのは解るのですが、
馬に乗って戦う=強い というのが、どうにも腑に落ちません。
日本で言えば、武田騎馬軍団が有名ですけれど。
何で、「馬に乗って戦うと強い」のでしょうか?
高速移動できる、早く武器を振り下ろせるとかのメリットはあると思うのですが、
槍とかからは逃げにくそうだし。
実際に騎士とかと戦ったことがないので、質問が支離滅裂になって申し訳ないです。
諸説ある。
徒歩の兵士にとっては体当たり状態…一方的にひき殺される状態、
また、馬の速度と、馬の体重の突進を徒歩の人間が止めるのは難しい
=防御不可能かつ回避不可能
- 馬に乗っての突撃は実際には、突撃してこられると徒歩の兵士は
恐怖感を抱き、瓦解してしまうので、防御陣形が維持できなくなってしまい、
簡単に敗走した
- 馬にのって移動する速度は、徒歩で隊列を組んで方向転換するよりはるかに早く、
側面から突撃されると、徒歩の歩兵は即座に方向転換ができないので陣形を崩されて全滅した
上に挙げたのは説の中の一部に過ぎないが、これらの理由が複数組み合わさって
騎兵・騎士・騎馬武者は歩兵より強かったとされている。
後、騎兵ってのは足が速いから敗走を始めた敵に対して、戦果拡張に用いられる事もある。
だから、歩兵にとってはかなり最悪のタイミングでやってくる。
アレクサンダー大王にしても、ハンニバルにしてもスキピオ・アフリカヌスにしてもカエサルにしても
歴史上有能な将軍は騎兵(機動兵力)を上手に使ってるからな。
時間的、空間的に戦力を集中出来る騎兵は鐙が無い時代すら上手に使えば比類ない力を発揮した。
『蒙古襲来絵詞』に「てつはう」が描かれていますが、なぜ日本では種子島以降まで火器が広まらなかったのでしょうか。(483:891)
同時期の支那大陸では火器はどの程度普及していたのですか。
- 技術が伝わらなかったというか、当の大陸でも普及し始めた程度。
また、友好的な国交があったわけでもなかったので、技術を伝えなかった。
- 日本国内では火薬の原料の一部、特に硝石がろくに取れないので、自作は無理。
仮に伝来しても自力では製造が出来ず、輸入に頼ることになる。
ついでに、当時の中国で使われていた火薬兵器も精度も威力もあんまり無く、
威嚇兵器としての意味合いが大きかったので、主力兵器にはなってない。
(部分的には、工夫や改良を凝らして使われていた物があったようだが、
詳細が不明で実像が未だにわからず、予想や憶測、想像図を含んでいるものも多い)
実用的な火薬兵器の登場は、ヨーロッパに伝来してそちらで改良されて
アジアに伝来する時代まで経たなくてはならなかった。
百年戦争の頃の普通の弓兵って矢を何本くらい持ったの?(480:62)
矢って高かったって聞いたんだけど
かといって少なくて足りないんじゃ洒落にならないだろうし
http://en.wikipedia.org/wiki/English_longbow
"A typical military longbow archer would be provided with between 60 and 72 arrows at the time of battle,"
「平均的な射手は一度の会戦で60~72発の矢を放った」
とあるので一人当たりそれだけの矢は持っていたか確保されていたということになる。
ただしcitation needed(出展不明)となっており、これが間違っていないかどうかはわからない。
他にも"An experienced military longbowman was expected to shoot twenty aimed shots per minute."などとやたら景気のいい数字が挙げられてるので割りびいて読んだほうがいいかも。
中世ヨーロッパで建造された有名な城とその中で最も堅固を誇った城を教えてください (480:464)
有名なところではカーフィリー、シャトー・ガイヤールなどではないかと思う。
でも、城は要するに手間隙かける軍隊に長いこと取り巻かれちゃうと落ちちゃうものだし、
城の中に入ってる軍隊や住民なんかも関係するから堅固っていう定義は難しい。
あと、中世ってのの定義次第ですが、コンスタンティノープルなんかも堅固だし、
アルビジョワ十字軍に攻められた南フランスにも堅い城とか城郭都市が沢山ある。
後、十字軍の城については欧州の人らが中近東にわたって建築したということを
考えると欧州の城とは密接な関係にあるのは事実。
たとえばイングランドのエドワード1世などは中東に行った経験があり、
その後ウェールズに多くの城を築いている。
物理的に難攻不落な城や要塞など存在しないからな。
歴史的に一度も落ちてない要塞より、
陥落したことのある要塞のほうが堅牢である場合は往々にある。
主観になるが中世に作られた中で物理的に最も落ちがたいという意味では
要塞ではシャトー・ディフが最高だろうと思う。
城壁を攻める十分な兵力の揚陸も困難だからな。
アレクサンドロスのティロス攻略の比ではない。
城郭都市で最も本格的なのはカルカソンヌではなかろうか。
高台の上にあり、東側には広い堀。
合計46の塔に内外二重の城壁で、門一つが独立した要塞といえるほど堅牢なつくり。
昔の騎兵はランスチャージと呼ばれる攻撃を馬と鎧と槍を用いて行ってたと聞いたのですが、彼等は塹壕戦が一般的になったあとは何をしてたんですか?(480:882)
それとラクダでもランスチャージみたいな攻撃は行われたんでしょうか?
第一次世界大戦のときは
戦線後方で大突破が出来たら投入されるのを待っていました。
第二次世界大戦のときは
難地形や開放翼で機動して敵後方に回り込んだり、ゲリラ警備をしたりと
活躍しています。
また、騎兵とはちょっと離れるのですが、補給関係では馬車を使っています。
昔の騎兵はランスチャージと呼ばれる攻撃を
馬と鎧と槍を用いて行ってたと聞いたのですが
ソレは騎兵っていうより騎士の時代の話だよ。17世紀には廃れてしまう。で、塹壕戦
が一般的になる20世紀までの300年間は機動力を生かして「偵察、後方攪乱、追撃」な
んかを主任務とするようになった。乗馬で機動して戦闘は下馬を主とする竜騎兵が作られ、
ソレをサーベル持って追い掛け回す軽騎兵とかの時代になる。
戦線が膠着する塹壕戦の時代になると、そういう用途でも使いづらいので斥候、伝令程
度の用法が主になり、戦車やトラックが戦場に登場するようになると、「乗車騎兵」って
形になって機甲化していく。
ちなみに19世紀初頭のナポレオンの時代でも騎兵突撃はやってます。
有名なのがワーテルローでのネイ元帥が率いた突撃。イギリスの方陣
目掛けて突撃しました。
ランスチャージではなくて、胸に鎧をまとった胸甲騎兵がサーベルを使って
突撃したのです。
ヨーロッパでは騎士と呼ばれる職業軍人が馬に乗って槍を持って突撃してたらしいけどそれって今でもある?(481:403)
バイクのってアサルトライフルもって突撃とか・・・
それとラクダとかゾウとかでも行われたの?
馬はヘリに変わり、槍は突撃銃に変わり、現代に至っています
バイク乗って(ry という方はまぁいませんが、かつての騎士的な役割は対戦車ヘリになるかと
ラクダ騎兵はいた。
小回りがきかないのと、気性が荒いので、馬より扱いにくかったけどな。
戦象もいたが、これは扱いがラクダ以上に難しいく、象そのものがパワーで乗ってる人が主体とは言い難い。
騎士っていうのは「身分」ね。
君の言っているものは「騎兵」と呼ぶのが正確。
現在では実戦で馬に乗り槍を振るうことはない。
「騎兵」は、儀礼用の部隊を除けば装甲車やヘリコプターを装備する部隊に
変わり、「騎兵」という部隊名や兵科は一応今でも残っている。
中東の国には「ラクダ騎兵」があったし、古代には象に鎧を着せて背中に
ゴンドラを載せてそこに兵士が載る「戦象」というものが存在していた。
戦術(戦う方法)は時代によって変化していきます。
現代に刀や槍を持った武士が自衛隊にいないのと同様に
騎士は中世の終わりと共に、その役目を他に渡しました。
騎士と似ているものに「騎兵」があります。
というより騎士は騎兵の形態の一つなのですが。
騎兵は武器を銃に変えて20世紀まで残りました。
さらに馬をヘリに変えていまでも「騎兵」と名乗っている部隊があります。
ラクダや象も「騎士」ではありませんが、戦争に使われています。
象部隊はカルタゴやインドが有名、ラクダ部隊はセレコウス朝シリアや
パルミュラなどが有名です。
最終更新:2008年08月23日 15:16