秋狼記1

東方秋狼記


 これは、幻想郷で初めて人間が起こした異変の記録であり、一人の型破りな男の英雄譚である。なお、この書はあくまで当事者の少女の話をまとめたに過ぎない。細かい部分は私の想像によるところが多いことを、ここで断っておきたい。
 ——稗田阿求著『秋狼記』序文より——


   第一話:はた迷惑なヤツだな


 その少女は、自分の名前があまり好きではなかった。
 入道雲が空を漂う、青い青い空。それはどこまでも高く、だけど押し潰されそうに窮屈な印象がある。それは少女の心境の鏡写しでしかなかったが、実際のところ幻想郷の空は概念的に有限だ。
 その空がばっくりと裂けたのは三ヶ月前のこと。それ以来、少女の通っている寺子屋にたびたび訪れていた黒いガウンの探偵は姿を見せなくなった。だが、教師の上白沢慧音は本来の場所へ帰っていったと説明するだけで、その真相はいまだに闇の中だ。
 少女は嘆息する。背後に広がる田園風景はひたすら緑に染まり、稲がやがて来る収穫の時に向けて太陽の光を存分に浴びている。目の前を流れる清流は光を反射し、キラキラと輝いている。その中でぷかぷかと揺れる浮きから伸びる糸は、少女の隣に突き立てられた釣り竿へと続いている。
 いつも通りの平穏な日常だった。
 今日は寺子屋も休みで、少女は暇を持て余していた。
 土手に腰を降ろして、ぼーっと時間を食いつぶしている少女を、突如影が覆った。丸い影。こんな晴れた日に傘とは、変わり者だ。
「影踏んだ。っと」
 振り返ると、和傘をさした少年と青年の中間くらいの男が立っていた。見かけない顔だ。なかなか上等な洋服で、傘もかなり意匠が凝ったものなので、盗賊の類には見えないが、いかんせん雰囲気が少々怖い。まるで古い侠客のようだ。
 彼はじゃりりっと踵で地面を抉り、少女の顔をじっと見た。
「のんびりしてるとこ悪いけどさ、二つ聞いていいか?」
「いいけど……誰?」
「人に名前を聞くときは自分から。だろ?」
 自分から質問してきたことを棚にあげて、彼は平然と平坦にそう切り返してきた。
 少女はむすっと口をへの字にして答えた。
「……秋静流。ほら、名乗ったよ」
「へぇ、奇遇だな。俺は夏目千秋。名前に秋を持つ者同士、仲良くしようぜ」
 むっとした。少女……静流は秋が好きではないのだ。どちらかと言えば、夏の方がいい。
「で、何か聞きたかったんじゃないのか?」
「おお、そうだった。一つ。この辺で、人が多く集まってる場所ってどこだ?」
 夏目と名乗る男は、指を一本立てて、そう尋ねた。
 変な事を聞くものだと、静流は思った。『人が多く集まっている場所』にいない人間というものが何かしらおかしなヤツだということは、誰にでもわかることだ。そう、それはきっと、空気のない場所で生きていける人間と大差ない。
 だから静流は怪訝な眼差しを夏目に向けた。しかし彼はそんなものどこ吹く風で、中指も立てる。
「質問その二。ここはどこだ?」
 静流は内心で納得していた。ここはどこ?——それは記憶喪失とやらになってしまった人がまず質問することだと、誰かから聞いたことがある。だとすれば、人が多く集まっている場所を知らず、そこへ行きたがるのもわかる。
 おそらく彼は、魔法の森かどこかで妖怪に襲われるなり頭を打つなりして記憶を失ってしまったのだ。かわいそうな人なのだ。人からクールだと言われる静流だが、そんな人の質問を無視できるほど薄情ではなかったし、そんな教育をされた覚えもなかった。
 静流は一度深くため息をつき、自分より頭一つ以上背の高い夏目の肩に手を置いた。
「……もう大丈夫だよ。焦ることはない」
「子どもにそんな哀れむような目をされると正直ムカッとするわけで。そのまま脳天に拳骨を落としたくなるわけで。その手をどけないとゴツンといくかもしれないな〜ッ」
 淡々とまくし立てる夏目。その言葉通り、頭上に掲げた拳には力が入り、彼の目はしっかりと静流の脳天を凝視していた。それは慧音先生の頭突きよりも絶対に痛そうだったので、静流は言われた通りに手をどけて一歩下がった。
 どうもおかしい。記憶がないにしては、言動も態度もはっきりしている。
「で、結局ここはどこなんだ?」
「人里の外れ、魔法の森との間にある田園地帯だよ」
「魔法ねぇ……あの森、魔女でも住んでるのか?」
 後方に広がる森を指さす夏目に、静流は一度だけ頷いて見せた。
 あそこには霧雨魔理沙という、雑貨屋の娘が住んでいると聞いた。魔女といっても彼女はまだ人間なようで、たまに人里にも買い物に来るし、そこらを飛んでいるのを見かけることもある。
「ってことは……そうか。このカードのことも知ってるかもしれないな」
 そう独りごちる夏目がポケットから取り出したのは、花札を大きくしたようなカードだった。裏面は見知った絵が描かれているが、表は白紙。そんな奇妙なカードだ。
 それを、静流は見たことがあった。霊力や魔力、妖力がなければ使えないので里の住人には関係のない代物だが、慧音先生や魔理沙といった力ある者たちが持っているのを見たことがある。この幻想郷での決闘に使われる、そのカードは——
「スペル、カード……!」
「あ? なんだって?」
「スペルカードって言ったのさ。それは妖怪とか魔女とか巫女が大怪我しないように勝負を決めるための道具だよ。それをなんでおまえが持ってるのさ。使えないのに」
「もらったんだよ。知り合いから。で、これを拾ったっていう場所に来てみたら遭難して、このザマだ」
「なんでわざわざ確認しに行ったんだよ」
「んなこと言ったってよ、気になるだろーが。それに、俺の相方は目の前にミステリーがある以上、じっとしてられないんだよ」
「なんだ。一人じゃないのか。相方ってのはどこにいるのさ?」
「いや……それがなー」
 気まずそうに頬を掻きながら、夏目は視線を泳がせた。
「俺がちょっと目を離した隙に消えた」
「それって、相方が目を離した隙に夏目が遭難しただけじゃないのか?」
「まー、そういう考え方もあるかもな」
「そこは一度くらい否定しなよ」
「なんつーのかなぁ、根拠があんだよ。通行書は俺だけが持ってる。相方は持ってない。だとしたら相方だけが通るなんてのは絶対あり得ねーんだ」
「もっとわかりやすく説明できないのか?」
 夏目は人差し指で額を何度か叩き、何かを思い付いたのか河原の石を二つ拾い上げた。黒いのと、白いのを一つずつ。
「この黒い石が俺で、あんたや相方はこっちの白い石だ。で、落とし穴が一つあるとする。その落とし穴は、黒い石が乗ったときだけ発動するような仕組みになっている。白い石はどれだけ乗っても落ちない。つまり……わかるだろ?」
「他の人が落ちたかったら、おまえの巻き添えになるしかないのか。はた迷惑なヤツだな。私まで巻き込むなよ」
「もうとっくに落とし穴の中だ。これ以上は引っ掛からねーよ」
 落とし穴の中。なるほどな……と静流は胸中で呟いた。迷子がそれ以上迷子になるなんて、死人が死ぬくらいあり得ない。それに、落とし穴というのは言い得て妙だ。だって、ここは隔離された穴蔵のようなものなのだから。
 そして、そんなところに落ちてくるのは穴蔵の外にいる人間だけ。
 ああ——なんてこと。夏目千秋という男は、噂に聞く『外来人』というヤツなのだ。
 静流の持っている知識では、外来人というものは生存が難しい。妖怪にとって孤立した人間は格好のエサだからだ。
「夏目。私に付いてきな。先生のところに連れていってやるよ」
「お? なんか頼もしいな。お嬢って呼んでいいか?」
 暢気というか度胸が据わっているというか、そんなことを真顔で尋ねてくる夏目に内心で嘆息し、静流は短く答えた。
「好きにしなよ……」

 ——これが、名前に秋を持つ二人の出会いであり、幻想郷を揺るがす事件の始まりだった。


あとがき

 どうも。時代劇や江戸を舞台にした漫画に浪漫を感じる作者です。
 通常、オリキャラが登場する作品には、ある程度の決まったパターンがあるものです。そんなパターンを破りたいなぁ、と思って書いたのが、この作品です。



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最終更新:2010年08月05日 16:21
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