妖怪の山に、深い夜が降りてくる。
春先と言えど、この時間にもなると少々肌寒い。
霊夢はちょっと身震いして懐の黒猫を抱き締めた。
「あー、ぬくぬく……あんたを連れてきて正解だったわ、燐」
すると猫は嬉しそうにもぞもぞし、尾をぴこぴこさせる。
切り立った崖に腰掛け、星の無い空を、霊夢は見上げていた。
ひゅうひゅうと吹く夜風が漆黒の髪をさらさら揺らし、時折うなじに冷気を感じる。
星一つ無い漆黒の空。月の光だけが無明の天蓋に陥穽を穿っている。
いつもの夜空とは似ても似つかない、まるで異界のような風景。
今頃、他の幻想郷の住人たちはこの状況をどのように捉えているだろうか。
夜の空から星を奪いつくすという暴挙が、一部の高位妖怪たちの手によって行われていて、
その動機がたった一匹の妖怪の気まぐれによる思いつきだと知ったら、その事実をどのように受け止めるのか。
「……まさかわたしが『異変』を起こす側に回るとはね」
『異変』──それは、この幻想郷でしばしば発生する異常事態の総称であった。
それは例えば「いつまで経っても春が来ない」というものだったり、例えば「温泉と一緒に怨霊が沸いた」というものだったり、
閉ざされた幻想に生きる少女たちの、その非(ナル)現実に立脚した認識すら越えて勃発する怪奇──それが『異変』である。
そして、幻想郷を外界より隔離する二重結界の片肺を担う『博麗大結界』の守り手である博麗神社の巫女、すなわち博麗霊夢には、
暴走する怪奇が幻想郷に深刻な変化を及ぼす前に、その『異変』を解決に導く義務がある。
「だけど、この場合、私はどうすりゃいいのかしらね? 自分で自分を成敗するべきなのかしら?」
ごろごろと喉を鳴らす燐をあやしつつ、そっと洩らす。
「それは違うわ、霊夢」
左後方からか細い声が聞こえてきた。
だが、霊夢は振り向かない。ただ黙って燐の背中をくすぐっている。
そのか細い声は続ける。
「『博麗神社の巫女には決して手を出してはならない』──それが、この幻想郷における暗黙の了解。
そのルールは貴女自身にも適用されるわ。それが誰であろうと博麗の巫女に手出しは無用、つまりそういうことなの。
なにより……自分を傷つけるような発想はいけないことだわ、霊夢」
そこでやっと振り返る気になった霊夢は、背後の紫へと身体を向ける。
「じゃあ、わたしはどうしろって?」
「貴女のお好きになさい。全ては許されているわ」
「『異変』解決が仕事のわたしが、自ら『異変』を起こすことが許されていると本気で思ってるの、紫」
「いいえ……貴女の言はまず前提が間違っている。これは『異変』では有り得ないわ。なぜなら」
と、紫はここで言葉を切り、手にした日傘をくるんと一回転。
「こちら側に博麗霊夢が立っているのだから」
ぱし、と小さな手で受け止めた。
「……意味不明すぎ」
「そうかしら。こんなにも自明な論理は無いと思っているのだけれど」
「だとしたら、あんたの論理回路はぶっ壊れてるのね。修理を勧めるわ」
「あら、そう? 嬉しいことね。お気遣い痛み入ります。良いエンジニアを紹介してもらえるかしら?」
──どこまで行っても埒の明かない問答。この対話はどこへ向かっているのだろうか?
さくさくと密やかな音で草を踏みわけ、紫は霊夢の隣に来る。
そしてゆったりとした動作で膝を曲げて同じく崖に腰掛けた。
「ちょっと、なんで隣に座るのよ」
「貴女は『空を飛ぶ程度の能力』の持ち主だから」
「はあ?」
「真に宙に浮くということは、この世の全ての呪縛から解き放たれて自由であるということ」
「その気味の悪い顔をこっちに近づけないで。なんのつもりよ」
そうした霊夢の抗議などにはまるで耳を貸すつもりが無いように、紫は好き勝手に述べ立てている。
霊夢の発言とはまるで関わりのなさそうなことを、断定口調で、しかも相手のレスポンスを待つこともなく。
「『異変』とは個と世界の間に吹くスキマ風のようなもの。
どこかの誰かのささやかな想いが、別の『どこかの誰か』に到達することを阻む、空虚で歪曲した現実──
そうした世界の残酷さの一歩先に足を踏み入れたとき、『異変』が幻想郷に興る」
いつの間にか、紫の茫漠とした瞳がとても近いところに──鼻が触れ合いそうなところにまできていた。
じっと霊夢に注がれる視線の源、それはまるで、星の失せた天のような、空っぽで底のない、暗黒の瞳。
見つめられるだけでどこまでも落ちてしまいそう。
「わたしから離れなさい、紫」
知らず、口調が険しくなっている。
だが、紫は取り合わない──いや、
「貴女は全てから距離を置いた状態であり続けることを決定された存在。そういう『能力』を持って生まれてきた少女。
人の想いも、世界の歪みも、貴女にとっては遠く離れた──対岸の火事程度の事象に過ぎない」
ここに至って霊夢は理解していた。
この支離滅裂な発言を繰り返す妖怪少女、八雲紫は、霊夢の言をはぐらかすために口を動かしているのではないということを。
彼女は彼女なりのレトリックに従い、極めて真剣に、真摯な態度で、霊夢と受け答えをしているのだということを。
──両者の思考の層(レベル)があまりにもかけ離れている故に、話が噛み合っていないだけで。
背筋を走るなんとも言えぬ感触、なにかが胸にこみ上げてくる。
「博麗霊夢は『異変』を起こせない……それはきっと、とてもとても怖ろしいことだわ。
『なににも縛られない』という究極の不安感を、貴女はどのように御しているのかしら。
わたしはそこが知りたい。だからこそ、貴女を──」
また少し、紫の顔が近づく。
それはもう、お互いの吐息の湿り気が唇に感じるほどの、文字通りの紙一重の距離に。
紫を拒絶したいと思った。
だが、言うべきことはなにも無かった。
どれほどの言葉を重ねても、それが紫に届くことは無い──紫の言葉が、決して霊夢に届いていないのと同様に。
なぜ自分たちは並んで座っているのだろうか?
噛み合わぬ会話、重ならない心、そこに横たわる隔絶。
紫は霊夢の『能力』を『全てから距離を置いた状態であり続けることを決定された存在』と評した。
ならば、なぜ、彼女は今距離を縮めようとしているのか?
その不条理極まりない行為の中に、なにを求めているのだろうか?
星の無い空にあっていまだ朧に浮かぶ、あの月なら答を知っているのだろうか──。
刹那の距離にある小さな眼、紫の二つの瞳が、わずかに輝く。
そこに映る月光の輪が、二重になって仄かに浮かんでいた。
霊夢の懐に潜り込んで首だけ表に出している燐が、小さくニャーと鳴いた。
春先と言えど、この時間にもなると少々肌寒い。
霊夢はちょっと身震いして懐の黒猫を抱き締めた。
「あー、ぬくぬく……あんたを連れてきて正解だったわ、燐」
すると猫は嬉しそうにもぞもぞし、尾をぴこぴこさせる。
切り立った崖に腰掛け、星の無い空を、霊夢は見上げていた。
ひゅうひゅうと吹く夜風が漆黒の髪をさらさら揺らし、時折うなじに冷気を感じる。
星一つ無い漆黒の空。月の光だけが無明の天蓋に陥穽を穿っている。
いつもの夜空とは似ても似つかない、まるで異界のような風景。
今頃、他の幻想郷の住人たちはこの状況をどのように捉えているだろうか。
夜の空から星を奪いつくすという暴挙が、一部の高位妖怪たちの手によって行われていて、
その動機がたった一匹の妖怪の気まぐれによる思いつきだと知ったら、その事実をどのように受け止めるのか。
「……まさかわたしが『異変』を起こす側に回るとはね」
『異変』──それは、この幻想郷でしばしば発生する異常事態の総称であった。
それは例えば「いつまで経っても春が来ない」というものだったり、例えば「温泉と一緒に怨霊が沸いた」というものだったり、
閉ざされた幻想に生きる少女たちの、その非(ナル)現実に立脚した認識すら越えて勃発する怪奇──それが『異変』である。
そして、幻想郷を外界より隔離する二重結界の片肺を担う『博麗大結界』の守り手である博麗神社の巫女、すなわち博麗霊夢には、
暴走する怪奇が幻想郷に深刻な変化を及ぼす前に、その『異変』を解決に導く義務がある。
「だけど、この場合、私はどうすりゃいいのかしらね? 自分で自分を成敗するべきなのかしら?」
ごろごろと喉を鳴らす燐をあやしつつ、そっと洩らす。
「それは違うわ、霊夢」
左後方からか細い声が聞こえてきた。
だが、霊夢は振り向かない。ただ黙って燐の背中をくすぐっている。
そのか細い声は続ける。
「『博麗神社の巫女には決して手を出してはならない』──それが、この幻想郷における暗黙の了解。
そのルールは貴女自身にも適用されるわ。それが誰であろうと博麗の巫女に手出しは無用、つまりそういうことなの。
なにより……自分を傷つけるような発想はいけないことだわ、霊夢」
そこでやっと振り返る気になった霊夢は、背後の紫へと身体を向ける。
「じゃあ、わたしはどうしろって?」
「貴女のお好きになさい。全ては許されているわ」
「『異変』解決が仕事のわたしが、自ら『異変』を起こすことが許されていると本気で思ってるの、紫」
「いいえ……貴女の言はまず前提が間違っている。これは『異変』では有り得ないわ。なぜなら」
と、紫はここで言葉を切り、手にした日傘をくるんと一回転。
「こちら側に博麗霊夢が立っているのだから」
ぱし、と小さな手で受け止めた。
「……意味不明すぎ」
「そうかしら。こんなにも自明な論理は無いと思っているのだけれど」
「だとしたら、あんたの論理回路はぶっ壊れてるのね。修理を勧めるわ」
「あら、そう? 嬉しいことね。お気遣い痛み入ります。良いエンジニアを紹介してもらえるかしら?」
──どこまで行っても埒の明かない問答。この対話はどこへ向かっているのだろうか?
さくさくと密やかな音で草を踏みわけ、紫は霊夢の隣に来る。
そしてゆったりとした動作で膝を曲げて同じく崖に腰掛けた。
「ちょっと、なんで隣に座るのよ」
「貴女は『空を飛ぶ程度の能力』の持ち主だから」
「はあ?」
「真に宙に浮くということは、この世の全ての呪縛から解き放たれて自由であるということ」
「その気味の悪い顔をこっちに近づけないで。なんのつもりよ」
そうした霊夢の抗議などにはまるで耳を貸すつもりが無いように、紫は好き勝手に述べ立てている。
霊夢の発言とはまるで関わりのなさそうなことを、断定口調で、しかも相手のレスポンスを待つこともなく。
「『異変』とは個と世界の間に吹くスキマ風のようなもの。
どこかの誰かのささやかな想いが、別の『どこかの誰か』に到達することを阻む、空虚で歪曲した現実──
そうした世界の残酷さの一歩先に足を踏み入れたとき、『異変』が幻想郷に興る」
いつの間にか、紫の茫漠とした瞳がとても近いところに──鼻が触れ合いそうなところにまできていた。
じっと霊夢に注がれる視線の源、それはまるで、星の失せた天のような、空っぽで底のない、暗黒の瞳。
見つめられるだけでどこまでも落ちてしまいそう。
「わたしから離れなさい、紫」
知らず、口調が険しくなっている。
だが、紫は取り合わない──いや、
「貴女は全てから距離を置いた状態であり続けることを決定された存在。そういう『能力』を持って生まれてきた少女。
人の想いも、世界の歪みも、貴女にとっては遠く離れた──対岸の火事程度の事象に過ぎない」
ここに至って霊夢は理解していた。
この支離滅裂な発言を繰り返す妖怪少女、八雲紫は、霊夢の言をはぐらかすために口を動かしているのではないということを。
彼女は彼女なりのレトリックに従い、極めて真剣に、真摯な態度で、霊夢と受け答えをしているのだということを。
──両者の思考の層(レベル)があまりにもかけ離れている故に、話が噛み合っていないだけで。
背筋を走るなんとも言えぬ感触、なにかが胸にこみ上げてくる。
「博麗霊夢は『異変』を起こせない……それはきっと、とてもとても怖ろしいことだわ。
『なににも縛られない』という究極の不安感を、貴女はどのように御しているのかしら。
わたしはそこが知りたい。だからこそ、貴女を──」
また少し、紫の顔が近づく。
それはもう、お互いの吐息の湿り気が唇に感じるほどの、文字通りの紙一重の距離に。
紫を拒絶したいと思った。
だが、言うべきことはなにも無かった。
どれほどの言葉を重ねても、それが紫に届くことは無い──紫の言葉が、決して霊夢に届いていないのと同様に。
なぜ自分たちは並んで座っているのだろうか?
噛み合わぬ会話、重ならない心、そこに横たわる隔絶。
紫は霊夢の『能力』を『全てから距離を置いた状態であり続けることを決定された存在』と評した。
ならば、なぜ、彼女は今距離を縮めようとしているのか?
その不条理極まりない行為の中に、なにを求めているのだろうか?
星の無い空にあっていまだ朧に浮かぶ、あの月なら答を知っているのだろうか──。
刹那の距離にある小さな眼、紫の二つの瞳が、わずかに輝く。
そこに映る月光の輪が、二重になって仄かに浮かんでいた。
霊夢の懐に潜り込んで首だけ表に出している燐が、小さくニャーと鳴いた。
夜の闇を、二人の少女が飛んでいた。
片方は夜の闇を裂くように、鮮やかな色合いの装いを風になびかせて。
もう片方は夜の闇に溶けるように、漆黒の魔女衣装を風に膨らませて。
「綺麗な月ね」
星の無い夜空にたった一つ浮かぶ月を見渡し、アリス・マーガトロイドはなんとはなしにそんな感想を漏らした。
だが、箒に跨り隣を飛ぶ魔法使いルックの少女、霧雨魔理沙は気のなさそうな声を返すだけだった。
「そうか? 私にはいつもと同じに見えるけどな」
「はあ……貴女には詩美的な感性ってものがまるでないのね、魔理沙。ホント、がさつにできてるんだから」
「ふふん」
「なによ、その含み笑いは」
「いけないな、そういう言い方。語るに落ちるというやつだぜ、アリス」
「はあ?」
「月が綺麗なんて嘘っぱちっだと自分で白状してんのさ」
「なんでそうなるのよ」
「だってそうじゃないか? 今、私とお前は同じものを見ている。だけど、それをどう見るかで意見が分かれている。
そしてその理由を、お前は私の眼球ではなく感性のせいにした。そんな曖昧で不確かなものが『本物』であるわけがないだろ?
あそこに月がある。それは私たち二人にとっては真実だ。しかしお前が見ている『綺麗な月』はお前だけの幻想(イリュージョン)に過ぎない」
「また屁理屈ばっかり捏ねて」
「屁理屈も理屈だぜ。悔しかったら論破すりゃいいさ」
「悔しいとか悔しくないとか、そんな問題じゃないでしょ?」
「いつだって私はそこを問題にしてるんだ。そう、気持ちの問題さ。──おっと、結論が出たな。つまりそういうことさ」
「そういうことって、どういうことよ」
「あー? 今言っただろ? 気持ちの問題だ気持ちの」
だから分からないって、と言いかけたアリスの耳に、『それ』は飛び込んできた。
「月に綺麗も汚いもない──もしそれが綺麗に見えるとしたら、他でもない、綺麗なのはお前の心なんだ」
それこそ、ぼっ、と音を立てて顔が赤くなったような気がした。
「な」
「ながどうした、アリス」
しかし、アリスは口をぱくぱくとさせることしか出来ないでいる。
「ななな……」
「『七色の人形遣い』アリス・マーガトロイド。自己紹介されなくたって、そんくらい知ってるよ」
「な、なにを言うのよ……」
馬鹿なこと言ってんじゃないわよ、と啖呵を切るつもりだったのに、出てきたのは情けなくなるくらいに小さな声。
彼女はどこまで本気なのだろうか、と今更思う。
自分がどれだけ勇気を振り絞っても決して言葉にできない事柄を、彼女はさらりと言ってのける。
彼女には怖いものがないのだろうか。
自分がおっかなびっくり手探りで進んでいるような世界を、彼女は脇目も振らずにずんずん走っている。
とても追いつけそうにない──。
魔理沙はアリスが返事をよこさないことで会話が終わったのだと決め込み、周囲に目を走らせている。
その瞳にはもうアリスは映っていない。もっと面白そうなもの、『星を盗んだ者』の手掛かりを求めてあちらこちらへ忙しく動いている。
もう、声をかける気力はなかった。ただ、所在なさげに魔理沙の後に追随するだけである。
魔理沙の肩にしがみつくペットの地獄鴉と目が合った。鴉はちょいと首を傾げ、カ、カァと短く鳴いた。
それはまるで、自分も月を綺麗だと感じていると訴えているようだった。
片方は夜の闇を裂くように、鮮やかな色合いの装いを風になびかせて。
もう片方は夜の闇に溶けるように、漆黒の魔女衣装を風に膨らませて。
「綺麗な月ね」
星の無い夜空にたった一つ浮かぶ月を見渡し、アリス・マーガトロイドはなんとはなしにそんな感想を漏らした。
だが、箒に跨り隣を飛ぶ魔法使いルックの少女、霧雨魔理沙は気のなさそうな声を返すだけだった。
「そうか? 私にはいつもと同じに見えるけどな」
「はあ……貴女には詩美的な感性ってものがまるでないのね、魔理沙。ホント、がさつにできてるんだから」
「ふふん」
「なによ、その含み笑いは」
「いけないな、そういう言い方。語るに落ちるというやつだぜ、アリス」
「はあ?」
「月が綺麗なんて嘘っぱちっだと自分で白状してんのさ」
「なんでそうなるのよ」
「だってそうじゃないか? 今、私とお前は同じものを見ている。だけど、それをどう見るかで意見が分かれている。
そしてその理由を、お前は私の眼球ではなく感性のせいにした。そんな曖昧で不確かなものが『本物』であるわけがないだろ?
あそこに月がある。それは私たち二人にとっては真実だ。しかしお前が見ている『綺麗な月』はお前だけの幻想(イリュージョン)に過ぎない」
「また屁理屈ばっかり捏ねて」
「屁理屈も理屈だぜ。悔しかったら論破すりゃいいさ」
「悔しいとか悔しくないとか、そんな問題じゃないでしょ?」
「いつだって私はそこを問題にしてるんだ。そう、気持ちの問題さ。──おっと、結論が出たな。つまりそういうことさ」
「そういうことって、どういうことよ」
「あー? 今言っただろ? 気持ちの問題だ気持ちの」
だから分からないって、と言いかけたアリスの耳に、『それ』は飛び込んできた。
「月に綺麗も汚いもない──もしそれが綺麗に見えるとしたら、他でもない、綺麗なのはお前の心なんだ」
それこそ、ぼっ、と音を立てて顔が赤くなったような気がした。
「な」
「ながどうした、アリス」
しかし、アリスは口をぱくぱくとさせることしか出来ないでいる。
「ななな……」
「『七色の人形遣い』アリス・マーガトロイド。自己紹介されなくたって、そんくらい知ってるよ」
「な、なにを言うのよ……」
馬鹿なこと言ってんじゃないわよ、と啖呵を切るつもりだったのに、出てきたのは情けなくなるくらいに小さな声。
彼女はどこまで本気なのだろうか、と今更思う。
自分がどれだけ勇気を振り絞っても決して言葉にできない事柄を、彼女はさらりと言ってのける。
彼女には怖いものがないのだろうか。
自分がおっかなびっくり手探りで進んでいるような世界を、彼女は脇目も振らずにずんずん走っている。
とても追いつけそうにない──。
魔理沙はアリスが返事をよこさないことで会話が終わったのだと決め込み、周囲に目を走らせている。
その瞳にはもうアリスは映っていない。もっと面白そうなもの、『星を盗んだ者』の手掛かりを求めてあちらこちらへ忙しく動いている。
もう、声をかける気力はなかった。ただ、所在なさげに魔理沙の後に追随するだけである。
魔理沙の肩にしがみつくペットの地獄鴉と目が合った。鴉はちょいと首を傾げ、カ、カァと短く鳴いた。
それはまるで、自分も月を綺麗だと感じていると訴えているようだった。