——嫌な夢を見た。
それがあまりにも生々しくて、手に包丁の感覚が残っているようで、私は思わず自分の手を見下ろしていた。
……そんなの、あるはずもないのに。静かに嘆息する。息を吸った瞬間、吐き気のするような血臭。いや、そんなはずがない。真っ白な病室にはいつも通り、薬品の香りが漂うだけで、そんな生々しいものはどこにもない。白い壁に白い天井、白いベッド。私が赤を怖がるから、どこにも赤い物は置いていない。私には『赤』だけがぽっかり抜けたように見えないのだ。何も見えない。見るのも恐ろしい。
例えば、目の前にリンゴが置かれたとする。すると私には、リンゴ型に空間が切り取られてしまったように見える。そこには何も無い。ただ、何かが飛び出してきそうな恐怖感だけが私を支配する。
よく覚えていないが、事故に巻き込まれて以来、赤色がトラウマになっているらしい。記憶が無いのもそれがショックになっているとか。精神科の先生がそう言っていた。
四角く切り抜かれた景色を覗き見る。ああ、今日もか。
陰鬱な鈍色の空から五月雨がしとしととカーテンを作っていた。換気のためにわずかに開けられた隙間から、独特の、焦げたような雨濡れの路面の匂いが入ってくる。
嫌な匂いだ。あんな夢を見たせいか、好きだったはずのこの匂いが気持ち悪くて仕方がない。せり上がってくる吐き気。押さえ付ける。コップ。水。
なんとか堪えて、一息つく。テレビでも点けよう。
『——続いて、今日のニュースです』
アナウンサーが無感情に原稿を読み上げる。
なんでも、殺人事件があったらしい。ここから近いところだ。路上で高校生二人が死体で、一人が重傷で見つかったらしい。凶器はたった一本の包丁……
ズキン……左手が痛む。切り刻まれたように、まるで食いちぎられたみたいに痛い。
そんなことあり得ないのに。だって、私には左腕が無いんだから。
幻影肢。そんな現象がある。失った腕や脚に痛みなどを感じることらしい。もしかすると、あの夢が、正夢みたいに符合した現実が、こんな現象を引き起こしているのかもしれない。
私は慌ててテレビを消した。また思い出してしまった。あの感触、あの光景を。
あれは夢だ。どうしようもない、ただの悪夢。第一、私には兄なんていない。一人っ子だ。記憶がいまいちぼやけていて思い出せない部分もあるが、主治医もそう言っている。そんな事で嘘をついても意味はない。
それに、おかしな事はいくつもある。私は、高校なんて行っていた憶えはない。記憶が曖昧なので何とも言えないが、行っていないはずだ。今年で二十歳になるが、もう五年もこの療養施設にいるのだ。高校生活を送るべき時期には、私はリハビリに励んでいた。失った片腕と記憶を克服するために。
ただ、トラウマを克服できないおかげで、私は今もここから出してもらえない。いや、ここに守られている。外に出れば、赤なんてそこら中にある。赤信号のたびに体が震えていたら、まともな生活なんてできやしない。
窓に映る自分の姿は、ずっと中にいるせいか病的な印象を受ける。このまま白に包まれて、か細くなっていくような錯覚すら覚える。パジャマは真っ白で死人のよう。それでも年相応に発育はしているのだから、人体は頑丈だと思う。
そういえば、今日は来ない。毎日しつこいくらい律儀に見舞いに来るあの人が。
……いや。
寝てる間に来ていたみたいだ。白い袋が置いてある。あの人はいつもこうやって何かを持ってくる。いらないと言ってもお構いなしで。
でも珍しい。私が寝ていたら起きるまで待っているような暢気な人なのに。
その時、ごろごろとローラーの音を立てて戸が開いた。
「やあ。起きたのかい?」
私の主治医だった。まだ若いくせに——とはいっても、五年も経ったからそこそこ歳をとったみたいだ——腕はいい。患者にリハビリをさせるのが上手いのだ。私の赤恐怖症と記憶はまだどうにもできないみたいだけれど。
一瞬だけ目をやって、すぐに逸らす。胸ポケットに赤ペンが挿さったままだ。
さすがに一瞬小さな赤を見た程度では震えはこないが、じっと見ることはできない。
「目なんて、無ければいいのに」
ぽつりと独りごちる。それだけで、主治医が釘を差してきた。
「もう潰そうなんて考えないでくれよ?」
来たばかりの頃、まだ赤が散乱していた世界に堪えられなくなって、目を潰そうとしたことがある。病院中が大騒ぎになって、それでこの先生が呼ばれたのだ。
「……先生。嫌な夢を見たわ」
「へぇ、どんな?」
「雨の中、私が兄の恋人を殺す夢」
今思えば不思議だ。夢の中だとしっかりと赤が見えた。虚無ではなかった。今までは夢に赤が出ても切り取られたように見えなかったのに。
目を閉じたまま答えたのに、先生の顔色が変わったのがなんとなくわかった。
「……そのお兄さんというのは、どんな顔だった?」
「顔はよくわからなかったわ。いないから当然だけど」
「そうか。そうだろうな」
頷く先生。夢には体験した物事しか出てこないと言ったのは、他でもない先生だ。夢がどれだけ非現実的でも、それは一度経験したものだと。
——経験? いや、まさか。
「先生。その白い袋、取ってくれる?」
「ん? 今日は寝てる間に帰ってしまったのか。珍しいこともあるもんだな」
先生が呟きながら渡してくれた白いビニール袋——少し重い——を受け取って、開ける。
。
絶句した。寒気がした。震えが全身を襲う。無いはずの左手が、腕が痛い。
「いや、いやぁ!」
違う。あの人じゃない。あの人は赤恐怖症を知っている。包丁が嫌いなことも知っている。あの人が、べっとりと に塗りたくられた包丁を送ってくるはずがない。
なんて、悪趣味な。
袋の中にはもう一つ。 が入っていた。
「え……?」
理解できない。でも、頭のどこかで理解した自分がいる。
なんで……私、知らな……
「いや……やめて! 私に兄さんなんていない!」
家族写真。その中に私の知らない人がいる。誰、これ。私は一人っ子で……
歳が少し離れた兄なんて、いるはずがないのに……
——いるよ。
何かの声が聞こえる。
誰? 私? 先生? それとも——
嫌な予感がして、右を見る。ベッドと壁の隙間。ゆらりと、見知らぬ女が立っている。
「あなただけ幸せになるつもりだったの? 人殺しのくせに」
ひと、ごろし?
「忘れたの? 都合よく。私の彼を殺したのはあなたなのよ?」
冷淡で凄絶な笑み。でも顔はよく見えない。だって、 がべっとりとまとわりついている。すぐ側で先生が驚いているのがわかった。これは現実だ。夢じゃない。
「教えてあげるわ。あなたは自分の兄を、私の彼を殺したのよ」
「ころした?
わたしが? いもしない兄さんを……?」
「それすらも忘れたの? なんて都合のいい頭。人間は頑丈ね」
思い出すな。私の心がブレーキを掛ける。思い出したら私は壊れてしまう。
でも女は許してくれない。虚無の唇を吊り上げる。見るな……私を見ないで!
「くす。その罪も忘れてのうのうと男をたぶらかして。病人は気楽でいいわね」
え……?
「ああそうそう。もう来れないからって、彼からプレゼントがあるそうよ。ほら」
陰湿な、冷酷な顔。ポケットから取り出す。
婚約指環。でも、どうして……あの人の手まで一緒なの……?
この女だ。この女が、あの人の手を——!
かちりと、スイッチが入るのを感じた。音が消えた。赤が——見える。
「わあああああああああああああ!」
袋の中の包丁を持って、女に叩き付ける。
どすり。嫌な感触。でも、初めてじゃ、ない。これ、どこかで……
フラッシュバックする。知らない、でも知っている映像。思い出したくない、顔もわからない男が、私に馬乗りになっている。痣と裂傷だらけの私。この男は私を殺す気だ。私が苦しむのを楽しんでいる。
瞬転。
包丁を持って立っている。誰が? 私だ。足下には血まみれの男。一体どこを刺されたのかわからないくらいに真っ赤。かおはわからない。でも、写真の男と同じ……