秋狼記22

東方秋狼記



   第二十二話:私を生かすための力だ


 兎の狂気にあてられて赤く染まった静流の瞳に映ったのは、切り飛ばされて宙を舞う、自分の右腕だった。
 あまりにも強すぎる痛みのせいなのか、それとも命の危機にさらされたからか、時間がいっこうに進まない。腕はなかなか落ちていかないし、血も噴き出そうとしない。ただ、どうしようもない喪失感と濃密な死の気配が、抗う間もなく心を支配していく。
 ——いやだ。
 すぐ側で誰かが叫んでいる。
 死にたくない。
 聞き覚えのある声が二つ。
 まだ死ぬわけにはいかないのに。
 時が少しずつ進んでいく。時計の針の牛歩戦術にも限度があった。
 足下で薄氷が割れる感覚。
 体が傾ぐ。失った腕が遠ざかる。断面から、真っ赤な命が流れ出ていく。
 いやだ、嫌だ、いやだいやだイヤだ!
 ガクンと膝が砕け、影に引かれるように、後ろへと落ちていく。
 意識が闇へと落ちていく中で、心臓が、ドクンと強く拍を打つ。

 いや——違う。

『そういうのは、そういう弱気は、ちょっと違うだろ』
 背後に迫った闇が囁く。紛れもない、自分の声で。
『違うだろ、そうだ違う、違うだろ、こんなのは』
 急速に冷めていく頭の中で、自分の声が反響する。
「…………ああ、違う」
 ぽつりと口から漏れ出た言葉。重力に従って落ちていく、そんな運命を拒絶するような小さな声が、錆び付いていた最後の撃鉄を起こした。
 自然と左脚が後ろに伸び、何もない、存在しない足場を力強く踏みしめた。
 明確な意志が、失われた右手に代わって、血濡れた心のトリッガーを引く。
「こんな終わりは、必要ない……!」
 バチンと火花が散る。意識が浮上し、視界に光が戻った。宙に繋ぎ止められたかのように落下が止まり、出血も唐突に完全に一滴残らず静止した。鈴仙が止まる。瑞穂が止まる。音も聞こえない。何もかもが静止し、まるで時間が止まってしまったかのような錯覚すら覚える。
 身体がひどく重く、鉛の風呂に浸かっているみたいだ。思うように動かせない。
 そう、まるで本の中の一ページ、その一行に入ったみたいに、『流れ』というものが感じられないのだ。
 静流は不意に直感した。
 死に直面したことによる極度の興奮状態で、周りを置き去りにするほどに加速した静流の精神は今、時系列というものから一時的に弾き出されている。止まったままに見えているのは、自分の精神が須臾の中に留まっているに過ぎない。
『くそ、こんな時間を、どう使えって言うのさ』
 口は動かず、精神が代わりに独りごちる。
 この体が動き始めた瞬間に、おびただしい出血は手際よく静流の命を刈り取っていくだろう。だから静流に残された時間は少ない。できることなら、そのわずかな時間の中で、全てを完了させたい。いや、させる以外に道はない。
 鈴仙は自分を指して『運命』という言葉を使った。それは必然的に障害を押しのける力だという。だとしたら、今この状況にも意味はあるはずだ。走馬灯にしても、何も思い浮かばず、何もかも完全に静止して動かないなどあり得ない。目的達成への前段階として、自分は須臾の世界に入門したという可能性、それだけを考慮するべきだ。
 及第点。まだ一歩足りない。悔しいが、土御門の言うとおりだ。自身の事を理解しない限り、自分は足手まといでしかない。
『考えろ、考えろ、理解しろ。私にあるのはおそらく、物を止める力。私が十六夜咲夜のように時間を止めたという可能性もあるけど、長続きはしないはず。それに今まで起きた事と食い違う』
 ——あなたの力なら蓬莱人も滅ぼし得ると言いましたわ。
 永琳の、輝夜の言葉が蘇る。
『ただ止めるだけで、そんなことできるはずがない。チルノのスペルだって、一瞬止めたところで、あのまま続行するはずなんだ』
 ——能力をヴィジョンで捉えるタイプなのかもしれませんよ。
 射命丸の言葉が脳裏をよぎる。
『あの時、私は何を見た?』
 静流は思い返す。湖の畔でチルノと戦ったとき、自分は何を見たのか。
 そう、あれは凍り付いた完全な冬の世界。しかし見たのはそれだけではなかった。真冬の雪原を炎が荒れ狂い、全てを溶かし、再び冬が来る。ほんの一瞬の間に世界は何度も冬を迎えて終わりへと近付いていく。
 回顧はそこで止まった。今、自分は何を想起した?
 そうだ。答えはすでに出ていたのだ。
『終わり……それが私の力、なのか? どうやって使えばいい。どうしていつもみたいな直感が浮かばないのさ? これは、私の力じゃないって事なのか?』
【いんや違う。おまえの力だからこそだ】
 不意に——耳障りに軋む金属のような声が、どこからか語り掛けてきた。
 時系列から解放された精神世界で、静流は弾かれたように振り向いた。だが、誰もいない。当然だ。ここはどこでもない。単に静流の精神だけが活動する、ただそれだけの仮想空間なのだから。
『誰だい! 私の中に入るなんて、いい度胸じゃないか』
 精一杯の怒声——いや、この場合は怒念だろうが——を上げる静流を嘲笑うかのように、何者かはくつくつと軋んだ笑い声を上げる。
 馬鹿にされている。腹立たしさとむなしさに、出来もしないが歯を鳴らした。
【そう怒るない、助言をしてやろうというのだ】
『助言? 助言だって?』
【おまえの天命はもうじき尽きる。それはおまえの持つ天賦の才と引き替えに、前々から定められていたことだ。おまえの才と宿命は目前の死に向かっている】
『また、運命か』
 うめく静流に、声はくつくつと喜悦を滲ませ笑いかける。
【なぁに拗ねることはない。おまえの出会った、そう、夏目とかいう奴は実に素晴らしいことをした。彼奴の一踏みが、おまえを縛る運命の鎖を打ち砕いた。ここのところ何かと思い通りにいかなくなってたろう】
『……自然と見えない方法こそが活路になる、そういうことかい』
【ほぉう、飲み込みが早いようで。だがそればかりでもない。運命は重力のようなもんだ。手放した石が地に落ちるまでは加速するように、運命は時に力にもなる。助言は以上だ。考えろ、考えて使ってみろ。その結果は、おまえ自身の力だ】
 金属が擦れ合うような軋んだ声は次第に遠ざかり、やがてぱったりと途絶えた。
 今度こそ一人きりになった静流は、聞いた言葉を胸に、じっと考えを巡らせる。
 まず、『声』が言いたかったのは、『運命』とやらに従って動くほど、自分の進む力は増す。しかし同時に才に頼るほど死へと近付く、ということだろうと結論付けた。
 それならば納得がいくのだ。ちょっとした護身用でしなかった霊能力を積極的に使おうとしたのは夏目と出会ってから。まして、学ぼうなんて思いもしなかったのに、今さらになって一気に上達している。これは、運命とやらの力ではないか。その結果に死が待っているから、今まで無意識のうちに自分の力から目を背け続けていたのではないか。
『思い返せば……力を得るたびに危険な状況へと巻き込まれている……気がする。確実を良しとする、私の生き方を逸れたときから、全てががらりと変わった。外れていたはずの歯車が噛み合って、カラクリが動き始めたような感じだ』
 そして、その運命に従ってつい先程は膨大な霊力を得た。その代償、運命への前払いとして、右腕を『持っていかれた』と、そう考える。これはいわば、『地面』に接触しかけている証左だ。そういう一と〇の危うい境界に今、静流は立たされている。
 対照的に、自分の奇妙な能力はすぐに理解できない。閃きというものを感じない。全くスマートさの欠片もなく、ただ、ただ、静流の感情というか、『死ぬのはごめんだ』という意地のような、悲鳴じみたものに呼応しているようにさえ感じられる。事実、この力が発動するのは決まって、自分の命が脅かされたときだ。
『これはおそらく、私を生かすための力だ。たぶん、私を殺す方向に働く運命の才からはズレた力……!』
 自分が生き残り、なおかつ瑞穂を取り戻すには、この奇妙な能力を使うより他にない。
 ならば結局、この力は何か、何を起こしているのか。
 それを静流は、終わりに関する力だと推測した。止めるにしても一瞬だけの効果だし、効果が切れても一度止まったものは止まった状態のまま、というのは不自然だ。蜘蛛の脚も、単に止めただけならば効果が切れた途端に最高速で静流を貫いていた。
 蜘蛛のときは金縛りの術を無意識に使ったという可能性も否めないが、少なくともチルノのスペルは狼の幻視と共に『終わった』のだ。
 終わり……どうも受け身の力に感じられる。
 ちょっとした応用で運動を止めることもできるのかもしれないが、出血を止めるために自分に使えば、動くこともできないのではないか? 周りを止めても、長続きはしない。その間も自分が加速するわけでもないのだ。ただでさえ命の残り時間は少ない。わずかな時間の中で全てを完了させるには、『加速』か『延長』のどちらかが確実に必要だ。
『普通なら、いつもの私なら、そう考える』
 だが、それは違う。そちらが正しいと訴える直感の強さが、何よりも雄弁にそちらは違うと示している。本当に必要なのは加速と延長なのか。そんな使い方でいいのか。違う。あの『声』も最初に否定はしなかった。何者かは知らないが、終わりに関する力だと半ば認めていたようだ。
『あのときは何を終わらせたんだ。どう使えば、静止という結果に……いや、そうか』
 独りごち、静流はそこで一つの仮説を思い立った。
『どんな運動でも、最後には止まる。その過程がどうであれ、最後の一瞬、速度はゼロだ。私は、運動そのものを終わらせた……!』
 まるでこの時を待っていたかのように、ピシリ、と世界に亀裂が入った。
 今、はっきりと自覚した。
 自分は運命の川から外れようとしている。ここからは、自力で歩いていくべきだと。そのために必要な力は、すでに得ている。
 静止はこれで『終わり』だ。そう、心で告げた。


 ——途端、世界が割れた。


 空気に流れが戻った。
 鈴仙が、瑞穂が、こちらを向いて叫んでいる。
 斬られた腕が宙を舞い、落ちていく。
 土御門は目前でこちらを睨め付けている。明白な殺意の籠もった視線だ。
「次は首をもらうぞ」
「次なんて無いって言ったのはおまえだよ」
 須臾の殻から脱した静流は、断面から噴き出す血には目も向けず、そればかりか土御門すら見ていなかった。耳飾りが強く輝く。残った左手を掲げ、叫ぶ。
「舞え、已蒼!」
 左腕から射出された已蒼は、その瞬間にはすでに巨大な魔法陣を描き上げていた。過程が全く見えないほど高速で飛んでいるのではない。蒼い鳥が飛んでいく過程は静流のイメージの中にしか存在しない。
 瞬きすら許さず、已蒼の描いた線に沿って膨大な霊力が一手に集う。
 すでに蒼。そう名付けられた式神こそ、静流の能力を雄弁に物語っていたのだ。
「その速度や良し、だが……単なる霊力量など無意味だッ」
 土御門が神速の二之太刀を振るう。
 だが、それは一寸進んだだけで全ての加速を失った。
 ここに来てようやく土御門の顔色が大きく変じた。焦燥感と満足が入り交じった貌へと。
 ほんの一瞬できた隙間で静流の視界がジャンプする。
 目前にいたはずの土御門は下方へと移り、まだ少し距離のあった瑞穂を、残った左腕で抱き寄せた。その距離に、瞬き一つで静流は到達していた。まさに全てを『一瞬のうちに完了』させたかのように。
 あまりに不可解な現象を目の当たりにして、鈴仙がぎょっと振り向くが、すでに静流はいない。
「霊力量が、なんだって?」
 土御門の背後で、静流は血の気の失せた顔で凄絶な笑みを浮かべた。滔々と流れる血は、落ちる途中で宙に縫いつけられたかのように留まって、徐々に膨れ上がっていく。
 土御門は振り向くことなく、刀を持つ手に力を込めた。
「……さては今、『力』を使ったな……限界まで、『時を殺した』な……!」
「へぇ、『これ』はそういうものなのか」
 呟くと同時、突如出現した大量の呪符が、土御門を包囲する。たとえ幽体であってもタダではすまない破魔の霊撃だ。
 だというに土御門は厳めしい顔を笑みに歪め、哄笑した。
「フフハハハァ、ああそうだッ。それはな、静流ッ! 戦国の世より秋家の娘に代々取り憑く、秋津島を滅ぼす呪いだ!」
「……知ってるよ、ヤバイものが私の中にいることくらいね……!」
 呪符が炸裂し、閃光が静流の目を焼いた。
 集められた膨大な霊力は、閉じ込めた全てを押し潰し、粉微塵に打ち砕いていく。
 だが——
「いいや、おまえは理解しとらん!」
 渾身の霊撃は、それでもあと一歩で彼を滅するには至らなかった。
 光を破って飛び出してきた刀が、よりにもよって瑞穂を貫かんと牙を剥く!
「なッ!?」
「きゃあああああ!?」
 絹を裂くような悲鳴を聞きながら、水飴のように引き伸ばされた時間の中で必死に命じるが、念じれど念じれど能力は発動しない。止まる様子も見せない。
 その時点で静流は悟っていた。これは、人のために使ってやれる力ではないのだと。
 あくまで自分本位な願いで発動するのなら、そうとわかったなら、迷いなんてものは無かった。瑞穂の盾になるように体を差し込み、あえて白刃の前に身を晒す。そして睨む。殺されてたまるかという強い意地を眼に込めて。
 ピシッ……!
 白く輝く刀身がほんの刹那だけ静止した。立て続けに自らの退避を念じたが、発動する気配さえない。
 なにか、致命的なミスを犯したという予感が背筋を稲妻のように走り抜けていく。
「万策尽きたな、静流ッ」
 無情にもすぐさま刀は再加速し、静流の胸、肺腑を穿った。
「ぁ……ガ……ッ」
 ごぽ、と小さな口からぞっとするほど多量の血が溢れ出る。
 赤くぬめる刃に体を串刺しにされ。
 血の気などすでになく。
 死神の足音が耳元に迫った状態で。
 それでもなお瑞穂を手放そうとしない静流を、土御門は満足げな目で見下ろし、
「おまえは強大な呪いを封じる楔のようなものだ……その呪いの力を使ったというのはな、おまえの消滅を意味するのだよ」
 そう告げると、もう目的は果たしたとばかりに、霊撃に晒されて崩れ掛けた手を柄から放した。
「あれだけ派手に使えば、周囲の霊力も早々に底を尽こう。なに、悲嘆することはない。おまえはよくやった。おかげでおおむね予定通りに事が運ぶ」
「く……そ…………」
 目が霞む。血がつまって息が苦しい。もう力が入らない。
 ふらつき、膝が崩れ、再び落下する体を、横から鈴仙が掻っ攫った。
「師匠なら、今から私の脚で運べば、この怪我でもなんとかできる……あんた、それでも勝ったつもりなの?」
 冷めた目で睨め付けながら永琳の位置を探る鈴仙を、土御門はつまらなそうに一瞥する。
「なんだ、まだ残っていたのかね。脱兎の如くという言葉に従えばよいというに」
「あいにく、今からそうさせてもらうわよッ!」
 不敵な笑みを浮かべ、鈴仙が虚空を蹴って跳躍する。二人分の重みと、よくわからない重力と、その二つを振り切るように、強く強く。
 幽体といえど、やはり人間。玉兎の本気には追いつけまい。
 景色が瞬く間に後ろに流れ、輝かしい弾幕の嵐が目前へと迫る。拡張された鈴仙の視界は、人間が変化した怪物をまさに殲滅した永琳達の姿を克明に捉えていた。
「急患です師匠ぉーーーーーーッ!」
 全力で呼び声を上げて、流星の如く突貫する。
 まさに人間砲弾ならぬ玉兎砲弾と化した鈴仙は、静流と瑞穂にできるだけ負担を与えないように慎重にルートを決めて、不時着を狙っていた。考えた挙げ句に鈴仙は、
「受け取ってッ、くださぁぁぁぁああい!」
 喉が張り裂けんばかりに叫び、少しだけ急上昇した後、抱えていた双子を手放した。
 永琳が何事かと振り向く。同じく、いつの間にか合流していた輝夜も。
 二人とも反応は極めて早かった。
 永琳はすぐさま巨大な網を張って瑞穂を受け止める一方で、輝夜が普段からは考えられないほどの速度で飛翔し、落ちてきた静流を抱き留める。刺さったままの刀が着物を切り裂くが、輝夜は気にも留めない。美しすぎるかんばせに焦燥感を張り付かせ、永琳に縋った。
「静流っ、しっかりなさい、大丈夫だから! そうよねっ、永琳!?」
「トウゼンです。それが貴女の頼みならば、なんとかするのが私の役目。そうでしょう?」
 自信ありげに胸をぽんと叩きながらも、永琳の表情は険しかった。
 そう、脅威はすぐそこまで来ていた。
「——残念だが。それは叶わぬよ、月人」
 老人の姿をした、しかし明らかに人間離れした力を持つ怪人。
 土御門実篤。
 その『本体』が、最初からそこにいたかのように、実に五間の間合いで立っていた。


あとがき

 ただ長々と静流の思考が続く今回。ほとんど時間が経ってません。
 ここまで来ると緩い空気を挟む余裕がないので困ります。
 開花した能力は本当に彼女を生かすのか。静流の運命やいかに。





-

最終更新:2011年05月30日 21:39
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。