そりゃね、みんなはからかうけどさ。親がいなくて、兄妹二人でずっと暮らしていかなきゃならなかったら、自然とさ。絆っていうのかな、愛っていうのかな、そういうのがこう、強くなっていくんだよね、お兄ちゃん? だって二人しかいない家族なんだから。
いつもの朝の食卓。朝ご飯は私の担当。昼も夜も掃除も洗濯もお風呂も全部全部全部、私の担当です。ふふん、お兄ちゃんのためなら私はなんだってしちゃうんだから。今日のご飯は麻婆豆腐。春巻きも上げ餃子も忘れない。できればスープもほしいよね? もちろん作ってあるよ、お兄ちゃん。
お兄ちゃんが喜んでくれるだけで、私はもう夢見心地の極楽地! 今すぐ死んでもいいって思っちゃう。でも、その時はお兄ちゃんも一緒じゃなきゃ嫌だよ? だって私がいなくなった後にお兄ちゃんが別の人とくっついちゃうなんて、考えただけでもぞっとするじゃない。
え、私は誰か恋人を作らないのかって? あはは、冗談言わないでよ。そんなの、作るわけないじゃない。私がいなくなったらお兄ちゃん、生きていけないでしょ? 誰がご飯作るの? お兄ちゃん、そういうのホントに全然できないんだからー。
——え? 棚橋さんに作ってもらうから大丈夫……? へ、へぇ……。じゃあ、洗濯に掃除は、どうするの? さすがにやってくれないでしょ? へぇ、それくらいはできる。わかりました。じゃあ、今日は自分でやってみてね、お兄ちゃん。私、見てるから。うん、楽しみだなぁ。もちろん私の部屋も掃除してね。
……ちっ、どんどん近付いてるな、あの女。
ご飯もすんで、さあ一緒に学校行こうよ、という時——
ピンポーンとインターホンの音。
来た。あの女だ。
お兄ちゃんよりも早く、玄関まで駆けていって、私はドアを開けた。
「あ……おはようございます」
あの女、棚橋さんは私の顔を見るなり、少し困惑したような顔で愛想笑いを浮かべて見せてくれた。出たのが妹でがっかりしてるのが見え見えだもう少し愛想笑いの練習をしてから出直しなさいよ私みたいにほらしっかり笑顔になってるでしょ?
後ろから遅れてお兄ちゃんがやってくる。途端に棚橋さんの顔はぱあっと晴れる。もう一目瞭然旗幟鮮明白日周知。誰の目にも明らかじゃん。おまけにおまけにおまけに、これ見よがしにくっついてくれちゃって、何? 恋人ですよって、そんなにもアピールしたいの? 私のことはアウトオブ眼中、むしろ邪魔なんだよって目をしてる。誰が誰が離れるもんかあんたにお兄ちゃんを任せられるわけないじゃないお兄ちゃんのことは私が誰より一番よく知ってるんだからお兄ちゃんは私といるのが一番いいんだからねぇお兄ちゃんそっち行っちゃダメだよダメだってば!
でもお兄ちゃんは照れくさそうに笑いながらあいつと一緒に歩いていっちゃう。最近のお兄ちゃんはなんかおかしい。そりゃお兄ちゃんは誰にでも優しくて浮気性だけど最後は私のところに帰ってきたいつだってそうだった私のところに帰ってきて一緒に離して一緒に笑って一緒に暮らして全部全部元通り。一体何があったのかはわからないけど、いつもお兄ちゃんはそんな時ひどく傷付いたように俯いててでもそこが可愛くて。
だけどだから私思ったんだ……お兄ちゃんは誰にでも優しいからそこら辺の女に付け込まれて振り回されて弄ばれて結局最後は捨てられて傷付けられてるんじゃないか、って。絶対そう、百発百中九分九厘間違いなく確信したの。
もうお兄ちゃんに悪い女は近付けない。そう誓ってお兄ちゃんと同じ高校に入って、その矢先に現れたのがこの棚橋という人。大人しくて声も小さくて言っちゃえば暗いんだけど、野良犬から助けてくれたとかなんとか理由を付けてお兄ちゃんにべったりまとわりついてくる。ほらっ、手まで繋いでる! お兄ちゃんから離れろォ!
ああ、お兄ちゃんはこの女を野良犬から助けたとき、後ろから狼にがぶりと噛み付かれちゃったんだ。魔女が化けた狼に……!
ねぇ、お兄ちゃん。早く気付いてよ。お兄ちゃんが一緒に歩いてるのは魔女なんだよ。またお兄ちゃん傷付いちゃうよ? 私の勘、女の勘が叫んでるんだ。今度は今度こそ取り返しの付かないことになるって。お兄ちゃんが壊されちゃうって。大人しいけど、目の前にいるのはどうしようもないくらい悪い魔女なんだって。だから早く、早く早く早く早く早く早く気付いてよぉ!
でもお兄ちゃんは気付かない。気付かないんだ。私がどれだけ願っても祈っても、直接言ってもきっと伝わんない。だってお兄ちゃんは優しいから。人の悪口が嫌いだから。
だからね、お兄ちゃん。私が守ってあげるからね。ずっとお兄ちゃんがしてくれたように、今度は私の番。私が全身全霊で守ってあげるからね——お兄ちゃん。
帰り、雨が突然降り出してきた。こんな事もあろうかと思って持ってきた折り畳み傘。お兄ちゃんに渡そうと思って正面玄関まで行くと、魔女がいた。にこにこと、白々しい笑顔を浮かべながら、大きめの傘を持ってお兄ちゃんに話し掛けてる。魂胆はもう丸見え。相合い傘なんて、私だって何年もしてないのに。だめだよ、このままじゃ。お兄ちゃんにあの女の匂いが染みついちゃう。もう後戻りできないくらいお兄ちゃんを連れて行かれちゃう。魔女はじわじわと私の役割を奪うつもりなんだ! 一緒に登校するのも奪われたと思ってたら、傘まで……!
このままほっといたら毎日のご飯も掃除も洗濯も、あの魔女がやり始めちゃう。絶対に間違いない。お兄ちゃんの隣は私の席なのに、私の居場所がのっとられちゃう。あの魔女は白々しい笑顔でじわじわと追いつめてきてる。お兄ちゃんの心を毒してる。私が邪魔だから、排除しようとしてる。お兄ちゃんと私との仲を引き裂くのに必死なのが見て取れるんだよ魔女!
でもホントに私達の絆を断ち切れると思ってるのかな。いくらお兄ちゃんを呪いで籠絡しても、私は誤魔化せないんだから。私が止めてみせるんだから。絶対におまえの望みは叶えてやらないんだから! でもどうしよう。私はどうしたらいいのかな。お兄ちゃんにかけられた呪いを解くにはどうしたらいいんだろ。どうやったら魔女の毒牙からお兄ちゃんを守れるンだろ。どうしたらどうしたらどうしたらどうした、ら……!
……なぁんだ。簡単じゃない。私ってば、どうして気付かなかったんだろ。
魔女の呪いからお兄ちゃんを助けようとするからいけないんだよ。うん、そうだよね。何も、防ぐだけが守る事じゃないんだった。例えば、魔女がいなくなればいいんだよ。私とお兄ちゃんの仲が引き裂かれちゃう前に呪いをかけてる魔女がいなくなれば、もう誰も私達の絆を壊そうとしなくなるんだから。うん、やっぱり害虫は根こそぎ退治しないと、キリがないもんね。いつもいつも魔女の脅威にさらされるなんて、私が保たないもん。
そうと決まれば行動あるのみ! 家に帰ればたぶん、武器ぐらいあるよね。ノコギリはないかもしれないけど、包丁ならよく切れるのが一つあった。待っててね、お兄ちゃん。すぐに解放してあげるから。
——鈍色の空の下、雨だけが空から降り注ぎ、アスファルトを打ち鳴らす。独特の、焦げたような雨濡れの路面の匂い。容赦なく体を突き刺す雨の下、雨水を吸ってぽたぽたとよだれを垂らす包丁を手に、私は魔女と対峙した。
目を白黒させるお兄ちゃん。怯えたような魔女。でも騙されない。妖しく揺らめく瞳は魔女そのものだったから。私も少し怖かった。でも、負けるわけにはいかない。
お兄ちゃんを蝕む呪いを断ち切るために。お兄ちゃんの目の前で、魔女を殺してみせる。
……あれ? お兄ちゃん、なんでその魔女を庇うの? そこにいちゃ斬りかかれないよ。
そっか、呪いだね。魔女に心を操られてるんだよね。
待っててお兄ちゃん。私が解放してあげる。その女から。だから……
「お兄ちゃん、どいて!」
鈍色の光がどん、と音を立てた。
最終更新:2009年09月29日 01:05