東方秋狼記
第二十一話:あんたはムカつく奴だけど
瑞穂の気配を追って、静流は里を駆け抜ける。
爆裂音はすでに遠ざかり、周囲にはいつもとさして変わり映えのしない、しかしどこか不穏な気配を内包した町並みが広がっている。人の気配は家の中に引っ込んでおり、どこの戸も固く閉められている。里の大半は昔ながらの木造の質素な家で、とてもじゃないが怪物の襲撃から身を守ることはできないのだろうけれど。
すでに鈴仙は空を飛べなくなっていた。静流が傍にいるというだけで、宙に浮くという、今まで普通にできていたことができない。高々と跳ぶことはできても、いざ自在に飛ぼうとすると地面に強く引き寄せられてしまうのだ。
これは前代未聞の事態だ。もしこれが別の場所でも起こっているのなら、異変と言ってもいいくらいに。
静流の波長は荒れに荒れており、まるで噴火寸前の火山のよう。だが同時に、表面上は不気味なくらい静かで、妹の所在を探るために研ぎ澄まされた感覚をずっと維持している。それと平行して崩月を操って周囲の霊力を根こそぎ回収していく。どれほどの集中力を発揮すればこんな無茶が可能になるのか、鈴仙には見当すら付かないが。
「どこなのさ……!」
焦燥を隠しきれない声をもらし、静流は歯噛みする。
回収した霊力に任せて広範囲に渡って已蒼を飛ばして索敵しても、あちこちで異様な気配が蠢き邪魔をする。だからといって、それらをいちいち相手していられるほど静流は強くないし、だいいち時間もなかった。
傍らをぴったし付いてくる鈴仙も、波長を操る力で探ってはくれているようだが、やはり半ば洗脳状態にあるらしき尊人党が発する「ギザギザの波形」に阻まれ、芳しい成果を上げられずにいる。
「あんなに怖い人なら、どこにいても場所くらいすぐにわかりそうなもんなのに」
鈴仙は首を傾げる。残った兎耳がひょこんと折れた。
作り物なのかナマモノなのか、いまいち区別の付けがたい奇妙な耳である。
ともあれ鈴仙の言うことはもっともで、土御門と名乗った謎の老人は、ただそこにいるだけで周囲を威圧するような、化け物じみた気配をまとっていたのだ。あれに比べれば、尊人党などは狼の前の子犬のようにさえ感じる。
「それは違うよ鈴仙。あれだけ術に長けていれば、気配を消すくらい簡単だよ。それに、あれは幽体だから『いない』のとあんまり変わりないんだ」
「じゃ、じゃあ、あのめちゃくちゃな覇気は何よ?」
「妖怪の絵を見て人が恐怖を感じるように、生き物ならそれくらい感じ取れるよ。あいつはそれを隠すこともできるから厄介なだけで、それさえ破れれば——」
思案するようにこめかみを指で押さえる。
結論を言えば、陰陽師としての力量が違いすぎた。
どんなに才能があろうと、うずたかく積み重ねた年季には敵わない。静流には土御門の使っている術が全く理解できなかった。おそらく理解を封じるなんらかの手段を講じているのだろうが、それの解析ができない。
魔道書を読むだけで、あるいは現物を見て感じるだけで理解できていた『剥き出し』の諸々の術とはまるで違う。明らかな陰陽師としての差がそこには横たわっていた。
「天眼でも視えない。已蒼にも、私自身の索敵にも掛からない。瑞穂の気配まで完全に隠されたら、私もお手上げだ……」
「他に魔法は使えないわけ?」
「使えない。一昼夜でそんな大量に身に付けられるもんか。紅魔館で覚えたのは基本と、三つの式神だけだよ」
「その割にはいろいろやってるじゃない」
「小さい頃から霊力の使い方だけは知っていたんだ。仕組みがわかれば応用もできるし、どうすればいいか自然と理解できる。ただ私の霊力は小さすぎて、だいたいの術は発動もしないんだ。それを補う崩月だって、完成したのはこれが初めてだし」
「ウソッ、あれって『ぶっつけ』だったの!? あんた、どういう神経してんのよ!?」
目を丸くし、頬を引きつらせ、鈴仙は叫んだ。
とてもじゃないが、そんな度胸、兎の鈴仙には無い。
「何事もやってみるのが肝心だろう。さっきできなくても、今はできると感じたんだ」
そう答える静流は誇るでもなく、当然のことを言っているような声音。
「——已蒼!」
すでに何度目になるのか、めげることなく式を打つ静流。
実のところ、すでにこの時、静流には為すべきことが見えていた。ある考えに導かれるままに里の中を駆けずり回り、式を打っている。心は焦っているが、反して頭は冷静に、着々と方策を辿っていく。
已蒼は静流の第三の手であり、触角だ。一定の範囲内であれば、いかなる場所にも身を削りながらも一瞬で到達し、その間の軌跡を青い人工霊脈として短時間だけ顕現させる。そういう鉛筆のような式神だ。
「そう、今ならできる」
不意に立ち止まり、静流は神妙な顔で、確信を持って呟く。
「今ならできるって、あんたねぇ……」
と、呆れたように言う鈴仙。
しかし彼女の表情はすぐに驚きへと変わった。
——オォォォォォォ……
唐突に、甲高い風のような音が空気を震わせ、足下が蒼く輝き始めたのだ。
呼応して天穹は黒々とした暗雲に覆われた。
地を這う蒼光は魚の鱗が月の光を反射しているかの如く、ゆらゆらと揺らめいている。鈴仙は思わず頭上を仰ぐが、月は見えない。代わりに見えるのは、渦を巻く暗雲と、閃く雷光だ。
一歩、後じさる。
「な、なんなのよこれぇっ!?」
一気に場を支配した不穏な空気に、鈴仙は悲鳴を上げながら静流にすがりついた。本能的に悟ったのだ。この異様な現象を引き起こしたのは静流であると。
「知らないよ」
「えッ!?」
静流はぎょっとする鈴仙を沈鬱な表情で見つめると、低く、血を吐くような声で、助けを請うように啼いた。
「私は……これが何かを知らない。だけど、私はたしかに識っているんだ……! ずっと前から、理由も無しに解答だけが頭に浮かぶことは何度もあったんだ。でも、これは違う。なんだか、ものすごく気持ちが悪い……!」
「ちょっと、どういうこと? ワケわかんないわよ。何? あんた、よくわからないのにこんな事しちゃったってコト?」
「私はいつもそうだったよ、迷ったことなんてなかった。でも今は……」
轟、と風が唸りを上げる。
真夏だというのに里には冬のような乾いた冷気に満たされ、蒸し暑い空気は、まるで身を洗われるような清涼で震える空気へと置き換わっていく。全てが神社の境内に変わっていくようにすら感じられる。
いつも理解は遅れてやって来る。一体なにが起きているのか、静流は次第に解し始めていた。自分が舵を取らねばならないことも。
「今は、やる事をやろう」
「やる事って、あんた、アレをどうにかできちゃうの!?」
「どうにかするんじゃない。これは、使役するものなんだ……ッ」
脚を肩幅に開き、呼吸を深く深く整えていく。
精神を研ぎ澄ませると、足下を霊力が轟々と音を立てて流れているのがわかる。
これは霊脈、もしくは龍脈と呼ばれるものだ。人里の中を巡り、外へと抜けている。
静流がめげずに打ち続けた式神は眠っていた地の龍を呼び覚まし、まさに今、その全容を顕そうとしているのだ。そういう知識が自然と湧き出てくる。
これを御さなければ、動き始めた奔流が行き場を失って炸裂する。静流の頭にはそんな警告が浮かぶ。過程をすっ飛ばして結論が出るのは、無意識のうちに計算しているのだと阿求は言っていたが、これは違う。そんな予感があった。
「私は、瑞穂を守らなきゃいけないんだ……」
両足を地の龍に突き立て、霊力の奔流に持って行かれそうになる心のベクトルを、声に出すことで一つに束ねた。
術を使うとき、力を御するとき、必要なのは確固たる自分の座標だ。
土御門の手から瑞穂を救い出す——それが今の静流の座標だった。
まなじりを決し、静流は吼えた。
「だから私に、力を貸せぇーーーーッ!」
その刹那、地を這う蒼光は鎌首をもたげ、閃光と共に天へと舞い上がった!
どゥン——と衝撃が走り、空気をかち割った。
静流の髪はびりびりと帯電し、全身が淡く青く発光する。雷光はますます勢いを増し、地を這っていた蒼光は今や高々と天を衝き、巨大な鳥居を四方に形成していた。その上でとぐろを巻くのは青い稲妻の龍だ。
ほのかに赤く染まった瞳で、静流は上空の龍を仰ぎ見た。
あれに個の意思はない。ただの力の塊だ。瑞穂を助けるために静流が得た力だ。
「うわぁ……もう何に驚いたらいいのかしら。あんたの目が赤いこと? 馬鹿みたいに大きな鳥居ができちゃったこと? それとも空のアレ?」
矢継ぎ早に疑問符を重ねる鈴仙は、もうどうにでもなれと半ば諦めた様子で肩を落とし、頭を垂れた。
だってそうだろう、突然わけのわからない怪奇現象が起きたかと思えば、それを傍らの少女がさらに大きくして、おそらくは味方に付けてしまったのだから。
当の静流は白手袋をはめた手をゆっくりと真上に掲げ——
「鈴仙、耳を塞いだ方がいいよ」
「へっ?」
「三、二、一……そこだッ!」
目の前の空気を断ち切るように素早く振り下ろした!
それに連動して閃光が瞬き、大気を切り裂くような大音声、立ちこめる暗雲からある一点をめがけて巨大な稲妻が落ち、途中で明らかに不自然にぐにゃりと曲がった。いや——曲げられたのだ。
それは距離からすれば静流達から一三〇間ほど離れた場所、火の見櫓くらいの高さの空気が一部、卵の殻のようにパキッとひび割れ、砕け散った。
中から出てきた人影を見て、静流は目を細め、鈴仙の顔色が変わる。
あれは紛れもなく、見間違えようもなく、姿をくらましていた土御門実篤と瑞穂だ。これだけ離れていてもそうとわかるほどに、強烈な威圧感を肌で感じた。
土御門の鋭い眼光が、遥かより突き刺さる。鈴仙の顔が引きつる。
「うッ、逃げたいなぁ……あんなの倒せないわよ」
「だったら逃げればいいだろう」
「でもそういうワケにもいかないじゃない。怒られるのは私なんだから」
「お人好しだな」
「あんた、いけしゃあしゃあと……」
そっけない静流の態度に、半眼になる鈴仙。
静流は理解していた。近隣の霊脈を制御しても、しょせん借り物の力。こんな地に足の着かない状態、いつまで保つかわかったものではない。だが今は、この巨大な力を信じるしかない。
さっと腕を持ち上げ、指先で素早く円を描く。
「急ぎ急げ律令の如く、霧祓い境無く、世の風凪祓う!」
円を拡大するように展開された霊力の壁に、直後、光の矢が何本も突き刺さった。
「えっ、ちょッ、なにが起き——」
ずがんずがンと重々しい音を立てて、第二波の矢が青い盾を何度も何度も敲く。
霊脈から膨大な霊力を注ぎ込まれた盾は壊れる心配こそ無いが、こうも激しい弾幕に晒されては攻勢に出るのも難しい。
「鈴仙、さっきみたいにあいつを変な空間に閉じ込められないのかい」
「そんなことしたら、私まで閉じ込められちゃうでしょ」
「だったら弾幕だ。あいつはきっと簡単に防ぐけど、それでもいいから」
「防ぐって、あんたねぇ……人質いるのわかってるわけ?」
「わかってる」
迷いのない、玉兎の狂気にあてられた瞳で静流は頷いた。人質の目的の一つは脅威から身を守ることで、土御門実篤には不要のものだ。つまり彼にとって瑞穂は必要な存在だ。最終目的が静流であれ、瑞穂自身であれ。
少しの逡巡の後、鈴仙はぎこちなく頷いた。
もう、このわがまま放題な少女にも慣れた。師匠や姫の無茶な命令に比べれば、こんなのはかわいいもんだ。
「わかったわよ……やればいいんでしょう!」
迷いとか怖いとか、そういう諸々の憶病風を吹っ切るように叫び、鈴仙はポケットから小瓶を三本取り出すと、いかにも毒々しい薬をひと思いに含んだ。『国士無双の薬』だ。
ぐッ、と全身に力がみなぎり、深緑のオーラが足下から波紋のように広がった。
空き瓶を投げ捨て、地面に落ちる頃にはすでに静流を小脇に抱え、重心を落としていた。
「おい、いきなり何を——」
「あんたは盾! この盾が生命線だから、死ぬ気で維持するのよ、私のために!」
「わかった、だったらおまえは駿馬だね。死ぬ気で走れ、私のために!」
「言われなくても!」
目を合わせたのは一瞬。
鈴仙の足下でひときわ大きな深緑の波紋が生まれたとき、鈴仙の姿は盾と共にかき消え、爆発的な加速が重圧となって静流の体に押し寄せた。
ぱンッ、ドンッと虚空を蹴り、水切りのように無数の波紋を残しながら、鈴仙は空中を駆け抜けた。引きずり降ろそうとする奇妙なほど強い重力を、八意印の秘薬で強化された身体能力でねじ伏せながら。
落ちる前に次の脚を出せ。速く、速く、速く!
米粒のような大きさだった男の姿が、傍らの瑞穂の姿が、加速度的に大きくなる。
彼がひとたび腕を振るだけで、袖から無数の光の矢が飛び出し、鈴仙を狙い撃つ。
ずががががッと激しいインパクトを感じながらも、鈴仙は足を止めない。目の前に展開された盾が、決して壊れないと信じて。
だが、不安はあった。本当にこの盾は、土御門に壊されることはないのだろうか。膨大な、それこそ大妖怪級の力が費やされた盾だということは理解できる。しかし本当に、壊れないなんてことはあるんだろうか。
薬で高揚した心の片隅に依然として残る、兎の憶病な考え。
あと数歩で土御門に届くというところで、先に思いとどまったのはなんと静流だった。
「鈴仙ッ、止まれ!」
「へっ? 急に言われても——」
戸惑う鈴仙の眼前で、強烈な覇気をまとった初老の男、土御門は鷹のような眼をかっと見開いた。
【次があったとしても、ものにできなければ意味がなかろう】
それはまるで獅子吼。
びくりと鈴仙の体が強ばり、脚は凍り付いたように動かない。
金縛りだ、と気付いたときには遅く、土御門の姿は幻影の如く消えていた。やや遅れて、背後に巨大な気配が膨れ上がる。
「兎は地に伏せ、月を眺めるが領分というもの、そういうものだと思わんか」
地獄から響くような厳かな声は、静かな怒りを孕み、逞しい腕には怒りを体現するように、膨大な霊力が充填されている。幽体のまま干渉できるように、霊力で形成された実体をまとっているのだ。
ひとたび受ければ粉微塵になることすらあり得ると、そう容易に想像できた。ぞくぞくと悪寒が走り抜け、耳が逆立つ。
「やばィ……ッ」
「急ぎ急げ律令の如く!」
石火のうちに鈴仙の腕から抜け出した静流が、弾かれたように呪文を口にする。
一文字を引く指先が青い軌跡を残し、それが一振りの刃となって土御門を迎撃する。
土御門は青い刃を拳で砕いてみせると、精悍な顔に喜色を浮かべた。
「龍を駆るか、なるほどようやく及第点といったところだ、静流」
「その名前を気安く呼ぶんじゃないよ!」
身にまとった霊力で生み出した足場に立ち、腕を振るい、斬撃を放つ。静流にしては無造作な、感情にまかせた攻撃だった。
どうにもあの男を前にすると調子が狂う、そのことに鈴仙も気付いていた。いつもの雰囲気は霧散し、まるで父親に反抗する子どものような、年相応の少女へと戻ってしまう。永琳にさえ平然と接する静流が、だ。
とにかく名前を呼ばれるのを嫌がる姿からは、それを弱点と思っているのが見て取れる。実際、静流もそう考えていた。なぜかは知らないが、土御門に名前を呼ばれること、そのこと自体にかつてない強い危機感を覚えるのだ。
名前を呼ばれるたびに、自分という領域を侵されていく感覚。
この武将のような初老の男を、心のどこかで、静流はたしかに恐れていた。
眠っていた霊脈を叩き起こして従えた。借り物とはいえこれほどの霊力、比類する者はそうそういまい。目の前の男にさえ、場合によっては力押しで打ち勝てるほどだ。しかし——おそらく首尾良くとはいかず、どこかで蹉跌をきたす。彼女はそう感じていた。
土御門は厳しい顔つきで、虚空から刀を抜き放った。
「だがな、あと一歩足りないぞ。おまえは、己が何者かを理解していない……!」
上段に構え、虚空を踏みしめる老人の姿は風格すら感じられた。
刀は実体だが、肝心の土御門は幽体でしかない。それはつまり、通常の手段ではかすり傷すら負わせることができないということだ。
とてもじゃないが、このままじゃ勝ち目がない。
いつでも躱すことができるよう刀身に意識を集中する静流。そんな彼女の眼前に、紺色のブレザーが飛び出してきた。
ぱンッと手を打ち合わせる音が響き、鈴仙の体が硬直する。
土御門の一閃を、素手で挟み込んだのだ。薬で引き上げられた驚異的な膂力と反射速度のなせる業だ。
必死の形相で遮二無二力を込めて刀をじりじりと押し返しながら、鈴仙は叫んだ。
「バトンタッチよ、静流! あんたには、あんたの仕事があるんでしょ……ッぐぐ」
「む、内気功か!」
「あんたはムカつく奴だけど、しょーじき逃げたいのは山々だけど、ここであんたを見捨てたら、今度こそマジで地獄に送られちゃうのよ、私が!」
「地獄だって?」
「そう! 次ならあるけど、次の次なんてない! ここまで連れてきてあげたんだから、あとは何も考えず走りなさいよ! 目の前なんでしょう、あんたの大事な妹は!」
「……ッ!」
ばッと弾かれたように振り返り、静流は虚空に立つ瑞穂を見た。満月にでもあてられたように虚ろな目をしていて、普段の生気は感じられない。
距離はほんの十数歩。
しかし一度も踏み割らず、霊力の階段を作り続けるには遠い距離。
時間もない。
いくら訓練を受けた玉兎でも、一方的な達人の猛攻に晒された状態で何秒保つか。
「不可能な策を口にするのは、見捨てるに等しいのではないか?」
土御門は刀を押し返そうとする鈴仙の力を利用して少しの距離を取ると、刀をわずかに捻って拘束を解いてのけた。そこから間髪入れず流れるように繰り出すのは胴を狙った横薙ぎの一閃だ。
的確かつ速い。切っ先三寸は狙い通り正確に、鈴仙の体にずぷりと沈み込んだ。
「ぁ」
断末魔にしては気の抜けた声が漏れる。
刃という境界によって、華奢な上下半身は真っ赤な糸を引きながら真っ二つに分かたれる——はずだった。
「なんと……!?」
ここに来て初めて瞠目する土御門。刃は鈴仙を素通りしていた。
その一瞬を見逃さず、静流は決意した。
人間は想定外の高さに足場があるとすぐさま体勢を崩す。そのように力加減を調節しているためだ。だからミスは許されない。想像通りの高さと距離に、精神力の限りを尽くして次の足場を構築し、踏み違えないよう細心の注意を払いつつも、一切の躊躇なく全力で踏みしめる!
静流の一歩を確認した鈴仙が満足げに笑う。膝も笑っていたが。
「あんた、兎の憶病さを理解してないみたいね。本当に無理なら逃げてるわよ」
「それは妖術の類だな。なるほど、その術でヘカトンケイルを破ったのか、素晴らしい。だが、今は使いどころを間違っているぞ」
目にも止まらぬ速さで、風を切ることもなく、土御門は幻視状態の鈴仙をすり抜けて前進した。
たしかにお互いに触れられないのなら、そこに勝負なんてものは成立しない。足止めも不可能かもしれない。
しかし、ずらされたのは鈴仙だけではなかった。
「な に……?」
振り下ろされた凶刃は静流に届くこともなく、不自然な挙動で空を切った。怪訝な表情を見せる土御門。
稼いだ時間の中で静流が四歩目を踏みしめる。
「あんたの剣は位相がずれて、あの子には届かない。さっきはわざと自分を幻視にして避けて、その最中にこっそり調律をずらしたのよ。おかげであんたは余分な攻撃をして、私はこれだけの時間をあの子に与えられた!」
振り返り、鈴仙は唇を震わせ冷や汗をダラダラ流しながらも、中指を押っ立てて挑発した。
「どう? 使いどころ、あってるでしょ?」
残りはざっと四踏み。
危なっかしく、それゆえに必死に、幻想的な青い階段を一段ずつ造っては登っていく。彼女が踏んでいる一瞬だけ、仮初めの足場が生命を支える大地のように見えた。
土御門はゆらりとした一見すると隙だらけの動きで鈴仙に向き直り、睨め付けた。
「なぜ、無理をするかね、おまえはそう……薄情者の顔をしているぞ」
見透かしたような彼の声に肩を震わせる鈴仙。
この間も静流は後ろを気にする素振りも見せない。鈴仙は知らなかったが、静流は人に何かを任せたら、ちゃんと信じ切るタイプの人間だ。逆に言えば、そうするだけの根拠と確信を得られるまでは、誰にも何も任せたりしない。友達がいないのもそのためだ。
彼女はきっと知らないのだ。
たしかに、私は裏切った。戦争が始まると聞いて、一目散に月を逃げ出した。そういう前科がある。
そんなヤツを信用してしまうあたり、まだまだ子どもなのかとは思ったが——
「ここで逃げたら、本当に三途の川も渡らせてもらえないじゃない!」
鈴仙の意志はそれなりに固かった。
兎は憶病だ。不義理を重ねれば地獄に行くと脅しを掛けられれば、気にせざるを得ない。だから今も脱兎の如く、一番怖いことから逃げ続けるのが先決だ。
そうだ、あとほんの数瞬でいい。それだけの間、動きを封じれば、あとは二人を連れて師匠のところまで逃げるだけ。いくら強くても八意永琳に敵うはずがないと信じているし、実際そうであるはずだ。
水飴のように引き伸ばされていく主観時間の中で、鈴仙は自身の能力をフル稼働させた。
波長を操って狂気に堕とす力は、強力な幻視を見せることもできる。これらは精神的な攻撃法で、妖怪退治というのはむしろ、こちらの方法こそが本来のやり方なのだ。それは精神体の土御門に対しても言えることで、妖怪だけでなく幽体にも有効打となる。
「私の、私の目を見ろ!」
——幻朧月睨。
相手を狂気に追いやる波長の渦が、鈴仙を中心に円形に広がっていく。
赤い渦は、心が亜光速で落ちていくときに見える幻視だ。
なんのことはない、これを使えばカルネヴァーレとやらも救援を求めるまでもなく一網打尽だったはずだ。ヤツらがどんなものか知らなかったとはいえ、なぜ使おうともしなかったのだろう。
——あの子からは運命みたいな、ものすごぉく強い力を感じたの。
輝夜の言っていたことが脳裏に響く。
「これが運命のせいだっていうのなら、私も引きずられてるっていうのなら!」
「倒せるはずだと、そう思ったかね」
押し寄せる狂気の渦の中で、土御門は平然と刀を持ち上げ、絵に描いたように綺麗な上段の構えから一呼吸で振り下ろした。
青い残像が狂気の渦を叩ッ斬り、剣圧だけで鈴仙の肩口に一筋の切り傷が生じて血が噴き上げた。それどころか調律しておいた位相さえ元に戻された。
「そんな……!」
「策は悪くない、だが肝心の力が足りんのだ」
鷹揚に告げ、土御門は返す刀で静流に斬りかかった。速い。
無防備な背中に、下段から弧を描いて迫る白刃。
今から飛び掛かっても確実に間に合わない。
あと、あと一歩だというのに!
「やめろぉーーーッ!」
鈴仙の叫びが響き、静流が身をよじって背後を見て——
——白い腕が、くるくると宙を舞った。
瞬間。今まで虚空を見つめていた瑞穂の瞳に、光が戻った。
「————お姉ちゃんッ!」
あとがかれ
たぶん今までの中では一番長くなったかと。
派手なことする割にイマイチ強くならない主人公。
もう少しいじめても良かったかな。
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最終更新:2011年05月07日 20:28