要は、妥協だったのかもしれない。
くしゃくしゃに丸めたダイレクトメールをゴミ箱に投げ入れて、私は嘆息した。部屋のメランコリー指数が上昇したのは言うまでもない。
「あ。お帰りなさいませ、お嬢様ー」
陽気な笑顔でミナカが出迎えてくれる。珍しいことに台所に立っている。というよりも私は、ステロな給仕服を恥ずかしげもなく着こなす自称お手伝いの彼女がまともに料理を作ったのを見たことがない。
ちなみに本名はミナカ=天梁=ルルアージュ=ヴィ=ブリトニア=
ルーベンシュタット=ノイシュヴァンシュタイン=以下略。相変わらず役に立たないこと天井知らずの上に、身元不明のお手伝いだが、私は結局彼女を雇い続けている。とはいえ彼女に給料を払っているわけでもないので、雇っていることになるのかは不明だが。
「ただいま」
彼女が来て以来、また使い始めた言葉を口にして、私はカバンをコタツの上に置いた。我が家が誇る二大暖房器具のうちの一つだ。そろそろいい加減寒くなってきたので活躍の時は近い。今年も頑張ろう、コタツと電気カーペット。頼れるのは君たちしかいないんだ。
「ところでミナカ、料理なんて作れたの?」
「ふふふ、今夜はこのミナカ=天梁=ルルアージュ=以下略にどーんとお任せください。腕によりをかけて、出前を注文しちゃいま——痛ぁッ!」
得意げにふんぞり返るミナカの額に、私は思わず手刀を振り下ろしていた。これも私の役目だ。最近、そんなふうに納得できるようになった。
このへっぽこ空転メイドを野に放てば、社会に多大な迷惑を掛けて最後は大爆発するに違いないのだ。その主犯と呼ばれるのだけは勘弁被るし、死なれるのも後味が悪い。それが愚かな感傷だとわかっていても、私はそれを気にせずにはいられないのだ。
「今月ピンチなんだから。考えなさいよ、それくらい」
「なんだか最近、優しいですね、お嬢様」
「最近、あんたがまともに思えてきたのよ。あいつのせいで」
溜め息混じりに吐き出した言葉は、冬の凍り付くような空気に溶けることなく、憂鬱な白い煙となって漂う。
あいつ。そう、あいつだ。
コタツに潜って、ダメなオヤジよろしく寝っ転がっているイワトビペンギン。あいつが特売品の卵から出てきたせいで、私の静かな日常は否が応にも騒々しくなった。正直な話、かっ捌いて焼き鳥にしてしまった方がいいような気がする。社会的にも、私の精神にも。ナイフの扱いが異様に巧いミナカに任せておけば一瞬、と思うのだが、いかんせん彼女はペンギンの口車にまんまと乗せられてしまっている。世界を救うなんて世迷い言を信じるヤツに何を言っても無駄だ。
「ぶるぉおおおおい! そぉこの無気力女子学生ぃ。偉大なる鳥である我輩のぉ、崇ぅ高な目的をぅ、世迷い言たぁいいぃぃ度胸! 性根っから叩き直してやるから、覚悟しろぃやあぁぁぁ!」
いかにも太いラスボス声を張り上げながら、ペンギンがコタツから飛び出した。短い足で必死に走り、ラリアットをかまさんとばかりに平ぺったい羽を振り上げる。
それを、私は容赦なく踏みつけた。
こいつが来てからというもの、私のストレスは雪だるま式に急上昇している。偶然にもそれと同時にちょうどいいストレスのはけ口もできたので、私はなんとか大丈夫だ。
「飼い主に対して反乱とはね。うちのエンゲル係数を押し上げてること、忘れてるの?」
「偉大なる我輩に食事を貢ぐの、は、とぉぉぉぅぜんのぶぼぁああっ!」
「今日もバイオレンスで素敵ですよ、お嬢様」
お日様のように朗らかな笑顔で、どす黒い褒め言葉を口にするミナカ。何やら甚だしい勘違いをしているみたいだ。私は本気で人を殴った事なんてないのに。まぁ、世間離れの塊みたいなミナカの言うことだ。放っておこう。
私はぐりぐりと踵でペンギンを踏みにじり、コタツの中にシュートを決めた。
「ごぶばッ!」
「よし、これで静かになった。それでミナカ、出前は取っちゃったの?」
「まだですよぉ。えぇっと、取りましょうか?」
「今月ピンチって言ったでしょうが!」
馬鹿か。馬鹿なのか。なんでこんなに頭のネジがゆるんだままで生きられるんだ。抜くぞ。抜いちゃうぞ。
ボックスドライバーとか持ってくるぞ。シリコンスプレーで錆び付いたネジも一発だぞ。
「それじゃあどうするんですか、お嬢様。今日は私、何も買ってきてませんよ?」
「むしろ好都合ね。今夜は店長主催の鍋会だから」
「な、なんですって!」
その驚きようは稲妻がバックに見えるほどだった。
私とミナカのバイト先の喫茶店『段々畑アルテマ』の店長、ジョージさんは黒幕っぽい渋い声で、暑苦しいまでの接待力を発揮してくれる素晴らしい方だ。私がいないと暇だというミナカに接客を任せるという暴挙、もとい冒険心に満ち溢れた藤岡弘、探検隊的なギャンブルを真顔で行う恐るべき大人物でもある。
でもジョージさんは賭けに勝った。腐ってもメイドというか、接客業はミナカに合っていたらしい。客の評判も上々、ジョージさんの機嫌も上々だ。私が買い出しを任せたのも、ミナカが行くと商店街のおっちゃんが勝手に安くしてくれるからだ。朗らかな美女というのは、生きてるだけで丸儲けなのかもしれない。
「まぁ、そういうわけだから。閉店までのあと二時間、のんびりしてればいーのよ」
「嬉しそうですねぇ、お嬢様」
「そりゃそうよ。その後はサジの家にお泊まりだし、今日一日は家事から解放され——」
そこまで言って、私は唐突に現実へ引き戻された。
そうだ、ペンギンはどうしたらいいんだ。どう説明したらいいのかわからない。ペットです、なんて無茶だ。日本ではペンギンはペットにするような動物じゃない。水族館とか動物園あたりで見物する程度のもの。しかもこのペンギンはうるさいし暴れるのだ。家に置いておけばろくな事にならないし、連れていけば多大な迷惑が掛かる。
「ああ、もうこんな事になるなら昨日の唐揚げに使っておけばよかったわ!」
頭を抱える私の視界に、唐突に段ボール箱が飛び込んできた。逆さ向いているのが気になるが、ペット一匹がいい感じに入る大きさの箱だ。でも、あんなもの、私は持ってきた憶えがない。
「あのさ、そこの段ボール、あんたが持ってきたの?」
「違いますよぉ。私はチタン派なんです。カードボードに用はありません。カートンなんて、狙ってくださいって言ってるようなものですし」
今のボケがわかる人がいるのだろうか。
「では早速」
びすびすびすッ、とミナカの投げたダーツが刺さる。全部一点を貫いている。この技術をもっと別のことに利用すればいいのに、と思ってしまう私は間違っているんだろうか。というか、穴開けてどうする。針穴だからいいけど。
脱力感に任せて部屋のエントロピーを上昇させていると、段ボール箱が急に動いた。
「きゃぁッ」
「むぅ! こぉの気配ぅわぁ!」
コタツの中で眠っていたはずのペンギンが飛び出してくる。そして、短い足で段ボールを蹴飛ばした。
中に入っていたモノを見て、私は瞠目した。驚きの方が勝っていて、悲鳴は出なかった。だって、中に入っていたのは、あの有名なキングコブラだったのだ。咬まれたら一発で命の危機。日本に血清なんてあるのかしらないが、きっと死ぬ。
「これが初めましてだな。偉大なる鳥、ルール=ハズバンド」
火の点いていない煙草をくわえた蛇は、低く渋みのある声でそう言った。洋画の吹き替えでよく聞く声だ。例えば『沈黙』の男とか。
「しゃべった……」
「しゃべりましたねぇ」
もう驚きもしなかった。つまりこの蛇は、ペンギンの関係者なのだ。つまり、私に迷惑を掛けに来た悪魔の手先なのだ。
「こんなところで会えるとは我輩驚きぃよ、偉大なる蛇・ライトハブ=マグナムバロー」
「ああ、俺も驚いたぞ。まさか大戦の《撃墜王》(エア・
マスター)がペンギンとは」
「我輩だって好きでこんな格好してるわけじゃねぇ。一体ぬぁにが悲しくてぃ、こぉんな飛べねぇ鳥になるってんだよぉぅ!」
地団駄を踏むペンギン。でも空が飛べない分、私は助かっている。空まで飛ばれたら私の手には負えなくなる。飼い主の力量以上のペットを飼うことは罪だと仮名さんが言っていた。百獣の王が言っているんだから間違いない。
蛇はその鋭い目で私を見た。
「ところで、君は俺の声が聞こえるのか」
「聞こえないわ」
「聞こえてるじゃないか。しかし、こんな美人と契約するとは。たいしたものじゃないか撃墜王」
からかうような蛇の言葉に、ペンギンはニヒルな笑みで応じた。
「わかっちゃいねぇなァ、この女の恐ろしさってヤツをよ。我輩がどんなに苦労してると思ってやがる。かつての捕虜もここまでじゃねぇ、真の恐怖ってヤツだ」
「そうか? 花も散らさぬように見えるが」
「いいえ! お嬢様は少しアグレッシブなところがいいんです!」
真顔で力説するミナカをどうしようかと本気で悩む。褒めてるつもりなのかもしれないが、それがペンギンの主張を肯定しているとなぜ気付かない。やっぱり捨てた方がいいのかもしれない。
「まぁいいわ。それで、あんたは不法侵入って言葉を知ってるの?」
「ああ、知ってるさ。しかし俺の仕事は専ら潜入任務だ。ここから同族の気配がしたから侵入させてもらった」
「だったら連れ帰ってもらえない? このペンギンのせいで今夜の鍋会がピンチなのよ。サジにもどう説明したらいいかわからないし」
「いや、それはできない。選ばれし者と偉大なる者は大統領と核兵器みたいな関係だ。だから当然、ヤツら亜空の軍勢は真っ先に選ばれし者を狙う。スイッチを持っているからな」
その話ならもう聞いている。でも、亜空大佐とかいうふざけた巨大木人を倒してからというもの一度もそんなのは来なかった。結局、ペンギンというやかましいペットが増えただけだ。
しかし蛇は落ち着いた様子でかぶりを振った。
「君が倒した亜空大佐はかなりの強敵だ。それ以上の実力者が現れるまで、ヤツらは君に手を出さない。ヤツらの目的はあくまでエネルギーの横領だ。自分からわざわざ勝てない相手と戦うのは無意味だからな。だが俺のパートナーは殺された」
淡々と、しかしはっきりと告げられたその言葉に、部屋のエントロピーが大暴落した。突き付けられた死の現実に、私やミナカだけでなく、ペンギンまでもが目を見開く。……いや、鳥類の目はだいたいいつも見開かれてるけど。
「なんだと……? じゃああれか。すぅでに別の刺客が現れたってぇのかよ」
「そういうことだ。俺の相棒、ドラゴンは空手が得意でな。ダンボールをこよなく愛するタフな男だった。でも先日、鉄血軍曹に渾身の波動を跳ね返されて……直撃だった」
思わず突っ込んでやりたくなった。どんなホームレス格闘家だよ、と。きっと女子高生あたりにストーキングされていたに違いない。強いヤツに会いに世界中を回っていたんだ。それが勝てないような敵に私が勝てるわけないじゃないか。
「鉄血軍曹だと? ヤツがいるってぇことはよぉう、まぁさか、発狂大佐が復活したってぇのかよぉ? だいたいやつぁ、機動九課が情報洗浄機(ヴィオディーゼン)で無に帰したはずだろぉに」
「どうやら、わずかに存在が残っていたらしい。だから俺は決着を付けに行かなきゃならない。機動九課はもう無いからな」
「ぬぁんたるちいぃゃあ〜。まずい、まずいぜ無ぅ気力女子学生ぃ。亜空大佐なんぞよりよぉっぷぉどヤヴァイ野郎が来やがったぜぇぃ」
「どれくらいよ?」
「すんごぉぉぉくヤヴァイの」
説明義務を果たさない馬鹿を踏みつけ、私は蛇を睨め付けた。
「発狂大佐は情報思念体だ。兵器は一切効かない。力で押しても無駄ということだな」
ふぅん、と言うしかない。荒唐無稽すぎる。巨大木人だけでも素っ頓狂なのに、さらに情報思念体なんてSFを持ち出されても困る。いや……メイドなんてファンタジーが家にいる時点で人のことは言えないんだけども。
蛇の言葉は続く。
「波動を扱うドラゴンなら、発狂大佐を倒せると踏んだんだが……残念だ」
「ご冥福をお祈りします」
十字を切って目を閉じるミナカ。英国育ちだからか祈り方も欧風だ。
「むぅぅう、鉄血軍曹はぁタイガー戦車でも傷一つ付かなかったという、が、弱点はねぇのかよぉ?」
「いや……前回はサグトが身を挺して向こう側へ押し込んだだけで、倒したわけじゃない。ヤツを倒すにはたぶん、核が必要だ」
「なぁるほどぬぇぃ……だとしたらよぉ、俺達が出張るしかぬぇんじゃねぇかよぉ」
「嫌よ。めんどくさい。私に奉仕精神はないわ」
こういうのはにべもなく断るに限る。少しでも余地を見せれば際限なく言い寄ってくる。セールスマンと一緒だ。うちにそんな余裕はない。
しかし、こういうのが大好きな人がいる。ミナカだ。
「お任せください! 世界の危機はお嬢様の危機! この私が——へぶッ」
「バカ。勝手に動くな聞く耳持つな。結局巻き込まれるのは私なんだから。君子危うきに近寄らずよ」
「それじゃあダメですよお嬢様! 危険はいつも向こうから近寄ってくるんです」
「わぁかってるじゃないのメイドぉ!」
「ああ、美女が味方というのは頼もしい限りだ」
勝手に盛り上がる一人と二匹を前に、私は嘆息するしかない。下がったエントロピーが回復していくのがわかる。もうどうにでもなれ。そんな投げやりな思いはメランコリー指数を大幅に上げていく。
その時だった。
「遊びに来ったぞー!」
唐突に開け放たれたドアから陽気な声が飛び込んできた。振り返って、まず目に入ったのが揺らめく金色の髪。そして、華奢な体からスラリと伸びる長い足。写真を売ればボロ儲けな美人、麻宮=サジ=アリッサがそこにいた。
サジは勝手知ったる人の家といった様子で上がり込んでくる。サジが来るのは大歓迎だ。でも今だけは都合が悪い。
「うわ! イワトビペンギンがいる! キングコブラも!」
まずいことになった。こんな珍生物を見て、突っ走る好奇心=サジが黙っているわけがない。案の定サジは目を輝かせて、ペンギンとコブラを掴み上げた。
「どうしたのこれっ?」
「ん、ちょっとね。ほしいならあげるわ」
「待て待て待て待て待ぁつのよぉぅ! 偉ぃ大なる鳥である我輩をぅ、そぉう簡単に譲るんじゃぁないの!」
ペンギンが喚くが、大丈夫。サジの耳にはただの鳴き声にしか聞こえていないはずだ。
しかし私の期待を裏切るように、サジは豆鉄砲に撃たれたような顔になって、ペンギンを手放した。
「しゃべった。今、ペンギンから高屋敷のお父さんの声がした」
「ぬぅう! 貴様ぁ、我輩、の、渋ぅぅい声が聞こえるのか」
嬉しそうにペンギンが言う。最悪だ。ややこしいことになった。お互いに不倫している夫婦が町中でばったり出くわして、さらにその不倫相手同士が夫婦だったときよりも最悪な展開だ。もうここまでくると世界から悪意を感じる。革命家にでもなれそうな気分だ。そう、ルビコンを渡ったときのカエサルもきっとこんな心境だったに違いない。
私の嘆きとは無関係に、ペンギンと蛇はこぞってサジに例の勧誘を始めてしまう。選ばれし者とか言ってるけど、ホントは誰でも声が聞こえるんじゃないだろうか。
コタツに入って話を聞いていたサジは納得したように頷いて、人差し指を立てた。
「つまり、あたしは世界を救う戦士に選ばれたってことだよね。でもさ、世界を救うって……どうやって? 魔王とか倒すの?」
答えるのは蛇だ。深みのある大人の声で淡々と説明する。
「いや、俺達の任務は、世界の歪みを元に戻すことでしかない。ヤツら、≪亜空の軍勢≫(クラック・マーチ)は、それを快く思わない集団だ。だから君を狙う」
「えぇと、世界の歪みって言われてもあたし、よくわからないんだけど……」
すると蛇は言葉に詰まったように沈黙した後、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「わからない。ただ言えるのが、君たちの常識が壊れた場所が歪みだということだ。言い換えれば世界に生じたバグみたいなものだな」
「じゃあ、そのバグを取るのが世界を救うって事?」
「ああ。だから救うというのは適当じゃないな。修理だ。家が雨漏りしたら直すだろう。世界は君たちの家みたいなものだ。どこかが壊れたら直す。それを怠れば住めなくなる。ただ、中にはその壊れた部分から中身をくすねていくヤツらがいる。それが」
「クラック・マーチ?」
「そうだ。放っておけば、世界は瞬く間に中身を食い尽くされ崩壊する」
「あれ……それって結局、戦うんじゃないの?」
しかし蛇はゆっくりと首を横に振った。
「正面から戦って勝てる相手じゃない。それよりも、歪みを直して塞いだ方が効果的だ」
こうして見ると、ペンギンに比べて蛇はまともなようだ。しゃべる動物は馬鹿ばっかりかと思ったら、違うらしい。
「お嬢様、私たち、置いてけぼりですね」
「そっちの方が嬉しいわ」
「おいそこの無気力女子学生! 見やがれぃ、この金髪ビューティーをぅ。誰かさんたぁ違ってよぉ、やる気満々じゃぁねぇか」
したり顔のペンギンを見てるとなんかむかつく。いや、それよりも、
「いまさらだけど、私の親友を巻き込むな馬鹿ペンギン&蛇!」
「むぅう、貴様ぁ……友達なんぞいたのかよぅ」
なぜそんなに驚かれなくちゃいけないんだ。
「いや、貴っ様みたいな無愛想な女によぉ、友達なんざいねぇって、普通思うだろぉが」
全くわかっていない。私だって外では割と如才なく振る舞っているんだ。そこまで社会に順応できていないわけじゃない。接客業だってやってるんだぞ、私は。ペンギンと居候の世話までしてるじゃないか。なんでそこまで言われなきゃならないんだ。おまえはこの二週間、何を見てきたんだ。
私の訴えに対し、ペンギンは困ったように薄っぺらい翼で額を押さえた。
「何をってなオメェ、そもそも我輩ぃ、まだ貴様の名前を知らんのだがぬぇい」
珍しくトーンを落として、気まずそうに言う。
気まずいのは私だ。思えば今まで一度も私の名前は出てこなかった。ミナカはお嬢様と呼ぶし、仮名さんはあーちゃんと呼ぶ。当然私は自分を名前で呼んだりしない。ついでに言えば、うちには表札が掛かっていない。
私の名前を知っているサジはニヤニヤと笑いながら私を見た。
「言いたくないんだよね〜、青子は」
「……思ったより、も、普通ぅぅの名前じゃねぇかよぉぅ」
「悪かったわね」
「むぎゅぉッ! 折ぉぉれる! あァばらが折ぉれるってぇのよぉぅ!」
ああ、思わずコタツの上のペンギンに踵落としをぶち込んでしまった。蛇がビビったように細長い体を仰け反らせている。
「見かけによらず、恐ろしい女性のようだな……綺麗なバラには刺があるというわけか」
「洒落込んでる場合じゃぬぇぇいってばよぉぅ。たぁすけてくれぇい」
「なに言ってんの! 学園踏まれたい
ランキング一位の青子に足蹴にされてるんだから、そのありがたさを噛み締めないと! もったいないお化けが出るよ!」
「我輩はノォォォマル、だっ」
いや、突っ込んでよ。そんなランキングおかしいっての。あるわけないでしょうが。
「ぐぼあ! ビコーン! ビコーン! ビコーン! ビコーン!」
一瞬、壊れたかと思って足をどけた。ペンギンの目はパトランプのように赤々と光り、クチバシからは緊急戦闘配備を知らせるような不吉なアラーム。声はそのままなので全く緊張感がないが。
「! チャッチャッチャチャチャ、チャッチャッチャチャチャ♪」
気が付けば蛇も加わっている。なぜか声じゃない単発音に続いて、おかしなメロディが流れ始めた。妙に戦闘意欲を呼び起こされる旋律だ。
ともかく、私はこの現象に見覚えがあった。
「こ、これはッ、敵襲ですよお嬢様!」
「敵襲って、クラックなんとかが来たって事でしょ? ここはあたしに任せろ!」
嬉しそうにサジが部屋を飛び出していく。蛇を鷲掴みにして。
彼女は根っからのヒーローだ。困っている人を見たら助けずにはいられない。そんな、どうしようもない衝動と情熱をいつも持てあましている。私はその状態に夏休み症候群という名前を付けた。ちなみに私はあまり動く気になれない冬休み症候群だ。
「なァにをしてやがる青子ぉ。我輩たちも行くぞぉぃ!」
ペンギンはぱたぱたと薄っぺらい翼を羽ばたかせながら短い足で駆けていく。
「はぁ……結局こうなるのか」
思わず吐き出した溜め息を、開けっ放しのドアから吹き込む寒風が連れ去っていく。
鍋会まであと一時間ちょいだ。それまでに何が何でも終わらせてやる。
「さあ、お嬢様! 行きましょう!」
だから、なんでお手伝いのミナカが主人を危ないところへ連れて行こうとするのか。
腕を引っ張られるままに、私は外に出た。
今回は外に出ても目の前に敵はいなかった。サジがどこかへ向けて走っていく。一瞬、去り際にちらりと私に目配せした。それだけで何が言いたいかわかる。
「ミナカ。原チャリ出して。新正河川敷よ」
「え、どうしてわかるんですか!?」
「いいから早くしなさい。あと一時間とちょっとしか無いんだから」
「イエス、マム!」